アウトプットの定理

アウトプットの定理というものがある。

カタチになるものを出していくこともその一つですが、その他には人間関係でもちゃんとアウトプットしていかなければ繫がりの中で循環していくことはありません。

このアウトプットというものは、自分から排出していくことで如何に自分自身が澱まないでいるかということを意識するところからはじまります。組織も同じく、澱む組織というのはきまって乾いておらずジメジメとしていて陰気が漂っているからです。

お部屋などもそうですが風通しが悪いところは澱みます、他にも光が入らないところ、水気が溜まるところ、つまりは乾かないところはカビなどきまって陰気のものが増えていきます。これと同じく何でも澱むというのは、乾いていないということを言うのです。

例えば、誰かが無理をしているとか、誰かが我慢をする、御互いに遠慮しているなどとがある組織は決まってアウトプットができておらず人間関係がうまくいっていません。逆に、オープンでさらけ出してフラット、いつもアウトプットをそれぞれが意識している組織はあのサッカーのなでしこジャパンのようにチームワークも円滑でお互いが信頼し合い安心した明るい人間関係を構築しているのです。

これは個人のタイプにもよるのですが、もともと内向的であれば無理をし我慢し遠慮するというもっとも人間関係が築かないまずいやり方を選択してしまいます。そうすると以上のように澱む状況に陥るため次第に病気が蔓延しやすい状態になり周囲に迷惑をかけてしまうものです。

自分がそのようにならないように、いつも周囲に心を開いてオープンでいることを心がければいいのですがなかなかそれを自分でできるかといえば難しいのです。だからこそ、部屋の中の明るく乾いた環境を用意していくことでそういうことが起きにくくしていくこともできるのです。

自分からアウトプットしていくというのは、信頼できる人に話をするということです。特に経験のある人や解決方法を気づかせてくれる人、自分のすべてで阿ねても助けてくれる人などに心を開くことでそこから自らの力を正しく流していくことができるようにもなるのです。

経営者などは自分で考え過ぎて思い込みすぎて、うまくアウトプットができずに悩むことが多いのです。だからこそ、何でも話ができる相手がいることや相談できる人、そういう距離感の人がいるだけで安心して事に挑むことができるのだろうと思います。

そう考えてみると、如何に自分が澱まないか、そのために排出するか、そして排出できるような環境にするかで循環するとしてこのアウトプットするという意識は何よりも大切な実践であろうとも思うのです。アウトプットさせてあげるだけでも、人は澱まないことを意識するようになります。そしてそれが私のよく言うファシリテーションの重要性の第一義であるのです。

困ったら一緒に悩む、辛かったら一緒に慰め合う、悲しい時は励まし合い、嬉しい時も歓びあい、孤独のときは分かち合う、そういう仲間がいるというだけで人はいくらでもまた澱まずに歩んでいくことができるのではないかと思うのです。

祈りの実践はまさにこのアウトプットであろうとも思います。明るく乾いた関係が持てる社会を増やしていけるように、まずはこちらからアウトプットしていこうと思います。

楽と楽

先日、「楽」の違いについて話すことがあった。

この楽には、らくと書いて楽と、たのしい方の楽がある。

一般的には、らくは自分でやらなくてもいい方法、もともと自分が持っている内在的なものを使わずに誰かに何かにやってもらおうとするときに選択しているのがこのらくの方です。小さい頃で言えば待っていれば誰かがやってくれるや、自分がやらなくても親が全部先に片付けてくれるなどと過保護過干渉の中に育ってしまえばそのうち自分でしなくてもいい方法がらくなことなのだと分かってしまうのです。

何でも結果や結末が誰かによって決まるのだと信じていたら、自分が無意識にらくを選んでいることにも気づかずに如何にらくに解決するかを望んでしまう欲に負けてしまうのだと思います。

もう一つの、たのしい方の楽はは何かと言えば、誰かにやってもらおうとあてにするのではなく、自分でやろうや、自分から解決しよう、誰がやらなくても苦しくてもそっちを選択していこうと内在的な自分の力を信じて取り組むときにはじめて自分が遣っていることに気づき楽しくなってくるのです。小さい頃で言えば、自分でやると決めたことを自分で考えて取り組めて遣り切ることができる子ども、自分がやれば必ず周囲は応えてくれると、見守りの中で育つことで自分を信じることができるようになるのだと覆います。

