傾聴の本質

傾聴ということについては、一円対話をはじめ色々なところで実践していますがこれは何よりも重要な学びの姿勢であることを実感することばかりです。

あのPF・ドラッガーも「リーダーにとって最も重要な資質は「聴くこと」だと私は考えます。常にインプットし続け、学び続け、成長し続けるためにも、聴くことが重要なのです。」とあります。

素直さを思う時、他人の話を素直に聴ける人を素直であると思います。どうしても自分の概念で歪めて聞いても聴かず、聞いているようで聴こえないのでは、改善しようがないからです。

エグゼクティブ・コーチの第一人者として知られる、ゴールドスミス氏の記事がハーバードビジネスレビューの3月号に紹介されていました。

そこには、「自分の周りにいるすべての人から学びなさい」と常にアドバイスをするそうです。

そして自己変革に成功するか否かを左右する要因が三つあることを述べていますので紹介します。

「その一つが勇気です。自分の顔を鏡で見るように自分と真剣に対峙し、ありのままの自分の姿を見つめる勇気がなければなりません。」

「二つ目は謙虚さです。自分は勘性されたリーダーではなく、まだまだ改善の余地があるということを認める謙虚さがなければなりません。」

「そして三つ目が自己を律するというファクターになります。自分を常に改善し続けていくためには、自己規律というものが不可欠です。」

これらの三つについても、傾聴できなければできないものです。常に自分と正対し、自問自答しながらひとつひとつを改善していく精進があります。弛みない努力と怠らない実践の集積よってはじめてリーダーは自己研鑽を続けていくことができるというもの、言い換えれば話を聴ける状態を維持しているということであろうと思います。

最後に、このゴールドスミス氏はこう締めくくります。

「私は自分の身の周りにいる人を大切にしなさいと言い続けています。私たちの悪い癖が職場に出ていたら、それは間違いなく家庭でも出ているものです。職場で人の話を聴いていなければ、家でも家族の話を聴いていない。職場でよくなるということと同様に、家庭でもよくなることが重要です。企業にとって顧客が重要なのは身近な人だからです。家庭で善くなることができれば、その効果はきっと職場にも及ぶことでしょう。」

身近な人を大切にすることができる人こそが、学び続ける人なのかもしれません。知っているから分かっているからと怠慢にならず、どんなことからも誰からも学び続けていくために傾聴の実践を楽しんでいきたいと思います。

防災の本質

先週末と昨日は都内で大雪が降り、道は所々凍りまた積もっています。

そうなると都会では、すぐに気象の影響を受け交通が麻痺します。人工的に造られた都市では、人間を中心に組み立てていきますから自然というものが入る時に機能が低くなるのでしょう。

私たちは知らずしらずのうちに、麻痺していくのはこの自然から遠ざかっていく感性のことだと思います。

例えば、子どもは落雷や突風にもとても怖がるものです。他にも、地震、大雨、あらゆるものに敏感に反応していきます。これは本能が自然の畏怖を感じるからあろうと思います。しかし都会に住んで、色々な知識を持てば大体こういうものだろうという思い込みや刷り込みを持つようになります。そうすると、想定外であることは起きないと錯覚するのです。ここに危機意識が低下する罠が潜んでいるように思います。

本来、自然というのは想定外のことばかりが起こるものです。

地震や津波、火山の爆発や竜巻、洪水、寒波や熱波なども私たちが想像するのをはるかに超えたものがやってきます。歴史を見てみても、想像を絶する高さの津波や恐ろしい爆発、何年も続く寒波や熱波など常に想定外の出来事があったことが証明されています。

まさか起きないだろうでいつもいたら、今回もまた起きないだろうという感性になり竟には何も感じなくなっていくのです。交通が麻痺するのを分かっていても、たぶん大丈夫だろうとしていつまでも働こうとするのもこの感性が鈍ってきている証拠なのです。

