天からの贈り物 プレゼント

英語の諺に「Yesterday is history, Tomorrow is a mystery, Today is a gift. That’s why it is called the present.」というものがあります。これは意訳すると、「昨日はもう歴史になっているし、明日はまだ神秘に満ちている。だからこそ今日この一日こそが天からの贈り物(プレゼント)。」というのです。

もしも人がすべてのことを天からの贈り物と思えば、その試練もまた天からの贈り物であり、日々のすべては天が自分が本当に望んだものに対して与えてくださった大切なご縁(プレゼント)ということになります。

このプレゼントいう意識は、感謝の心が大前提になければ感じることはありません。日々に彼方からやってくる出来事に対してそれを避けようとはせず、また有難いご縁、有難い贈り物を与えてくださってとお礼をする感謝の心の積み重ねによってプレゼントを感じる心は醸成されます。

神社にお参りにいくとき、私たちはお礼参りをしにいきます。ないものに対する不平を願うよりも、いただいているものすべてに感謝をする方が心豊かです。あるものを活かそうという発想もまた、この感謝の心の醸成によって磨かれていきます。

よく考えてみれば、この生まれてきた体も、そして子どもたちも、さらには自分に与えていただいた感覚のすべてもまた天からの贈り物です。それを贈り物だと思って大切に扱っていく人は、いつまでも天からの恵みや恩恵に包まれ、どんなご縁であってもすべては尊いいただきものだと感じられるものです。

そうやって感謝の心が積みあがっていくとき、その恩に報いたいという心もまた同時に育っていきます。天からの贈り物とはこの感謝報恩の心のことをいうのかもしれません。

もしもその感謝の心を忘れ傲慢な心が育てば、不平不満は単なる身勝手な我儘になり文句や言い訳ばかりをいってはせっかくの一日も貧しくつらい面白くない日々にしてしまいます。そのうち「もういらない」といただいたものを撥ね退けてはせっかくいただいたものまでゴミ屑のように粗末にしてしまうかもしれません。自分の欲しいもの以外はいらないという強欲さは仕合せを一層遠ざけてしまいます。

自分が今回与えられたご縁(プレゼント)が如何に偉大であるか、その天からの贈り物からお役目に気づき生きられる人はとても仕合せな人です。

人生はすべて生き方が決めますが、ものの見え方が変わっていればそれは生き方も変わったということですからどのような一日を過ごしてどのような見方をしたかの連続で一生はつくられていくはずです。

日々はかけがえないのない天からの贈り物としてその贈り物を感謝の心で授かる心、つまりはすべてを丸ごと受け取る感性を磨き幸運を伸ばしていきたいと思います。

和の甦生

以前、国際人のことを書きましたが今の時代は国際化の中で自分たちがどのように生きるのかを見つめる時代でもあります。私は若いうちからヨーロッパや中国に留学した経験がありますからその国の文化に触れ、どのようにこれから自分が生きていくかを考えたのを覚えています。

日本は島国だからか自国のことばかりになってしまうことが多く、世界のニュースや世界の動向を意識する人が少ないような気がします。今はこれだけITや流通が発展し、それぞれの国に人が行き来する時代になって国境がなくなり国際化したのだからもっと自分の国の文化に対する意識も高まっていなければならないのに自分の国の文化や歴史に興味を持っている人が圧倒的に少ないように思います。

先日、日本の保育についてメンターと話し合う中で「日本をもう一度見直そう」という話がありました。その中で「異なった文化の人たちが如何に協力するか、世界と和していくことが日本をよくすることだ」と仰っていたのが印象的でした。

現在、一つ一つの伝統を紐解き初心伝承を磨き深めていますがその根底には和の精神というものが根付いています。自然と共生し人々と和する・・その和の精神とは何かといえば、それは「平和」のことです。

