心に寄り添う

昨日、ある方の理念取材をするなかで「心に寄り添う」ということについて話をお聴きする機会がありました。これは昔は当たり前だったかもしれませんが、今ではなくてはならないとても大切なことであることを感じます。

この心に寄り添うということが一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

他人の気持ちが分かる人という人がいます。それは他人を単に頭で理解するのではなく、その人の思いやりやその人の心に共感し、その人がどんな気持ちでいるのかを心で理解していくことが出来る人のことです。

この心で理解するというのは、自分の中にある共感力が必要です。そしてこの共感力は単に知識で得られるものではなく、心の経験と体験の集積によって次第に理解が深まっていくものです。

齢を経ていけば、昔祖父母にしていただいたことや両親にしていただいたこと、周りの方々の見守りや先輩、先人からの御恩を感じて次第に心が育ち、他人の気持ちが分かる人に成るからです。

この他人の気持ちがわかるようになるということは、他人の心に寄り添うことができるようになってきたともいえます。

例えば、今では心で思っていなくても頭でこうすればいいのだろうと常識的に対応したりする人も増えています。子どもに対しても子どもの気持ちを心で理解しようとするのではなく、頭で思い込んで対応しても子どもは心が充たされるわけではありません。

これは動植物も同じで、すべてのいのちには心があり、その心に寄り添うことではじめて対話が成り立つからです。これは無機物のものであったとしても、使われる側の立場になって心を寄せながら使っていけばそのものと心が通じ合い満たされています。

共感というものは、人類をはじめすべての生き物たちがいのちのままに生きていくために必要な大切な能力です。これは「思いやり」のことです。人は心を寄せていく実践をすることで思いやりが育ちます。思いやりが育つ人は、次第に他人の気持ちが分かるようになってきます。自分がどんなに他人の気持ちが分からないと悩んでみても、もしも相手が自分だったらと自分の体験が増えれば増えるほどにその苦しみや歓びを分かち合うことが出来るようになります。

人は思いやりがあるから信じ合うことができ、思いやりがあるからいのちを感じることが出来ます。いのちと接している自覚をどれだけ大切にするかというのは、他人の気持ちが分かる人になることにおいては何よりも重要なことです。

昨日は「いのちに関わる大切な仕事」をしているのだから「子どもの心に寄り添う」と仰るその言葉に大切なことを学び直した気がします。どんなこともいのちに関わるからこそ思いやりの心を育てて自らが他人の気持ちがわかる人に近づいていきたいと思います。

ありがとうございました。

  1. コメント

    「分別力」が働いてしまい、善悪や正邪を意識してしまうと、それが「裁き心」に変わることがあります。人に対しても、接する前に先入観で裁いてしまったり、あるいは、相手の発言をいちいち裁きながら聞くということもあります。この「裁き心」があると、真に「心に寄り添うこと」ができません。「寄り添うこと」が手段である間はいらぬことをしてしまいます。この「裁き癖」を除くことがまだまだ課題です。

  2. コメント

    相手に心を寄せていると思っても、見透かされたような反応を示されることがあります。どんな気持ちでいるのか、どんな思いなのかは積極的に聴きに行こうという姿勢でないと自分自身の価値観で聞いてしまっています。教えよう、アドバイスしようではなく、まず第一に寄り添うことを大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    心に寄り添うというのも、その場で何とかなるものではなくミマモリング、それまでのプロセスがあって自然と寄り添うのが本当で、寄り添えたと思う気持ちは我でしかないように思います。心に寄り添った風になることがないように、常に「生き方・働き方」の方で自然と寄り添いが出来る自分になっていきたいと思います。

  4. コメント

    昨日の稲の周りの草刈りも、稲の気持ちになってみたり、雑草の気持ちになってみたりする中で、なんとなくですが、自分都合ではない価値観にほんの少しだけ触れられたような、そんな感覚を持ちました。これが日々繰り返す中で共感力や寄り添いが生まれるのだと感じます。背景、価値観に飛び込む覚悟と裁かぬ心を大切にして行きたいと思います。

  5. コメント

    ありがとうございます。
    人間づきあいも、心を見ずに事務的にやっつけ仕事で処理していた時期があったことを思い出しました。

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