人情

先日、ある長屋のイベントにご縁がありその意味を深める機会がありました。

最近はシェアオフィスとかシェアルームとか、繋がりや絆を深める共同生活を中心にしたコミュニティが人気が出ているようで市場でもビジネスチャンスと捉えている人たちがいるようです。

震災以降、もう一度システマチックな環境ではなく複雑に人と人が絡み合いつながりあった関係から環境をつくり絆から復興をはじめようと様々な取り組みが新しくはじまってカタチになってきています。私にとっては複雑な関係というよりもシンプルな人と人との本来のシンプルな共同生活に回帰しようといった流れがでているのだと思います。

もともと長屋というのは箱もののことを言うのではなく、そこには女将を中心に様々な人たちが集まった生活コミュニティのことをいうのだと思います。オープンな関係の中でお互いの人情が行き交う社会生活空間ともいうのでしょうか。

これはお互いに人情が溢れおせっかいで優しい人間味のある人たちが寝食を共にしつつ、共にお互いの人生について絡み合って共に生き、助け合い見守りあうという共同体のことをいうように思います。

もともと人がいろいろと集まって話をすれば、同じような課題、同じような困難、同じような感動、同じような人生の起伏を共有するものに気づけるように思います。その中で、解決しないことを互いに井戸端で語り合ったり、時折は落ち込んでいる人をみたら話しかけて一緒に涙したり、嬉しいことがあっていたら共にお酒を酌み交わしたりといった共同生活の場で生きるということを楽しんだように思うのです。世話好きなのも人情からでそういうおせっかいこそに意気を感じて互いに温かな様子を分かち合ったのでしょう。

そしてその長屋の女将というものはその中でも一番人情味があり、何でもついほおっておけないほどの温かみのあったものではなかったかと思います。もちろん、全部がそうではなく家賃収入で生業をたてているのだから色々とあったでしょうが、皆が楽しく暮らしていけるようにと願い環境を用意し自らも共に生活を潤していたのがその役目だったのではないかとも思うのです。

今の時代は、公私をわけて自分のことは他人には言わずあくまでシステマチックに割り切り、人情は要らないし気も合わなくても仕事なのだからと色々なことを隠そうとしてコミュニティを避けようとしている人も増えています。人生にとってとても長い時間共にいる人たちとの関係が希薄だというのはとても人情からみても寂しいものです。今ではメンドクサイからと自他にとってあまり影響のない表面上だけの話であったり、もしくは自分の都合でのみ自分を知ってくれればいいと関係がクローズしている事の方が多いように思います。

自分からオープンでいるというのは、人情を否定しない、人間味があっていいではないかといった互いの弱みも強みもさらけ出す人間同士の素直な関わりとつながりがあるということに他なりません。

そして人情だけではなく、そこに義理が必用なのはお互いの社会を維持するための礼儀がある。つまりは約束を守り信義を貫くといった共同生活の自立もあったようにも思います。

義理があって人情がある。
これは人間独特の素直で素晴らしい徳ではないかと思うのです。

今は無難に仕組みで波風を立てないようにとし何かと人情を否定されやすい時代ですが、もともと人はみんな義理人情をもっているのですからそれを引き出しやすい環境や状況を共同生活を通して体感していくことがオープンな社会の実現につながるように思います。そして安心して共に生き幸せにいられるのもそういう空間の配慮のように思うのです。

共同というのは、全ての共有、共生そのもののことでもあります。
そこに人情味のあることを善とする素直で粋な心意気があったということでしょう。

自らが皆ともっと共有していこうとすることが、長屋の本質なのかもしれませんね。
今度、江戸に残っている長屋を視察しつつまた人情についてまとめてみたいと思います。

自燃力の本質

自燃力ということについて自分なりに深めてみます。

もともと自燃というのは、自らが自らのいのちを自ずから発揮させていき代謝することです。
つまりは自分の力を使って何かを行うということに他なりません。

それは自らの持って生まれてきたいのちや才能、そのアイデアや体験すべてを活かして世の中のために貢献するために行う力ということです。

そしてこの自燃というのは、いつも誰かに言われてから動いていたり自分が別にやりたいわけでもなく楽しいとも思わなくても動くのとは違います。人は自分がそれを他人から言われるからやるのか、もしくは自分の天命がどうなっているのかその天命に恥じないように日々に自分を遣い切って生きたいと思っているのかでその自分の活かし方が異なってくるように思います。

