先祖一体

先祖の計算というものがある、1000年前まで遡ればほとんど私たちは親戚だったという話です。自分の親が2人いてその上に2人いてと計算していくと、その数が当時の人口を超えてしまうのです。

ちょうど鎌倉時代くらいが1000年前なので、源氏か平氏かなどと議論されますがもう少し前になればその別れる前は完全に家族のようなものなのです。変な話ですが、職業や立場が異なるだけでそれが別の人のように身分が分かれましたが本来人は違いはないのです。

つまり、身内が分かれて分かれて今があるということは他人というものはいないのです。

遠い親戚は他人かといえば、血は必ず繋がっているのです。

人は身内という言葉を使いますが、本来は全員が身内とも言えます。
事故や死者が出た時も、他人事ではないのは本来は皆が繋がっているからです。

国民を家族のように天皇陛下も思うのも、本来は身内が増えたということからかもしれません。
私たちは、元々は同じ血を共有しご縁の繋がりの中で共に生きているともいえます。

時代が変わったとしても、同じ家族です。

身分というものが発生してから私たちは区別をするようになってきました。
それだけではなく、あらゆるものを区別することで自他を分けてきたのです。

ご縁というものは、全体との繫がりで物事を観るとき感じるものです。
私たちの出逢いに、無駄は一切ない。

先祖たちの出来事は自分の心に、この身体に永遠に息づいているのです。
新たな時代を生きる今も、その歴史に誇りを持って歩んでいこうと思います。

 

意識改革

チームで何かを行う際に、様々なテクニックやノウハウなどの方法論があります。

例えば、それが声掛けであったり、ワークショップであったり、アクティビティであったりもし、そもそもの人間関係のもつれやほつれを取り除くようなことは往往にして行われているのです。

しかし本来、私はそういうことをいくらやっても根本的には意識が変わらなければ解決しないと思っています。なぜなら、人は技術で仲良くなるのではなくその大前提として意識の問題で解決するからです。

先日、ある園の相談で仲は良いけれどまだ一体になってはできないという話を聴きました。
しかしそんなことが本当はあるはずはないのではないかとふと思うのです。

仲が良いと本人たちがいくらいっても、一緒にやっていないのであればそれは仲は善くないのです。意識の中でそうなっていないということを言っているのだからやっぱり違いを認められず表面上は仲が良いと自分で言っているだけであるのです。

一緒に何か一つのことを行うとき、仲間意識として「同じ理念を本当に自分から一緒にやっているか」と思っているかどうかということがとても大きいのです。仕事でもそうですが、自分がやっているや、自分がやることだからと業務を行うように思っている人ほど、周りやみんなと一緒に進めようという意識は欠落しています。

人と一緒に進めようとするのは意識の問題でそう思っていない人がいくらテクニックで報連相や情報共有をしても、いくらチームが円滑にできる他の方法を採用しても、仲間と心身一体となっているとは言い難いからです。

不思議ですが、自分がやっているや自分だけがやらなければという意識はみんなと一緒にやっていくや、みんなと一体であるということから離れていくものです。そのうち、勝手に進めてしまったり、自分だけでやろうとしてチームワークそのものを根底から揺るがしていく行為になります。

いつも意識として、「一緒にやっている」と思ったところから仕事に取り組む人はいつも全体に繋がった効果をあげることができ、もっとも価値のある共異一体を構成していくのに貢献していくことができるのです。

先ほどの園では、仲が良いところを目指してはいるけれどみんなで一体になって一緒に取り組むことはあまり重要ではないという意識を持っているとも言えるのです。一緒に集まるのは何のためか、何かの目的のために集まったという大前提を掴んでいないとも言えるのです。

意識が違うだけですが、その差は歴然としているほどにかけ離れています。
みんなに自分が合わせるということは迎合するということではありません。

それはみんなで決めた一つのことを自分もみんなと一緒に取り組むことだからです。
それには本心本気の主体として自分が決めたことをみんなで一緒に遣り切ることです。

人はすぐに義務感から自分だけでと思いがちですが、一緒であることを忘れてはいけません。
それがチームや仲間に対する礼儀や仁義であるからだと私は思います。

こういう意識改革の重要性は目には見えないからおざなりになりますが、目には見えないからこそ心はしっかりと観据えて意識そのものの実践を深めていこうと思います。

 