誰かに自分の人生を委ねずに、自らが決めた自分の人生を歩むと信じて取り組むのだから自然に楽しくなってきて人生を切り開く歓びや、自分で道を歩んでいる充実感やその実感を謳歌していくこともできるのであろうと思います。

同じ楽という字でも、そこには、自分の持っている内在的な力を信じて発揮しているかしていないかの違いがあるのです。できる人ができないと言われたり、本来はやれるのにやらないと言われる人もいますがこれは自分の内在的な力を発揮せずに周りに期待してしまう生き方のことを指摘されているともいえます。

自分を信じるということは、つい自分が先にそこから逃げたくなるのもらくを選択しようとするからです。そうではなく、そういう時こそ自分を信じる事、苦しいけれど自分がよくやっていると自分を認め、自分を受け容れ、自分を尊重していくことでたのしいを選択できると思うのです。

らくを選ぼうとするとき、元気はなくなります。都会に住んで何でも脳の思い通りにいくなかにいれば次第に心身精神が弱っていくように、思い通りというのはらくを選んでいる自分があるのです。

自然界に出てみるとらくなとどいうものはなく、思い通りにはいかないことばかりです。しかしそんな自然の中で生きてみると肌も眼光も心身も精神もイキイキしてくるものです。つまりは元気にが漲ってくるのです。

らくを選ばずにたのしいを選ぶということは、苦しいと思っても信じたのだから遣り切ろうとする決心の方でいることのように思います。周りも一生懸命生きているのだから、自分も一生懸命い生き切ろうと自然の中にいるように自分を発揮させていくのです、そこに無限の歓びや味わいがあることを感じられる胆力のようなものが育成されていくように思うのです。

一度しかない自分だけの人生、この一回きりの今回の自分の選んだかけがえなのない人生だからこそ、その日々をその今を味わい深い人生を常に選択することで、らくは少しずつ楽しいに転じていくことが幸せなのであろうと思うのです。

自立ということの深い味わいを感じて、さらに見守りの持つ大切さに気づきたいと思います。

競争と協奏

先日、九州の農園で観察していると地力というものを実感する機会がありました。

地面に力があるかどうかなどは、もちろん土の中を掘ってみるとそこに数多くのミミズや土中生物があることである程度は理解することができます。その他にも、その周辺の雑草がとても元気に生い茂ったりするのもそうですし、同じ種を蒔いたとしてもその場所だけ明らかに茂り方が異なることではっきりします。

土地は、何か肥料を施したり耕したりすることで地力を上げると信じられていますが実際に自然農を行えばそうではなく、いのちのめぐりが豊かなところほどに土地が元気であるのを実感します。

多くの虫たち、多くの菌類、数多くの雑草の種類、つまりはいのちが多く躍動するところほど元気ということであるのです。

この元気というものは、お互いが一生懸命に自分らしく生きているときにこそ発揮されています。自然界では、それが多く集まるところにはいのちの生き死にもたくさんあり、そこではいのちの営みが繰り返され他のいのちを活性化させていくようです。

私たちの世代は競争することで勝ち残ることを教えてこられてきましたから、何か競争することは悪いことではないかや、もしくは必ず勝たねばならぬなどと執着を持っていました。確かに物の見方においては、勝ち負けというものがあり生き残るか死ぬかとなれば競争して勝つほどに力を持つ必要があると思い込んだものです。

しかし自然界を観ていたら、これは競争ではなく協奏ではないかと思うようになるのです。

お互いが自分の生を一生懸命に生き切れば、それが何よりの競争になり転じて協奏になるということ。人と競うというものは、自分も負けじと一生懸命に生き切るとやっていたら必ず他のいのちと共に生きるということで偉大なものに活かされたとなるのではないかと私には思えるのです。

自然淘汰といって、弱いものは亡びるともありますがこれはどれだけ自分で生き切ったか、生き切ろうとしたかが大きな影響を与えている気がします。どんなに粗悪な環境に生まれ落ちたとしても、そこでの一生を誰かのせいにはせず、何かのせいにはせずに、その中で自分らしく生きていく中ではじめて真の進化があるように思うのです。

協奏していくということは、自分らしい音、自分らしい持ち味を活かして生き抜くことです。
つまりは自立が共生、共生が自立のことであるのです。

誰かと競うのではなく、自分らしくあることで奏でることこそが皆と力を合わせることのように思います。自然は私たちの物の見方の刷り込みを取り除く、大先生であるように思います。普遍的なものから学び、先生の先生を象り、もう一度学び直しを促していこうと思います。

