ドイツ研修6日目 六感曜日

ドイツ研修も6日目を迎えました。

昨日は、午後よりヴェルツブルグの町にある幼稚園と保育用品メーカーを視察しました。
夜からは、ヴェルツブルグの市内をガイドとともに散策してまわりました。

その後は、500年以上の歴史のある居酒屋でフェアウェルパーティを行いました。
一つの出逢いがあれば、一つの別れがあり、もう一つの再会があります。

扉はいつも開いたり閉じたりしていますが、その先にある未来を予感しています。

今回はふり返りをテーマに参加していましたが、不思議な体験もたくさんしました。心の故郷がどこにあるのかを自覚したり、国境も時空も飛び越えて思いを伝え合ったり、五感を使うことで日頃何気なく過ごしている日常が変わってしまうのです。ご縁を感じるのも、感謝を憶えるのも、そういうひとつひとつに心を使ったからのように思うのです。

ずっと心を使っていればむき出しの心は当然傷つくことになります。
しかしそれは身体の古傷と同じように必ず癒されるのです。

ドイツの陶冶プログラムの中で、「リジリエンシー」についての話を伺いました。これ逆境にあったとき立ち直ることのできる心の力のことで、船が傾いたときに自らで元 に戻れるような力のことです。

心を使うことをやっていくことでこの力は伸びていきます。しかし同時に、その心をつかうということは生身の人間ですから時には風雨にさらされ、時にはひなたぼっこしたりと、まるで海の姿のようにゆらゆらと揺れながら波が変化しているようなものです。

自然にしているということはどんなことか、それは自分が自然の一部であることを第六感でいつもいることです。自分が自然であるのだから自然現象は起きますし、その中で時には病んだり回復したりとしながら強く優しく生きていくことがいのちそのものであるからです。

今の時代は不自然の中に身をおくことで、心を頑なに閉ざして生きていこうとしたり、心が脆くくずれないようにと怖がり、自ら前に進もうとしなかったりと、元来の生命力を喪失してきているように思います。それを取り戻すということでしょうが、私はそれは決してその人だけの力でやることではないと思っています。

ではこの立ち直る力はいつ漲るのかを自明していくとそれは共感するときのように思います。家族や友人、仲間たち、同志、先生といった人達の励ましによって得られるからです。

どうやって心を回復していくのかは、それは心の支援によるものです。
心は、愛し愛され、思い思いやり、そういう共感によって偉大に支えられます。

自分が一人ではない、自分の周りにはたくさんの見守りがあると感じることだと思うのです。
いくら一人だけで踏ん張ろうとしても、それでは折れてしまいます。

自ら信じているから心をむき出しにしていられるのです、だからそれでも真心を使うのです。
つまりそういう天の真心のままに使えるものを私たちは「天使」とも言うのかもしれません。

この立ち直る力が何を意味するのか、それは世界は今、見守る力を求めているからのように私には思えます。今回のドイツの中で得た感覚は、時代が呼び覚ました「MIMAMORU 」への確信だったようにも思います。

傷つくことを恐れないで歩めるよう、好奇心、第6感を自ら育みそれを今を生きる人たちへと広げたいと思います。

助け合って生きていけるという安心感と、仲間といることの歓び、その自然の偉大な見守りたちの中で、心をより優しく強くして昇華する旅にしていくことが人生そのもののダイナミックな自然の在り様そのものだからです。

今は、これらの御土産を早くみんなに話したい、仲間と早く共有したいと心はワクワクと躍っています。

ドイツ研修4日目 触味曜日

ドイツ研修4日目を迎えました。

やはりここ数日間の寝不足のせいか、集中力の持続が難しくなっています。

眠くなるというのは、体力、気力、精神力などがありそのバランスが崩れてしまうことです、だから寝て回復調整します。当然、こちらで日本とは違う時間帯で体は動いているのだからどんなに工夫していても体力も落ちてしまいます。またいくら気力があったとしても情報量が多いとどうしても鈍りますし、時間が限られているのでやれることも少なくなると精神もやや疲れます。