大震災や大災害があったとき、日本は世界から尊敬されます。それは見事なほどに他者を思いやり、自制し自律し、他を受け容れ、助け合う姿を見せるからです。私はこれは日本独自の文化と歴史の結晶ではないかと感じます。

協力や協調、調和は私たちが実践する一円対話、そしてコンサルティングの本筋に定めているものですが日本の文化の後押しがあるからこそより大きな効果が現場で発揮されているのです。

明治以降、日本文化の価値が見捨てられ零落しその本当の意味や崇高さが伝統的な暮らしと共に衰退していきました。しかしこれからの子どもたちが国際化の中で如何に国際人として羽ばたいていくかと慮るとき、日本独自の文化が忘れ去られていくのは平和を世界に広げていく精神もまた忘れ去られるということであり、今、ここで何とかしなければという義憤に強くかられます。

私たちは親祖の初心が悠久の歳月を経て文化になったことを決して忘れてはなりません。

改めて日本を見つめ日本を見直し、古来からある日本文化を学び直し、それを転じて甦生し世界へ日本の文化を発信していく必要性を感じています。使命をもって、子どもたちのためにも和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

心田を耕す

二宮尊徳の教えに「心田を耕す」というものがあります。そもそも人間のあらゆる荒廃はすべて心の荒蕪から起こると説きました。荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで土地が手入れされずに荒れていることをいいます。荒廃は家屋などでいえば、荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。

この荒廃は心の荒蕪が問題であり、それを解決するには心田を耕すしかないといいました。私は自然農や古民家甦生を通して感じたものは、暮らしが失われることでこの心田もまた失われ荒廃していくということです。

本来、田であれ家であれ人が手入れを怠ればあっという間に荒んでいきます。なぜ荒むかといえば日々の暮らしを怠り忙しさにかまけて心の手入れをすることを忘れてしまうからです。

都会に住めば、忙しい日々を送る中で暮らしは消失していきます。特になんでも簡単便利に頭で考えたようにできる世の中になってくると、本来は有難かったことも当たり前になり、自分の都合よくいかなければ不平不満などが出てきます。それに拍車をかけてお金でなんでも解決しようとするあまり、さらに心を用いる苦労の方や、心を慮り丹誠を籠めるようなことがなくなっていきます。

古民家を一つ丁寧に建て直し、手入れをし甦生させていくともう十数年も置き去りになって雨漏りがして屋根が崩れ荒れ放題になっている隣家が気になってきます。一つ家を直せば、町並みは美しくなり隣の家が気になってくる。田んぼも一つ美しく手入れすれば荒廃された隣の田も気になってくる。こうやって一つ一つのことを手入れしながら、一つ一つ荒蕪を開墾して耕して手入れしていく以外に人々の心を直す方法はないのです。

二宮尊徳のいた時代は、大飢饉が続き食べ物がなくなり農民たちは重税で苦しんでいました。その中で村々は荒廃し人々の心もすさんでいたといいます。今は時代は変わり食べ物は豊富にありますが、都市一極集中で地方は少子高齢化が進み田畑や古民家は荒廃が進んできています。人々も重税がかかり、格差は広がりますます時代背景が似てきています。

一人一人が覚悟を決めて、暮らしを立て直し心田を耕すことによって荒廃を転じて幸福に目覚めていく必要があると私は感じます。

何をもって心田を耕すのかは、もう一度本物の暮らしとは何かと見つめ直すことからではないかと私は思います。本物の暮らしは、日々の心を耕します。かつての伝統的な日本の暮らしは感謝に包まれ謙虚に自然と一体になって日本人の心と共に慎まやかに継承されてきました。

文明が進んでも、生き方までは変わらず時代の進化は正常に行われてきたものが明治頃からそれまでの道から離れ戦後に様々な影響を受けて今に至ります。今一度、原点回帰し日本人としての生き方、つまり日本的な暮らしを甦生させ、本来の日本人としての心を耕していく文化を再興する必要を感じます。

