いのちの家

昨日は、郷里の伝統の畳職人の4代目と今後の仕事のお打合せをしました。どの畳にするかは、どの人物が育てたイ草にするかという私の生き方の判断もあるのでとても助かっています。

今回も、人吉の草野さんの育てたイ草を用いることで話をして畳のことを語り合っているとあっという間に時間が経ってしまいました。私も古民家甦生にかかわる前までは畳のことはそんなに関心もありませんでしたが実際に生産者にお会いし、生き方に共感し、そして畳職人さんが魂を籠めてつくったものには感動を覚えました。

その感動が、家の中の床を支え暮らしを豊かにしていきます。畳の持つ素晴らしさを子どもたちに一緒に伝承していこうと約束しました。

畳といえば、畳にまつわる諺がいくつかあります。一つは、「起きて半畳寝て一畳」というもの。これは人は必要以上の富貴を望むべきではなく、足るを知り満足することが大切であるという教えで使われます。

そしてもう一つ、「畳の上で死ぬ」。これは不慮の事故などで亡くなるのではなく、自宅で安らかに穏やかに死にたいという言葉になります。現代では病院や突然死も含まれると、ほとんどが自宅以外のところで亡くなっていることになります。

終戦直後まで私たち日本人の9割以上が自宅で生まれ自宅で亡くなりました。つまり家が誕生から死までを見守ってくれていたのです。家でお祝いをし家で葬式までを行いました。それだけ私たちの暮らしは家を中心に行われていたのです。

畳の上でというのは、私たちが生まれ育った畳の上で穏やかに生まれ安心して家族に見守られて亡くなりたいということでしょう。

現代では家で生まれ死ぬのは1割弱、それくらい家で生死を見取ることはなくなりました。そう考えてみると、古民家は何百年も前から現存するものはそれだけ家族の生死を見取ってきたということです。

以前、桶屋さんに代々使っていた産湯の桶の修理に見えていた方が私もひいおばあちゃんも使った桶を孫の産湯で使いたいと仰っていたことの理由がここからもわかります。

何代もかけて大切に生死を見守る家と共にあったものだったからこそその「もの」は単なる「もの」ではなく、いのちを見守ってくださっていた大切な「おまもり」のような存在だったのです。

その家の見守りに感謝しているからこそ、家を大切に修繕し恩返しをしていたのが私たちの住まい方であり生き方であったのです。

時代が変わっても、「願い」や「思い」は消えません。その願いや思いを引き継いでいく家だからこそ家が喜ぶように直していきたいと思います。私がたとえいなくなっても家が代わりに子どもたちを見守ってくれます。

いのちの家を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

家の寿命

先日から木造中古住宅の甦生をはじめていますが、すでに間取りの問題などが出てきています。もともと建てる時に考えた住宅設計と現代に活用しようとするときの住宅状況では間取りが異なります。むかしの日本家屋のように、襖や障子で間仕切りされているのであればまだしもその後のリフォームなどで個々の部屋に分かれドアがつけられてしまうと使い道が急激に狭まってしまうものです。その場しのぎの住宅のツケがそのまま子孫に渡されていくのは家もまた同じです。

家を直すとき私がまず間取りの解体から入るのは、そもそもの家の暮らしから設計されておらず不便さの中にある「家の寿命」のこともよくよく考えてあげる必要があるからです。つまり家に住む人間だけではなく、家にもいのちがある存在として認め、家が長生きできるようにしてあげることが自分たちがそこに住む期間を安心して永くできるコツであると私は考えています。

平成19年の国土交通省白書で家のじみょうのい平均築後年数の国際比較が調査されています。そこには日本では30年、アメリカは55年、イギリス77年と書かれています。残念ながら日本の家の寿命の短さは先進国の中でもトップです。

ヨーロッパでは、むかしから昔ながらの家のままに親から子へ、そして孫へと受け継がれていくようになっています。パリの街はナポレオン三世が150年前に作った街並みと住宅がそのまま現在に至る基盤となり、そのままの形で残存しています。パリの家の平均築年数は150年です。日本でも、長崎街道をはじめ街道筋にある木造の古民家は築150年以上のものがたくさん建っています。しかし現在、お年寄りも施設に入りあまり住んでいるところがなく空き家になって廃墟と化しているところが増えています。本来の棟梁の魂の籠った立派な木造建築が、手入れされずにそのまま廃墟になっていくのは見ていて深い悲しみを覚えます。