道はひとつ

この業界に来て、様々な人たちを支援し共に仕事をご一緒していく中でいつももったいないと思うことがあります。

同じように子どものことを思って同じことを取り組むのに、派閥ができ、共にやろうとはせずすぐに構えたり、わざわざ距離をおいて近寄らなくなったりして、力を合わせないのです。

今は時代がまだ悠長なことをしていてもいいと思っていないはずなのに、実際に何かをやろうとするとすぐに自分の世界や自分だけのものにしようとした力が働くのです。

多くの人達が同じ道を目指すのならば、自分だけのものにしたいや、自分だけがよくなればいいという考え方ではなく、共に同じ道を手を取り合って歩んでいくのがいいように思います。

しかし実際は、そうではなくすぐに分かれてまた不利益な競争をするのです。
二宮尊徳に下記があります。

「天地は一物だから、日も月も一つである。したがって誠の道は二つはない。真理は万国同じであるはずだ。ただ真理を究めないのと尽くさないということがあるだけだ。それなのに諸道おのおの道が異なるとして相争うのはそれぞれが自分の領域を狭くしてお互いにへだててしまうためである。ともに三界域内に立てこもった迷妄の者といってよかろう。まず、この垣根を見破ってから道について論ずべきだ。垣根の中にうちこもった議論は、聞いても役に立たず、説いても益がない。」

意訳すると、太陽も月も一つであるように天地は一つのものでできあがっている。だからこそ真心や誠の正道も同じく二つと分かれてはいない。つまり真理は世界共通であるはずだ。ただ真理を究め尽くしていないだけの話です。それなのに、自分の方が正しいとそれぞれに道を歩んでいる人たちが争い競うのはそれぞれが自分の世界に閉じこもり狭くし互いに垣根をもうけようとするからだ。これはこの世の中で自我欲に負けて彷徨っている亡者といってもいい。まずはこの御互いの垣根を見破り、常に道について論じるべきだ。垣根の中に閉じこもった議論をいくらしても役に立たず、それをいくら説いても効果がないのだから」

とある。

それぞれ業界で著名な方や、自ら志を立て一本立っている人たちがなぜ力を合わせようとしないのか、自分の世界でのみやろうとするのか、何かしようとするとすぐにメソッドのようなものばかりが出てきたり、何かしようとするとすぐに人間関係に不信になろうとする。

子ども達のことを本当に思うのなら、自らの垣根を壊してほしいと思うのです。

私自身も、相手のそういう気持ちについ反対したり言い返したりとする気持ちが出たりもします。しかし本当に子ども第一主義を貫くならば、そういう妄想や妄念を見破り、もっと大胆に世の中をよくするために協力していきたいと思うのです。

自分自身も道を歩んでいることを忘れずに、実践とは何か、今とは何かを気づいていこうと思います。

 

手を握る

チームワークを発揮するのに、常にお互いを気配るというものがある。善いチームは、できるできないよりも相手を気遣う姿勢の方を大事にします。それは自分だけではできないことを知っているから周囲の力をお借りするのだからこそ常に配慮を忘れないのです。

この一緒にやっているかどうかというのは、御互いのその手の感覚がどうなっているかを観ると今の互いの配慮の状況に気づけたりするものです。

共に手を握るというのは、御互いを確かめ合っているコミュニケーションの姿だからです。

例えば、何かの仕事を一緒に進めている際に「ちゃんと握っているよね」と確かめ合うことでお互いに共同体として取り組んでいることを自覚するのです。

確認というものが大切だと私は思うのは、それは「手を握っています」と気配りすることで互いに余計な心配や疑念を生まないように取り組む大切な方法であるからです。

確認をせずに何かを進めるというのは、言い換えれば手を握っているとも確かめずに一人で自分の思うように突き進むこと似ています。もちろん、周囲を確かめないでいいくらい強い信頼関係ができあがればいつも握っていると実感し共に進むこともできますが、相手もいるものだからこちらもその際に合図を送り皆と一緒に進めているということでなければ協力を上手く得られない場合もあるのです。