仕方がなくてもやるというのは、その人生の主体は外因によって遣りたくもないこと、思い通りにはならないことに対する不平や不満を抱くことになるのです。しかしよくよくじっくり観照してみると本当は自分の思い通りいかなくても自分が都合よくやりたいと思えなくもこれが何につながっているのか、そしてこれから何を自分が学んでいるのか、そしてこれはきっと自分の使命に直結していることを天が与えてくださっているのだと絶対受身になることで絶対主体といった自発的自己発揮、つまりは自燃をしていくことができるように思うのです。

私の言う自燃は発酵と同じ、そしてこの発酵の本質は自ら腐らないということです。ここでの腐るのはいつかは何かで燃えるだろうを期待して自分からいのちを今に使わず誰かに何かに期待するという生き方。どうせ燃えるなら自分から燃えたい、いのちを燃やしたいと自分から燃えるといった自燃ではないからということを言っています。

自燃というのは、自らそれをやろうとしているか、自らそれをやりたいか、自らそれを楽しんでいるか、この楽しむというのはどこか楽をしたいからやるのではなく、心底大変でも自分が楽しい方を選択し続けていく、そして全身全霊で打ち込み自分の可能性を広げお役に立てることを歓んでいくことに他なりません。

もちろん少しでも流されたり受け身になれば、なんでこんなに仕事が多いのだろうとか本当は自分がこういうことがしたくないとか言い訳をしたくなるものでしょうが実際は仕事が多いのはそれだけお役に立てるチャンスがある、そしてしたくないのはまだまだ行動をしていく余地があると苦しみになるものを楽しみに換えていくことで発酵を続けることができるのです。物は考え方と観方で決まるということならやはり情熱と熱意で自燃発酵させる方を選ぶかどうかが重要だと思うのです。

そして私から観れば正確には結果や成果というものは、その発酵した代謝物のことです。
いのちの活動の痕跡や軌跡、形跡のことです。

どのようにそのプロセスを楽しんだか、どのように腐らずにワクワクドキドキ取り組んだか、その代謝物として成果がぐんぐんと顕われていきます。それは発酵にだけによらず発達も等しく、そのものが一生懸命に生きて楽しんだ形跡には確かないのちの煌めきの光が残存するからです。

人間の幸せというものは、別に世間のいうような誰かの評価や豊富な財産、名誉などといったもので得られるとは思えません。そうではなく、本来の自分の持って生まれたその使命やいのちを存分に御役に立て燃え尽きたときに周囲にご苦労様といってもらえることのようにも思うのです。

何かの御役に立つというのは共生するということですが、それが活きる本質のように思います。自燃するということは、自分で生きるということ、自立するということは、自分で立つということ、こういう当たり前のことですがネガティブに捉えるの人も多いのですが本来はそうではなくどれも自然の姿であろうと思います。

教育や今の社会に刷り込まれている人たちがたくさんいるからこそ、自分たちの存在価値を感じています。自燃力を存分に発揮し、子ども達のためにしっかりとブクブクシュワシュワ発酵を楽しんでいきたいと思います。

自燃力

何かを変えようと思う時、自分で決めるという時にその側面として必用なものがあるように思います。

それは何かと言えば、情熱や熱意のように思います。

例えば、自分を願うものに変わりたいと人は誰しも思っています。変貌を遂げて、新しい自分になりたいと思う時には決心がいるのです。そしてその決心とは、そのために素直に反省をして自分がこれから改めて何かをやると決めることのように思います。

そしてその何かをやると決めただけでは動かず、大切なのはその決めたことにどれだけの情熱と熱意を注ぐのかということになるように思います。それはどんな小さなことだろうということでも同じく、早寝早起きであったり、掃除をすることであったり、決めた日課を行うことだったり、挨拶をすることでも、決めたとしたことにどれだけ全身全霊の情熱と熱意を毎回傾けたかということが大事なことになるのです。

継続や持続するということは、それだけ長い時間燃え続けているものを自分が維持している。つまりは決めたことを暖めて薪をくべ続けて燃やし続けているということをいうのです。いのちも同じく薪を暖めて完全燃焼することで澄み渡った灰になって燃え尽きることができるように思います。