生きのびる戦略2

森の中にはそれぞれの戦略で生きている生きものがたくさんいる。それぞれに自分の棲家を定め、そこでしたたかに戦略をもって生きています。

同じ場所を共有するのだから、如何にお互いが戦わないか、つまりは共生するかをよく観て自分を順応変化させてその場で末永く生きていくのです。

もともと西洋の狩猟民族のように、同じ食べ物をたくさん食べて場所を移動するという考え方は広い土地が必用でそこを求めて移動していくしかありません。一時的に大量の収穫があったとしても、来年またそれが保障されているとはいえず転々としながら食糧を求めて棲家を移動していたのです。

しかし農耕民族は、同じ場所でずっと生きていくために自分たちと共に共生する生き物が何かを選び、みんなが豊かになるように農耕をおこない何世代もそこに棲んだのです。

地球という土地は、広げていけばいくほどに収穫が一時的に増えたとしても必ず乱獲が発生し資源は枯渇していきます。人口のバランスなどを考えれば、今の狩猟的な発想ではそのうち行き着いてしまい食糧と棲家を求めて争うしかないものになるのです。

浅く広く早く何かを行おうとする狩猟民族は、もともと自然を征服することを基盤にします。
しかし深く狭くゆっくりと行う農耕民族は、もともと自然を活かそうとすることが基盤です。

自然をじっくりと眺めれば、自然は全てを活かそうとする発想を持っています。

これが戦略の中に生きている自然の叡智ではないかと私は思うのです。
どんなものも要らないものはない、そこには何か活かすためのものがある。

相手が悪いと思ったり、周りがよくないのだと決め込む前に、本当は相手も活かそう、周りを信じて自分を活かそうと思っているのが自然なことでそれが生き残りの戦略であったのです。

順応するのは、相手に合わせてするものではなく自分を活かそうとして行うものです。今の時代こそ、私たち人間も生き残るためにどのような戦略を持てばいいか、考え直す時機がきているように思います。

心から入る

相手のことを分かろうとするには共感が必要です。

この共感というものは、頭でできるものではなく心で行うものです。いくら頭で共感しようと思ってみても、心がそこに同化しなければ相手に寄り添うことはできないからです。そしてそれには余裕というものがなければできません。

この余裕とは何かといえば、心を配ることで生まれてきます。

自分が大変になってしまい、自分のことばかりに意識が囚われると心よりも頭で考えるようになり相手のことよりも自分の都合ばかりを思うようになります。

つまり余裕とは、心がちゃんと入っていること、先に心が配れるような状態にあること、日頃からその準備ができているかどうかが問われてくるのです。

その時に急に心を配ろうとしても、頭とは違ってそんなに心は急には動きません。この心というものは、いつも祈り続けて念じ続け、日頃から配慮し続ける事で事象に感応し心が動くのです。

心が動いているときは、全体のことが善く観え、そして繊細に配慮していくことができます。

子ども達を思う心や、相手を思う心、そして世界を思う心、様々な心は日々に育っているとも言えるのです。実践現場ではそういう心が相手に通い合うことではじめて心が全面に顕われそこから余裕というものが観えてくるようにも思うのです。

時間的なものを余裕がないなどと言われますが、それは余裕がないと頭で思っているだけで本来の余裕という意味とは異なるのです。時間だけが余裕があるのはただ暇なだけであることがほとんどだからです。

常に優先することは、心配りです。

自分をどれだけ優先しないか、それは自分を気にせずに気配る、自分に構わず思いやるということが「心から入る」ことだと私は思います。

ちゃんと日頃から準備して、自分のことで一杯にならないよう内省をしたいと思います。

自己発信

生きものはもっともやりたいことを信じて発信していると様々なものを引き寄せる。

自然界は共生で成りなっているから、求めていれば与えられるようにできている。

花であれば、花が花を咲かせるという発信を信じて行うことで虫たちが集まってくる。植物や木々は自然を完全に信頼しているからこそ、実をつけては鳥を呼び、土に埋もれても必ず春が来ることを知っているのです。