そのためにも一人一人が目覚め、まず独り荒れた田に入りそれを開墾し、荒んだ家に入りそれを甦生させる、その真心を磨いて人々の心に潤いを与えていけるような実践を積み重ねていくしかないと思っています。

先人の尊さには頭が下がります、二宮尊徳の積小為大を実践をしつつ子どもたちのためにも暮らしを甦生し心田を耕し続けていきたいと思います。

天道地理義理人情の法理

朝起きて鉄瓶に水を入れて炭を熾してお湯を沸かします。この時、私は火を熾すために火吹き竹で息を吹きかけていますが火は自然の力によって燃焼していきます。次に、私は鉄瓶を用意して水を入れて火鉢に置きますがそれをお湯にするのは自然の力です。さらに、そのお湯を湯呑に入れ茶葉をとおしてお茶にして呑むのは私ですがそれを体に吸収していくのは自然です。

人と自然。

私たちは自然に寄り添い、自然の力を借りて日常生活を続けることができます。空気を吸うのは自分ですが、空気は自然の力で存在します。水を飲むのは自分ですが、水は自然の力で存在します。太陽を浴びるのも自分ですが、太陽は自然の力です。そう考えるとすべては自然の力を借りなければできないものばかりで、そこに自分が何をするかを決めて行動することで自然の力をお借りしているということになります。

このように私たちは様々な自然のお陰様やお力をお借りして、そこに人として働きかけることで自然と共に生きています。この当たり前の事実をどれだけ感じて生きているか、そこに人道と天道、人と自然の道理の理解があります。

自然とつく仕組みはここ数年、あれこれと発酵やら養鶏やら農やら最近では古民家甦生で学び直してきましたが畢竟、そのどの仕組みも自然の恩恵を引き出すために自分が人として何をやるかということに尽きるように思います。

これは仕事でも同じで、自分がやっているのは人としてのところ。あとはどれだけ自然の力が借りれるように真心を尽くしていくかということになります。真心や感謝は人の道であり、それを実践することで自然のお力をお借りすることができます。有難いと謙虚に正直に誠実に信じて取り組む人は、人として理に叶ったことをやっていることになります。そういう人はいつも自然のお力をお借りして事を成就させていくように思います。

先ほどの火鉢で火を熾すことと同じく、何回も修練を積んでいくことでその息の吹きかけ方や丹誠が磨かれていくように思います。仕事も同じく、人としての道を何回も修練を積んでいくことでその実力が磨かれていくように思います。

人間は自然の仕組みを離れて人間の力だけで火も熾し水を操作し、光を作れると錯覚していますがそんなものは妄想で火も水も光も何一つ人間だけでは作れません。すべて自然の力を借りていて、その自然の力が偉大なのであって人間が偉大ということはないということでしょう。

自然の力をどうお借りするか、それは天道を究めていくことですが同時に人道も究めていくことです。この天道地理義理人情の法理に叶うかどうか、それは日々の内省と改善によって磨いていくしかありません。しかしまだまだ私は思いやりを優先でき徳を発揮するまでには至らず反省ばかりです。自然のような誠、その誠を引き出せる人物に近づけるようになりたいと祈る日々です。

引き続き、自然の摂理を学び直しながら自然のお力をお借りできるように感性を磨き、人として何を実践していくかを真摯に振り返り、子どもたちに大人としてその後姿を見せられるように精進していきたいと思います。

つむぐ心

「つむぐ」という単語があります。これはあるものとあるものを「つなげる」ときに使われる言葉です。本来は辞書には、「綿や繭から繊維を引き出し、より合わせて糸にすること」とあります。

そのことから、「思いを紡ぐ」という言葉もあります。糸のようにより合わせて同じように思いもまたより合わせていくという意味です。

長い年月をかけてつむぐことで様々な想念は実現していくという比喩なのでしょう。人間も一生がありますからその一生の中でできることは僅かです。しかし、その思いを紡いでいけばいつの日かそれが一本の糸になり、それが紡ぎ合わされ最終的な美しい反物になり私たちを纏う衣になったり、もしくは包むこむような布になります。

