最善最良のパートナー

人は自分の持っているものをどれだけ他人に与えているかで物事の成否が変わってくるものです。例えば、いつも他人に求めているだけの人、もしくは持っているものを出し惜しみしている人では与えるという感覚よりも奪ったり減らないことばかりを考えている思考に陥ってしまうものです。

与えるということは、持っているということを認識する力です。

与えることができる人というのは、自分が何を持っているか、それが他人にどのように喜んでもらえるかを知っています。自分の笑顔や親切であったり、自分の信じる力や声掛けであったり、もしくは物理的な資金や料理や裁縫などであったり、歌であったり真心であったりと自分の中にあるものを探してきては少しでも与えようとします。

実はこの与えるということは、共生の原理でありよりよく生きる仕組みであろうと思います。活かされているというものに立脚してこの世の中を見渡せば、如何に自分を活かしていくかということが幸せにつながるのは自明の理です。

その中で奪うことを求める人と、与えることを求める人では、その生き方において人生の意味づけの成果がまったく違ってくるように思うからです。人生の通り方が同じだとしても、前者は、同じことが起きてもいつも貧しく、後者は同じことでもいつも豊かであるのです。

与えるということは、与えるのが好きだということです。そしてそれは最初から豊かなままであるということです。お金があるかないかではなく、その人が豊かであるということです、豊かであるから困らないだけでお金がないから困らないわけではないということです。もしも御互いに与え続ける関係ができればそれが最善最良のパートナーなのかもしれません。

与えるには、まず求めなければならないように思います。何を求めるかといえば例えば営業でも同じことですが、いつも自分が持っている最善最良のものを与えようとします。すると、それは自分の真心や誠意であったり、自分が探求して掴んだ真理であったり、その人の不安を解消するものであったり、悩みや苦難を取り除くものであったりと自分から相手のために与えられるものを持っていなければ与えられません。

そしてそこには物質的なものから精神的なものまで、どれだけ自分から与えられたかがその後のつながりに顕われてくるのです。営業で言えば与えてもいないのに奪い続けていたらジリ貧になってきます。その逆に与え続けていれば種を蒔き続けるのですから豊かに実ってくるのです。

何か与えたい、何か御役に立ちたいと強く願うこと、そして万人に感謝しその一人として自分を有用に使ってくださいと学び続けることでその機会もまた得られるように思います。

自分を世の中に役立てたいと真に願うならその人に仕事がないということはありません。逆に、自分はこんなに優秀なのにといつも不平不満をもっていたら人も仕事も集まってくることはありません。

自分の都合でこのくらいとか、過去のパターンでこの辺でという出し惜しみはすでに与える喜びから離れてきている証拠です。どんなことにも一生懸命、何事にも誠心誠意全力で、自分の最良最善でと願い続け継続実践することこそが好循環を呼び込むコツだと思います。

毎日を遣い切る、自分を出し切るということは、言い換えれば毎日真剣に与え続けたということになります。

あの自然の草花に見習い、誰が見ていようが見まいが最善最良を出し切っていきたいと思います。

職域を超える意味~役割分担~

昨日、見守る保育職域セミナーが東京で開催されました。

全国各地からそれぞれの職種、保育者や栄養士、調理師や看護師という人たちが一堂に集まり同じ理念で語り合う会です。

もともと私たちは自分の立場から物事を考える刷り込みをもっています。

例えば、会社であれば営業は営業目線、経理は経理目線というようにそれぞれの目線といった価値基準で正しい正しくないと判断しがちです。

しかしこれらの判断が正しいと思い込んでいたら、御互いに議論してもいつも平行線となり本質的に協力して一つのことを実現していくことが難しくなります。特にチームで何かをやろうとすれば、自分の立場を超えてそれぞれの役割を活かし合う関係が必要になるからです。

職種や立場というものは、部分で切り分けられたところに存在する領域のことです。それは部分では正しいことであったとしても、全体で観れば本当に正しいかどうかわからないものです。分かりやすい例は、諫早干拓などもそうですが農業と漁業で、農家を守るか漁師を守るかとそれぞれの立場を優先してせめぎ合ううちに森も海も死んでしまい職業が成り立たなくなることに似ています。

御互いの言い分を通そうとすれば、部分での正論が立ちますが全体では何が最適であるのかがその途端に観えなくなるからです。常に全体に対して何が最善か最適かを語り合うことで、御互いの固定概念や価値観、刷り込みを超えて協力できるようになるのです。

同じ理念を持つということは、自分の価値観よりも優先するものがあるということです。

自分が所属するその場をみんなでどのようにしていきたいか、自分たちが本当に目指す理想や理念のために自分をどう変化させて近づいていくか、そこに職域を超える理由があるように思います。