以前、釜石の奇跡というDVDを拝見した時にも感じたのですが自然を畏れ自ら逃げた人たちが助かったという事実に、納得するものがありました。自然から離れたところがもっとも危険なところであることは東日本大震災の時に経験したからです。

本来の私たちの感性が鈍らないようにすることが防災の本質ではないかと私は思います。これは天災だけではなく人災に至るまですべてその危機意識が低下しないような訓練が必要だということです。これは自然だけに限らずありとあらゆる自らに降り注ぐ危険や危機というものは、日ごろのその危険や危機に備える感性がなくなることで災害となり発生するからです。

これは生きていく上で、生き残る上で、人間が何よりも失ってはならない感性です。

カグヤでは3月11日を「大切なことを忘れないDAY」として会社を休みにして防災学問と防災訓練の日にしています。これもまた、忘れてはならないものを子どものモデルになるようにいつまでも覚えていようとする私達の試みであり理念の実践の一つです。

人間都合でいることの怖さ、本来の自然への畏怖の価値を忘れずに常に機会を逃さずに行動していきたいと思います。今の生きる私たちが遺志を受け継いで子どもたちを守り抜いていきたいと思います。

「考えない」

知識というものの使い方には色々とあるように思います。

知識はあるときは、効果がありますがまたある時は邪魔をします。知識はもろ刃の剣であり、使い方次第で本質から外れてしまうことがあるのです。

例えば、考えても考えても答えが出ないとき、その時には「考えない」で実行するということがあります。これは考えることでは答えが出ないようなことをいつまでも考えて解決しようとしても無理だという選択をするということです。

しかしそれを分かっていてもいつまでも行動できないのは知識というものがあるから行動を邪魔していくのです。言い換えれば知識そのものが我欲を助長してしまっているのです。

知識というものは、思想であり、思想は行動ではありませんから埋められない壁があります。その埋められない壁とは経験のことであり、経験がなければ体験できませんから思想では補えないのです。つまりは考え過ぎることで、本来の本能や直観のようなものを覚っていくことがなくなっていくように思います。

本来、人間には全てのものが備わっていてその中には自然が一体になって存在しているということころに立脚するとします。すると心があり、そこには魂がありとすれば知識がなくても完全な存在ともいえます。産まれてきては、呼吸をし心臓を動かし、そして食べ物を探すように生きる方法を自覚しています。

つまりは考えなくても私たちは生きる力が備わっているということです。それを考えることによってできなくしていくのがこの思考の罠なのかもしれません。

クリシュナムルティの日記に下記のようなことが書かれています。

「あなたは、多くの知識を持ってはいるが、心は貧しい。そして心が貧しいほど、知識への欲求は大きくなる。」

これは私なりの解釈ですが、実践しない思考では心が貧しい。貧しくなればなるほどに実践をしなくなって知識ばかりを探そうとするという意味ではないかと思います。

今の時代は知識ばかりで成り立たせようとしたことで真心や思いやり、そして誰かのためにと自分を盡していくことで愛することなどをあまり大事にしなくなったようにも思います。そういう刷り込みを受けて育ってしまえば、知識が豊富だと心も豊富だと勘違いするのかもしれません。だからこそ刷り込まれた知識がそのものが邪魔をしては固定観念や先入観にいつも囚われてしまうのです。この固定観念や先入観こそが、本来の自我の目覚めを妨げていることに気づかないのです。

それを取り除くには自然を信じる「勇気」であろうと私は思います。

今は勇気が必要な時代、その勇気を大義のためや愛する人たちのためにと発揮していくことが「考えない」ということなのかもしれません。「自分の実践が誰かの勇気になる」のだからこそ、勇気を出すことを優先していくことが真の心の豊かさなのかもしれません。

「考えない」ということは、思い切った勇気、出し惜しのない真心、思いやり誠実に盡す、人を信に愛することなどを言うのです。そうして観ると考えないで実践しようとするのは人道の極みなのかもしれません。

