国譲りの本質

日本の神話には、国譲りの神話というものがあります。これは出雲の国津神だった大国主が高天原の天津神である天照大神に国土を譲るという話です。ここから日本という国の本源が形成されて今に至ります。

もちろん神話は史実が神話として伝承されてきたものもあると思いますが、これは大局的なものの観方になりますが単に国家が別の国家に主権を譲ったという話ではないのが洞察できます。それは今までの日本人の暮らしを観ればわかります。

例えば、今更自分が国津神だとか天津神だとか言い争う人はほとんどいません。これだけ混血し歴史が混濁すれば、元をただせばみんな同じ民族だとも言えます。それだけ多数の人たちが混ざり合って今があります。どちらの民族の国というよりも、日本はそれだけ民族が混ざり合った国です。しかし今でも大切にしているのは、神社に参拝しみんなでお祭りをし自然に沿った暮らしをすることです。

ここから感じるのは国譲りの本質は、「自然に譲った」ということになります。つまりは、人間優先の世の中ではなく自然を尊重する世の中にしていこうという国家永続の理念を初心にされたということです。

田畑であっても、戦であっても、常に自然を守り、自然を尊重し、その中で慎んで謙虚に行うということ。必ず其処に神社があるのは、杜を守り、澄んだ心を失わないことを維持するためです。

人類が滅びるとすれば、現代のように人間が優先され傲慢になり自然を破壊し自然を尊ばないような生き方になるときだと神話は物語ります。神話はかつて、戦乱の世の中で如何に自然から離れることが危ないか、自然を尊ばないことが破滅を呼ぶかを知っていたのかもしれません。

国譲りに観られるように、私たちは自然に国を譲り、自然の中で自然に見守られ同時に見守りながら歩んでいこうとしました。様々な罪や穢れも大祓いによって清浄化され澄まされていくようにと人間の欲と付き合うための仕組みを工夫していました。

自然から離れないためにも身近には必ず神社という自然の杜を置き、そこにお参りすることで先人の教えや遺訓を言葉ではないその場の教えによって引き継いでいたのでしょう。

人間が自然に譲ることこそが、国譲りの本質なのです。

引き続き、生き方を見つめ直して常に自然を尊重しながら文化を高めていこうとして先人に習い、日々を精進していきたいと思います。

 

  1. コメント

    思春期の頃、一体自分は何者なのかと考えることがありました。あの時期、特有のものかもしれませんが、はじめて神話を読んだ時、その不安が晴れるような思いを感じました。両親や祖父母がいて、ずっと遡れば、神話にまで行き着き、自分の存在意義を感じられ、神話を手に取る前と後では大違いなものがありました。神話の中に込められた想いや智慧など、子どもたちへ伝えていくことも大切な役割なのだと感じます。

  2. コメント

    先人の生活には、ベースとなる「信仰」と「信仰心」があり、暮らしも戦も商売も、すべてその大前提のもとに行われていたのでしょう。何ごとにおいても、尊ぶものを尊び、畏れるものを畏れ、守るべきものを守り抜いて、正々堂々としていました。「勝てば官軍」というような卑怯さを今一度見直し、私たちの大前提を思い出す必要があるのではないでしょうか。

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