炭で例えるならば、最初の火種に薪をくべどんどん炎が起きてくるまでは必死に精進しその後は火を絶やさないように常に注意深く気を配り燃やし続けるのに似ています。誰かから燃やされる火ではなく、自分で燃やす火こそが本来の自燃ということになります。

自然で生き残るには、自燃で生きることが肝要になるのです。

自燃力というのは、このように自ら情熱を注ぎ傾けその火を暖め燃やし灰になるまで絶やさない力のことをいいます。誰にせよ、その太陽のような情熱はいのちの中に備わっているように私は思います。

些細なことでも情熱を懸ければそれが偉大なことの実現になり自分を燃やしていくことができます。

出来事というのは、自分の思い通りになろうがなるまいが、天命に従って次々に事件は起こりますし起きてきます。それを誰かのせいにや外因によって消すようなことにせず、素直に受け容れて常に自分自らが燃えていく、否、自分自らが情熱と熱意を全力で懸けることで変化というものを興すように思います。

自己改革とは、情熱と熱意があってはじめて立て直せるように思います。

子ども達にも自然の中で自燃するということ、やりたいことを遣る時の力、遣り切る時の力、燃やして燃え尽きた時のいのちの達成感、そういうものを感じてもらうようにまず自らが自燃力を高めていこうと思います。

正食正活

昨日、無事に大豆の収穫を済ませ種どりと発酵食品をつくる準備をしています。

作物と一緒に生活をしていくことは、自分が自然との共生によって存在していることを理解し安堵でき自ずから感謝というものを実感することができます。

作物をつくらずして食べるということは、実は大きな勘違いを生み出しているのかもしれません。自分の手と足と体と心で、お米を育て麦を育て大豆を育て穀物を食べるということを選び今まで自然と共生してきたからこそ民族の中にある生き残るというシンプルなことを理解できるように思います。

穀物を選んだことで私たちは共生を選び、肉食を選んだことで征服を選ぶ、その歩んできた道のりの違いに本来の葛藤がまだ太古の昔から続いていることを実感します。きっとその昔、生き方を二分化して生きようとしたことがこの時代にもまた影を落としているように思います。

歴史を学び、歴史から何を教訓にして生きていくのか、どの時代にも求められる人道の叡智のように思います。

先日も生き残りというと結構重たい言葉だと言われましたが、もともと今のように裕福でなければ生き残るための戦略などというものは当たり前に考え抜いていたはずです。平和ボケというか、当たり前というのはマンネリ化するので何が当たり前でないかをよく見直すためにも当たり前でいないことを忘れないような生活をすることだと思います。

さて、昨日はその他にも漬物などを作りました。

大根を干し、白菜を天日干しし、その後は塩で漬けこむのです。すでに今朝から確認すると乳酸菌がブクブクシュワシュワと発酵をはじめています。この発酵というものは、もともと在ったものを御互いが活かしあいその代謝したものとして生まれる自然現象でそのものを陰陽中和し自然のものへ還元するのです。

偏ったものを中和していくというのは、御互いが違いを持つ関係がまるで一つになって新しい生命を生み出すようにまるで一円融合されるものに換わるのです。それぞれが活性化するというのは、この新しく融合する中和には必要不可欠です。

今年は幸運でこの発酵に出会った御蔭で色々な法理を学びこみ、五感も歓んでいます。

今では味が出るや味がある、味わい深いのはそこに確かな発酵、つまりは代謝した形跡があるからだと感じます。ひょっとすると、私たちはその軌跡や形跡を味わいそれを自分のものとして取りいれさらに体にも心にも魂にも還元しているのかもしれません。

食べるというのは、そもそもが中和のことだろうと今では確信します。

よく正食と言われますが、この正しいという意味にはそういうことがあるように思います。

生活をシンプルにすること、正活でシンプルに自分の天命を活かすこと、どれも身土不二につながることかもしれません。実践していく中で気づいたことは、子ども達のために活かし取りいれ自然を近くに運び続けたいと思います。

食の本質~素食~

今の食生活の中で特に言われる栄養について深める機会がありました。

一般的には、今の食生活には質素に素食をするということは栄養が足りないと思われる傾向があります。おかずが少なかったり、肉を食べなかったり、たくさんの野菜や果物を摂取していなければ健康を維持できないというように思われているのことが多いのです。