日本の家の寿命が短い理由は、一つは戦後大量に建てられた大量生産大量消費の住宅の質がよくなかったことと、国の法定耐用年数が決められており、木造住宅なら20~22年で資産価値がなくなると判断されるため古くなると壊してまた新しく建てようと考える傾向があったこと。他にも、個人主義の歪んだ価値観が入ってきて、日本の家で暮らす価値観が変化してきたこと。便利で快適な生活を求めて都会に出てマンションやアパート暮らしをはじめて元に戻れなくなったもの。

もっとも大きな理由は、使い捨ての文化が当たり前になり欧米のように「家を長持ちさせよう」という意識が失われたことかもしれません。

しかし結論から言えば、日本の住宅の寿命は欧米に比べ短くなっており住居費の負担が増えるばかりです。そうなれば、子どもたちに譲り渡していく家がなくなればそれだけ住居費はかさみ、若いころの生活が厳しくなります。子どもができ育てていけば自ずから学費や生活費などの出費もかさみますから家は寿命が長い方が本来は価値が向上していくのです。

家の価値を高めるためには、暮らしの充実と家の修繕を続けていく必要があります。いつも綺麗に保つ工夫や、物が増えすぎない工夫、そのどれもむかしの人たちが実践てきた和の家の文化に残っています。

和の家を甦生させることが、現代でもむかしの家を復古起新し対応していくための方法です。引き続き、家を学び直しながら子どもたちに譲り遺していきたいものを甦生させ続けていきたいと思います。

 

 

家の寿命

現代建築の家の寿命は平均約30年くらいだといわれています。この理由は、耐久性を重視せずに建てられているからともいえます。また家主がその家を手入れしてまで直して使おうとしていないからだとも言います。実際に修理したりリフォームをしたりすることはしようとはせずに、すぐに解体して建て直すという常識もあります。

実際に、先日ある家を改築することになり色々と間取りを確認していたら生活スタイルや家族構成の変化に合わせて部屋を増やしたり減らしたりと改造されていました。途中からその時々に改造し、家を出ていきますから内部はだいぶ傷んでいますし使いにくくなっているものです。

それを次の活用に合わせてどうリデザインしてリメイクするかは、その家に住む人の判断次第です。ただしかつて100年も200年も長生きしている古民家を改修するのと現代住宅を改修するのとは異なり、メンテナンスの回数や時期も変わってきます。

例えば、土壁の漆喰や古民家のむかしの畳は床下から天井までの風通しがいいため長年傷むこともありません。しかし密封建築で風通しが悪いと、自然物を使ったものが呼吸ができずにカビが生えたりひび割れたりと痛みが早くなります。だから耐久性の低い人工物、例えばプラスチックの畳風のものを入れたり科学的に塗装した土壁風のものを入れることになります。

もともとそれらの人工物は寿命が短いことと、自然物ではないため人体にもあまりいい影響がありませんから劣化が早くメンテナンスの回数も増えていくのです。しかしそれらは流行ものですから、その時はあっても人気がなくなればすぐに廃版になったりしますから交換することも難しくなります。

こうやって痛む家というのは、全体的に見た目も悪くなるため解体して建て直した方が安くていいという話になるのです。また30年で建て替えることで、新しい仕事も発生しますし、家族構成が変わり流行もありますから建て直そうという家主のニーズとも合致するのです。

古民家であっても、何度か時代に合わせてリフォームして内部がぐちゃぐちゃになっているものもたくさん見かけました。そうなると子どもや孫の寒いし使いにくいし汚いし要らないという声にがっかりしている家主さんも嘆き節もありました。

しかしそもそもその直し方や手入れの仕方が、問題だったのであり家が問題だったわけではありません。そこに気づかないから、手が付けられないほどのコストがかさみ、本来の家の価値が失われていくのです。

家そのものの直し方を知るということが、家を本当の意味で長持ちし長生きさせていくということになるのです。空き家問題も抱え、建築バブルも崩壊し、新しい建物を建てにくくなってくる近未来において直し方の学習や研修などの必要性を感じます。

引き続き、子どもたちが安心して喜んで活用できるような長く愛される家を残していきたいと思います。

恵比寿と福

長崎街道を往く所々に、恵比須様の石像がお祀りされていました。佐賀はなんと日本一の恵比寿像のある県で、2015年の調査では828体もありまだまだ増えているそうです。恵比寿様をお祀りする恵比寿信仰は、日本の古代からある土着信仰の一つです。