これは別にそれが良いとか悪いとかではなく、もともとそういうものだと受け容れてこれで善いのだと転じて自然のままに感じることだと思います。自分の状態が分かっていることではじめて周囲の感触もより繊細につかめていくことができるからです。

これも旅の醍醐味ですから、歩みの感触を見守りつつ、皆とそれを楽しみながら日々の学び方も素直に工夫していこうと思います。

さて、昨日も園を視察していく中で共通したものに発見発掘がありました。

当たり前かもしれませんが、もともと子どもたちが安心しているところや子どもたちが見守られていると感じるのはそこに子どもがそのままでもいいと感じる環境が用意されているからです。もちろん、そこには共通して子どもがやりたいことが保障されたり、それを見守る側が自分も子どもと同じように楽しんでいるという状態が存在します。

もちろん保育の遊具や家具、その他の教材などはどこでも似たり寄ったりのものを使います。しかしよくよく観察すると、そこには大人が子どもに与えたと思われるものと、大人子どもがなく楽しんだ形跡の物が残っているのです。そこは余韻があるという感覚に近いものがありますが、楽しい場にはそこに一つのいのちが躍った温もりが残ります。

また装飾などはその時々に自らが響いた記憶に包まれるだけにとどまらず四季のめぐりにあわせていることも発見しました。

子どもも自然のいのちの存在と同じように自然を感じて自分のいのちのめぐりに触れています。自然を持ち帰りたくなるのは、そういうものを身体が感じて四季のめぐりの準備をするからかもしれません。つまりもともと人間も他のいのちと同様にが四季にそっているということです。

これは植物が自分から冬に備えて葉を落とすことに似ていて、全ての生きものは何もしなければ自分から元々あった力で取り組みはじめるのです。

今回持ち帰るのものの中に、「めぐりの装飾」がありますが自然のリズムやサイクル、そしていのちの躍動そのものに触れる機会を環境と共通させていこうと思います。

そしてドイツでもそうですが、まず自らが大人の目線、刷り込みのメガネを取り払って子どもという真の姿のままに物事を捉えることが保育の共通であるように感じました。

もちろんカタチになっているものを観て、どのような行動や気づきがあったのかは現場のことが分からない部分は埋められませんが、それでもよく観察することで内面より自明していくこともできます。

全体的に寝不足なのですが、帰って心に戻る時間も取れるし静かに思索にふける時間もありますからこれもドイツ研修の味わい深さかもしれません。

本日はミュンヘンでの最終視察日で明日からヴェルツブルグに向かいます。

夜の情報交換会もまとめの日、せっかく折り返しして冴えたのだからドイツの場や間、和の空気など自ずから触れ合い沁み込んでいこうと思います。

 

ドイツ研修3日目 味嗅曜日

ドイツ研修3日目を迎えました。

昨年の視察では観えなかったものをたくさん今回の研修で発見しています。

昨日は、こちらの教育局の方々が招待してくださった会食に御伴させていただくことになりました。まず藤森先生が、こういうご縁を大事にしながらはじめて続けられてる国際交流とドイツ研修であることを知り改めて頭が下がる思いがしました。当たり前に続けていますが、この当たり前に観えることこそ本当は大変難しいことがあることに気づくのです。

お互いの違いを越えて認め合うというのは、大前提としての決心や信念があってこそのように思います。日本でもドイツでも、変わらず自分の真心を貫く姿に周囲が支援してくださるのを感じます。今回はこの10年で取り組んでさまざまに実ってきたものを関係の中で味わうことができ、改めて存在というものの感謝を実感しました。

また会食での話ではドイツでの制度事情、少子化のこと、今の経済状況から昨年の構造改革の話までどれも日本での課題とよく似たことが発生していることに共感を覚えつつ、同時に違和感を感じていました。