日々に実践することを何よりも大切に取り組んでいきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

緊張とプレッシャー

人生ではプレッシャーや緊張を感じるシーンというものは沢山あります。それはスポーツであったり試験であったり仕事であったりと様々です。これらは成長していくために必ず通過するものであり、人生の中では何度も似たような体験を積んで発達していくように思います。

ここで緊張とプレッシャーを深めてみようと思います。

そもそも緊張とは、自分のことを意識するという自律神経の働きともいえます。自分が失敗したらどうしようかとか、自分がうまくできなかったらという他人から評価されてしまう恐怖感から湧き上がってくるものです。結果を気にしすぎたり、最悪な場面は避けようとし過ぎたりしているうちに感情に呑まれてマイナス思考に陥ってしまいます。脳科学的に言えば、前頭葉前部が正常に働けなるからだと言われますが、自意識過剰になることで心と頭のバランスが取れなくなってしまうような感覚に陥るのです。

例えば、誰でも自分のことをあまり気にし過ぎたら自分の手足でも動かづらくなる体験はしたことがあると思います。自分のことを気にせずに動かすときは正確でも、自分のことを気にしすぎるとうまく動かすことができません。もちろん、緊張を乗り越えるには体の慣れという場数の練習、このパソコンのキーボードを打つように最初は意識して打っていたものが今では自動で打てるように何度も何度も練習することが必要です。しかし同時に、心もヤル気を維持して何度もチャレンジする勇気を出す練習が必要です。そしてそれを達するために技能を磨く練習も必要です。つまり以上の心技体の経験とバランスがあってその緊張も解きほぐされていきます。

一般的には緊張はよくない、緊張するなとはよく言われますが、ある意味でのプレッシャーは善い、プレッシャーを転じていけと言われるのはなぜかということを考えてみます。

そもそもプレッシャーとは、重圧や威圧という意味で使われます。これは外圧的な力で何かの圧迫感があるというものです。自分だけの体であれば身軽ですが、背中に背負うものがあったり何かの重荷が乗れば思い通りには動けなくなっていきます。

例えばチームスポーツや仕事であっても皆の期待を背負って取り組んだり、ここぞで外してはならないような大事な局面に善い働きができるかどうかの時にプレッシャーを乗り越えてという言い方をします。プレッシャーとは、役割を担い、責任を負うということであり、自分が背負って立つのだという自覚がある人がはじめて感じれるものです。なので緊張とは少し異なり、仲間のためにや誰かのためにと成長してきた人たちが実感するものです。

組織の中でのキャプテンやリーダー、またはエースをはじめある種の立場を持つ人たちはいつもチームの中で実力が認められた存在です。だからこそいつもプレッシャーにさらされているともいえます。

しかしこれがその人を真に成長させていくものになります。人は自分だけのことを考えていたらあまりにもちっぽけな存在になってしまいます。自分を含めた周りの多くの人達のことをどれだけ思いやりその人たちのことを考えているかで偉大な存在にもなるのです。

人間は、自分が授かった恩恵や感謝などの歓びがあればあるほどに御恩返しをしたいと願うものです。そしてそれが自分の挑戦が誰かのための勇気になると信じることであり、自分が諦めないことで誰かの幸せになると信じぬくことができるのです。

このプレッシャーというものは、実は大変有難いことであり、それだけ実力が備わってきた証であるとも言えます。自分が誰かの役に立てるところまで努力したからこそ、自分が誰かの役に立ちたいと本気で願ったからこそプレッシャーもかかってくるのです。そのプレッシャーが真の自律や自立を促すことでリーダーへの道のりを歩んでいくように思います。

そしてリーダーになるとき、そこに仲間の存在に気づくのです。仲間がいるからこそ、努力でき、仲間を守りたいからこそ強くなりたいと願うのです。そして仲間を守りたいと思うからこそ助けになるのです。