神話に登場するのは、一つは蛭子という説。もう一つは、事代主神という説です。私は後者の方にご縁があり、島根の美保神社に参拝の際に恵比須講によく私の苗字と同じ名前の人が多く参拝にこられていたと宿坊でお聴きし感動したことを覚えています。

この恵比寿講(えびすこう)は商売繁盛の神様である恵比寿神を祭る民間行事または秋祭りのことです。七福神の中で唯一の日本の神様であり商売繁盛だけでなく、漁村では豊漁をもたらす神に、そして農村ではかまどや田の神になっています。恵比寿講は毎年1月と10月の20日に行われます。なぜなら恵比寿神は、出雲大社に神様が集まるときの留守神であったとされています。大国主の息子の事代主神なら確かに留守役を任されてもおかしくないなと感じます。

古民家にあるおくどさんの土人形や石像なども大黒様と恵比寿様は一緒にお祀りされます。この二つは、親子だとしたら親子で対になっていることになります。国譲りを決め、それを託宣し二代で日本国に豊かさと福をもたらしたご先祖様という見方もできます。

大黒様(大国主)と、恵比寿様(事代主)は、五穀豊穣と商売繁盛の象徴として一緒にお祀りされています。きっと、むかしはこの二人のリーダーが日本国の安定した政治を実現させて平和な世の中をつくりあげてきたのではないかと感じます。

ちなみに恵比須様の釣り竿にはどのような意味があるのかを少し調べてみると、かつての国譲りの大切なシーンでこれを用います。この釣り竿の意味は「釣りして網せず」つまりは網で一気に魚を捕まえて後に残らないようにしない、これを商売に置き換えると暴利をむさぼって後に続かないような商売をしないという意味になっています。足るを知り、取り過ぎず儲けすぎずに、真心で正直に商売を続けていく姿を現しているそうです。

また鯛を持っているのは、鯛はむかしから「めでたい魚」ということで、鯛を商売繁盛、祝福の象徴とされています。それに足を曲げている姿も、足がもともと悪かった説と、サメに食べられた説がありますがどれもむかしの歴史事情が垣間見れるものです。海の神様、漁業の神様としての姿として狩衣や指貫や風折鳥帽子の姿でもあります。

由来を辿っていくことで、なぜその地域にその神様を祀ってきたのかが自明します。これはその子孫たちが先祖をお祀りし、子々孫々をいたるところで見守ってもらっていると感じたことを御姿にして日々の恩恵に感謝したのでしょう。

農業と漁業は、その当時から私たちの国を支えてきた産業です。その両方を大切に守り、育て、福を祝うというのが先人からの生き方であったのでしょう。歴史から学んだことを子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

長崎街道3

昨日は、嬉野宿から塚崎宿、北方宿、小田宿、牛津宿、佐賀宿まで来ることができました。ここから数日は雨が続く予定で今回はここで一度、休憩をし次回また続きを行う予定です。

現在までで約120キロ、残りは約100キロを残すところですが実際に長崎街道を通ってみるとそのほどんどは開発され古い家がほんの少し残るばかりでほとんど面影がありません。長崎街道を半分まで来て振り返ってみると、その当時のままに残っているのは神社仏閣や石仏たちでした。

伊能忠敬が残したむかしの地図を見ていたら、今とはまったく風景が異なります。具体的に異なっているのは、西洋建築や近代住宅、また大型のチェーン店、舗装されつくした道路です。特に道路は、長崎街道の狭い道はところどころが閉鎖され隣に作られた国道を通るようにできています。国道に面した住宅は、人通りもない歩道があるだけで車の大きな騒音が響き迷惑を感じていることと思います。

かつては、長崎街道の細い路地を毎朝毎夕たくさんの人たちが往来して賑わっていたのがわかります。ほんの少しですが、閉店した店店の様子からそこで野菜や果物、また魚や肉などを軒先で販売していたのを感じます。近隣の農家や漁師、そのほかの職工や武士などが宿場町で買い物をしたのを想像したりできます。

明治頃まで街道には、庄屋や酒屋、廻船問屋や米問屋など大きな商家が並びその界隈はたくさんの人たちが盛んに行き来したのです。今ではその気配がかすかに建物の大きさから感じるくらいです。

