嘘の情報の時代

今の時代は、情報が氾濫して何が本当のことかが分からなくなってきています。情報ツールがいくら増えても、その情報の本質が歪んでいたら一体何が本物かもわかりません。

本来、情報というものは誰かが言っていたからやみんな言っているからなどということが本当のこととは限りません。また安易にメディアを信じても、それが確かかどうかは編集されていますからわかりません。

正直で嘘がない世の中になっていれば、情報はほとんど歪まずに存在します。しかしそこに嘘や偽りがほとんどの世の中になっていればほとんどの情報は歪んでいくのです。

今の時代がどういう時代かをよく観察していたら、今が嘘の情報の時代であることはよくわかります。だからこそ、これは本当だということを証明するための仕組みをみんな探します。おかしな世の中ですが、社会というのは全体がどちらに傾いているかでその世の中の情報の姿も変わります。

特に歴史をみれば政治という人の権力にとって統治する仕組みの中では情報操作は常に行われてきました。情報こそが人の権威や権力を左右するからです。今、世界は情報戦が繰り広げられています。

本来の言葉の意味も換えられ、歴史も換えられ、価値観も文化も換えられていきます。何も考えていないで情報に受け身になればあっという間に情報戦の餌食になってしまいます。

だからこそ自分自身で本質を深めたり、掘り下げたり、または自分から五感や六感をフル稼働し、現地で体験しながら生の情報を獲得していく努力が欠かせません。

今の読んでいる古い本、そしてこのブログでも、本当にそうなのか、本当は何なのか、これはいつからはじまったのかと、最初からゼロベースで調べていく努力が必要です。

主体性はこの情報のところにも存在するのです。

子どもたちのためにも、本当のことを自ら深め、本質的な実践を積み重ね、天に恥じないような誠を自分自身と正対して実践していきたいと思います。

反省の大切さ

論語に「吾日三省吾身」というものがあります。これは「吾、日に三つのわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。伝えられて習わざるか」の孔子の高弟、曽子の言葉です。

反省というのは、自分自身の心に向かって内省していくものです。誰かの比較や評価ではなく、その日あったことを振り返り自分自身の心に訪ねて対話をしていくのです。本来の主体性というものは、一方的に外側から伝えられる情報では発生しません。外側で感じたことを内側でどのように感じたか、そして同時に人生の意味や目的や初心などを砥石にしてどのように磨いたかを確かめるのです。

人は失敗することで成長しますが、失敗は反省することで得られます。そして反省したら改善や修繕の創意工夫が産まれます。つまり反省をすることは、人生をよりよく生きる上で何物にもかえがたいものであるのは間違いありません。

松下幸之助さんはこういいます。

「誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。」

そして稲盛和夫さんはこういいます。

「忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちである。そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならない。反省ある人生を送ることにより自分の欠点を直すことができ、人格を高めることができる。」

名経営者たちもまた、反省の大切さに気付き反省することで素直さや謙虚さ、主体性や純粋性などを磨かれ人間として成長を学び続けておられたように思います。

もともと反省は、自分自身との対話ですから一人でやっていくものです。しかしそれだけでは日本の伝統的精神の衆智を集めることはできません。だから私は一円対話という場を通して反省する仕組みを提案しています。

忙しくなるのは、振り返る「場」がないからです。

人は場があれば、その時間は丁寧にその場で自分自身と向き合うことができます。それをみんなで振り返ることができるのならみんなで自己内省したことを共有しあうことができます。

例えば、初心をみんなで振り返る場があればみんなが主体性を発揮して改善していく組織になります。誰かと比較や、思い込みやバラバラになるのではなくそこに確かな協力や共有が深まります。つまりバラバラでも内省によって繋がりあう関係が結ばれるのです。

これを自律分散型の組織という言い方もします。振り返りは、自律や協力をしていくための土台です。これはまず自分自身がそうなっているのかということを振り返ることが前提になっています。自分というものとの付き合い方がととのってないのに、周囲の人との関係をととのっていくことはできません。

自分自身をよく振り返る人は、自立していきます。子どもたちにもその時間や場を設けることの大切さを伝えていますが、そこに関わる方々の場もととのえていく必要があると感じています。

