聴福人の境地

私が庵主をする聴福庵の実践は、文字通り聴くことです。この聴くというのは、何を聴くのか。そこに生き方があり、場が醸成されています。来られたことがある人は、その意味を理解して皆さんとても感動されます。また一緒に過ごした人たちは、その生き方や取り組みに感化されて変化していきます。

人は聴くことがあって先に、話す言葉が出てきます。言葉が出たのではなく、いのちが声を聴いたから言葉が顕れたということになります。

日々の天候も気候も変化は已みません。同時に何百年も前、もしくは数千年も生きているような心が入ったものはいのちの声を放ち続けています。そういう声を聴ける他人と、何も聞こえない人がいます。

人間の耳は、雑音を遮断する機能が脳についています。都会にいけば最初うるさいと思っていた音が次第に聞こえなくなります。深山のさらに奥深いところにいけば、雑音などはありません。あるいは、冬の高い場所の雪山であったり、洞窟の中なども同様に雑音などありません。静けさのなかに、聴こえてくる音があるのです。

私たちは心を鎮め、いのちの静けさに気づけば耳が働き声が聴こえてきます。どの境地で物事や出来事、そして今を聴くかはその人の心やいのちの状態が重要になります。

暮らしというものは、日々にどのように心の声を聴いているか、いのちを活かしているか、徳を磨いているかということが試されます。暮らしフルネスというものは、そういう生き方や暮らし方の実践の集大成でありそれが自然体やかんながらの道というものともつながっています。

聞きたくないものは感情の中にもあります、そして心の声も内省をどれだけ謙虚に素直に取り組むかでも変わってきます。西郷隆盛は敬天愛人とも言いましたし、吉田松陰や孟子は、至誠通天ともいいました。

聴福人とは、そういう境地に達した人物ということです。

これからも私の天命を確認しながら、丁寧に誠実に取り組んでいきたいと思います。

徳の世

私たちは徳というものの本体を理解するのに、色々な徳の姿があることに気づくものです。簡単に言えば、浅いものから広いもの、深いものから篤いものまでいくつもあります。それは自分が何の徳に感応しているのかで異なってきます。その徳への気づきこそが仕合せへの気づきになり、器としての喜びになります。

カグヤでは、もう何年も前から「徳の宝」という取り組みをしてきました。今でも毎月、必ず一度はみんなで集まり徳の宝を発表して徳に感謝しています。

思い返せば最初は、自分が何かしてもらったことや、自分にメリットがあることを宝のように感じて発表していましたがそれが次第に存在の有難さや見守りへの恩恵、ご縁やつながりの方がほとんどになってきます。つまり徳に気づける意識が醸成されて、日ごろから徳の中に存在していることに気づける意識になっていったという具合です。

また誰がというよりも、その伝承や実践、行いに意識が向くようになります。自分に対してや相手に対してよりも、その行為の尊さに気づけるようになってきます。仕合せに気づける感性が研ぎ澄まされみんなで豊かになります。

私が目指している徳の世というものは、この徳の初心伝承することによって実現します。

それぞれが自らに備わっている徳に気づけば、無理に個性とか自立とか結果とか比較とかをすることはありません。自らに与えられている徳に気づき、その徳を伝承していれば仕合せを感じます。みんながそうやって自分に具わっている、そして世界すべて、この世のすべてを包んでいる徳と共に生きていると気づくことで自然の生き物のようにいのちの一部になり循環を味わえるのです。

存在への感謝というのは、徳の感性を磨くことで味わう深くもなります。幸福感や喜び、そして仕合せというのはいつも徳と共にあるのです。

徳の世を目指し、さらに初心伝承の仕組みを創造していきます。

 

仲間の刺激

友人が佐賀県の長崎街道の塩田で古民家を甦生しブロックチェーンエンジニアを育成しています。今から2年半前に、色々とアドバイスをしてから地道に自分の手を足と身体を使い工事を進めて形にしてきました。私もやっている自分を客観視することがありますが、まるで自分を観ているようで元氣や勇気をいただきました。

周囲の声が色々とあるなかで、自分の直観を信じるということは大変なことです。特に条件が悪かったり、常識が異なっていたりすればするほどに信じることが難しくなります。しかし着実に一つずつ、形にしていくなかでその人の中にだけある構想や思想、そして夢が現れていきます。

どのようなクニを創ろうとするのか、どのような生き方を遺そうとするのか、それはその人自身の問題です。周囲に合わせて、迎合していけばそれは実現しません。最初は一人であったと思いを決めて、覚悟をもって取り組むことで前進していきます。

2年半ぶりにお会いしたら、別人のように風格も知識も自信も増えていて見た目もですが中身も研ぎ澄まされていました。そしてその姿に感動して仲間があつまり、10人以上のメンバーも増えていました。

私も自分の何がどのように人に影響を与えているのかを感じ直し、自分の取り組む生き方や後ろ姿によって新たな道が弘がっていくのも味わういい機会になりました。

私だけがやっているわけではないけれど、私のいる場所から世界に変化が伝わっていくという事実。人が感動するのは、感動しているまま実践する人の感化力であることも再実感しました。