街道を通りはっきりと主役が変わったのは人から車になったことです。旧街道は人が優先ですから車は危険ですからゆっくりしか走れず路地も狭くみんなで協力して車を通すしかありません。しかし国道の大きな道は、車優先ですから人は車の邪魔にならないように歩道を歩き、横断歩道も信号を待ってからでなければ進めません。

街道が廃れたもっとも大きな原因はこの何を優先するかが変わったことです。ここから将来は、人間の優先順位がますます下がり、人工知能やロボット優先となればさらに道は変化していくでしょう。

政治や経済が変われば道が変わります。道が変われば往来の速度や規模もスピードも変わっていきますが、人間の暮らしや生活もその道に大きな影響を受けてしまいます。地域を語るとき、この道の廃れているものが何かを見極めるのは大切なことです。

引き続き、長崎街道を辿りながら温故知新の智慧を子どもたちに伝えていきたいと思います。

長崎街道2

昨日は、長崎街道の出発点でもある桜馬場天満宮に祈願をしそのまま自転車で日見宿、矢上宿、永昌宿、大村宿、松原宿、彼杵宿、そして嬉野宿まで無事に来ることができました。

慣れない自転車での旅で身体が筋肉痛で大変だったり、タイヤがパンクするハプニングがあったりしましたが無事に街道を辿り進むことができました。道行く人たちと、時折、挨拶をしていると色々と声をかけてくださいます。その中で、皆さんが応援してくださり有難い気持ちになりました。

ひょっとしたらむかしも、参勤交代をはじめこの街道を往く人たちを地域の方々は優しい眼差しと思いやりや笑顔で送り出し、応援してくださっていたのかもしれません。

この道を往く人は、色々な理由がそれぞれにあったのですがその想いを汲んでくださる街道の宿場町の方々は道を歩む人たちに親切だったはずです。道を往けばハプニングに遭遇し困ったことがたくさん発生します。その時、手伝ってくれたり、アドバイスをくれたり、応援してくれたりすることで次の宿場町までの元氣になります。

特に峠を越える前にあるお茶屋さんや峠を越えたあとにある宿場町には癒されたはずです。また峠の最中や道の分かれ目には、お地蔵様や道祖神がお祀りされており旅の無事を見守ってくださっています。宿場町には、神社やお寺がたくさんあり心を清め、祈願をし旅の決意を固めます。

道を往くというのは、まさに人生そのものでありその道でどのような人たちと出会うのかはその人生の醍醐味になります。

今は自動車の道が整備され、旧街道を通ることはほとんどありません。また旧街道を通ったとしても狭い道を猛スピードで車だけが駆け抜けている状態です。自転車であっても人と触れる速度のギリギリです。街道にくれば自転車を降りて、押して歩んでいくと人に触れる速度に戻ります。

歩いていくことで私たちは道を味わい楽しみましたが、自動車では街道は味わうことはできません。引き続き、子どもたちの未来のためにもこの先の道を求めて進めていこうと思います。

長崎街道1

私の郷里で古民家甦生している聴福庵は、長崎街道沿いの飯塚宿にあります。この街道の宿場町は小倉から黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田、田代、轟木、中原、神崎、境原、佐賀、牛津、小田、北方、塚崎、嬉野、彼杵、松原、大村、永昌、矢上、日見を経て長崎に至る25宿あり全長228キロあります。

かつてこの長崎街道は鎖国体制を敷いていた日本の中で唯一外国との文化交流や通商の窓口にしていた長崎から西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として重要な役割を果たした街道だったといいます。長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用するだけでなく九州西半の大名が参勤交代のために通い、その他にも多くの学者や文人、象やクジャクなどの動物も通ったことが記録されています。、

具体的な有名な人物としては、オランダ商館関係者は、ケンペル・シーボルト・ツンベルク・フィッセル・レフィスゾーン・ヅーク・ブロムホフ。そして蘭学を学んだ平賀源内・緒方洪庵・高野長英・大槻玄沢・稲村三伯・前野良沢・工藤平助。絵画文人は、司馬江漢・頼山陽・田能村竹田・菅井梅関。幕末の偉人として吉田松陰・坂本龍馬・河井継之助・西郷隆盛・大隈重信・乃木希典・大田南畝。その他にも伊能忠敬・高山彦九郎・林子平・三条実美・種田山頭火がこの街道を往来しています。