ドイツの詩人ゲーテに、「蚕は糸を紡ぐにつれ、だんだん死に近づいてゆくが、それでも糸を紡がずにはいられないのだ。」とありますがこの心境もまた「つむぐ」ことをいのちの糧にして生きるものたちの姿なのかもしれません。

紡いだ糸が何重にも織り合わさって様々な形を生み出していく、そこにはモノづくりの美しい姿があります。私たちは日々に生きていきますが、一つの理念を形作るために日々につむぎ、そのつむいだもので今の姿が顕現しているともいえます。

そういう日々であることを自覚するのなら、毎日はかけがえのない日々をつむいでいる美しい日々に変わります。

どうしても忙しくなると、日々を紡いでいくという意識ではなくなるものです。そういう時は、自分が一本の糸を織りなしていく姿を想像したり、多くの情報の中から大切な一本の糸をつむいでいることを忘れないようにしたいものです。

いのちが尽きてもそれでも糸をつむぎ続ける蚕のように、自分の役割やお役目に生きる生涯をつむげることは幸せなことなのかもしれません。自分の遺したものが、子孫の力になるというものもまたこの紡ぐ姿から感じることができます。

子どもの仕事というのは、この「つむぐ心」を育てていくことかもしれません。引き続き、日々の実践を確かにしつつ思いをつむいでいきたいと思います。

進化の一因

昨日のニュースで盤上ゲームの中で最も戦略的とされる囲碁を打つために開発されたGoogleの人工知能Alpha Goのことが紹介されていました。

中国で世界最高レベルの打ち手をことごとく破って最後は世界トップランクの天才棋士柯潔を完璧に破り人工知能Alpha Goは正式に囲碁から引退するという報道でした。

ボードゲームの中でもっとも複雑だとされる中国4000年の歴史がある囲碁にチャレンジすることで人工知能Alpha Goは「人間を超えるために10年かかる」と言われていたものをここ1年、2年で追いついてきたことになります。

この人工知能Alpha Goを開発したロンドンの会社DeepMindの理念は「人間の知性を解明する」ことであり、囲碁で得たこの技術をさらに発展させ応用し他分野に進出していくということです。

印象的だったのは試合後の記者会見で天才棋士柯潔が「AlphaGoは世界を変えてしまったが、ぼくはぼく自身でありたい。そして囲碁が楽しいことを伝えたい。その責任がある」と語っていたことと、「AlphaGoの打ち手は、まるで人間のようだった」という言葉です。

ここから相手のことを読み、学びそして判断していく技術、さらにそれを裏付ける知能、もうすでに知能技術はほとんど人間に近づき人間を凌駕したことに気づきます。100年前なら想像すらできないことを今はほとんど実現可能なところに来ています。

人類はこの人工知能、つまりは知識の技術においてついにほとんど完璧に近づいた存在を目にすることになったともいえます。そしてその時、私たちはどうするかということも同時に向き合う必要が出てきます。

かつては人間の作りだしたものが人間を超えるはずがないという先入観もあったかもしれません。しかし実際は、人間の作り出したものが人間の手を離れ人間を大きく超えていく時代に入ってきたのです。

それぞれに意思を持つ人工知能は、私たちが努力して必死に技術を磨いていてもそれをあっという間に獲得して私たち以上の完璧なものに仕上げていきます。どう考えても人間が作ったものよりも良いと判断されたら私たちはその時、どのような世界を生きていくのでしょうか。

私にとってはこの対局や人工知能の存在が、改めて文化と文明について人類に本質を迫ってくるように思います。私の場合は楽観的に考えますから改めて人類の文化の価値が見直されるのではないかと思っています。