話を戻せば緊張は自分自身で練習をして乗り越えていくものですが、プレッシャーは誰かや周囲のためにと思いやりを実践することで乗り越えていくものではないかとも私は思います。

そしてプレッシャーを転じていくというのは、それを福にしていくということであろうと思います。何があっても誰かのために遣り切ったのならばそれで善いという境地です。この生き方に人が感動し、それが他の誰かを変えていくことになるからです。

善い意味でのプレッシャーとは、重圧を避けることではなく重圧があるようなお役をいただけたことに感謝する心のことかもしれません。福に転じるには、そういうお役目役割が必ず誰かに交代されること、それまではしっかり自分が勤めようと謙虚に生きることなのかもしれません。

活かされるというのは、自分の役割と影響力を自覚することのように思います。

緊張とプレッシャーをミマモリングし、新たな成長を促していきたいと思います。

全自働

古来から日本には八百万の神々というものの思想がありました。

これはよく宗教で比較される一神教か多神教かというものではなく、万物円満、言い換えれば自然そのものの教えであろうと思います。

自然には、和魂という寛容と荒魂という厳格が調和しています。陰陽で表現されることもありますが、常にバランスを保ちながら全体のはたらきを渾然一体と持続していくものです。

そもそも一神教や多神教という考え方は、人間の都合によるものです。時には厳格、時には寛容というのが自然でありそのどちらかだけが自然であるということはありません。どちらか片一方に偏ればその反対側の方に次第に作用していく、それは円であるように転じ続けていくことでバランスを保つのでしょう。

私たちはだからこそ、荒ぶるものと和やかなるものを共に祈り自然の見守りを実感しつつそこに自分たちを合わせて循環の一部になって永遠と共にして生きていたように思います。

今の時代は、教えというものだけが実践と分離してしまったように思います。

本来の教えというものは、教典がない神道のように具体的に実践によって背中を通して学び伝承してきたもののように思います。それが文書を残し、実践をせずとも真理に達するかのように語られることで余計に人々の苦しみを増やしてしまっているようにも思うのです。

真の教えというものは、その人の生き方で示すものであり、それは実践する中で一つ一つ丹誠を籠めて取り組んでいくことのように思います。何でも簡単便利に、速く効率的になどといった誤った考え方が蔓延ってから教えもまた変化してしまったのかもしれません。

自然というものの教えは、必ず実践とセットで存在しています。

自然を学ぶということも同じく、実践を確実にしつつ自ずから働くことで得られるのかもしれません。人間が作意的に自分の思い通りに何かをしようとするよりも、すべてを自然にお任せしつつ全自働で居る事の方が教えの中にいるのかもしれません。

生き方や働き方という言い方の背景には、常に「実践」の尊さ、活きる歓びが存在します。

我欲に負けて教えに囚われないように、丁寧に一つ一つの実践を積み重ねていこうと思います。

協働のはたらき(チームワーク)

人間の持つ一人の力は大したことはないものです。
しかし一人一人の持つ力は偉大なものです。

人は自分くらいと自分のことを過小評価しているものです。自分のつながりや絆を感じないときは、糸が結ばれているという感覚よりも単体で生きているような錯覚をするものです。

宇宙をはじめ自然界は連綿と続いている糸が複雑怪奇に絡み合って存在しています。何度も何度も日々を繰り返し、ご縁を重ねることで次第に鎖が強く結びつくように絆も強固になっていきます。

自然界というのは、一つが滅びればすべてが滅ぶというようにあらゆるものは有機的に折り重なっているものです。例えば、山や木々の土壌が気枯れによって植物などが喪失したならば、川が消え、川が消えればその水が海に流れ着くこともなく、竟には海の生きものがすべていなくなってしまうのです。

このように循環というのは、万物が繋がって存在することの証明でありそれが完全に共に活かし合うからこそ万物が機能するのです。

人間も等しく、自分の存在が周囲の力になっているものです。自分ひとりくらいと思って自分の世界で閉じこもっていても先祖代々から今にいたるまで、また今から子々孫々まで、そしてその時代の仲間や友、関わる方々に大きな影響を与えているのです。