以前、ブログでも書きましたがそもそも子どものためとは何かということはその人の持つ定義が異なれば同じ「子どものため」といっても意味はまったく異なります。例えば、少子化によって保育園をたくさん作ることも残業に対して預かりの時間を増やしていくこともそうだし、幼保一体化などもそうですが、どれも話を聴いていたらそれが本当に子どものためになるのだろうかと思えることも沢山あります。

子どものためというのなら、子どもの人格を丸ごと認めることからのように思います。これは見守る三省の中で、はっきりと理念が出ていますが何が子どものためかということなのです。

常に本質的に何を優先するかということになりますが、そこには変えてはならないものと変えなければならないものをその時代に嗅ぎ分けることができなければならないように思います。短絡的に、目先にある経済を追いかけていたら本当に大切なものまで見失ってしまうかもしれません。

日本、ドイツに関わらずこれは世界でも言えることですが子どものためとは何かという本質を出発点にして常に事物は議論する必要があると私は思います。

世界で議論をするには、自国でもそれを貫き実践しカタチにしていかなければなりません。GTをはじめ、自社の実践実行の尊さを改めて感じてその課題もまた持ち帰ろうと思います。

最後に、昨日は中庸についての話をお聴きすることもできました。

今の時代は、何かにつけて極端な議論ばかりが横行しています。何かにつけて話があるときは、良いか悪いか、やるかやらないか、できるかできないかなどとまずはすぐにどちらかに分けてから認識しようとします。

例えば苦しみの中に楽しみがあるというように本来は楽か苦かではなくそのものが渾然一体と混じりあった中庸にこそ本来の味わい深いものがあるように私は思います。

これは自然を味わっていくと分かれていない所に真の趣があることを憶えるのと似ています。もっと自然を観察するときのような審美眼や深い味を楽しむような上質な味覚を磨き、本来の姿、誰かに教えられる前のあるがままの姿、その心で出来事を考え抜いていく力を育てていく必要があるように思いました。

今のように情報が錯そうする時代は、何よりも自分の感覚を磨くことが重要なのかもしれません。ドイツにいても、日本にいても、大切なのは実践している中で本物の嗅ぎ分けるセンスが役に立つようです。

ドイツ研修2日目 観聴曜日

ドイツ研修の2日目を迎えました。

昨年参加した時とは異なり、ふり返りを中心に発見することでより身近な共通点や足許にある発見まで見通すことができます。

今年も昨年と同じく、視察を終了してミュンヘンの市内まで行きその場で降りて歩き方や電車の乗り方、買い物の仕方、場所などを藤森先生からレクチャーがありました。

思ってみれば、全てが研修であり研修と観光が分かれていないと思えばこれも見守るを理解するための大切なプロセスであると気づくのです。

老子の言葉に、「授人以魚 不如授人以漁」というものがあります。

これは「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味に訳されますが、答えを与える教育ではなく、そこに辿りつける方法へ導くというのが自立のプロセスには大切なことであろうとも思うのです。

私は特に一緒に学びをいただけるなかでそれを実感することが多かったように思います。だからいつまでも同行が楽しく、幸せを感じるのです。

信じるということからはじまっていれば、自立とはその人が自ら辿っていけるよう導くことがここでの教えるということになるものなのでしょう。

今回はふり返りを通してこのようなことも観えてきましたが、昨年まではそのような見え方はしませんでした。ふり返りというものは自分のことを見通せる大切な機会だと気づけます。自分の問題意識がどこにあるのかを知ることは、自分自身を知ることにつながるからです。

つまりは自分のものの見方がどうなっているのかを内省することこそふり返りです。
このフリータイムも、自分たちで協力して体験を通して学ぶ見守るの実践の一つです。

また、夜の情報交換会では使っている言葉についての話がありました。ドイツでの母国語の指導などの視察を通して如何に正しい言語を使っているかという話がありました。

その際、言葉を正しく使っていないことのたとえで2012年10月12日臥竜塾ブログにて紹介があったような話がありました。使っている言葉が本来の意味と異なっているということについて書かれていますが、参加者からもそれを直していこうとありましたが私はさらに考えてみました。