先日も病気の件で相談にのっているとき、「一汁一菜の生活が善い」と話をしていてもそれでは体に善くないからとすぐに栄養のあるものをたくさん食べる方がいいからと勘違いされるのです。

世の中には物の観方というものがあり、足りないものを探すのと足りているとして探すのと大きく二通りの考え方があるように思います。そして足りているものを理解するには、もともと人類が何を食べてきたのかから考え直すことで観えるように思います。足りているものを探すのは本質やシンプルさを追求していくといいのです。

私たちの先祖は穀物を中心に、その他は身近にある野草、たまに肉や魚を食べそれを常食できるように保存食にするために発酵させそれで生き延びてきました。その他、生活の知恵の中で適度な塩と自然界全体からいただく空気や水、その他の気を吸収しいのちを活かして世の中で活動していくのです。

これは動物も同じく、自分が生き残るのに必要なものを必要な分だけ食べることでもっとも元気で健康な姿を維持していくのです。そもそも自然界は、栄養があるかないかで食べ物を見分けて食べたりする必要がないのはもともとそこで食べていきられる環境の中で生活していたからのように思います。

今の時代のように他国のものを食べ、突如として環境が変化してしまう中に移動し、そこでの生活に順応できないので栄養という考え方になっているように思います。

しかし実際は、先日のドイツでもそうでしたが自国の長年食べていたものを食べるとすぐに元気を取戻し、心身が健康になっていくのを体感したものです。つまりは、私たちはもともと食べてきたものを食べるとき、それが一番自分に合っていると本能的にも感じているのです。

今の科学では実証できないものも食にはあろうと思います。

足したり引いたりするものではなく、シンプルな食事、本質的な食を考えていくことが本来の食養であるように私は思っています。今の時代は当たり前の食が何であったのか、そういうことも思い出すことがないくらい世の中は便利な食の中に身を置いています。

本来の自分を維持し、日本人として活躍していこうと志せば忘れてはいけない日本食というものがあるように思うのです。そしてそれは一汁一菜に観る、玄米食、つまり本物のお米を主軸にそして発酵食、その他は自然界丸ごとの旬の恵みのことだと私は定義します。

常にシンプルな生活をしていく歓びの中に身をおけるように、魂、心、体の素のままで実践していこうと思います。

 

ゴールイメージ~想念実現~

世の中で話が出ているゴールイメージについて私なりに考えてみます。

人は生きていく中でその場面場面に、ゴールイメージを思い浮かべます。そのゴールイメージが鮮明に明確である人はブレナイ人といわれて感情をいつも善いコンディションに保ち次々に自分を創りあげ現実を理想に近づけていくことができるようになります。

そのように成功体験の多い人というのは、その成功のイメージ、つまりはゴールのイメージを自分の心に明確に持っているともいえます。まるでドラマのラストシーンのように栄光に輝いている自分像、もしくはその場面を想像している人はそのシーンを場面場面でいつも体験することができるのです。

しかしこの逆でいつも失敗体験の多い人とは、その失敗のイメージ、つまりは良くも悪くもゴールに描いてしまうイメージを悪い方へと引き寄せてしまうのです。そのとき感情にもっていかれて、自らその悪い時のイメージそのものになるように体験してそれを何度も繰り返していくのです。

昔、バレーボールをしていたときによく試合中に流れが悪くなると「負けが入る」時がありました。これはどのスポーツでもいえることですが、ふと悪いイメージを持ってしまうのです。このパターンは負けてしまうと思うときに、次第にそのシーンが顕われてきて結局はその通りになってしまうというものです。それを払拭するために、負けが入りそうなときは成功イメージ、つまりは逆転して劇的勝利といったようなイメージを思い浮かべて感情を楽しい方へと向けたものです。そのために必死に練習したり、弱点を克服した自分を思い浮かべたり、今は違う自分たちだと皆にエールを送り念を合わせたりして乗り越えたものです。

つまりこういうとき、場面と感情というものは常にイメージとセットになっていて、自分がこうなりたいと思うことや皆でこうしたいという強いイメージがあることで其処に向かってはじめて「ゴールイメージ」が顕われていくのです。

