無の境地

人間は生まれてきて何らかの答えを見出そうとする生き物です。言い換えれば、目的を知ろうとする生き物かもしれません。しかし目的を知ろうとすればするほどに、その目的が何かがわからなくなります。つまり目的というものを観ようとすればするほどに目的が観えなくなっていくのです。

最近は、分子レベルの研究が進み関係性によって万物が変化していることが科学でわかってきました。つまり自分がそのものにかかわることで、分子レベルで物事が変化を已まずに成長していくということです。関係性により発達していくということでしょう。

この「万物は関係性により発達する」というのが、この世のすべての生き物に共通しているある種の目的でもあるように私は思います。つまり何をしようがしまうが、いのちは常に発達しようとするからです。いのちは発達したいからといって無理に発達させようとすることをやめ、自然に発達することを味わうことで発達そのものの正体に気づける存在のかもしれません。

この発達するというのは、私は長く保育というもの深く関わってきましたからこの世に生まれてきた瞬間からその主体的ないのちを観てこれは真実だということを気づきました。そして周囲の大人もまた、その主体的ないのちで発達する子どもの姿に自然に笑顔が出るのです。

この笑顔が出るというのもまた、一つの真理であり生きている実感を味わってでる表情の一つかもしれません。

私は以前、自然農の先達の方とのご縁の中で「答えを生きる」ということを学んだことがあります。その時の私は答えを探すのではなく、答えそのものを生きるということを実践しているといわれたのです。

人生は本来、無目的です。禅においてもこの無を重んじ、主体性を発揮させるアプローチの修行がたくさんあります。瞑想をはじめ、あらゆる修業は無そのものを思い出すためにあるような感じでもあります。

もっと言えば、思わない、考えない、あるがままの姿に回帰するという言い方になるかもしれません。人間は知識を得て、言葉を持ち、文字を持ち、いろいろなことがわからなくなっていきました。わかろうとすればするほどわからず、答えを出そうとすればするほど答えがない。そのうち、生きる気力が失われて気枯れていきました。元気がなくなっていくのです。

この気力を恢復させていくのは何か、それは私は伝統的な「暮らし」の中にあると信じています。この世は、お互いを尊重しあい共生することでみんな気を分け合って元気を得ています。不思議と、暮らしがととのっていくほどに人は元気を取り戻していきます。

一つの生きる意味や価値として、元気になるということは無の境地の体得の第一歩になるかもしれません。暮らしフルネスの体験を通して、子どもたちに生きる仕合せやご縁でつながる喜びを伝承していきたいと思います。

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