国語力というのは何なのかといえば、その国の言葉の力というようなものだとも私は思います。それはその国の言葉にしていくというのは、つまりはその国民の生き方そのものが言葉になるという意味です。

国語を正しく教えるというのは、大前提として教える側の生き方の影響を大きく受けるということになるのです。母国語もそうですが、本来は今のように言葉の解釈が歪んで教えられるようになるのは自分自身がその母国語に添った生き方ではないからです。

本来の古来の言葉は、その生き方を格言にしたりそのものが言葉に成り代わったともいえます。それを理解するには、言葉を単に暗記すればいいのではなくその本質通りに使っているか、つまりは本質のままに生き方を正しているのかということになるように思うのです。

国語力の低下というものは、国民力の低下とつながっているのはそもそもの言葉を発する側に問題があるわけです。自分を正すことで母国語を正そうとすることに気づける人たちがどれだけいるかわかりませんが、やはり自国の文化伝統、そして自分たちの生きざま、歴史などまず自分に立ち返って取り組もうとするのが本質であろうと思います。

同じものを聞いても、同じことが聴けるわけではありません。
もっと正しく聴くために、自分自身の聴く側の姿勢を振り返りたいと思います。

旅路

今年も藤森先生のドイツ研修のお手伝いをさせていただくことになり本日からミュンヘンへ行くことになりました。

昨年の有意義な学びを振り返りつつ、新しい学びがはじまっていることに旅のご縁を感じます。

旅というものは、もちろん何処へ往くのかという楽しみもありますが誰と往くのかというもう一つの大きな楽しみがあります。同じ旅でも人とのご縁次第では、また新たな発見もありそして成長があるからです。

どんな人と往くのかというのは私にとってはとても大切なことで、同じ学びをしたいと願った仲間との邂逅であるとも感じています。このドイツ研修の同窓会を通じて、私は旅というものが如何に人生そのものであるか、そして人生はこのように旅を確かめることで味わうのだとも感じることができました。

長年一緒にいたとしても、旅をしてはじめて分かり合う関係もあるように思います。
時が過ぎるのがあっという間だからこそ、人生の旅路というものは不思議に満ちています。

今年は昨年の旅の振り返りもできるという倍の歓びも感じています。
子どもたちのためにと行動する真心が、新たな学びを与えてくださる予感に満ちます。

前回の旅を振り返ることで、過ぎ去った時間をもう一度旅することもできるのです。

私の好きな松尾芭蕉の奥の細道の句にこうあります。

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」

日々に過ぎ去っていくときの流れにときめきながら、自分が旅人であることに邂逅します。また皆の代わりに往かせていただく有難い機会を感謝に換えて、ドイツ研修のレポートしていきたいと思います。

 

心命の気づき

仕事に取り組むときに、これは業務なのか、それとも役割なのかというものがあります。

言われたことを単にやることが仕事ということになると、その仕事は単なる業務になってしまいます。仕事は言われてから考えるという癖を持ってしまうと、そもそもその仕事は何なのかということも考えずに動けるようになってしまいます。

本来は、どの仕事もそうですが目的や使命があり発生しているものです。

例えば、お店の料理なども上の人から指示がきて作業とするのと、本来何のために料理をするのかではその工夫もそうですが智慧もそして真心も籠っていくのです。つい忙しいとか言い訳をしますが、忙しいからではなく、心を使わないと言っているだけで別に作業がいっぱいというわけではないのです。

つまり作業量のことよりも、心を今は使えないと言っているのですが本来は心を使えば逆に作業量は特に影響もないはずなのです。心と使わないというのは、いのちを使わないということでそうなるから無機質な感じがするのです。

これを例えると、作物でいえば結果だけを求めて肥料農薬で一気につくったものと、自然の中で真心で手間ひまかけて育ったものとの違いに似ています。

業務が増えた時は本来は一度、そこから離れて何のためにやるのかと見失った本質を考える機会にするのもいいし、急がない焦らない面倒なことから丁寧に行うとし離れそうな心を呼び戻すのも一つの方法論であろうと思います。