挑戦を続けていけば、挑戦する人たちの勇気と元氣になります。自分だけではできなくても、みんながそれによって変わっていけばそれが真の復興になり甦生にもなります。

切磋琢磨できるような仲間が増えていくことに仕合せを感じています。刺激をいただいたからには私も結果で応えていきたいと思います。

ありがとうございます。

懐かしい未来

懐かしい未来という言葉があります。この懐かしいというものは、むかしから今も続いているものです。そして未来とは今のことです。今の連続こそが未来そのものになるからです。

本来、むかしにどのようなことが行われていたのか。時間という概念のなかでは過去のことはほとんど覚えていないということになります。しかし時間という概念がないとするのなら、過去のことは今であり今があるというのは過去はないということになります。そうなると今はむかし、むかしは今となります。

つまりは過去がないのだから、今こそまさにむかしそのものを象っているということになるのです。

そういう意味で、神事というものは過去のものではありません。今のものであり、今もむかしと同じことを続けているだけということになります。

私は時間軸でいえば1000年前も100年前のことも覚えてはいません。しかし、そのころに同じ心で同じように場を設け、みんなで一緒に味わっていたであろうことは思い出します。それは今の心から思い出します。過去への推測ではなく、今感じているものに歴史やその当時の人々の心を直観するのです。

私たちは過ぎ去ったものを歴史と呼びます。しかし本当にそうでしょうか、この大きな勘違いと常識によって今というものがわからなくなります。今を生き切る、今にいるということの大切さは本当の自分たちを知り、本来の未来を実現するということです。

懐かしい未来というものは、そういうものであり私が実践で取り組んでいる暮らしフルネスもまた同様にこの今、此処に真心を籠めて生きることでもあります。それは私のいる「場」に来ればすぐに学べ伝わります。

子どもたちに懐かしい未来のままで喜びや仕合せの初心を伝承できるようにこれからも精進していきます。

永遠の今

本日は、妙見神社(ブロックチェーン神社)の4回目の例大祭です。この日は、この神社創建の日であり一年で最もハレの日として盛大に御祭りをしています。ここの神社にご縁ある方、いつも見守っていただいていると感じる方々と共に神様を喜ばせるような清々しい一日を過ごしています。

よく考えてみると、一人の人から祈りがはじまりそれが長い歳月を経て多くの人々が祈る場所になります。この世のすべての神社や仏閣もまた、同様にはじめは一人からはじまったものです。

今では当たり前にどこの神社でも寺院でも参拝できますが、むかしはそこには何もありませんでした。そこに一人の人物が覚悟を定め祈りはじめそこから祈りは広がり子孫をはじめ今も祈りは続いています。

この祈りこそバトンの正体であり、その祈りを通じて私たちは大切な初心を伝承するのです。この祈りとは、まさに行そのものであり今でも実践を通して太古の人々、親祖と呼ばれるはじまりの先祖の真心に触れることができます。

私はご縁があって神社創建の機会をいただき、むかし人がどのような気持ちで信仰をはじめようとしたかも体験させていただきました。ずっと永遠を願い祈ることは、永遠の平和と仕合せをいのることでもあります。

ここは秩父神社から八意思兼神、妙見神社から闇雄神の御霊に御鎮座いただいています。智慧を司る神様と水を司る神様です。不思議なことですが、同じ想いで繋がっていくからかその祈りと共に歩む方々ばかりがこの場に来ていただき一緒にお祈りや御祭りをするようになりました。

今でも私たちは歴史の中にいて、むかしからずっと今にして祈りを続けています。連綿と永遠に道は続くのです。

その大切な日を忘れないことはハレの日を常に甦生し迎え続ける目出度い真心の養生です。みんなで喜び合い仕合せを感じることこそが、この例大祭の本質ではないかと感じます。

永遠の今を味わい、一期一会の喜びに感謝していきたいと思います。

掃除と徳

昨日は、例大祭に向けて掃除を行いました。掃除は日ごろ行っているのですが、改めて一年に一度、その時機に初心を思い出すような掃除をすると改めて自分の原点を知ることができるものです。

この自分の原点を知るというのは、最初は原点からはじまりますがそれが日々の情報や新たな記憶、他にもつながりや流行変化などで次第に埃かぶったり、あるいは汚れのようなものでくすんできたりするものです。

そういうものも全部は取り払えませんが、経年変化してきたもの、色々と折り重ねてきたものなどもよくみてどういう日々を過ごしてきたかを振り返ることができるのです。

人は振り返る時、どこまで振り返るかというものがあります。ある人は、前の日のこと、ある人は覚悟を決めた日の頃、苦労して掴んだ決意、あるいは生まれてきたとき、生まれた後のことからなどもあります。

それは頭だけでやるのではなく、まさに全身全霊で行うことで身体や五感が思い出します。掃除の功徳というものは、色々とありますが私はこの本来持っているものを思い出しそれを甦らせるところにあるのではないかと思います。

