失われた文化

昨日は古民家の床材を古材でリメイクするために古材屋さんの工場に大工の棟梁とお伺いしてきました。そこには長くて百数十年前から数十年前の古材があり、解体されたものが集まってきていました。本来は捨てていくようなものを拾い集めて再利用していくということはいまは失われた文化だとも言えます。

かつて日本の先祖たちはものを大切に最後まで使い切っていました。それは捨てない文化だったともいえます。今では捨てる文化が広がり、捨てること前提で作られたものはすぐに壊れてしまいます。

昔のように末永く使うだろうと思い素材から吟味し大事につくるという文化は廃れ、大量生産大量消費の中で便利に使えて安く交換できるようなものが蔓延しました。同時に捨てる文化が広がり、捨てない文化がなくなりました。

自然からいただいたものだからこそ大事に使い切るという発想は、いのちをいただくのだからそのいのちを使い切るという発想から来ています。樹齢数百年の樹木を切り倒しそれを木材にし、建築をする。その木材になったいのちをどれだけ大切に扱ったか、そこに自然と共生していく思想があります。

今では解体屋がきては、ものの数日ですべてを破壊し焼却しますがそれまでのいのちはいともたやすく捨てられます。いのちが大切にされない時代だからこそ、心が病んでいる人がふえたようにも思います。

使い捨てというのは、自分の利用価値がなくなれば価値がないという考えから来ています。いまの時代はもったいないという言葉の意味も、単に自分にとっての損得の基準で使われるようになってきました。本来のもったいないは、いのちを使い切っていないのだからまだまだ活かせるという意味でもったいないと感じたように思います。他にももったいないには、自分の損得を超えていただいたご縁のことや、一期一会に形を変えてはお役にたっている尊い姿にもったいないと感じていたはずです。

昨日の古材屋さんが古材が集まらないと嘆いていたのは、それだけ古いものの価値が捨てられていることが進んでいるということでもあります。昔の家屋は先祖たちが子孫のことを慮り、立派な梁や柱を用意し、それを解体し組みなおして温故知新して代々の子孫へと継承していき命をつないでいきました。

この子孫繁栄の仕組みと人類の発展の原点、それを忘れてしまった人類は少子高齢化の中で大事なものを捨てていることにそろそろ気づいてくると思います。

改めて、今の人々が捨てていくものを拾うという発想が必要だと思います。それは捨てていく文化の中でもっとも大切なものを拾い続けるという意味です。

引き続き復古創新を学び直していきたいと思います。

  1. コメント

    本来「解体」というのは、寂しい作業です。使い切っていないいのちが壊されていくのは、忍びないものです。群言堂の松葉さんが、解体される民家から引き取った廃材を大量に保管されていますが、それを見た古物商は、「価値があるものはひとつもない」と言ったといいます。「売れる」から価値があるのか?!「いのちがある」から価値があるのか?!すべてを捨て去り「ゼロにしてしまう発想」は見直さないといけないでしょう。

  2. コメント

    「今の人々が捨てていくものを拾うという発想」。聴福庵に携わるようになり、その意味することを感じられるようになりました。群言堂の松葉さんからお聞きした時と今とで、その言葉の重みを感じます。目の前の損得よりも徳を重んじ実践を積んでいきたいと思います。

  3. コメント

    利用価値で評価する時代であるのは、ものだけでなく、人材に対しても同じくあるのだと感じました。子どもがどんな行いをしようとも、まずは自分が相手の存在を丸ごと認めているか、三省していきながら、そこにある命を感じられる自分でありたいと思います。

  4. コメント

    使い切っていない、それはものに限らず日々いただいている体験や機会についても同じようなことが言えるのかもしれません。十分に活かし切っているか、それは結果よりもプロセスを味わえているか、その場その場のイベント的ではなくそもそもの繋がりが感じられているかにも通じているように感じます。生き方からそこを見直していきたいと思います。

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