だからこそ論語にある「三省」が大切になるのです。徳もまた内省によって磨かれていくものです。引き続き、生き方を通して一人一人が自分らしく仕合せに生きられる社会のために自分自身と丁寧に一円対話していきたいと思います。

大切な一歩

日本には古来から今まで続く伝統の精神があります。これはずっと先祖代々、親祖から今まで大事にしてきた心であり私たちの基礎や土台になっている重要な文化の源泉でもあります。

つまり何を大切にするかということを、代々、伝承して磨いてきた私たちに備わっている精神文化です。これは空気のように当たり前になっていて気づきにくいものですが、それぞれの民族にはそれまで連綿と続いてきた伝統が必ずあります。伝統とは、伝承されてきた歴史のことです。

この歴史は、風土の影響を受け、或いは、ご縁の影響を受け、また或いは偉大な先人の確立した哲学や実践の影響を受けたものかもしれません。私たち日本人が、よく感じている空気感、場や間、和などもまた日本的精神文化であることは間違いないことです。

ここから何が分かるかと言えば、一つは八百万の神々という言い方があるように多くの神様の意見を集めること。八意思兼神を私も邸内社でお祀りしていますがこの神様は神々のファシリテーターのような役目で一円観を持つ偉大な先祖でした。

もう一つは、徳を重んじることです。自分の主体性を発揮し、自分らしくイキイキと楽しみ喜びながら周囲の喜びになっていくという姿。日本人の仕事観は、本来は「ハタラキ」といって自然のように自分自身を主体的に発揮してみんなのお役に立っているということです。つまり、みんなの働きにみんなで感謝しているという状態。いつも働いてくれてありがとうとすべての存在に感謝しているということです。

さらに一つは、繋がりの中に生きているということです。常に一緒に生きているという存在として思いやりを忘れていません。和の心とは、調和のことですべてのご縁を大切にして繋がっていることを忘れないという生き方です。このつながりに何か大切な意味があるとし、そのご縁の糸を丁寧に丹精を籠めてつなぎます。ご縁をみんなで尊重し合うのです。

日本人は、本来、そういう精神文化の土台の中であらゆる世界の文化を取り入れてj文たちの文化の上に重ねてきました。土台があるから、器があるからそこに盛ることができるのであってそれがなくなればただ散らかっている部屋のようになってしまいます。

今の世の中の問題を眺めてみたら散らかし放題で片付ける人もいなくなっているように感じるのは私だけでしょうか。子どもたちはその散らかった部屋で居場所がなく、あちこちとさ迷ってしまいます。

先人たちの今までの生き方を見つめるとみんな子どもたちにその伝統精神をどう譲っていくかを苦心して努力してきた存在であったことがわかります。

その証拠に、行事や御祭りをしたり伝統的な暮らしをととのえていく場をたくさん用意して反省を続けた形跡があります。

この時代は世界の文化が混じり合っている世紀ですがだからこそ自分たちの文化をちゃんと学び直す必要があると私は思うのです。私の暮らしフルネスは小さな一歩かもしれませんが、先人たちが紡いできた長い道のりの大切な一歩です。

真摯に子どもたちのために、自分の天命をやり切っていきたいと思います。ありがとうございます。

自然のみち

毎日、新しいご縁があり私はいつも通りに実践をしてそれを分かち合いますがそのことで色々なことに気づいて変わっていかれる方がおられます。ある人は、今までの暮らしを見つめ直すきっかけになったり、またある人は心の充電をして元氣になったり、またある人は先祖や家を大切にしたいと仰られたりします。

私が何か意図がなくても、自然にその人の中で大切にしていることの背中を押すことになったり、その人の勇気や応援になったりもします。

こういうことが何よりも有難く、自分の存在で何かお役に立てたと思えることは仕合せです。

そう思ってみると、目の前の美しい花によって心が洗われたり、朝の鳥の鳴き声によって気持ちよく目覚めたり、空の美しい空気や太陽の光によって清々しい気持ちになったりと、自然は自然にしているままで周りは何かに気づいていきます。

自然体であるということは、それだけ周囲の心や感情に影響を与えています。それが純粋であればあるほど、あるがままであればあるほどに人はその人の存在によって何かを気づいていくのです。