これは同じく動物も、周囲を信頼して自分のもっともやりたいと思っていることを発信し続ければ必ずその人にもっとも相応しいものが訪れるものだと思います。

それは人であったり、機会であったり、場であったり、道具であったり、様々なものを引き寄せもっとも価値のあるものを手繰り寄せていくのです。

しかしこれとは別に、自分がどうしたいのか、何をやりたいのかが分からず自ら発信することもせず周りに任せていたら集まるのとは逆に離れていくのです。言い換えれば、自分の望んでいないことばかりが起きるようになりより一層周囲に期待するような生き方になるのです。

自分がどうしたいかというものをはっきりと持っていれば、自分がリーダーシップを発揮して周囲を活かしたり周囲と共生していくこともできます。しかし自分がどうしたいかを発信せずに、周囲にどうしたらいいでしょうかといつも受け身になっていたら結局自分ひとりぼっちになってしまいせっかく周囲があるのに周囲を活かしていくことができないのです。

今までの学校や組織の刷り込みのせいか、常に周囲の立場や相手の顔色ばかりをみて自分がどうしようかと決めていたら受信することばかりで自分から発信していることにはなりません。自分自身が一体何をしたいのか、どうしたいのかということを自問し明確にし、納得していけば周囲は必ず引き寄せられその人に力を貸してくれるのです。

自然を信じるというのは、周囲を信じるということで、周囲を信じるには、自分を信じるということです。そして自分を信じるというのは、自分のやりたいことを遣り切るということです。遣り切ることが増えてくれば次第に人は悔いのない人生を歩み出すことができるようになります。

そうなれば、自分を中心に周囲との共生が成り立ち人生を引き寄せることができるのです。まず自ら自らのやりたいことを明確に、自らが発信していくことで世の中の絆や結束、その繋がりを新たに広げていこうと思います。

自立=共生

この世の中は、共生の原理があり成り立っているともいえます。どんな生き物も、もしも自分の力だけを頼りに生きていこうとすると、すぐに共生から外れ独善的に陥り天敵が顕われ破滅へと向かうものだからです。

このようになるのは、幼い頃から何らかの理不尽な権力に従ってきたり、学校をはじめ大人たちの権力などを見ては自分の力が必要なのだと刷り込まれてきたからともいえます。また、もともと歴史を観ていても徳のある政治を行う人は、常に謙虚に衆智を集めて平安の世を築いていきますが時の権力者は自らの力に驕り不遜になり乱世を呼び込み身の破滅を招いていくものです。そしてこれは、生き方次第では個々単体でも同じようなことが起きるのですが今の時代はそのように歪んだ自立を目指すことで生き難く感じている人たちが増えています。

しかしなぜこのようになるのかには、やはり刷り込まれたものがあるように思うのです。

時代時代にその形は変えていくのだと思いますが、力関係というものはどんな仕事であってもどんな人間関係であっても生じています。例えば行政から補助金であれ、大企業からの発注であれ、会社からの給与であれ、上から下へと降りてくるようなものはそこに力関係が生まれるのです。

お金という力を持つことで対等ではなく、お金の力で権力を持っているかのようになるのです。

高いお金を出せば、それだけ高いお金を持っているかのように接され、お金がなければそれ相応に接される、サービスというものもそうですが世の中はお金を基準に力関係が確実に存在しているのです。まるでお金があれば、自分一人でも生きていける、お金がなければ誰とも生きてはいけないのかとさえ勘違いするような社会を構成してしまっているのも事実です。

しかし、子どもを観ていると本来は人と人との関わりとは思いやりで成り立つのが本筋でお互いを尊重して共に生きていこうとしていることは感じます。役割がどうであれば権力で抑えつけるというのは親子でも兄弟でもその関係は破たんしてしまうのを生まれる前から知っているからです。

お互いがどんな気持ちで取り組んでいるのか、働いているのか、共に生きていくというのは相手の心や相手の気持ちをよく汲みとって通じ合うことで成り立つようにも思います。気持ちの通じ合いには、立場や権力を超えたものが存在していなければそうはなりません。

本音や本心で語り合うことは、周囲を信頼しようとする自らが共に生きようとする実践であり、その姿勢が謙虚さを生じ、衆智を集めることになるようにも思います。素直さというものは、自分ひとりの力を拠り所にするのではなく、御互いの立場や肩書など表面上の関わりを捨ててまず自分らしくいてもいい、自分らしくいることは認められていいのだと感じることからがはじまりなのでしょう。