しかし実際は、仕事は常に役割という捉え方にすればいいように思います。

ちょっと極端からも知れませんが、私たちはそもそも大きな天からの使命を与えられています。つまりはお役目というものがあってこの世に生まれてきていると言います。かの教育者、森信三にも「人はこの世に生まれた瞬間、全員が天から封書をもらって生まれてくる。その封書を開いたら、あなたはこういう生き方をしなさいと書いてある。しかし、せっかく天からもらった封書を一回も開かないまま死んでいく人が多い。」とあるように、その役割に気づけるかどうかというのは大変重要であるのです。

一度しかない人生を自分の人生を大切なお役目を果たそうとして生きるのか、そうでないのかは自己実現という人生の大義に関係してくるものです。

つまり生き方として、生まれてきた以上お役目を果たしたい、みんなのためにも自分を活かしたい、貢献していくことで役割を担いたいと思えば、すべての出来事は「している」ではなく「させていただく」ということに転換されるのです。

自分がさせていただけるのならとしていく生き方は、みんなから頼まれ任され信じられる方を優先した方になります。そしてみんなからの頼まれごとをちゃんと丁寧に誠を尽くしてやっていけば次第に自分が活かせる本当の場所に出逢うようにも思うのです。

自分がどうしていいか分からないのであればなおさら、頼まれごとを引き受けていくこと、もしくは役割を貰うこと、自分がさせてもらえることに歓びを感じる方へと自分を運ぶようにしていくことがその封書の内容に気づけるように思うのです。

自分が何を求めているのか、そして何を求められているのか、常にその前に天を戴くことが大切であるように思います。自分のご縁を辿りながら、どのようなことをさせていただけるのか、思えば思うほどに有難いことだと実感します。

子ども達のためにも、まずは真心の生き方ができるような自分を磨いていこうと思います。日々に心の方を優先していくように歩んでいきたいと思います。

モノサシを持つ

よく競うことがよいのかよくないのかという議論があります。

学校などでは常に競争するような環境があり、テストの点数や運動会の競技などでも互いに切磋琢磨のためにと競争させます。社会に出ても常に成績や結果などを確かめてすぐに競い比べようとします。

そもそもの基準がなにを競っているのか、何を比べているのかがあるのです。

知識の理解度を比べたり、身長を比べたり、早い遅いを競ったり、良い子悪い子を比べたり、能力を競ったりと、比べたり競ったりを何かの基準を設けて取り組ませているのです。

その誰かのモノサシによってできるできない、善い悪いを平均と比べてどうだったか、またみんなと競ってどうかというものを感じているのです。競ったり、比べたりというものは、誰の何の基準でそれをやっているのかで感じるものも異なるということです。

つまり誰かのモノサシで競争も比較もされているのです。
それを無理に押し付けられることは自分が尊重されていない気がして辛くなるものです。

例えば、誰かと競い比較してしまえば劣等感というものが生まれます。自分が勝った負けたで他人と自分を比べて競争するのですがこのモチベーションは分かりやすいものですがこの基準やモノサシは自分の外にあります。しかしこれが自分自身と競い比較するのは、以前の自分と比べて善くなったということや、成長したことなど確認することができます。

比較するかしないか競争するかしないかではなく、何のためにするかということなのです。

今の社会もそうですが、他と比べて競うことの基準がどうなっているかはその都度の自分のモノサシを観る事で理解していくことはできます。 誰かのモノサシに合わせるのではなく、それを自分のモノサシに再設定するという方法もあるのです。

常に出来事はたくさんのモノサシがあっていいしそれが社会に出てからの生きる力になるのです。自分も何でも機会を活かして試したいと思うのは、モノサシさえ変えれば色々な観方があるのを知っていてそれを楽しむことができるからです。 この自分のモノサシを増やしていくことが人生をより充実したものにしていくように思います。