人々が長い年月で得たもの、囲碁であれば4000年の歴史は勝ち負けとは離れたところに生き続けているものです。人類とは何か、それは歴史です。いくら技術が進んで人間をすべてにおいて凌駕したにせよ、進歩は進化を超えることはないように思います。

なぜならその進歩もまた進化の一因でしかないからです。

だからこそ大切なのは、一人ひとりが今を大切に進化を已めずに成長を続けていくということです。引き続き大切なものを守りながら変えていくものは変えていく、その世代の責任と使命を感じながら命を尽くし温故知新を進めていきたいと思います。

 

自律と自由と自分次第

昨日、自由の森学園の体育祭を見学する機会がありました。子どもたちがのびのびと自由に自分たちの体育祭を楽しんでいる様子にほのぼのとした雰囲気がありました。いろいろなことを外から強制せずに自分たちで物事を主体的に取り組むようになるには、自分自身と向き合う必要が出てきます。

自分自身と向き合う中で、どのようなルールを自らで設定するか。ここに自律を学ぶ意味があるように思います。

私の会社も自由にしていますが、その自由の意味が最初はわからず周りから与えられたルールに従ってきた人たちは困惑して最初は何もできなくなるものです。しかし周りを見渡して、誰かから与えられたルールではなく自分自身が決めたルールに従うことで得られる自由に気づきます。

それでも与えられた自由のことが忘れられず、誰かに決めてもらおうとしたり、責任者に自分の管理を押し付けたり、会社のせいにしたりトップのせいにしたり、もしくは権利ばかりを主張してきたりするものです。

本来、自由というのは自分で決められる自由です。それを最初からできないものだと決めつけて自分で決めようとはせず、誰かによって決められたものでそれは決して自分では決めてはいけないものだと考えるほど不自由なことはありません。

無理をして限界がくれば会社を辞めればいいと努力している人もいますが、こんなのは誰かの決めたルールに従って無理に働いているだけで自分から成長を楽しんで働いているのではありません。

自分で決める自由というのは、誰かがそれを決めていたとしても自分が納得していればそれは自由です。それが主体性を発揮しているともいえます。例えば、私も疲れた時や大変な苦労の時に、なぜこんなことをと思う時もありますがよく考えてみると自分で選んだ道ではないかと思い直せばその柵から自由になり前向きに明るく取り組むことができています。

これも先ほどの自律と自由の話の一つで、自分が決めたことを自分でやりきることほどの自由はなく、誰かにやらされて仕方なくやる不自由とは異なるものです。自分で選択したことに責任を持つというのは、決してつらいことではなく、よく覚悟を決めることは大変なことだと勘違いされていますが本来の覚悟を決めることは自由になることを意味するのです。

自由というのは、自分の人生に自分が責任を持つということです。決して誰かのせいにするのではなく、すべての人生は自分が主体的に創造する主人公であるのだとこの自分が創造する世界の全責任を自分が持つということです。

物事をどのように感じるのかもその人次第ですし、出来事や機会に対してどのように接するかもその人次第、時間の使い方も人生の使い道もまたその人次第。どんな境遇にあったとしても、それをどう活かすかはすべてその人の責任、その人の自由なのです。

そうしてみると、子どもたちがこの自分で決める自由を学び社會に出ていくというのはとても大切なことのように思います。不自由の中で一生を終える人と、不自由は自分自身が決めているのだと悟り、自分が主体的に世界の責任を持つと決めて自分ルールを持ち自由に生きていくのではその社會の未来も変わっていきます。

引き続き、子どもたちの可能性を感じつつも子どもの憧れる会社を目指しているのだから社會と自分自身と向き合い、どのようなすばらしい社會にしていくかを掘り下げ、世界のモデルケースを研究し、どんどん楽しいルールを会社で創り自律を高め、新しい自由を社業を通して世の中に広めていきたいと思います。