一般的には価値観の異なる人たち同士が共に何かを行うならば常に何らかの確認は必要だと私には思えます。

言葉で交わすコミュニケーションがいくら時間を増やしたとしても、一緒にやっている、共同体として取り組んでいるというお互いの確認がなければ自分から手を握り合っているいるとはいわないのです。円陣をきるのも、御互いが共に取り組んでいるという確認をし一つに集中し気持ちを合わせるための太古から私たちが取り組んできた共同体としての対話の方法なのです。

そして自立と共生もそういうものを通して現れてきます。

最初は子どもが親の手を握って離さないように、何度も何度も手を通して確かめてきます。そこで「大丈夫、握っているよ」という親の合図を送ることで少しずつ手を話していくのです。そしてこれが親心と子心の通じ合いの真心であり、ここからも私たちは共生の真実を学ぶのです。

こうやって幼いときから、一緒にいる安心感や共同体である安堵感が心を信に向かわせます。

子が親を信頼するのは、親も信頼するからで、この信頼関係の上に今の自分の周囲との関係を広げていくのが人間関係であるからです。

今は、何か縦の組織のやり方で自分から握る、互いに握り合うのではなく、一方的に押し付けたり、一方的に投げやりにしたりという歪んだ刷り込みを持つ人たちが増えてきています。見守るではなく見捨てるような関係でお互いを手を切ることを前提にしている組織もあります。

共生するというのは御互いを確認しあうことで見守り合い、その信を絆を強くしていくのです。

より刷り込まれないような実践を考案して、手を打ち、手を握ることを大切にしようと思います。

天地人

天の時というものを学には、天地人というものを観るというのがあります。
かの楠木正成の家訓に下記があります。

「 一日の計は鶏鳴にあり。鶏鳴に起きざれば、日課むなし

一月の計は朔旦にあり。朔旦に礼ぜずんば、仁義むなし

一年の計は陽春にあり。陽春に耕さざれば、収穫むなし

一生の計は幼稚にあり。幼稚に学ばざれば、老後むなし 」

意訳をすれば、「一日を大切にするにはニワトリが鳴く早朝に計画を立てなければ、その日は無駄になります。一月を大切にするには月初に計画を立てなければ、仁義は廃れます。一年を大切にするには春に計画を立て、しっかりとその時に準備して取り掛からなければ収穫はありません。一生を大切にしたいのならば幼児期にこそ計画を立て、その時に気づき学ぶ事をお怠るなら老後は悔い廃れるでしょう。」

一日、一月、一年、一生、こういうものは先手で計画を立てていくことが時を活かすということを実践を通して大切にしてきたのだと思います。

よく手遅れだなと感じるときがありますが、そういう人たちを観ていたらいつも遅いのです。何が遅いかと言えば、朝が遅く、計画を立てるのが遅く、行動が遅く、気づくのが遅い、つまり遅いということそのものが「過ぎ去ってしまっている最中」ということであるのです。

何も考えずに流されれば天の時は分かりません。

やはり流されないようにするためにも、時というものが過ぎ去っていることにまずは気づく日々に感性が必用でそれは実践することでタイミングを捉えることができるようになるのだと思います。

法則の実践などもそうですが、考えてからやっていても遅いのです。気づいたときにすぐに行動するとタイミングがあって来るように大切なのはそういう日々の暮らし方、生き方、取り組み方を、以上の家訓のように生きていくことで天運に乗り幸運を手にするのだと感じるのです。

運の善い人というのは、何時も決断がスマートで行動もシンプルです。

それは気づけるように、何でも先手を取っているからであるのです。先にやってしまうことでもっとも大切なことが何か、それが失われないように自分を維持していくことができるからであるのです。