無理と無駄がない世界が自然ですが、それが何をもってそういうかといえばそれぞれが真摯に努力して生きている世界のことです。

西洋では労働という言葉の定義がかつての日本とは異なったようです。日本では働くというのは神様と一体の「はたらき」のことであり、西洋では作業のように捉えているようです。もちろん全ての人がそうとは言いませんが、業務や作業で切り分けて仕事を割り振るやり方をやってきたのだからそうなってしまうのです。

本来は宗教だの仕事だの生活だのと、自然を分解しそれを人間の都合で分けたところからズレてきたのかもしれません。自然は一切分かれることなく、万物は一体で仕事も生活もすべては生き活かされているということの実感であり、働けば働くほどに誰かの御役に立っていることを実感する素晴らしい「はたらき」を知ることになるのです。

共に生きることで人は安心するものです。そして共に生きようとすることで共に生きる者たちの勇気になりその共に生きるものたちとつながっていくのです。

発展というものは、そういう自然造化の法に従って、繁栄していくということをいうのでしょう。それを呼び込むのは、無駄がないということです。自然には一切の無駄がないからですが、これは私たちはどう考えればいいかといえば「一切を無駄にしない」ということです。

つまりは大切な「いのち」を無駄にしなかったからこそ、祖神達は一生懸命に与えられた自分の「いのち」を生き切ってきたのです。自分を生き切りは自分らしくあるがままを貫いたのです。

そしてせっかくいただいたこの「いのち」を誰かのために使い切ろう、周囲の皆様のために生かし切ろうと自他を大切に活かしてきたのです。

活かされているからこそ活かしたいと願う中にこそ、協働の「はたらき」が活きています。皆で一生懸命に真摯に遣り切ることが真のチームワーク(協働のはたらき)を産み出すのでしょう。

クルーの御蔭でまた新境地に出会いました、感謝と共に自然循環を楽しみたいと思います。

生命の価値のまま

人間は他を認めるということで共生するということを本能で自覚している生きものです。

自然界では、他を排斥するのではなく他の存在を認めることからそのものが自分とどのように関連するのか、そして繋がっているのかを確認しています。

例えば、植物から虫、動物にいたるまで自分との関係がどうなっているのかを自然に悟り自明するのです。あるものは食べ、あるものは食べられと交互に役割を交代しながらもそれぞれのいのちを全うしていくのです。

自然の中に生きているときは、文字通り生き残ることに必死ですから自ずからそれぞれが活きることを行えるのです。生きるというのは、活かされるということですから自然はその循環の中に住んでいるのです。

しかし人間は、今のように生きることが保障された中にいると本来の循環を忘れてしまうものです。何をもって認められているのかなども、分からなくなってしまうのかもしれません。競争して一番になることが認められると思っていたり、頑張ってさえいれば認められると思い込んで無理をしている人が増えたようにも思います。

本来の認めるというのは、その人の存在価値のことを言うように思います。

何かをしなければ認められるという意味ではなく、その人の存在そのものに価値があるという考え方です。これは、人が活かし合っている、一人では生きてはいない、一緒に生きているということを直観するからこそそう感じることができるのではないかと私は思います。

今の世の中は、如何に利用価値があるか使用価値があるかで物事を判断していきます。それは物であっても、他人であっても、ビジネスであるからと割り切って付き合っています。しかし短期的に見ればそうかもしれませんが、長期的に観ればそれは複雑怪奇に繋がっているご縁の中で生き活かされた共生の中の仲間ということになるのです。

広く大きな目線で物事を見つめれば、存在そのものの価値の偉大さに気づけます。

自分が活きるのも、誰かを活かすのもどうしているのか、それは自然に活かされているのです。何かをしなくても活かされる、無為自然なのです。自然の中に生き活かされている私たちはいくら都市の中で人間社会を切り取っても、地球の中であり宇宙の一部であることに他ならないのです。