異国の動物では、象、キリン、ラクダ、オランウータン、ロイアルト(ナマケモノの一種)、ヤマアラシ、トラ、鷲、孔雀、七面鳥、ヒクイドリ、青インコも往来しています。

ここからもわかるようにこの街道がもっとも特異であったのは、海外からの最先端の物資、文化、学問、技術、文献、優れた人物、それに世界の価値のある情報が常に行き交う重要なルートであったのです。この物資や文化の一つになったお菓子も、砂糖が往来したことでシュガーロードとも呼ばれ、九州のカステラ・丸ボーロ・鶏卵そうめんなどの菓子文化が発展に重要な役割を果たしています。

この歴史の道は、現在まで続いている道でもあります。道は始まりがなくそして終わりはありません。その道を時代を超えて歩んでいこうとする試みは、新しい令和の時代に向けての初心の確認でもあり「道」とは何かといった自分への問いの旅です。

この人生の一つの節目に、自分のルーツ、この郷里に生まれた私の歴史や時代の流れを長崎街道の歩みを通じて学び直したいと思っています。

自然の生き方

昨日は、自然農の田んぼで田植えを行いました。もうこの田んぼでの田植えは、8年目になりますが毎年楽しく豊かな時間を過ごせています。もちろん、昨年はイノシシに収穫前に入られて未収穫という大変な目にも遭いましたが懲りずに続けて8年も経つと経験が血肉になり様々なことを自然に感じ取れるようになっています。

自然というものはとても面白く、自然に近づいていけばいくほどに自然の仕組みが感得できるようになります。いつの時機にどの場所に何があるのか、そして何が組み合わさり、どう混ざれば何が生まれるのか、またその土地や風土の循環の癖や相性、さらには全体のバランスや心の機微にいたるまですべて手に取るように感得できます。

おかしな話ですが、達人の域に入るほどです。それくらい自然と一体になると、先々のことを今見通すかのような感覚になるのです。もちろん、自然ですから思い通りにはなりませんから謙虚さを磨かれます。しかし同時に、絶対的な安心感も同時に得られます。

それは様々な命と共に共生していくなかで、互いに活かし合いつながり合い存在し合うということの安心を感じることができるからです。

草をかけた土の中には大量の菌たちやミミズらが暮らしを営み、その上には虫たちや水生生物たちが暮らします。その循環のなかで稲はすくすくと育ち、光や風を浴びて鳥の声を聴き、山の恵みをうけ、人の見守りと愛情を感じながら立派な稲穂になり実をつけていきます。

この一つの循環の中に自分がいるという安心感は何物にも代えがたいものです。それを大切な仲間や家族と一緒に育んでいくという仕合せ。

私たちがもっとも遺し譲っていきたいものは何か、それはこの自然農の稲作の中にすべて生き方として籠っているのです。自然の生き方とは、自分もそのいのちと一緒に共生し合いながら育っていく生き方です。

如何に全体の一部となって自分を活かすかは、自然が観えているかという境地の会得が必要です。そのためには何度も田に入り、自分の手と目と感覚で自然のありように近づいていくしかありません。

大事にしたい子どもたちへの生き方を示していきたいと思います。

等価交換できない存在~徳循環~

この世の中は、なんでも等価交換できるわけではありません。価値に見合ったそれ相応のものと交換するというのは、あくまで人間の狭い視野で行われるものです。例えば、この自然界でいのちを活かしているあらゆるものと同等のものを用意することはできません。

人間が水や空気、太陽の恵みや大地とどう等価交換するのか。いくらお金があっても、それをお金とは交換できません。人間が作り上げた価値と交換はできても、自然や宇宙などのすべては本来交換することができないものです。

何でも価値や価格でばかりにそのものを測ろうとし、損をしたとか得をしたとかいうのはとても料簡の狭いものです。そのものの価値は、そのものの本当の価値を見出せる人にはわかります。それはお金では測れず、世の中の常識でも量れません。

むかしからそのものの価値を知る人たちは、善を行い徳を積みました。それは等価交換できないことを知り、少しでもその恩恵に報いようと感謝を循環させていったからです。

この世の理として、私たちは自然の大きな恩徳によって生きることができそれが失われればこの世を去るしかありません。さも人間が自然を牛耳っているように錯覚したとしても一度の災害ですべてを失う可能性もあるのが自然の猛威です。