気づかせようとするのではなく、自然に気づいていく。

そういうかかわり方の中に、有難さや徳もまた存在しているように思います。いつまでも謙虚に素直に、あるがままの自分を磨き直しながら道を歩んでいきたいと思います。

弱さの真髄

昨日、聴福庵に来られた方々にここまで直すのにどれくらいかかりましたかと聞かれました。実際には、今も修繕し続けていますから5年以上ということになります。そして今も、お手入れしないと傷み壊れていきますからずっとやっていくことになります。

つまり古民家に住むというのは、日々のお手入れをして直し続けることは当然のことになっていきます。実際に、この時期などは少しだけ目を離せば、庭はあっという間に雑草だらけになります。他にも、誇りを被ったり小さな蜘蛛が入ってきては巣をつくります。定期的に磨かなければくすんできますし葉っぱや落ち葉も風で落ちてきます。

本来、この修繕やお手入れというものは暮らしの一部でした。暮らしの中で自然への畏敬を忘れずにいつまでも生きていくということ。こういう日々の暮らしの中でずっとこの修繕とお手入れは引き継がれてきました。

それがこの150年くらい前から、生活様式が一変し、便利なものが増えて修繕やお手入れは特定の人たちだけがすることになっていきました。古くなれば新しく買えばいいということで、メンテナンスや維持するための努力をなくしていきました。そうしているうちに、完全に壊れてしまいゴミのようになって捨てていくという具合に失われていきます。

不便さというのは、弱いものです。弱いというのは、頑丈でもなく強固でもない。お手入れをしてあげなければ壊れてしまうというものです。日本の家屋は基本はこの弱さを重ね合わせたもので完成しています。

弱さがあるからこそそれぞれの持ち味を活かして協力し合い真の強さを持てるようになります。まさに弱さこそ、日本文化を活かす真髄ではないかと修繕とお手入れをしながら感じます。

この先も実践は続きますが、先人たちと同じように丹精を籠めて日々の実践をしていきたいと思います。

暮らしを支えるもの

宿坊のお手入れを少しずつはじめていますが、長く古いものを磨き直すことは仕合せです。昨日は、薬研という薬草をつくる道具を綺麗にしました。あちこち傷んではいるものの、山伏の暮らしを支えてきたその道具は今でもしっかりしていました。

この道具を用いて、これから何をしようかと思うとワクワクしてきます。道具の方も、新しい使い手がこれから何をしようとしているのかをワクワクしているはずです。こうやって道具と私、私と道具が共鳴共感しあって新しいご縁が結ばれて何かがはじまります。

その時のご縁を磨くというのが甦生であって、私はこれをライフワークにしています。どのようなご縁をどのような心で結ぶのか。その丁寧な取り組みの一つ一つの中に未来への面白さが潜んでいます。私たちはそのご縁のお手入れをしているだけで人生が拓けていくのです。

何か新しいことを必死に探さなくてもよく、丁寧に今の自分の周囲のご縁をお手入れしていくこと。これは物だけではなく、人も同様です。その中で、何か自分にしかできないこと、自分とそのご縁との関係を見つめていくといいように思います。

そういう意味でも日ごろからお手入れをして磨き続けることはその感性を研ぎ澄ませていくことにもなるように思います。

日々の小さな変化に気づく感性や、日々の重要な出来事を平常心で受け取っていく胆力などはどれも日々の暮らしの実践によってととのえられていきます。自分自身をととのえていくのは、日々のバランスのとり方で決まります。

感じることと味わうこと、そして振り返ることと準備して待つことはいのちを元氣に保つための知恵であり工夫です。今の時代こそ、私は古いものから学び直し、そして自分自身を磨き直す道と場の実践が必要だと感じています。

日々の実践を通して、その知恵を子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

屋根を支えよ、いのり続け世

昨日は、日本茅葺き文化協会主催の茅葺フォーラムに参加してきました。全国各地から茅葺職人さんやその文化を守ろうとする方々が参加しておられました。私もはじめて参加しましたが、会場も熱気がありこの先の未来が楽しみになりました。

私は、有難いことにここ数年の数々の甦生を通して多くの伝統文化に携わる方々と交流を持たせていただきました。文化や歴史と共に歩んでいる方々はどの方も力強く、そして守り守られているような雰囲気があります。