感情というものは自分の心の描く姿とセットになっていて自分が嬉しいと思うこと楽しいと思うことのままに現実の世界に投影すればそのまま顕われ、逆もまた言えるのです。善いイメージを持てるかどうかで勝敗が決まるかなどとは簡単には信じないでしょうが冷静に観照するとほとんどがそうなっているのです。

ポジティブな考え方というのは、この善い方の感情でいるということに他なりません。最初からネガティブで悪い方ばかり、上手くいかない方ばなりを考えていると次第に感情も過去の失敗体験にアクセスしてそれを引き寄せてしまうからです。そしてそれはとても用意周到で自分でも気づかないうちにそうなるような仕事の進め方、自分の関わり方、全てが感情によって周りを悪い方へと導いていくのです。

そして自分を責めるというのも、その過去の感情を何度も引き寄せおびき寄せる行為に似ています。自分を責めれば責める程に、そのネガティブイメージを刷り直していくのです。そうやって自分を刷り込んでしまうと、同じようなシーンや似たシーンになると、すぐにその感情が出てきて自分から進んでそのシーンを起こすような態度を取るのです。

自分のイメージというものは、自分で描くしかなく、それをいつも強く持つというのがゴールイメージです。より具体的に鮮明に未来を思い描き、その目標やゴールに向かって自分自身が全身全霊でそこへと挑む戦いをするということ。誰かと比較してとか評価とかを気にせず、自分の決めたゴールイメージに専念する、それを全員が行うことで最幸の人生を掴み、最幸のチームを構成していくようにも思うのです。

チームの中で悪いイメージが起きそうなときこそ、善いゴールイメージを持つ人が成功イメージに挑むことで他のネガティブなメンバーを引き上げていくこともできるのがチームプレーの醍醐味と面白味でもあるのです。またネガティブな人は自分がネガティブな感情にならないような配慮や準備を怠らないことでいつも自分の感情を善転するようにケアしていくのが自己管理にもなります。

集団で高い理想を目指せば、そして夢を描けば、妥協点は決して低くはなりません。だからこそ、妥協している仲間がいたら腹が立つのは当たり前です。そうやって妥協点をみんなが下げずにゴールイメージを目指し個々全員が真摯にゴールイメージに挑戦し取り組むことで世界一やオンリーワンというものは築き上げていくのです。

なんでも無難や上手くいかせようと考えてしまうのはその人の個人の価値観、その自分の設定しているゴールイメージにこそ課題があるようにも思います。ゴールイメージとは、最幸の豊かさを味わうための目標設定、つまりは自分に「夢を持て」ということのように思います。

どんな風にしていきたいか、どうなりたいか、どこまでの高みを望むのか、その正対する個々の挑戦が自分をそして周囲をイキイキワクワクさせてくれるように思います。いつもネガティブな感情でまわりに迷惑をかけて足をひっぱらないようにすることがチームへの最大の配慮です。

配慮とは、そうやって自己観照し、自立することではじめてできるようになるように思います。
自らの人生をどれだけ絶対肯定するか、そして信じるか、自分の想念次第なのでしょう。

素直で爽やか、明朗にして謙虚、また元気溌剌として無邪気な子どものように前進していく。
想念も生き方、そして人生は歩み方、心を澄ませて穏やかであるのがいいのでしょう。
想念というものは、実は素直さの言い換えたものなのかもしれません。

見守りということ、見守るという指導、心得、その全てを学び方へと深めていこうと思います。

役割分担の意味

役割分担について思うことがあり、自分の考えをまとめてみます。まず私の思う役割分担は、分けてあるものではなく混ざり合っていてファジーなものです。つまりは全体としては調和するときにこそ役割が活きて一緒に取り組んでいるように思います。

つまり私の思う役割分担というものの本質は、何かを分けて行うことではなく皆で一緒に持ち合っているという意味でつかわれます。昔から代表的なことが、共同生活をしていく中で炊事、洗濯掃除から、育児や家事、仕事を含めて様々なことを役割分担して取り組んできたところを思い出します。

家では、自然に誰が何をすると言わなくてもそれぞれに共同生活を営む中で役割が分かれています。しかしこの役割は意図的に分かれていないことにもすぐに気づけます。それは役割とは業務を分けて自分と相手を分けて考えているのではなく、自然に何を誰がやるのかが分かりそれを手伝うことで渾然一体となっていくのです。