天の時機を学ぶのは、常に少し前をいくことのように思うのです。
それには習慣を変えて、いつでも自分がチャンスを掴めるように実践をするのみなのです。

頭で考えて理屈を立てて不平不満を悩むよりも、実践で築く在り方の変換こそなのです。
自然から天地人とは何かを感知していきたいと思います。

源志の魂

何かの勝負の際に、人数が多いか少ないかというものがある。

よく会社でも社員数が少ないことがさもデメリットのように言われるし思い込んでいる人がいる。しかし実際は人数が多ければいいか、少なければいいかという表面上の問いはあまり勝負において意味をなさない。

なぜなら、人は一人で戦うにせよ、二人で戦うにせよ、戦う人の志が勝敗を決するからです。人数が多いか少ないかを憂うよりも、志が一つになった仲間であるかどうかが肝心なのです。

かの忠義の偉人、楠木正成にこのような言葉が残っています。

『合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず、ただ士卒の 志を一つにするとせざるとなり』

楠木正成は、上杉謙信、高杉晋作なども等しく用いた野戦に長け、自然を縦横無尽に用い戦わずして勝つといった最上の智慧を持って大義を貫いたリーダーです。

これらのリーダーの特徴は、まずは理念や大義があること、そしてそれを実践し実行する勇気を持っていること、さらには思いやりや智慧を天より借りることができた謙虚な心、その時の運気と同体になったからこそであったと私は思います。

志というものは目には見えませんし、それがどのような結果に影響を与えるかも誰も何も言いません。しかし、チームの一人一人が自分くらいと志を下げるようなことであればアッというまに士気は下がり負け戦になるのです。

もしも逆に、自分だけでもと志を貫く気概を持った人たちが集まればチームの一人一人が志を一つにしどんな強敵がいても様々な好機をものにし必ず道理に叶い正しい成果を得られるのだと思うのです。

吉田松陰に、「志を立てて以って万事の源とす」がありますがこれはこのことを言っているのです。吉田松陰は、かつて生前、4回も楠木正成の墓所を参り、自らの志を確かめています。

私も先日、その機会に恵まれいよいよその志の意義を確かめるに至りました。
世界を変えるなら、世界を変えるほどの戦略が必要でありその智慧を得たのです。

智仁勇のプロセスを味わいながら、あるべき道を歩んでいきたいと思います。

価値観の違い

人にはそれぞれに生まれてきてから身に着いた価値観というものがあります。

人が違うというのは、見た目のことだけではなくその価値観が異なるから違いが出るのです。
そしてその価値観があるからその人のやりたいことがはっきりするのです。

一般的に社会や組織には、価値観を画一化していくというものがあります。
みんな同じような考えでないといけないような何か無言の圧力のようなものがかかるのです。

組織でも一般的には歯車という言い方もしますが、そうやって違いをなくしていくのです。
本来は違いを認め合える関係や、価値観が異なるもの同士の協力こそが役割分担です。

誰かの価値観に合わせて誰かの価値観の通りでいれば楽と勘違いしているのも育成環境の中で刷り込まれてきたものともいうのです。自分の価値観を否定し、自我が強い人や、立場が強烈な人の方が正しいと思いこまされたり力ずくで抑え込まれたりされたことがあればあるほどにその刷り込みは深くなります。

本来、組織では理念というものがあってその次に価値観という順序が必要だと思っています。

なぜなら価値観を優先させれば、その人の価値観と自分の価値観の違いばかりが目についてしまい御互いが同じではないことに違和感を感じて争いや諦め感ばかりがでてきます。しかし、理念を優先して何のためにやっているのかと御互いに感じていれば同じものを観ながら語り合うのだからそれぞれの価値観の違いは相乗効果を生み出していくのです。

つまり常に何のためにそれをやるのかというのをしっかり持つことは、相手に無理に合わせようとしなくても済むことになるのです。もともと人は自分の価値観で伝えようとすると、人がみんな違うのだから不安になるものです。

価値観が一つではないのだからいろいろとあっていいのでしょうが何のためにやっているのかが伝わっていないのであれば周りはその人自身の価値観ばかりが気になってしまいます。そしてそれに対して、正しいとか間違っているとかばかりを感じてしまうのです。