人は立場で役割を分けるのではなく、本来は目的や理念のために役割があるということでしょう。

何がもっとも大切なことか、何のために働くのか、それが目的や理念を実践するということになるように思います。仕事とは、作業分担ではなく役割分担であることを忘れてはいけません。

理念や理想を握り合うことで御互いの立場への思いやりも、そして楽しみや有難さも実感できるように思います。まずは私たちの会社がモデルとして実践していきたいと思います。

オープンマインド

オープンマインドという言葉があります。

これは心を開くという意味や、広い心でありのままを見せるという意味もありますが四字熟語では虚心坦懐といって包み隠さず自分を見せる事で、相手に飛び込んでいく力であったり、開心見誠といって自分を偽らず、虚勢を張らず、素直な気持ちで教えを受けて仕事に活かす力であるといいます。

よくオープンマインドと言われる人は、自然体で自分らしい姿があるから人によく可愛がられるものです。自分を理解してもらうのに、ありのままの自分を見てもらうことで周囲がその人のことを理解し、そして自分から理解してもらいやすいようにするのです。

これを自己開示といって、自分から自分の価値観を開示することで周囲に色々な価値観があっていいという広い心を示すようにも思います。

よくチーム力の中に、チームワークを乱すのは心を閉じることだと言われます。クローズマインドです。言い換えれば、この人は、またこの人たちは自分とは違うと決めつけて分けてしまう差別心や固定概念のことです。

そもそも人は異なるのは当たり前ですが、それを丸ごと受け容れているのか差別するのかでは意味が違ってきます。違いを認め合えるというのは、自分を含めあるがままの価値観を広く受け容れるということができているということです。

誰かと何かを共にする場合、違っていてもいいと思えるのはそれぞれの人がそれぞれの個性と価値観があってもいいと認めることからはじまるのです。そこから共通している価値観を探したり、自分の価値観が相手に影響していることを自覚しつながりを共有する歓びを実感するのです。

そしてそれは、相手に求めず自らが自分というものを開示するということであろうと思います。

そうやって自己開示をする人は人に可愛がられます。それは、自分から心を開くことで周りが安心するからです。チームワークには「安心」は何よりも欠かせないキーワードですから、心を開く人がいることでチームの潤滑油になっていきますから周りもその人を重宝していくのでしょう。

これはどの仕事でも必須の能力であり、自分から相手に心を開くことではじめて相手も自分に心を開いてくれるのですから自分を頑なに保持していたらいつまでも相手は自分を認めてはくれないのです。

オープンマインドの本質は、「心は開くためにある」という意味です。

心がなければ別に開く必要もなく、自分の固定概念や価値観を優先して周りを気にせずに好き勝手していればいいのでしょう。それではいつまでも自分の殻の中で閉じこもってしまうことになります。

だからこそ心があるのです。

心とはそのもの自体が世界へと目を見開いている状態であり、現実的に世界に出ようが出まいが、心が開かなければ本当に世界に出たわけではないのです。私も若いころの経験に、自分に見えている世界だけがこの世界だと勘違いしたことがありましたが、世界は心を開いた時にだけ無限に広がっていくのです。裏腹に自分を良く見せようとすればするほどに、それだけ世界が退行し閉じていくのを覚えています。

心を遣うというのは、他人に心を開くということです。心を開いていないで他人に接してもそれでは心を遣っていることにはならないからです。そしてそれは言い換えれば温かい家族のような関わりを拡げていくことのようにも私は思います。心を開いていれば、自然に心が通じ合って共に思いやり分かち合うという素晴らしい関係が築けるように思います。

今は頭でっかちに理性ばかりを偏り発達させている社会ですが、人間として心を遣うことを発展させていくことが幸せの道しるべなのかもしれません。

いつも自分から心を開いて、周囲と接するのは傷つくこともあるかもしれませんが心を育てていけるように実践をしていきたいと思います。

 

父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

玄の原理

昨日、玄米講習を行い伊賀焼の土鍋を使って玄米を炊きその原理を説明しました、

そもそも玄米というものは、食の主であり、私達日本人がもっとも長い間共に暮らしてきた大切な仲間です。玄米のお米は種のことであり、その種を持ちその種を活かし、その種の廻りと共に歩むのです。

もともと年齢と書く「齢」という字も、お米の字が入っているように私たちは一年をお米の廻りで時を刻むように暮らしてきたのです。その食の主、つまりは主食を玄米にすることは私たちの風土に合った食事に食い改めることで生き方もまた日本人の心に回帰していけるように思います。