しかし、実際の人生には競えないものや比べないものもたくさんあります。

思いやりや優しさ、幸せや満足感、遣り甲斐や生き甲斐などもともと比べようもないもの、競う必要のないものの大切さは生きていく上で何よりも学ぶ価値があるように思えるのです。

私は学校では学力や体力など比べ競うことが優先されていますが、もっと大切なことがあるのではないか、そういうことを昔は分かち合う時間がゆっくりあったのではないかと思えるのです。

あえて競わない比べないところに焦点を当て、その豊かさや幸せ、思いやりを味わうことは自分らしく生きていくことの大切さ、そして自分そのもののモノサシを持つことを教え導くように思います。

子ども達には自分のモノサシを持てる自信がある生き方を選んでいってほしいと思います。

 

思ったら即行動の本質

昨日、行動のことに触れましたがこの行動というのはとても意義があるものです。

自分の思い通りにいかせたいという欲があるからだと思いますが、この思っていても行動しないのは我欲がラクをしたいからのように思います。

例えば、ラクと楽の違いの話を以前のブログでも書きましたが ラクな方はできるだけメンドクサイことをしなくても良い方法ばかりを考えて行動しようとはしません。だからいつも自分が動かなくてもいい方ばかりを考える癖を持ってしまいます。しかし楽しい方の楽は、たとえ面倒であってもそこに足を運び、自分の身体と心と時間を使い取り組むことで考えていることを同時に働かせることができるようになりそのものの本体や本質に気づけてカタチになるから楽しくなります。

つまりラクと楽しいの差は、考えただけで動かないことをやりたいか、もしくは動くことで考えることをやりたいかの差にもなるのです。実際は体験してみないと分からないものを、極力体験しなくてなんとかしようと思っているのに真に気づくことはできません。

なぜなら大前提として、自分から全部の器官をフル活用してでもという本来の好奇心が活動していかないからです。人は興味を失い、ワクワクしなくなりときめかなくなるのはそうやって自分から行動することをしなくなるからなのです。

私も時折、楽しくないなと思えるときはもっと面倒でも動くことや感じたことをカタチにすること、もっと自分から身体も心も考えも総動員して取り組もうとして自分の好奇心が失われないように工夫しているのです。

考えているだけの人というのは、実はラクをしたいだけなのです。

楽しもうとするためには、行動するのが一番でそれがカタチにしていくことなのです。

分からなければ、自分から他人に聴きに行く、知りたければ、自分から知りに行く、できなければ、自分からできる人になりに行く、この「行く」というのは行うという意味で実行するというときの行くですが、行動という字は動いているということが行うという意味なのです。

遠い先のビジネスプランとかを社内で考えているよりも、自分の身体も心も常にお客様のところに運んでそこで考えている方が行動になりますし、企画も発見なども部屋でじっとしているよりも具体的に実行しながら考えた方が楽しくなるのです。

ラクのためにそこから逃げようとしたらその見返りとして楽しくなくなるものですし、それに運というものは自分から運に合わせて行動しているからいつも運が善いのです。運についていこうともしないでじっと考えているだけでは何も変わらないし自分も変わりません。

思ったら即行動というのは、実は行動しているときが真に思うということだよと教えてくれる格言なのです。つまり「思ったらすなわち、それが行動(行動こそ思い)」という意味です。

行動を大事にしていくことで子どもたちのように好奇心を育てていきたいと思います。

行動

分からないものを理解するのには行動していくしかないと思います。

人の苦労の共感でも然り、相手のためにと思えば自分が体験するのが一番です。自分が相手だと思えるようになってくると、自分が無意識に相手と同じような体験をしてくことができるものです。

万人のために生きるというのも世の中のために貢献するというのも、気が付けば目の前にいる相手が自分に思えてくるから不思議です。その不思議さの中には繋がりの中にある自分、いのちは一つで相手と分かれていない自分があるのです。