遠心力と求心力

遠心力と求心力というものがあります。これは簡単に言えば外に向かって働いていく力と、内に向かって働いている力のことです。遠心力といえば何かを振り回していれば外側に向かって広がろうとする力であるのは想像できると思います。これは宇宙が膨張していくように、中心から外側に向かって離れていこうとするものと同じく拡大成長していくような力です。

それに対して求心力は、中心に向かって引き寄せていくような働きのことで宇宙の星が引力や重力があって宇宙空間に物質が飛んで離れていかないようにと中心に集めようとする力のことです。その求心力のお陰で、私たちの住む地球もあらゆるものがこの場に存在して安心して暮らしていくことができます。

宇宙というものはこの円運動で行われているもので、この働きは体の内部のことであっても自然現象のあらゆるものであってもその道理が働いています。つまりは根本的な仕組みとして私たちはこの道理を活用して日々の生活を成り立たせているのです。

この道理に照らしてみると、例えば「集まる」と「集める」というものがあります。集めるというのは外側から何とか人為的に集めていこうとする働きのことです。これは膨張の力で広げていく中で集めようとしていきます。しかし「集まる」という働きは、みんなで重力場や引力場を育ててあらゆるものがそこに集まるように中心(核)を創っていくということです。

この核がしっかりあるからこそ、あらゆるものは外には飛び出さず中心に向かって集まっていきます。この集まる力によって重力も引力もあります。その中心に向かってもっとも大事な役割をするのが自然であれば土です。土は核の周りにあってしっかりと地球を守ります。そしてその土に根をはりめぐらせ広がっていくのが樹木でもあります。

この樹木もまた、根という中心があり幹があり葉をつけ種を運ぶからこそ広がっていきます。しかしその根がなければ結局は森はできませんし、森がなければそこに豊かな生態系や暮らしに集まる生き物たちは現れることもありません。

求心力と遠心力は表裏一体であり、そのどちらのバランスが崩れても私たちは中心を維持することができないということです。人間はどんなに知識を持って妄想してもその実自然の中にいますから決して自然の道理に逆らうことはできません。

私のコンサルティングはこの自然の道理に従って物事を捉え、自然の摂理に沿って物事を判断していきます。つまりお手本は自然であるということです。

子どもたちのためにというのであれば、中心から外れてしまうような仕事はしたくないものです。引き続き、様々なことを磨き直しながら理念経営、初心伝承を進めていきたいと思います。

約束の価値

「約束」という言葉があります。これは字を分解すると「約」っていう字は目印をつけるために糸を引き締めて結ぶこと、そして「束」という字は木を集めて紐にひっかけて縛るという意味があります。つまりは、目印をつけてそれを縛るということです。

この約束は他人とするものかといえば、それは相手次第になりますからやはり自分とするものです。自分の心に決めたことを自分の心に結び、それを信念として守り続けて最期までそれをやり遂げる、それが約束を守り約束を果たすということになると思います。

この約束とは、自分の決めた生き方のことです。言い換えるのならば、魂の声に従うということです。人は頭で考えなくても自然に自分のやりたいことに全自動で向かっていくように思います。素直さを磨いていけばいくほどに、本当はそうだったのかとすべてのご縁や導きが一つの天命によって貫かれていることに気付くように思います。

しかし自分の中の固執や我執からそれが観えず、いつまでも自分がわからないままにまわり道を繰り返してしまうものです。そのまわり道を通っているうちにはたと心の目印、約束にめぐり合い自分の道に気づいて感謝するのかもしれません。

人は同じ人は誰一人おらず、お役目や役割も人それぞれで異なります。自分と異なるお役目の人を羨み、妬み、それを欲しがってもそれは自分のお役目ではありません。自分のお役目は自分にしか与えられていませんから、そのお役目を果たすとき約束を果たしたということになります。