社会で自立して生きていくためにやってきた大人の刷り込みは、つい自分を信じるために早く一人前になろうとしましたが、本来は周囲を信じる事、周りの仲間を愛すること、関わる人たちを尊重することを大事にしていくことが何よりも刷り込みを取り除く方法のように感じます。

私もかつてもっと力があればと自分を責めて、自分の力不足でと傷ついた自分をより一層傷つけて力を得てきた過去があります。それが刷り込みになり、当たり前の関係を築くことを恐れさせるようになったようにも感じます。

同じように一人で踏ん張っている立場の人たちが多い世の中のようにも思うのです。そうしているのは自分に自信がないからです、そしてこの頑張りこそが自信を喪失させているともいえるのです。

自立は、自分ができることよりも周囲を信頼することで自立、つまり=共生となります。真実は共生してはじめて自立であるのだとし、改めてこの権力を優先する今の人間社会の強烈な刷り込みから子どもたちを守るためにも自信を皆が持てるよう自分らしい日々に挑んでいきたいと思います。

善転回天

人は自分よりも相手を変えようとするとき、よく自我の感情の中に入り込んでしまうものです。それは自分の思い通りにならないと思うとき、気分がわるくなることを避けようともするからです。人は気分があるから感情のバランスをとれますが、それが時と場合ではバランスがどこにあるのかを見失ってしまうこともあるのです。

先日、ある園で先生から子どものことを考え過ぎて病的に悩んでいることを相談されました。その子どもの発達を観てみると特におかしなところはなく先生が一方的に子どもの何かの行動が気になり子どもを変えなければと思い込んでいるようです。

しかし本来、そういう時こそ自分の観方、自分の姿勢そのものが間違っているのではないかと気づくチャンスであろうと私は思うのです。私たちのソフトを使えば、子どもの方の問題ではなく自分のチェックするときの心境や観方がおかしいということはすぐに気づくのです。

しかしそういうことをせずに、日々に追われ何かの拍子に余裕を失うと、相手に求めすぎ不信や不安から自分は間違っていないのに相手はおかしいという視点に囚われているとも言っていいのです。そしてこの余裕がなくなる理由は、自分本体を主体として変えようとしなくなるからであり、周りや相手を変えようと思うその発想そのもの自体がとても受身で流されている行動であるからなのです。

そして本来、人はどこを中心に考えるかで考え方というものは生まれてきます。

自分を中心に考えるのか、相手を中心に考えるのか、全体を中心に考えるのか、極端に言えば、人間を中心に考えるか、自然や宇宙を中心に考えるかで、そこの基点、つまりは軸がどこであるかということに気づくのです。

その軸をどこに定めているかを原点ともいいます。

それを自分を常に軸にして物事を観ていたら、如何に全体がどうなっているかというよりは自分にとって正しいか間違っているかというその時の状況や気分で視野の狭い範囲の感情の中に入り込んでしまいます。

しかし、軸を原点に設置し、その原点がもしも全体、自然や理念といったものにすれば特にそれはおかしな起きていないと気づき、果たして自分がどうなっているのかと外側から客観視していくこともできるのです。

相手のことを信じるということは、丸ごとの世界そのものを信じることに他なりません。

例えばそれはいくら自分の中で受け容れ難いことがあっているとしても、それでもきっと世界は正しい、きっと周りは正しい、言い換えれば必ずこれは全てで丸ごと善いことなのだと、物の観方を転換し、それを福であろうと信じ転じることこそが原点のままでいることのように思います。

そしてこの原点のままでいるということを本質のままであるとも言うのです。

相手を変えようと思う前に、軸を転換すれば自分の方が変わった方が善いと思えるようにもなってきますしブレたことに早めに気づくことでブレをすぐに修正できるようにもなってきます。

閉じこもってしまえばなかなか難しいことでもありますが、周りを信頼して手を握り合い、共生の中で自分を活かそうと自分の姿勢を変えれば今まで自分の中で間違っていると思い込んでいたものが自分がゆとりや余裕がないのだと気づき自分よりも相手や周りの方が困っているように観えてもくるのです。