子どもの頃は、自分から手伝いたくないのに手伝えといわれると嫌々ながらやっていたものです。その頃はやりたくないことは手伝わないでいいようにしようと離れたり避けたりしていましたが、そうすると叱られ「嫌々しながらやると事故が起きるからやめなさい」とよく怒られたものです。嫌だから嫌々なのですが実際に、嫌々やっていると茶碗が割れたり何かを落として壊したり怪我をしたりと大変でした。そうして自暴自棄になり悔いても自分に返ってくるから学習して受身にならないように一度引くと下がり始まるから兎に角前へと攻めに転じていたものです。

させられるということはこういういうことで、やりたくないのにさせられるから楽しくないのです。させられていると思うのは何のためにやるのかを先に自分で考えようとしないときにおこります。言われたことをそのままにやっているのが手伝いになると次第に楽しくなくなるのです。

子どものときもなぜやらなければならないのかと不満で楽しくありませんでしたが何度も手伝っているうちにその意味やその大切さを実感してお手伝いをするということがどういうことかを学んだのです。特に親から頼られていると理解してきたのは自立してきてからで、感謝も通い合い、今では自ら頼られていると実感して自然に役割分担し手伝いをすることができます。頼り合う関係とはとても居心地がいいもので、そこに大きな安心感もあります。

きっと家の中でも自分が重要な立場であることを自覚し、それに両親が老いていきつつ自分が認められて頼られているという自己認識と実感がそれをできるようにしたのかもしれません。

そう考えると役割分担も刷り込まれているものがあるように思います。

元々は自分の役割があるということはこれは大変な名誉で誇らしいことでもあります。

自分の能力が他の人のためになる、これは人類が今まで生き残った力であろうと思います。歴史からみても人がその能力がつまらないことのためにやるのか、社会の中で理念や志のためにやるのかで意味が変わります。それは例えば、 かの三国志の関羽や張飛が、無頼漢で力だけがありあまる山賊のようであったのが劉備と出会い、平和のために大義の実現のために立ち上がろうとしたときにその才能は天下国家のために開花したのと似ています。

自分の役割があるというのは、それ相応の理念の実現のために使われるとき役割に誇りを持つことができるのです。もしもその手伝いが、子どものためになると信じる時、もしもこの役割こそが理想の実現のために使われると信じる時人はどんな労苦も厭わないのです。同じプライドでも、なんで自分がこんなめにと思う不貞腐れたプライドにするのか、また自分を理想のために使えるとプライドに思うのではその働き方も変わって来るように思うのです。

自分が何のために辛苦を味わうのか、困難に立ち向かうのか、それはすべて理念があるからのように思います。目先をみるとすぐに理想を失うのは世の常ですが、そういう時こそ倦まず弛まず怠らずに精進していくことが役割を誇りのままに維持していくことのように思います。

なんだか目先で見ると理念からかけ離れた業務もありますが、そういう時こそそれも大切な「学び」、これが自分のプライドだとして自分の才能をより発揮し磨いていくように理念から離れないようにすることが正しい実践であろうと思います。

どんな些細な仕事の中にも精魂を込める、丁寧に行うという姿勢は常に自分の都合を優先しないで理念を優先するという学びの姿勢、素直な姿であろうとも思います。

つまり役割分担、渾然一体になるというのは、そういう志や心を合わせるのが先なのかもしれません。だからこそ何のためにやっているのか、常に考えることが役割分担のコツのように思います。何のためにを忘れると往々にして仕事に心が篭らず自分からプライドも粗末にしてしまうから自分我嫌々になってしまうのかもしれません。

これも日々に心を入れて身体を使い主体的に役割を思う、そして考えを掘り続けることで、はじめて深められ、そうしていつまでもその深めた場所に止まることができる信念を持てるようになるのだと思います。

自分を大切にしていくことが役割に気づき、分担を楽しむことなのだろうと思います。
自分を大切にするとはどういうことか、それは自分の覚悟を生きることであろうと思います。

チームが成長しその個々が成熟していかなければ共生のモデルになりません。
今を学び自分を大切にして、直向に素直に精進あるのみです。

絶対音感~音楽~

昨日は、保育環境研究所ギビングツリーのリーダー研修にて赤ちゃん学会のメンバーである志村洋子先生の講演を拝聴することができました。

先生は赤ちゃんと音楽を中心に研究をなさっていて、音楽というものが本来どういうものであるか、また赤ちゃんというものは本来どうであるかを様々な研究事例をもとにユーモアたっぷりでお話いただきました。