自然では、あらゆる生き物たちが存在します。

その生き物のいのちによっては、非業の死を遂げるものもあり、また平穏無事に寿命を全うできるものもあります。同じ草であっても、同じ虫であっても、そのお役目は千差万別あり同じ役目のものは一つとしてありません。

つい人間は自我や自己認識が強くなり、自己中心的になると周りのことがわからなくなり自分のお役目のことなど忘れてしまうのでしょう。そういう時に忘れない工夫こそが、約束の価値であり、理念や初心というものもまたその人のお役目を守り果たしていくための仕組みなのでしょう。

運命をどう生きていくか、その時に大切なのはお役目を忘れないで生きていくことなのかもしれません。

人生の約束を守れる生き方は、素直に謙虚に感謝の心のままに生きていく生き方です。あるがままの自然体で、ありのままの運命を受け入れる柔軟性と好奇心。まるで魂のままの子どものように自分の道を迷いなく清らかに明るく正直に生きていければとても仕合せなことだと思います。

自然が約束しているあの生き方のように、自然に沿って生きていきたいと感じます。子どもたちから学び、子どもたちのようにそのものが持って生まれた天命のままでいるような姿を見習い、子どもの憧れる働き方を求めていきたいと思います。

伸びる感性を持ち続ける

物事にはすべてに調和、バランスがあります。対立したものが調和して物事は一体になっていきます。それは光と闇、火と水のように相反する性質のものがちょうど中間で折り合いをつけてバランスを取りちょうどいい具合に変化していくのに似ています。

この相反する性質のものを活かすには、どちらにも固執しないようなしなやかでやわらかな感性が必要になるように思います。古語にはそのバランスがあるものを中庸ともいいますが、この中庸は頭で理解できるものではなく心魂を磨き徳を備え、万物の調和の感覚を得ている自然と同様な生き方をできる柔軟性を持つ人たちが得ているように思います。

それはなんでも好いことに転じて活かす感性です。物事や事物を消極的に捉えるのではなく、それを楽観的に前向きに明るく捉えて味わい挑戦していく能力とも言えます。

自分のやりたいようにもっていこうとしたり、自分の思っている方へと向けようとしたり、自分を手放さなかったり、自分のできないことを避けようとしたり、自分に固執すればするほどにその柔軟性は失われて頑固になっていきます。

この時の頑固さとは周りが変化しているのに自分だけが変化しないでいようとすること、そして自分が変化しなければならないのにいつまでも周りにばかり求めようとすることです。

この頑固さを手放し、周りの変化に合わせて自分の方をさらりと変えていくのが自然の姿であり柔軟性を持ったということです。そのためには変わることを悪いこととは思わず、新しくはじまることを好いことだと信じ、常に挑戦していくのを楽しもう、どんな未来になっていくのかをワクワクしてやってみようと好奇心を発動させていくことで柔軟性はさらに磨かれていくものです。

この柔軟性がなくなってきて固くなれば死に近づいていきます。あの新芽の若い新緑の木々たちのような柔らかな姿、新しい環境に自らが喜んで周りと一緒に成長していこうとする豊かな姿。成功や結果よりも、「成長する喜び」に生きようとするものはすべてにおいて柔軟性を発揮していくように私は思います。

マジメニチャントヤロウとするよりは、成長していこうと機会をチャンスととらえてその機会を活かすような生き方をすることでいつまでも若い瑞々しい柔軟性を磨いていくことが変化そのものになっていくことのように思います。

あの三つ子の魂たちのように、イキイキワクワクと成長していく仕合せと伸びる歓びのままに純粋に生きている子どもたちのような姿こそ柔軟性でその子どもたちのあこがれるような生き方を志すのなら決して忘れてはならないものがこの伸びる感性を持ち続けることなのです。

常に成長を信じてやっているか、常に変化を味わって好奇心で取り組んでいるか、自分の好奇心が枯れて干からびていかないように常に変化の水分を吸収して明るい光をもって伸びていきたいと思います。