そして種というものは一見、固まってじっとしているので芽が出た植物などと違って死んでいるかのように錯覚する人もいますが種はいのちがびっしり詰まっているものです。ここから造化の根源力を発揮して種の何十倍、何百倍も成長していくいのちの原点が入っています。

その原点を食べるということは、細胞一つ一つに至るまであらゆるいのちを活性化する効果があるように思います。もちろん科学的にも、フィチンが多いとかビタミンBが大量だとか、ギャバとか食物繊維がびっしりとか色々と数値化されますが、玄米には数値化されない価値が存在しているのです。

そもそも人間が数値化ということをしてから、本来のいのちや全体を捉える感性というものが衰えたともいえます。数値化できないものを読むのが空気であり、五感や六感という感覚であったり、人間本来が持つ本能の力なのです。

玄米信仰などと他人に言われるように思われても、実際に病気の時や日頃の不摂生の時に食べたら回復に効果があるのは一食瞭然ですから玄米の価値は数値や言葉にし難いのでしょう。それに玄米を食べると運が善くなると言われますが、御米の種を食す暮らしが日本人本来の天地自然農合一、つまり一物全体になることで無駄を一切発生させないということや、捨てるところがないというところにも循環に沿っているということと関係するのだと思います。

地球の循環を邪魔しない生き方というものは、自然の天理に従っていますから次第に運も循環ですからそれに則るのです。

しかしこの玄米が嫌いになってしまうという理由もあります。それは料理法です。一般的な電子調理器やガスを使っての鉄器の道具ではあまり美味しく感じないのです。それは例えば、焼き魚を焼く際に、電子レンジとガスと炭火で焼くのでは味が異なるのと同じで自然のものは自然の調理で行う方が私たちの細胞は美味しく感じるのです。

理由はいのちをいのちのままに食べることにつながっているのです。玄米の場合は、土鍋で炊くことでいのちを伸ばします。土鍋には、自然の原理である水の浸透や熱の伝導といった土が持つ自然の受容力が働きます。

この土の働きによって火と水で炊けば、地球の原理(土中のマグマや水中のいのち)を融合しますから玄米の種をそのままに優しく包むように調理することができるのです。

そうやって調理された玄米は、とても美味しく食べたものがそのまま人間の身体に負担をあまりかけずに吸収することができるのだと私は思います。

基本を何に据えるかというのはとても大切なことで、当たり前というものに気づいてそれを改善するかどうかが生き方につながっていると私は信じています。玄米というものを用いて様々なことを見直すのは、自然か不自然かを観る眼を育てていくと思います。

引き続き、自然が何か、本物が何かということを学び直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

勇気

人は何かに取り組む際に、自信があるとかないとかを基準にすることがあります。

しかし実際は、自信があったら何でもできるわけではなく、自信がないから決してできないというわけではありません。これは自信というものは、物事の見方や捉え方に関することであり前例があることは自信があり前例がないことは自信がないということがほとんどだからです。

では自信があるないに関わらず、何をもって取り組んでいけばいいかと言えば勇気を出すことのように思います。そして勇気とは覚悟を決めることなのです。覚悟とは勇気を引き出すために行われる自己との約束とも言えるものです。

勇気というものを辞書で調べると、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」と表現されています。つまりは心の力のことであり、心が強いということです。よく私も気合で乗り切るようなことが多いのですが、これらの気合や真心が勇気を発動していくように思います。

この勇気というものは人生に多大な影響を与えるように思います。特に頭で考える人は自信があるないから入りますが、心の鍛錬を行う人たちは勇気を出すか出さないかという選択に変わっているように思います。

アメリカの作家で、アンブロウズ・レッドムーンにこういう言葉が紹介されています。「勇気とは恐れを知らないことではない。恐怖よりも大切なものがあるという。決断のことである。」

恐怖よりも大切なものがある、これは仕事で言えばお客様であり、家族でいえば子どもであったり、会社でいえば社員だったりと、守りたいもののために自分を盡そう、自分を捧げていこうといった、今の自分の固定概念が壊れる怖さよりも、それを崩してでも大切なものがあるのだからと念じて出てくるのが勇気だということです。

人は自分自身がまず一番大切なのでしょうが、もしも自分と同じくらい大切な存在に気づけば勇気も愛も自覚していくように思います。自暴自棄などというものも、大切なもののために勇気を出せなかったから自己嫌悪でそうなってしまうことが多いように思います。それが続くから自信がまたなくなってしまうのです。