お話の中では見守る保育と共通するところ、また私の思う自然観とも類似していて貴重な学びをいただくことができました。歌の持つ力、音の持つ力、楽しむ力、その偉大な自然の力を再認識できる機会になりました。

その一部を紹介すると絶対音感の話というのがあります。

「世間のいう絶対音感とは、皆が分かる共通の音でドレミファソラシドがどのようなものかと認識することができる音のことをいいます。しかしこれは本来の絶対音感と呼ぶものではなく、あくまで相対音感でそれはみんなと同じ音でなければならない、みんなと同じでなくてはならない、そういう定義の音感になっている」とのことです。

つまり本来の絶対音感というものは「その人そのものが生来、もともと最初から備わって持っている音感というもので、それが歳とともに失われてしまえば聴力が低下しそもそものものがなくなってくる」という意味で使われていました。

これは子どもの時がもっとも持っていてその後に自分の必要のないものを削り取っていくという考え方と同じです。そしてこう続きます。

「音楽というのは音を楽しむものでそれを何かの合図にあわせて音をならせるようにしたり、何かの評価を誰かがしたりすれば、もともと持っているその人の感じていた音というのは失われてしまうとのことです。特に赤ちゃんから10歳くらいまでは絶対音感を持つけれど、そのうち次第にそれが失われていき、大人になるにつれ選択し聞き分けていくなかでもともと有った機能は次第に失われていくということ。つまりは赤ちゃんは白紙ではなく聞き分けないですべての音を拾うことができている、つまりはすべてを持っているのだ」ということを熱く伝えてくださいました。

このように子どもが何もできない存在であるというのは、大人になったら何かができて子どもは子どもだからできないという大人の一方的な刷り込みに縛られたものです。何ができてなにができていないのかの定義を逆転させなければ、本来人間というものは完全な存在で生まれてくるということにも気づくこともないのです。

また先生が警鐘を鳴らしているのは、「本人たちがその気にならないのに、無理にさせようとする音楽の指導があるということ。あんな音楽では楽しめない、突然なんの前触れもなく、相手のやる気も確かめずにさせようとする。あれでは音楽にはならないということ。無理に何かの音にあわせようとさせるから面白くない、もっと自由にさせていくことがいい、それがハーモニーの本質。こうでなければならないというものではなく思いっきり好きにやって善い、そうすると楽しくなる。こうでなければならないという、先入観、不自由さが何かを失わせる。」とありました。だから、赤ちゃんや子どもに先生が一方的に大声をあげて音楽を教えることがないようにとありました。

また先生と控室でお話したときに、「なぜ幼児期にあんなに音を楽しみ歌と親しみ踊りを好きだった子どもが大人になるにつれてそうではなくなっていくのか、それをなんとかしたい」。この義憤こそが今でも先生を研究発表に向かわせているとのことで子どもを思う気持ちにとても共感しました。

 私は人間は自分の興味がある好奇心があるものであれば不可能を可能にする力を持っていると信じています。赤ちゃんのときから、それを見守られれば人は必ずこの世で何かの使命を果たす立派な人になるように思います。

また音については赤ちゃんは静かな方がいいという話がありましたが私も同じ感覚で、昔からの音、つまりは自然の音というのは、私にとっては静寂の中にあるものです。静寂こそが私は音楽だと思ってもいます、あの心の中にある平静、最も澄み渡ったときに感じる無音、あの音にならない音にこそ不思議な力が潜んでいるように思います。

それに調和とは、それぞれが如何に自由になるか、自分らしく素直であるか、あるがままで自分を活かしてときにこそ楽しむという力を存分に発揮できるように思います。この楽しいというのは、自分のいのちが歓ぶことを言います。

これから学んだことをどう活かすのか、これは今後のテーマで抱き続けたいと思います。

有難うございました。

 

 

環境課題

今の時代のサイクルについて考える機会があった。

もともと今のように物が豊富になっていることで、大量生産大量消費、そして大量廃棄という価値観が横行しそこから様々な問題が起きています。

これは経済社会の全ての場所で言えることで、食でも物でもエネルギーでも、さらには人や環境までも大量に生産するものを維持し増やしていくことで経済が豊かになるという考え方のことです。

