人生学問道

英彦山のお山の暮らしを味わっていると、出会う本も変わってきます。環境や杜に関するものや、仙人の話や神話や檀君の伝説、地理的な考察や明治頃の歴史の改ざんなど今まで以上に心魂や肉体に知恵が入ってきます。何か目には見えない何かが存在していて、まるで話しかけてくださっているかのように言葉が閃いてきます。

先月頃より、南方熊楠のことが気になって深めています。その生き方や生きざまには共感するものが多く、学問を志す姿勢に心を打たれます。この南方熊楠(みなかた くまぐす)は、1867年5月18日 に誕生し、1941年12月29日に亡くなっておられます。

有名なのは粘菌の研究で知られていますが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究も行っており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行っていました。1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献しています。民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがありますが、膨大な投稿論文、ノート、日記のかたちでで遺っています。学問をお金儲けのためには使わずに、真摯に学問をしてきたからこそ後世のために生きざまだけではなくその学問の在り方まで子孫へ伝承しておられます。

またフランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長け、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟したとあります。柳田國男から「日本人の可能性の極限」といわれ現代では「知の巨人」とも言われているそうです。水木しげるさんが、南方熊楠のことを漫画で紹介していますがこのお二人の目指す志が相まって一気に読みこみました。純粋無垢な人物は、その時代の人たちからが誤解されます。さらに日本人そのもののような子ども心を持っていたらなお変人扱いされます。

明治頃より、西洋の価値観が最上と刷り込まれ常識が変わってしまっていますが骨抜きにされた日本人たちが学問とは何かということも忘れてしまっています。この熊楠のように真摯に探究していくのは、学問道であり本来は当たり前にいた日本人の姿だったのかもしれません。

いくつか遺した言葉を紹介します。

「学問と決死すべし。」

「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」

「学問というのは本来大学から学位を得るためのものでなく、嫌な学問をやったところで何の益もない」

「肩書きがなくては、己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」

名誉や地位や評価のための学問ではなく、まさに生きることこそ学問と取り組まれたのがこの言葉からもわかります。今の時代、学問を見せびらかすように行い、テレビやSNSで評価されることばかりを目指すことに何の意味があるのかと感じます。本来、自分のものにしていくなかで知恵を自分で獲得していくのが学問の本懐ですから表面をなぞってもそれが自分の知恵には結ばれていきません。私自身も日々に学んでいることはご飯を食べるように味わい丁寧に元氣を養うために楽しんでいます。別にブログのために学んでいるのではなく、学んだことを忘れないように書き残して自分の経験に映すようにしています。時代が変わっても、同じ生き方をしている人をみると勇氣をいただきます。

また熊楠で私がもっとも共感するものに、国家神道の普及のために行った神社合祀令に反対したことです。一時的で近視眼的な政治的メリットで伝承や日本の精神や信仰を破壊する行為です。これに対しては、「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と激しく怒ります。

その理由は「小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼荼羅ならん。」とし、本来の天然風景の中にこそ純粋な日本があると見出しました。私もこれは同感で、余計なことをせず、人々が暮らしを通して実現してきた風土と一体になった暮らしこそ日本人の本来の原型であろうと思っています。私が甦生しようとしているのも、この風土と暮らしでありそこに日本人の伝承があります。

最後に、万能というのは万能を目指したのではなく学問に対して真摯な姿勢だったということです。私もあらゆるものを学びますが、一生涯、学び続けて学びながら死にたいと思うものです。死んで学びが終わるわけではなく、死後も学びは活き続けていきます。だからこそ、学問は楽しいのです。

子孫のため、自分のためにもさらにこの私の人生学問道を追及していきたいと思います。

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