点が線になり面になって形になるように、また人生も同じくそういう連綿としたご縁の糸でつながっています。存在価値に気づけるように、刷り込みを取り除き、人を活かし自分を活かし、生命の価値のままにを全うしていきたいと思います。

寿命を伸ばす

私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。

そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。

例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。

今の時代は、何でも使い捨てようとします。

そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。

今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。

自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。

本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。

昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。

江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。

戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。

寿命とは、いのちのことです。

大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。

そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。

だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。

活かし合う人間社會

先日から江戸時代の生活を色々と調べていく中で、共通するものを感じました。

江戸はその時代はじめて世界で100万人以上が住んでいた都市です。その50パーセントは武家などの大名の家臣たちで、残り30パーセントが神社仏閣、そして残り20パーセントが町人や商人というような構成で成り立っていたそうです。

一年で特に正月から3か月で一日平均3回の火事に遭い、大火で全部消失することもあったのですら、長屋などもあまり豪華につくらず家具も持たないということで狭いところに簡単な作りの住居で生活したようです。

また親は子どものみんなの親、子どももみんなの子どもとして見守りあい、お年寄りや病人の介護も長屋や周囲の町の人達で交代で見守り、近所も家族同然にほとんどガラス張りの協働生活の中で助け合い、認め合い、分かち合い、義理や人情を優先して暮らしていたそうです。

人が他人を信頼するという仕組みを都市そのものが持っていたように思います。都市の中での善い暮らしがどういうものか、そういうものを究めていくと江戸のような文化が発展するのかもしれません。

そもそも都市とは何かといえば、人間が人間同士で創ろうとする理想の社會のことであろうと思います。自然の中にいけば、自然の中の社會ですから人間と自然の共生である天道地理の里山であったりします。

しかし人間が意図的に創造した家という社会の中では、人間同士の理想、そこに人間の調和がありますから義理人情の都市があります。

今の東京のように個々人が個別にお金を持ち個を尊重という名目で他人に干渉せずにバラバラに生活するのではなく、江戸では常にみんなの都市であることを尊重し個が義理と人情というつながりを優先し生活したのが分かります。

これには、自然観の中にある無駄なものは一切ないのだという思想から練り上がった社會だったからのように思います。西洋では、なければ侵略すればいいという発想があります。狩猟民族というのは、場所を変えては資源を探し求めて移動していく遊牧の民です。しかし農耕民族というのは場所から移動できませんから、その場所で如何に無駄のない生活をするかの智慧と工夫で様々な困難を乗り越えてきました。

私達の先祖は、自然と一体になって今いるところをフル活用して一切の無駄を生じない暮らしを目指してきたのです。そこにはお互いに人間同士においても全てを活かし、つながりを切らないように工夫して何かの時には常に助け合ったのです。

このために必要でいらないなら捨てるというゴミを出すという発想ではなく、何時か必要かもしれないから大事にする、そして修繕してより使いこもうとする「勿体ない」という発想だったのです。

少しでも長く都市を活かそうとしたならば、300年以上続いた江戸の文化や文明はとても参考になるように思います。人間は傲慢になってきて豊かになるとすぐに無駄なことばかりをしたくなります。しかしこの無駄というものを避ける中にこそ真の豊かさ、そして平和が潜んでいるように思います。

今の価値観の中に蔓延る「使い捨て」という考え方をやめなければ無駄はなくならないのかもしれません。

利潤を高めるというのは、如何に無駄のない生活をするか、言い換えれば全てを活かすかということなのでしょう。活かされている自分だからこそ活かそうとすることが謙虚のはじまりなのかもしれません。いのちは多いだけがいいのではなく、そのいのちの質が同時に高いことこそに価値があるのです。

今一度、家という考え方において会社という組織を見直していきたいと思います。