大量に生産することを目標にし、まず大量に生産してしまうと、それを何とか消費しなければならなくなります。大量に消費するためには、莫大な費用をかけて宣伝や仕組み作りが必要になり大量の経費もかかります。そしてそれが上手くいかなければ大量の廃棄が必要になるのです。

今のゴミ問題もそうですが、作りすぎるから捨てる必要があり、分度を定めて正しく生産していれば廃棄の問題というものはなくなるのです。明治以降から、グローバリゼーションの波が押し寄せ、とにかく溢れんばかりに物を作り出す方法を機械化し、システム化し、流通を加速させることでより便利にしましたがその反面、捨てることによる貧しさも同時に加速したのです。

捨てるということは、その役目を活かそうとする発想ではなく役に立たなくなれば要らないという発想です。役目を活かそうとする発想は、何か他の使い道がないか、何か他にも活かせる方法がないかと様々な創意工夫が思いやりから発生できます。

しかしそういうものも失われていけば次第に、もっと便利なもの、もっと真新しいもの、もっと効率がいいものというように自利があるものだけを優先してしまうようになります。

作りすぎているからと、余ったものは捨てる、その仕組みを維持するために各方面に無理を要求する、その結果として危険で不誠実なものでもいいというモラルが生まれる。このサイクルは、捨てるという発想からはじまっているシステムによるものだと私は思います。

もっと捨てないという発想、分度を定めて取り組むという人道の在り方を見直し社会が善くなるために何をすべきかということから取り組む時代にしていくことが子ども達の未来に自然を遺すことの一つのように思います。

日々の生活から刷り込みに気づき、様々な環境課題を一つずつ見直していこうと思います。

自立し直す

若杉友子さん「若杉ばあちゃん」の講演を拝聴する機会がありました。

お話の内容も大変共感することが多く、自給自足の生活や様々なライフワークを通じて学んできた実践からの智慧を語ってくださっていました。時折は過激なメッセージもありましたが、きっと義憤があり強い思いやりからであろうと思い日本には元気な優しいおばあちゃんも頑張ってくださっているのだと嬉しくもなりました。

子ども達のことを思い生活していく中でよく出てくるキーワードは覚悟です。

健康もそうですが、どんな健康法もテクニックでは治らずその本質はやはり自分でやるかどうかということに尽きると思います。本気で自分で健康を立て直すと決めなければならないということ。

つまりは、いくら減塩したとか、便利なサプリを飲んだとか、何かの方法論を試したとかいってもその元、つまりは自分が本気で周囲への安易な依存を断ち切り取り組まなければならないということを何度もお話してくださっていたように思います。

今の時代にどうすれば覚悟が決まるかといえば、周囲は簡単に甘いお菓子が買えるし、健康に関する情報はあふれかえっていますし、自分を甘やかし流されるもので満ちている世の中に存在していてつい無理だろうということばかりを思い全部を変えようとはしないのです。

ここだけ変えるとか、これだけやってみるとか、そういう変わり方では何も変わらないしそれがかえって悪くしていくのだといいます。

これは生き方のことを言っていて、まず生き方を変える決心をしたか、そのあとは何をしても大丈夫なのだということでしょうが人は生き方とかいうものよりもそれ以外の方法でとすぐに選択をしますがここが落とし穴だというのです。

自分で決める、自分で立つということは、生き方を直すこと、そしてそれが自立をし直すということ。正しく立つというのは、ここだけやればいいではなく覚悟を決めるということなのであろうと思います。これはコンサルティングの要諦でもあり、人生が変わるという本質でもあろうと思います。

誰かのせいにできるのも覚悟ではなくここで安易な方を優先するからで、本来は誰の生にもしない自分の生は自分で足りる、つまり自給自足の自立の本質にシンプルに回帰すれば全てのことは実現するというのです。

とても参考になり、どのことでも同じ在り方が勝敗を決するのだと実感しました。

病気で苦しんでいる人や、精神が病んでいる人、いつも悪循環で歪んでしまって悩んでいる人たちが世の中にはたくさんいますがそれを解決に導くにはまず自ずから実践していくしかないように思います。

まず自らが自立することの重要性を実践から子ども達へと還元していきたいと思います。