代を重ねるというのは、それまでの代々の遺志を繋いでいるということでもあります。これは生き物たちが子孫を残して今につながっているように、脈々と受け継がれていく智慧があります。この智慧を一つ、自分が担っていると感じるだけで天命を味わえるものです。自分の中に何を残してくださっているのか、自分の中に何が受け継がれているのか、その一つ一つをひも解けば自分の使命を自明していくことも可能です。

個性や能力、そしてその人の宿命や運命は、自ら求めなくても自然に導かれていくものです。この道に入っているのも、また日々の出会いも、どれもこれもが文化の顕現したものです。

歴史の面白さはその謎解きでもあり、解明でもあり、新たにそれを見守り育むことができる仕合せを感じられることでもあります。

以前、ブログにも書きましたが聖徳太子が「屋根を支えよ、いのり続けよ」という縁の下の舞のことを書きました。茅葺の屋根は、みんなで葺いた屋根でその一本一本を重ねて束ねたものです。それが自分の家を守っているということを教え、そしてそれをみんなで葺いたということを忘れるなとし、さらにはその重たい屋根をみんなが支えていくようにと初心を舞いで振り返るようにしました。そのうえで、いのり続けよとは、別の言い方では永続する平和の世がいつまでも続きますようにと願いなさいとしたのです。

まさに茅葺は永続の平和の象徴であり、この屋根が多くある日本こそが世界でもっとも自然と共生し永続し循環する仕組みを大切に守る国であるという理念が顕現した国だったのです。

今の時代、先祖たちはきっと心配しているでしょう。しかし、それでもこうやって屋根を守り、祈り続ける人々がいることで安心してくれているでしょう。今までの歴史を省みても、文化を守ったのは大勢いではありません。どのような困難な時も、繁栄のときも、文化を守ったのはごく一部の限られた人たちです。その人たちの純粋で真摯な生き方や生き様によって今の私たちも文化の恩徳・恩恵を享受されているのです。

文化は消えそうなとき、そして失われそうなとき、もっともそこに力が凝縮するものです。その一本の糸は、簡単には切れることはありません。まさにその瞬間も結び続けます。「結」とは、そういう縁「むすび」のことであり必ず守られるという意味でもあります。

日本の茅葺き屋根の文化がこれからこの世界を変えていく気がしています。子どもたちのためにも真摯にその意味を伝承していけるよう守静坊と共に歩んでいきたいと思います。

善根の真心

善根宿(ぜんこんやど)という言葉を知りました。別の言い方では、御蔭宿ともいいます。これは諸国行脚の修行者、遍路、または行き暮れた旅行者などを無料で宿泊させる宿屋のことです。ただなぜ善根というのか、それはお遍路さんに奉仕をし孝徳を積むことができるかともいいまます。

この孝徳とは、孝行の徳のことです。自分の親を大切にするように、喜ばせて大切にするということです。親孝行とは、子が親を敬い、親に尽くすことをいいます。

デジタル大辞林には、《「ぜんごん」とも》仏語。よい報いを招くもとになる行為。また、さまざまの善を生じるもとになるもの。「善根を積む」「善根福種ふくしゅ」とあります。

もともと仏教には、因果応報の法則というものがあります。そこには「善因善果」(ぜんいんぜんか)「悪因悪果」(あくいんあっか)という言い方をします。これは「善い行いをしていれば、いずれ善い結果に報いられる」その逆に「悪い行為には、必ず悪い結果や報いがある」という意味です。

これは地球を含め、丸い球体をみればわかります。どんなに遠くに投げたものでも必ず自分のところに戻ってきます。つまりどのようなものを積んでいるかで、その積んだ因果が長い年月をかけて戻ってくるのです。その時、善い種を蒔く人は善い花が咲くし善い実を漬けます。そうやって、どのような因果を積むかということを常に意識するのが人生をよりよくする一つの知恵でもあったのでしょう。

しかし実際は、宗教とは別に自分の人生を善悪のどちらかでいるためにこんなことをやっているのではかったのではないかと思います。私の思う信仰は、自他を喜ばせることです。みんなの喜びと自分の喜びが一致することです。それを私は徳積みと呼び、お布施といいます。

お布施行としての善根宿であり、まさに御蔭様で宿っているということでしょう。お互いに仕合せになりような巡礼にしていたのが、本質的な宿坊の役割だったのではないかと思うのです。