またどれだけこの「勇気」というものが人生において大切かというのは偉大な先人たちがその生きざまや言霊で遺してくださっています。

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」(松下幸之助より)

「勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。」(本田宗一郎より)

畢竟、最初は誰だって怖いしできないと思うものですが勇気を出して取り組んでいればいつの日か揺るがない自信になっていくのでしょう。大切なもののために生きているからこそ、人はそれに相応しいほどの自分が次第に出来上がっていくというのが役割と責任の享受になるのでしょう。

自分を自分で育てるには、自分により大きな責任を課して大切なもののために実践するということを継続していくことのように思います。

この勇気とは、私たちが元々持っている本能であり、人間として自然の中で生きてきた素晴らしい徳恵であることを感じずにはおれません。勇気を出すのは誰が出すのかが問題ではありません、誰でも勇気ある決断をしたときから世界が変わっていくということなのでしょう。

最後にピータードラッガーの名言で気合を入れ直したいと思います。

「成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。」

自分自身の変化を恐れないのは自分自身から出る勇気です。大切なもののために自分の使命を果たそうとする風土を自らの実践により醸成していきたいと思います。

 

固定概念を崩す

人間には固定概念というものがあります。これは「きっとこうなのだろう」と常識をその人が思い込んでいることのことです。

例えば、大勢の人たちが話すことを人は無条件で信じるものです。他にも知識が長けている人の話を聞くときも信じますし、目に見える世界がそうなっているのならそれをそのまま鵜呑みに信じています。

そうやって自分の中で常識として定着してしまうのを固定概念というように思います。そして賢くなってくればくるほどに、こうでなければならないとか、こんなの無理だとか、できるはずがないといった自分の中に壁を設けてはそこがハードルになって変革することができなくなるのです。

しかしこの固定概念というものは曲者で、その人の信じる質量でその内容も決まってしまいます。エジソンなどの発明家のように、最初から不可能を可能とし挑戦と努力を継続し、信じることを諦めない人の持っている固定概念と、最初から何もしないでできないと思い込んでいる人の固定概念ではその内容も意義も変わっているからです。

どのような固定概念を持つか、それをセルフイメージと英語では言うのかもしれませんが自分の中の常識が一体どうなっているのかを確かめるということです。そうしてその固定概念を刷新できたときにこそ自ら希望を産み出すことができるのです。

そして人はこの希望を持つとき、この常識が崩れ始めます。

つまり「常識」が崩れ続けるとき、それを人間は「希望」といい、その希望が得られたことを「奇跡」と呼びます。この奇跡といったミラクルとは、常識が異なるものを発明したり自明したり、そして実現するときに実感するものです。

そして奇跡とは、その人の常識を刷新するほどの信念を持ち、その信念を曲げずに諦めなかったことで希望が手に入り、その希望が継続していく中でいつの日か結果が顕われ伝説となり伝道されるのです。

誰しもが不可能と思うことに挑戦するのは、いつまでもその希望を捨てないからです。

昨年からの問いがようやくここで開花してきています。自分の常識を壊し続けられるように、バカになってムリをせず野生のままに歩んでいこうと思います。 自分の使命は、どうも其処彼方にあるようです。

本物の実力~リーダーの育成~(常本番の定理)

人は何によって成長するのかを考えるとき、それは具体的な仕事によって成長するということが分かります。学校のようにいくら受講形式で学んだとしても、それが具体的な成長になるかといえばなりません。

例えば、海で泳げるようになるには教科書を読んでも泳げる人の話をただ聞いても泳げないのは水に慣れないからです。そして自分で実際に泳いでみたことがないからです。そしてもしもプロのように上手に泳げるようになるには目的が必要になります。それが仕事としてレスキューするとか、スキューバをするとか本番実践の現場で成長し上達するのです。

これは「人を育成するもっとも役に立つ教育の道具は、仕事である」というドラッガーの言葉を忘れてはならないということです。

ドラッガーは、マネジメントといった実力を備えるためには「経験が必要」であり、「実践の場」で、しかも、「マネジメント力が必要とされる立場での経験」が必要だと論破します。

そのような立場が与えられていないのでは実力は備わることはなく、挑戦的で大きな責任と権限が伴う仕事こそがその人を真に成長させるのだと見抜いています。今の社会では責任を持たずに仕事をすることで仕事になっているところがあります。

それでは責任のない形式的な作業になり全体の問題や課題を解決するものにはなりません。しかしその人が本質的な仕事を身に着けるには自らで問題や課題を解決するために全責任を果たすようなリーダーとしての仕事になっている必要があるのです。そしてそこではじめてその人物は本物として成長して確固たる真の実力を備えていくのでしょう。