元々どうだったかということを思い出せるというのは、その徳が思い出せるということです。徳が観えるということは、そのもののもっている原点やあるがままの姿を直観することができるということです。

掃除というものは、その徳を磨くことにも有用でありまさに徳とは切り離すことができません。

子どもたちのためにも、本来の徳、原点のことを伝承していきたいと思います。

季節の巡り

明日は、節分でいよいよ2月4日は立春です。二十四節気もここからはじまります。私は自然暦というものを直観して暮らしをするのでこの時機は自分の季節感覚を初心に戻す大切な期間としています。

二十四節気は季節を感じるのにとてもよく、自然が今どうなっているのかを意識的に観察できます。ちょうどこの立春までの間はは最も寒さが厳しい大寒というもの。そして立春の期間を過ぎれば天候は雪から雨へと変わり雪解け水が大地を潤す頃という意味の雨水になります。すでに三寒四温が繰り返され、朝晩の霜も降りず大地は次第に水気を帯びてきています。

春というのは、すべての生き物たちが夏に向けて準備をはじめていきます。5月の節分を迎える初夏のころには新芽が旺盛で一斉にすべての生き物たちが子孫繁栄のための成長を開始します。春は、まさに長く厳しい冬を超えたいのちが福をいただきお目出度い心のままに目覚めるのです。

私の家の近くでも野良猫たちが騒ぎだし、池の畔の鳥たちも賑やかです。

気が付かないだけで周囲はみんなそれぞれの役割や役目に集中しています。本来、人間は他人のことばかりに時間を使わずに自分自身に集中していく必要があるように思います。自然、野性の生き物たちは、自分自身の直観に正直で素直です。

その季節季節の巡りに対しても今、どうあるかを直観で判断して行動しています。そんなに頭でっかちに考えていることなどはありません。頭は悪くても、行動力と直観力があるのが野生です。

今年は野生の勘というもの、自然の直観というものをどれだけ優先できるか。それをさらに磨く一年にしていきます。英彦山とも再会し、歴史とも出会い直し、修験道や自然道も拓きました。

新しい一年を迎えるまで、心を調えてこれから掃除を味わいます。懴悔懴悔六根清浄して、また新たな道を一歩一歩開いていきたいと思います。

闘魂を燃やす

昨日、一緒にブロックチェーンのソフトを開発している方からアントニオ猪木さんの話をお聴きしました。その方は、ずっとむかしから猪木さんの生き方を尊敬していて今でも日課のように猪木さんの動画や本から生き方を磨いているそうです。

その中に「燃える闘魂」というものがあります。猪木さんは色紙にあるときから燃える闘魂という言葉を書くようになったそうです。もともとは師匠の力道山が書いていたものを観て、自分も自然に書くようになったそうです。その意味を、引退の時の動画の中でこう語られます。

「わたくしは色紙にいつの日か「闘魂」という文字を書くようになりました。それを称してある人が燃える闘魂と名付けてくれました。闘魂とは己に打ち克つこと。そして闘いを通じて己の魂を磨いていくことだとおもいます。」

人は道を歩むとき、魂をふるいたたせて自分の道を切り拓いていくものです。そこには自分という唯一無二の一人との正対があります。自立のことです。その自立は、何によって磨いていくのか、それは日々の自分との生き方との向き合い、自分との約束、自分との対話、自分の決めた覚悟や優先順位、そして内省などによって磨き上げていくのです。

自分にはこの道しかないと覚悟を決めるとき、人は闘魂がはじまります。常に闘魂をし続けているか、自問自答をしながら道を噛みしめるという生き方。その姿に人々は感動をして、自分はどうかと鑑にしていくことができたのでしょう。そういう生き方は、人々の心をつなぎ、そして道が後に続きます。

そしてそのことも同時に引退動画で語れていました。心に沁みる言葉です。

「さいごにわたしからみなさんに、みなさまに、メッセージをおくりたいとおもいます。人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに年老いていくのだとおもいます。」

『この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ』

と。

最初の一歩を踏み出すのは怖いものです。新しい扉を開くことも躊躇うものです。しかし闘魂はそこからがスタートなのです。最初の一歩を踏み出せば、何の奇跡と出会うか、その奇跡が闘魂だということかもしれません。

人生には教科書のような答えはありません、そんなもの暗記しても何の役にも立ちません。なぜならそこに闘魂はないからです。闘魂は自ら燃やすものです、いいかえれば燃え続けているときが闘魂であるのです。死ぬまで闘魂、それをアントニオ猪木さんは生き方で私たちに見せてくれました。

つまり、生死は度外視、大事なのは「生き方」だと。そして生き方を歩むと決めたなら働き方を変わります。自分はどれだけ闘魂を燃やしているか、日々は一期一会、二度と同じ今は訪れません。

だからこそ己の恐怖や不安、逃げる気持ち、焦る気持ち、あらゆる感情と向き合いながらもそれを燃料にして灰になるまで燃やし続けるのは自らの意志です。生き方の先輩や同志に熱源の影響を受けたならその恩返しに周囲へも情熱を与え燃やせる存在でいたいと思います。

ありがとうございます。