仲間や巡礼路の甦生に手掛けていますから、私自身もその一つの役割を果たせるように善根の真心で取り組んでいきたいと思います。

人間と道具

現在は、暗記を中心に勉強する仕組みがほとんどです。AIやコンピューターがその部分を担ったら私たち人間はその道具をどう活かすのでしょうか。むかしは、人間が磨かれて一流になり、同様にそれに相応しい道具が誕生してきました。私は古民家で様々な懐かしい道具に囲まれていますがその道具を見ると使い手の心が宿っているのを感じます。

たとえば、包丁などは研いで使っていますが研ぎ方が美しく素直なのです。私が同じように研いでも同じような研ぎ方ができません。それは砥石の問題もあるかもしれませんが、きっと今の私の方がよい砥石を使っているはずです。しかし同じように研げません。

それを振り返る時、その研いでいる人の人間性が磨かれて研がれていることに気づきます。これは道具の問題ではなく、使い手の人間力の問題なのです。誤解なくいえば、人間が研ぎ澄まされているのなら道具はほとんどどれでもいいということです。

これは決して人間か道具かということではありません。人間が高まることと道具が高まることがイコールであるという意味です。つまり人間が成熟してはじめて道具が産まれる。道具がいくら成熟しても人間が育たなければ道具は活かせません。しかし道具によって人間が育つということもあるでしょう。ただ、道具は人間が用いるものですから人間次第であることも事実です。

だからこそ、私たちは人間にしかできないこと、人間として何をすべきかということを振り返る必要があると私は思います。

物を粗末に扱う、そのうちそれは人間を粗末に扱うようになる。物を何でも消耗し消費する、すると人間も寿命を消耗し消費するようになる。便利になればなるほどに、心は忙しくなり貧しくなる。先ほどの暗記すればするほどに詰め込むばかりで窮屈になり息苦しくなっていく。何でもバランスが大事ですが、そのバランスとは人間と物が共に磨かれ磨き合う状態を保っているということだと私は思います。昔の人はそれを知っていたからこそ徳を積みました。畏敬の念、畏怖の念を持ち、自然と共生しあう世の中にしていました。そういう暮らしをととのえながら素直に誠実に謙虚に生きてきたのです。

頭ばかり知識ばかりが増えても、智慧が増えていません。智慧は先人からの真心とともに道具にまだ宿っています。その一つ一つをひも解きながら、子どもたちに大切な心を伝承していきたいと思います。

歴史と文化から学び直す

昨日は、白駒ひとみさんが主催する和ごころ大学で講演をしてきました。日本の歴史や文化から様々なことを学びなおしておられる方々とのお話は心地よいお時間になりました。講演の前後でも、国家君が代の話や、知覧や沖縄の話など、深めたことをお聞きしているとどれも生きた歴史であることを感じます。

そもそも歴史というのは、今の時代はどこか過ぎ去ったもの、終わったものという認識があります。しかし実際は、終わったものではなく今も歴史をつくっている最中ですから歴史は私たちが担っているのです。その歴史をどう学び、今をどう変えるのかというのは本来は私たちこの時代に生を受けた人たちの本当の使命であるということです。

過ぎ去った過去に対して、いかに内省し、それを見つめなおし今をどう変えていくか。そして、何を変えて何を変えてはいけないか。それを悟るのもまた歴史を学ぶ醍醐味でもあります。そして歴史は、今の私がどのような成り立ちでこうなっているのか。そして世界が何処からきて何処に向かうのかもわかります。

つまり人類にとっての先輩は、まさに歴史でありその先輩から文化や伝統を学ぶことで同この世でふるまうことが大切なのかを学んでいくのです。

先人の知恵や先輩の生き方、その中にこそ本物の歴史や文化は息づいています。それもまた徳の一つでしょう。そして学ぶということは、すぐに実践をするということですから私たちは歴史を学ぶために歴史をつくり続けなければなりません。

今、私は英彦山の宿坊を甦生していますがその御陰様で今まで知らなかった歴史、何を変えて何を変えないかも学んでいます。また歴史をつくる仲間たちとのご縁も広がっています。

時は静かに地下水脈のように悠久に流れていますが、それを掘り起こす井戸のようにみんなで歴史を深堀ればまたその水脈は地上の川として道をつくります。

小さな一歩かもしれませんが、これからも子どもたちのためにも歴史や文化を甦生し続けていきたいと思います。