まず何のためにがはっきりすること、それをいつも心に留めておくことのように思います。
己を知るということは何よりも難しいのです、なぜなら最も身近過ぎているからです。

しかしタイプが違うということは、協力でき役割分担ができるということを意味します。

それを自覚すれば何のために出会ったのか、何のために協力するのか、自分自身がはっきりすることで価値観の違いは不安ではなく安心に変わるのです。

子ども達は、生まれながらにそれぞれの独自の価値観を持っているものです。その子どもたちが自由に自分らしくいられるっように、大人の社会を創る責任を持つ一人として自分のスタンスやものの観方というものを常に注意して意識しておきたいと思います。

自立の刷り込み

自立の刷り込みというものがある。

学校で教えられ、一般的に世間で使われる自立に、「一人でできるようになること」というものがある。しかしこの一人でできるようになることは、やってみると分かるけれど本当の自立ではないことにすぐに気づけます。

自分自身の体験ですが、自分で何でもできるようになると人に頼むことができなくなります。できないことをなくせばできるようになるという発想は、もともと一人でできるようになることを目標にしているのです。

学校の勉強でもそうでしたが、できないところをなくそうと努力しますがそうしているうちに完璧であることが最も自立していることだと勘違いすることもあるのです。自分の得意なところよりも、苦手なところにフォーカスして教え込まれていくと、出来る人になることや自立している人になるというのはそういった何でも自分一人で解決することができる人を目指してしまうのです。

しかし実社会に出てみてすぐに気づくのですが、何でも自分ひとりでできるようになってみて分かったのは孤立と孤独です。それに自分ひとりでできることをみんながやっているのは決してチームにならないし、どのように協力すればいいのかも分からなくなるのです。

例えば、平均的に実力がある人たちが増えていけば何かを頼もうとすると皆だいたいそれができるのだから頼む人は自分がサボっているのではないかという強迫観念にかられたりもします。もしくは、自分が一番できることを他のできない人に頼もうとは思いません、もしも全部が平均的に高度にできるようになったなら頼む人がいなくなっていくとも言えるのです。

本来の自立とは、自分の本来できること、自分しかできないこと、言い換えれば自分の得意や好きなことで他人のお役に立てるようになることが本質的な自立だと私は思うのです。

もっとシンプルに言えば、自分らしくいてそれでみんなが喜んでくれることが自立です。
自然体にしているのにそれが皆の役に立てることは自他を活き活きさせていく共生の理です。

自立というものの考えを何でもできる人や、完全に自分だけでできる人と思い違えないようにしないといけません。その刷り込みこそが、多くの周囲を迷わせ、苦しませ、人間社会が画一的になってしまう原因であるからです。

常に自立の本質を捉えるためにも、自分が最も得意なことや好きなことに素直に取り組める実践、つまりは共生していけるような生き方を選んでいくことが子どもの未来環境を見守ることにつながるのです。

もともと刷り込まれているまま努力するのではなく、一度その刷り込みに気づいてそこから自分を刷新していけるような日々の気づきを大切にしていきたいと思います。

 

 

ものの観方

人は今の社会構造や仕組みなどを盲目に信じる傾向があります。

なぜこのような制度なのか、なぜこのような法律なのか、なぜ社会はこうなのか、なぜ時代はこうなのか、なぜ自分がこうしているのか、そういうことには特に疑問を感じていないのです。

生まれてきてから誰も疑問に感じていないものは疑問と思わないのです。
しかしよく考えてみるとおかしいことに気づくのです。

もし自分が子どもだったらと思ったら、この世はおかしくて不思議に満ちています。

なぜ電気をつくるのに原発でないといけないのか、なぜ人口がこんなに増えているのか、なぜ都会に住むのか、なぜ学校にいかないといけないのか、なぜ働かなくてはならないのか、なぜ常識が必要なのか、素朴な疑問から複雑なものまで本当はたくさんのなぜがあるのです。