だからこそ謙虚に交換できないものの価値を認め、いくらそれが宗教だと揶揄されようと、妄信的だと馬鹿にされようと、そういった交換できない価値のために祈り、その恩恵をいただける存在に感謝しながら生きていくことで私たちは傲慢になるのを抑制しみんなで平和を築いていくのです。

大前提として、等価交換できない偉大な存在をどれだけ身近に感じているか。ただ感謝のみという存在にどれだけ報いているか。ここが何より私たちの社會の在り方や暮らしの根本と深くかかわっていることを忘れてはいけません。

子どもたちは生まれながらに、その価値の偉大さに気づいています。お父さんやお母さんの存在、自然の存在、あらゆるものへ感謝の気持ちで生きています。価値を測ったりすることもせず、ただその偉大な存在に甘え、偉大な存在と共生し、自分もその恩恵に報いるようにすくすくと成長をしていきます。

私たちの身近にいつも寄り添い、見守る存在はすべて「徳」です。この徳に貢献していこうとすることこそが「利子」を増やしていくことであり、その利子によって私たちはまた恩恵の一部に感謝というもので還元されていくことができるのです。

徳の循環の仕組みは、この価値を変換し無価値にし徳に還元することです。

子どもたちのためにも、このプロジェクト、覚悟をもってやり遂げたいと思います。

道徳元年

私たちの会社では、7年くらい前から「讃給」という取り組みをしています。これは給与明細とは別に、そのひと月でみんなで一緒に働く中で感謝を言葉にしてみんなで交換するという取り組みです。

なぜこれを始めたのかと思い返せば、単に給与は仕事との対価としてではなく天から頂いたものであるという認識。そしてそれは多くの方々の感謝の循環によって、自分もその一部の恩恵を受けることができているという事実、単にお金の価値では測れないものをもっと理解していこうとするために取り組んだように思います。

もう何年もやっていると、感謝の声をいただくことで自分が何で役にたっているのかがわかったり、みんながどのようなことを喜んでくれたか、そして自分もみんなにどのような感謝を感じているかが確認できます。

感謝が積みあがっていく安心感というものは、大きなもので人はどのようなつながり方をするのかでそのコミュニティの質も変化するように思います。

例えば、同志というコミュニティであったり、家族というコミュニティ、そして同じ趣味というコミュニティ、理念を共有するコミュニティ、その「つなぎ方」は様々にあります。単にお金を中心にしたつながりだけでは、お金の持っている価値のみのつながりになります。それを感謝というコミュニティを形成することで、新たな絆が生まれていくのです。

人は、それぞれに「何でつながるか」というものを持っています。私もスタートアップの時は、友人と起業したこともあり、お金を中心に給与が発生していくことで本来のつながり方とは別のつながり方で感謝がわからなくなって苦しんだことがあります。

損得や費用対効果などの等価交換の価値基準を持つお金が、どうしても全体の価値観に影響を与えてしまいます。私の場合は、理念や初心を決め目的を定めたことでお金は自分たちを助けてくれる一つの道具になりましたがそれが明確でなかった頃は何度もお金に左右されてしまいました。

お互いに喜び会うことや、お互いに幸せになることなど、人は一緒に暮らしていく中で感謝が中心になればなるほどに利他的な自己と出会います。人間の低次欲求で有名なマズローも自己超越欲求というものがあると言及しています。これは自己実現の過程で感じる「至高体験」という自我超越、自己忘却、無我、利害や二分法では測ることができない「利他」(自他一体の歓び」のようなものを感じることができるというのです。これを私は徳を積むという言い方をします。

理念や初心が確かに自分のものになればなるほどに、生き方だけなく働き方も大きく変化していきます。そして生き方が変わり働き方が変わった人は、徳を積むための仕事に取り組み始めます。

それは費用対効果とかでもなく、損得利害などでもなく、子どもたちのために徳を積もうとするのです。自分がそうされてきて今があるように、自分も子どもたちに同じようにつないでいこうとする真心。

まさに、自分を活かしてくださっているものへの感謝への恩返しをはじめるのです。それは単にお金では片づけることはできず、文化伝承や奉仕、恩の循環を通して行われるのです。

私が3年前から開催した恩袋会というものも、溜まった恩の袋から徳をひろげようとする取り組みの一つです。

時代の変わり目に、新しい経済がはじまります。その新しい経済はいいかえれば、新しい道徳のはじまりです。そういう意味で、令和元年は道徳元年でもあります。引き続き、自分の使命を全うしていきたいと思います。