軸を何にしているのかで世界はそのみえ方を一変します。
どのような世界に見えるのかは、常にその人その人の生き方の転じ方で調整できるのです。

この世が善い世界なのか、それともよくない世界なのか。

それも人によってどうありたいかでいくらでも世界そのものを変えていくことができるのです。どうしようもない世界のようにも観えて悲観することもありますが、そういう時こそだからこそ自分の尊い役割があるし、いのちを輝かせて人生の醍醐味を味わい尽くそうと思える自分が存在できていると思えば、子ども達の住みよい世界にしていくためにも、 常に明るく善転回天していこうと思います。

人生の学び方

何かに取り組む時に、物事を知っているというのと知らないというものがある。

知らないというものは、まるで子どものように今までの知識がないのだから遊びのようにトライアンドエラーをしながら体験しその意味を深め、常に人生を前向きにチャレンジして成長していくようなものです。

しかし知っているというのは、まるで大人のように今までの経験や体験の知識から如何に失敗しないようにと考えたりし、常に思考し出来事に取り組んでいるともいえます。つまりここでは体験よりも、知識が重んじられているとも言えるのです。

新しいことを行うというのは、今までやってこなかったことに挑戦するということです。

それは子どものように、常に知らないことを恐れず、分からないことを善しとし、全身全霊でそのモノゴトと一体になって学んでいこうという姿勢があるということです。

なかなか知識が増えてくると、すぐに新しい方へ目を向けずに昔の古い知識にアクセスして自分で限界をつくってしまったり、無難にゴールイメージを自分の都合の良い方へと変えてしまったりもします。

本来は、どんな未来にしたいのかと明確なゴールイメージを持ちそのための目標を設定し、我武者羅に取り組んでいくことで未来を掴むということが自分を刷新し成長させていく原動力、子どもの生きる力のようにも思います。

知行合一ではないですが、知ると行うということ同じで知ることが行うことで行うことは知ることです。すぐに知る事ばかりで行わないようになったり、行うけれど知ろうとしないというのは、日々に深めるということを怠る流される姿勢があるからです。

人生の学びというものは、怠らないで体験することを深めその意味を味わうような学びを続ける事のように思います。子どもたちは知らないことばかりなのだから、そうやって人生を豊かにしていく姿をみていたら自分たちもそこから人生の歩み方を学び直すべきでしょう。

知識ばかりを詰め込まれて、世渡りは上手になっても、人生が豊かになるわけではありません。日々に体験し深め学び、挑戦することを楽しみ、学びとは人生そのものであることを自覚することでたくさんの人達と生きることを共有していきたいと思います。

灯台の炎

二宮尊徳の夜話に、灯台の話がある。

昔は海が荒れると下田の灯台に寄港して無事をとっていましたが、近くの別の岩場が多いところで火をつけわざと難破させて物品を奪う盗賊がいたとのことです。その盗賊のようになってはならないという話ですがこれは本来の灯台の使い方を間違っていると諭しています。

もともと灯台は、暗闇の中でもそこに辿りつけるように灯りを立てて迷わないように導くためのものです。

これは経営でも同じく、自ら定めた方針やビジョンを照らし続けるのは灯台の光を放ち続けるようなものです。世の中を見回せば、多くの刷り込みという暗闇の中で私たちは光を求めて歩み続けなければなりません。

特に新宿に住んでいると、夜のネオンの光が深夜まで明々とし自然の光はほとんど見えない程ですしまたどこに本来の星の光が輝いているのかすら夜空には見えません。

だからこそ心の眼で心に映る光を捉えるためにも、一度決めたビジョンや方針は灯台のようでもあるのです。

園の現場でも、一度決めたことを忘れ刷り込みに敗れ、せっかく変えようとしたことを元に戻そうなどということがあります。もちろん、そういう時こそ共に力を合わせて乗り越えていく必要があるのですがそれを聞いた現場は何よりも混乱してしまうのです。

自分が灯台だという自覚というものは、今のような時代を生きる上ではとても大切なことであろうと私は思います。灯台が、あまりにもうろうろとしていたり、点いたり消えたりしていたらみんなどこを向いていけばいいのか分からなくなるからです。

道を歩もうとするとき、それを照らす人の光をたくさんの方々へ観えるようにしていくことは一人でも多くの彷徨う人たちを正しい方へと実践で導くことになるのです。

一人一人が灯台になれば、みんながその灯台の光に気づきそこを目指してやってきます。

大切なのは、自分が灯台なのだという自覚を持つ人たちを増やしていくことのように思います。
常に自分から光るような人物になれるよう、不動の信念を磨いていきたいと思います。