そういうことを誰も教えないままに暗黙の了解というものを持ってしまうことがあるのです。

本質を自らで深めていないのに、日々を過ごしていたら何の疑問も感じないロボットのようになるのかもしれません。

この世の中には、ものの観方というものがあるように思います。そのものの観方こそが、一度自分で深めてみるとガラッと変わるように思うのです。

例えばリスクというものを観てもいいでしょう。

人口は多いことは果たして安心なのか、資本が大きいことは果たして安全なのか、人気があることは善いことなのか、国家や会社の運営にしても経営でも、それはその人のそのものの観方の問題だと思います。

観方を変えれば、人が少ない方がメリットがあり、資本はちゃんと身の丈が善かったり、本質的であるほうが永続するかもしれません。人口などもここまで増えてしまったら、急な気候変動に対応できるはずもなく食糧は賄えません。人口を減らして食糧を備蓄することが、急な気候変動に対応できる対策のように思いますが少子化を止めることに各国は躍起です。

そう考えれば、その人の思想次第でいくらでもこの世界の観え方は変わってしまうのです。

同じ場所に居ても、同じことが善いわけではありません。

本質的な人には、この世界は周囲の人とまったく異なって観えるのです。
変人と呼ばれようが、そうにしか観えないのだから仕方がないのです。

目には見えないものを観るには、心の眼を養う必要があります。
そしてそれを私の言い方では、本質を正しく捉えるということと同義語なのです。

自分の眼で真実を観ることは子どもの素直の眼を持つことです。
この世界の新しい広がりは、子どもの感性である好奇心と勇気であろうと思います。

面白くしていきたいと思います。

平均と完璧

社会に出て経済を観ていれば、平均というものに如何に偏っているかがよく分かります。

スーパーマーケットにいっても規格品といった平均の枠内の商品が陳列され用意されています。そこには大きすぎる野菜や、小さすぎる野菜は店頭には並びませんし、魚介でも同じく蟹であっても足が1、2本足りないないだけで置いてもいません。

見た目も同じでなければみんな安心して買わないのです。
世間でいう良い商品というのは、平均的であり完璧であるものを選ぼうとするのです。

現在では、もっとも流通するものに合わせるという暗黙の了解があります。

それはその方が安くできるからですが、そうしていると大量生産大量消費する方が価値があるようになってしまうのです。大手企業が独占するのも、その標準化されたものがもっともたくさん売れるからでありその方が安心だという認識が消費者にもあるからなのです。

本来の社会の多様化というものは、本来はそれぞれが得意なもので作りそれをそれぞれの分限で販売していくというもので成り立っていたのでしょう。

世界を眺めれば、たとえ小さくても自分の持ち分で取り組む会社もたくさんあります。先日もある雑誌に自家製の化粧品をこだわり、原材料も自家製で制限して年間限定で販売しているのですが世界中のファンが購入する店舗があるのを知りましたし、お酒などでもこだわって自家米、蔵でできる数に限定した昔ながらのどぶろくを玄米で作っているところも同じように全国からファンが購入しています。

このように標準化された規格品にはない善さというものが平均を超えて、完璧ではない手作りのところに存在します。

そういうものは高いと言われますが、もともとの社会がそういうものしかないのなら高くはないのです。安いものをたくさん製造し、大量に消費し続けていれば当然安くて良いものが欲しくなるものです。日頃からどのようにお金を使い、自らの価値判断をするかで人は刷り込まれているとも言えるのです。

しかし実際の価格や価値というものが機械化・工業化により誤魔化されただけで実際の価値と価格というものが不釣り合いになってもいるのです。だから何かを購入しようとすると、すぐに人は値段から入るようになりそういう規格品の安いものを求めてはそうではないものを否定するようになったりもするのです。

多様化すればするほどに、本来は様々な得意分野を活かせるような商売がはじまります。競争といっても、協奏というように本来はそういうものが集まっているから御互いの創意工夫も発見も生まれたのではないかと思うのです。

私は今さら昔の商店街に戻るということを言っているわけではありません、本来の価値というものをよく見定めてから行動するということが大事なのだと思うのです。

自然と同じく、必用なものが必要なところに必然と在れば、活き活きしていくものです。

知らずしらずに受ける刷り込みにも気づいて、自らの本質を確立していきたいと思います。