ドラッガーの言う本来の学習とは、会議室や教室の中で受講する形式で行われるようなものではなく必ずアプライ(実践への適用)によってのみ可能であると言い切ります。これは今までの学び方を刷り込みを指摘するものであり、マネジメント力をつけさせるのに単に上司の講義や過去のケーススタディーで終わってしまい、実践への適用がなされなければ決して本物の力はつかないということなのでしょう。

このブログでも、ブログで読んだだけでは学べず読んだことを実際の現場で試すことではじめて本質がものになっていくという具合なのでしょう。真に学びが多い人はそれだけ多くの現場を持っているということです。

現場に出る大切さや現場そのものがなぜ大切で必要かと言えば、その本番の場数を体験しなければ決して人は本物として成長しないということを自覚自明するからです。自分の今までを思い返しても、今あるプロフェッショナルの仕事はすべて現場で身に着けた智慧だからです。

学んだことをすべて現場で試す、現場でぶつける、現場で検証する、現場後に改善する、全てが現場実践、つまりは本来の仕事とはすべて「勉強のための勉強」ではなく、社会で活用し有効となるために「本番のための本番」でなければならないということです。

いくら勉強ばかりしたとしても本番で善い仕事ができなければそれは決して実力が備わった一流のリーダーになったとはいえません。一流のリーダーや人格を磨くというのは学んだことを現場で活かすために学ぶのです。

それは言い換えれば、現場で学び、現場で育つ、そして具体的に自分の強みを活かし、自他を活かし、会社を活かし、社会を活かし、世界を活かすという自らリーダーとして自立するということを意味しているように私は思います。

現場とは本番だという定義を持ち、本番こそが人を育てるということを確信することでしょう。
私自身も刷り込みによって、教え方を間違えてしまうことが多々あります。
常に成長とは何か、リーダーとは何か、強みとは何かを忘れないようにしたいと思います。

人材育成はリーダー育成であることを肝に銘じて精進していきたいと思います。

 

リバース

昨日、リバース研修を社内で実施した中で改めて発見がありました。

初心というものは伝承することであるということをいつかブログで書いたと思いますが、そもそも初心というものはいつも何度でも見直す中で甦生して活き活きと新鮮さを維持していくものです。

新しくなるというのは、古くならないということであり、神道ではそれを「常若」という言い方をしますがこれを続けていくことで当初の思いや心、そして願いや信念などを大切に思い出し続けていきましょうという意味であろうと思います。

人間というものは、心のままであった神代と違って今はほとんどのことが知識が増え頭で計算することができるようになりました。この計算というものは、現実のものを計る「物差し」ではありますがそのために真心や誠実さというものよりもどうしても自分中心に考えてしまうようになったのかもしれません。

これは日々の業務でもそうですが、頭で計算しているうちに本来は何のためだったのかということも次第に意識から薄れていくのかもしれません。そうしていると心が入りにくくなりますからそうならないようにと何度も自分自身の心で決めたままでいようと精進していくことが初心を忘れないということをより強く意識していかなければならないように思います。

これらの初心というものは、何度も何度も繰り返すことで甦ってくるように思います。これは人類の進化や歴史でも垣間見れるように何度も人間は同じ過ちを繰り返しそのつどに大切なことに気づきます。そしてまた時間の経過とともに忘れます、それを忘れないように何度も何度も伝承を怠らないようにして思い出すことでそれがないようにと伝承していくのです。

これらの伝承というものは、心の伝承のことを言います。

心に刻んだことを忘れない、言い換えれば時の流れに流されないように時を刻んでいこうとする今までの御恩に報いる生き方のことであろうと思うのです。

変化というものは、人間が人間都合が生まれてから発生した言葉なのかもしれません。人間が自分の都合を優先するからこそ、本来の自然の流れ、本質から外れしまうのです。そういう環境の中で自然から離れて人間社会というものを形成したからこそ変化し続けなくてはならなくなったように思うのです。

変化を已まないということは、自分都合を極力排除していくことのことかもしれません。そうやって理念や信念を立てたらそれに沿って何度も何度も省みることではじめて自分らしい人生、本来の社會の役割を果たしていけるのように私は思います。

伝承していくというのは、自分の生き方や生き様が子孫へ残っていくということです。自分くらいはとか自分だけはということを言ってはその影響力の大きさを忘れてしまえばそれが最も変化から外れてしまうのかもしれません。

人生の全責任を持つということや、自分の世界や子孫へ与える影響力を知ることが変化になるということのようにも思います。本来の自分を取り戻すためにも、初心を伝承し続けられるよう精進していきたいと思います。