主観や自我がだんだん至誠や真心によって薄くなっていると、そういう感覚はよく起きてきます。そしてそういうとき、相手のことだと思っていたことがすべて自分のことだと思えるようになるのだと思います。

子どものためと思えば、大人や子どもと分けるのではなく、自分が子どもだったらどういう大人がいいだろうかと考え抜いていると自然に子どものための大人になっているものです。子どもから考えるというものも、もしも自分が子どもだったらと考えると同じことだからです。

そして全てのことは行動しなければなりません。

行動しているというのは、実際にそれを体験し実験するということです。
松下幸之助さんの言葉にこういうものが残っています。

「塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できない。だが、なめてみればすぐわかる。」

このように、実際の体験をしてみなければわかるはずがないのです。勇気というものは相手のためを思うとき、自らのことは構わずに困難に突進していくことができるようなものです。そして思いやりをもっていれば次第に相手のために自分がその困難を共にしようという気持ちになっていくものです。

人は思いやり相手を自分と思うときにこそ、行動が伴っているのだと思います。
日々は貢献によって自分を活かせていけます。

ひとつひとつの行動の意味を味わっていきながら真の学問を深めていこうと思います。

天真爛漫な子ども心

昨日は洗練されることを書きましたが、これとは逆に擦れるというものがあります。

よくあの人は擦れているという印象を持つことがあります。この擦れているという意味を調べると、世間ずれする ・ 世慣れる ・ 世故に長(た)ける ・ 悪ずれする ・ すれっからしになる ・ 純粋でなくなる ・ (人間が)堕落する ・ 悪くなる ・ 汚れるなども書かれていますが、簡単に言うと世間慣れして刷り込まれているということになると思います。

この擦れるというのは、擦れる方ではなく私には刷り込まれるということだと思うのです。

なぜ人が純心でいられなくなるのか、素直になれずに穿ったものの観方や歪んだものにするのかは世間はそういうものだと安易に考えてそれに合わせて自分らしくいることを放棄していくからのようにも思うのです。

いつまでも刷り込まれないで生きている人に出逢うととても素直であると感じます。
そこには心を常に高くしていこうとする姿勢、自分の素直さを大切にする生き方があります。

そもそも刷り込みというのは、本来はそうではないものを世間や一般の価値観の方が正しいと勘違いして間違ったものを信じていることです。人間の都合や誰かの都合、自分の都合のいい方へと解釈してそれを正しいと信じ込まされることのようです。

世間のマスコミなどもそうですが、そういうものを見て安易に信じこむのもゴシップ記事や週刊誌に意識が囚われてしまうのもそういう刷り込みを持つことになります。純粋な人は世間に疎いと思われがちですが、ただ知っていることと知らないことの差ではなくその一つ一つに感動し感激するということができるということなのです。

いつまでの擦れない、刷り込まれないで生きるには日々の出来事に感動する感性を磨いていく必要があります。それは素直で在り続ける自分を維持することであると私は思います。

例えどんなに世間がそうだからと理不尽なことをされても言われても、いつも自分が素直に物事を受け取り、学ばせてもらっているから有難いと感じ、尊い体験をさせてもらっていると味わっていくとその純粋純心さはどんどん磨かれていくように思います。

同じ「すれる」でも刷れると磨れるでは意味が異なります。

正しくいたいと思うことで、いつも自分を素直にしていこうと精進していくことが本来の純粋な生き方、玉を磨いて美しくしていくように透明な心のままに生きていくことだと思います。

私が大好きな子どもが子どものままにいるためにも、周囲の大人はいつも素直である生き方を示していきたいと思うのです。素直な大人に見守られた子どもたちは天真のままの心を維持する強さを信じる事を学びそれをずっと大切に大人になっても持つことができるのです。

どんな出来事があってもそれでも擦れないというのは、心の強さ信の厚さのように思います。

いつまでも自分のままでいるように美しく健やかに天真爛漫な子ども心を見守っていこうと思います。