余裕とゆとり

先日、ある園で私がファシリテーションして職員会議を行った。

園の職員会議では様々な議題が出る中で、それぞれが余裕がなくなっているのをよく見かける。余裕を持つというと、すぐに世間では休みをたくさん取ればいいや仕事をしなければいい、量を減らすといいと安直に考えるけれど現実はそうはいかない。

誰しも無意識に自分の仕事というのは自分で領域を決めて行っている。他人から下りてきた仕事だからや、突然ふってきた仕事だとかいう人もいるけれど本当の質量は自分自身がそれを決めている。特に実作業などに追われていると、目線が小さくなり大事な理念やその意味などが観えなくなることもある。

余裕がなくなると本質的な仕事はできなくなる。特に人間とコミュニケーションをする保育や教育にとって余裕というのは何よりも優先する重要なことだと私は思う。

余裕というのは私が考えるものにはいくつかある。

たとえば、物理的にも時間的に忙しいときに求めている必要な余裕だったり、自分に自信がなくなった時に求めている必要な余裕だったり、感情などで刷り込みの渦中にいる時に求めている必要な余裕。等々

余裕がなくなるとそういうこともあえて考えていることはほとんどない。

しかし本当に余裕がないとみんなが思っているなら余裕についての職員会議をすればいいのにそういうことに時間をあえて使われることはほとんどない。

だいたい余裕のない人とは、私の定義では「余裕」ということを自分の頭でちゃんと考えない人のことをいうのではないかと思う。その余裕がないことをいいこことにそれ自体を考えずに外側だけの現象で安易に決めつけ忙しくし、終始何かに依存していると余裕がなくなるのは当然のことだとも思う。

働き甲斐や遣り甲斐、自分が成長するということに失敗も成功もない、すべては無駄がなく人生そのものということに気づいていない。

話を戻す。

特に私がよく見かける園の保育現場ではいつも混沌とした忙しさを持っている。それは保育士だけではなく、主任など管理職もみんな余裕がない。

そういうところは本質的なチームでの話し合いが少ない。そして忙しくなり視野が狭くなり、自分以外の誰かの悪いところばかりが見えてくる。そうなると、心の余裕もなくなりイライラしてくる。さらにそういうものから不安や焦りが次第に増えてきて、自分に自信を失っていく。そういう状態だと物事の本質がまったくが観えなくなり、目先のことばかりに腐心して日々疲れてくる。そして、最後には意欲が下がり精神的に病んできたりするものだ。

そういう状態をカンフル剤的にケアするといっても、そこまで追い込まれていると何をやっても対処療法のようなもので一時的にしのげても、時間がたてばすぐに殺伐としてきたり、何となくしらけた緊張感が漂っていたり、元気のない職場の風景にまた逆戻りするようになってしまうものだ。

またそういう園では決められた会議の時間などもあまり取れていない。コミュニケーションも本質的なものは少ない。さらにみんなが忙しい中せっかく集まった会議でも目先の問題の解決や行事の段取りや危機管理など業務系だけで最初から最後まで緊張したまま使い切ってしまう。

もちろんそれがいけないと言っているわけではない、しかしそんなことばかりをいつまでも繰り返していることがもし会議なら、段々会議が苦痛になるのは当然だと思う。続けることは大事なことだけれど、効果のことも少しは考えるというのは大事なことだ。

見守るというのは、正しい「ゆとり」がまず保障されているからこそ情緒が安定する条件になるのだと私は思う。会議なども本当は、理念を中心にゆとりの時間が持てるから本質的な暗黙知や形式知の共通理解をすることができるのだと思う。

「ゆとりがある人」は、また会社が、組織が、そして自分が一体何のために働くのか、そして何のために此処に居て皆が集まったのかの理由を忘れることはない。そして力がある人は、あえて通常は眼に観えないものや内面の方を話し合うことに時間を使えるものだ。

私たちがパートナーとして入る園では、理念を中心にそれをひも解いている。

時間がかかるけれど次第に理念に沿って、余裕という「ゆとり」を持てると会議はとても豊かで楽しい上質な時間に変わってくる。

「今」というものに感謝できるようになり、働き甲斐や遣り甲斐、またその喜びなども次第に広がり人生がより良く観えてゆき、心身ともに元気が出てくるものだ。

この園でも、私たちと同じように理念を中心に時間配分もマネジメントの仕方もがらりと変わることに決まった。

私たちも見守るという環境の援助をお手伝いするコンサルティング企業として、自分たちの日々を顧みて、本質で仕事を行い、正しい考えと理念と一体になる実践によりゆとりを持てる豊かで穏やかな職場環境を創造していくように心がけ子どもたちが素直に学び合い成長できるよう努めていきたい。

マネジメントは形だけでは実行が難しく、愛のある本当の行動とは、優しさと厳しさの本質を理解してジャッジするということだと改めて自らを律していきたい。

  1. コメント

    今の私にとってもゆとりを持つと言う事はテーマです。
    自分の中のゆとりが無くなれば物事決め付けで見てしまい、何事もうまくいかなくなります。
    その際にゆとりがなくなっていることに気づくことが出来ればいいのですが、それにすら気づくことが出来ない状態になっている事が多くあります。
    又自分のゆとりの無さが回りに与える影響も多大ではないかと思います。
    自分の中で余裕を持てる工夫や環境作りをする事が大事だと改めて感じます。
    余裕を持つことが出来れば今まで以上に多くの事に気づくことが出来ると共に、物事の本質を見抜くという事にも繋がるのだと思います。

  2. コメント

    人は様々な理由により自分に出来ることで人に貢献しようと何かを残す
    ことがあります。しかし、新しい事を見つけることが主になってしまっては
    それは意味の本末が転倒してしまっているのではと思います。
    余裕が無くては、人は大胆な発想、柔軟な発想等、本当に自分が生かされている
    瞬間を実感することも難しくなってしまいます。
    本当にしないといけない、理念を実践すること。理念を見て、方向性を
    確認しているからこそ、余裕やゆとりが見つかるのだとも思います。
    大事なことは理念を優先すること。本当に大事なことのために、一直線に、
    本気で向き合うことが出来るように、自分自身考え直していきたいと思います。

  3. コメント

    最近の実践から思うのは、ゆとりや余裕は「自分で物事を決める」という主体性からくるように感じます。時間はどのように使おうとも同じ時間ですが、受身で生き続けるととても忙しく、主体的に自分で決めて動いていると忙しくないように感じる瞬間が増えてきました。主体的に動いている時は自分の時間を自分で動かして行くことが出来るために余裕もゆとりも生まれますが、受身で動くと時間は依頼されるばかりで自分で動かす事が出来ないのだと感じます。ゆとりを持つ為に、どんどんと自分から決めていき、主体的な動きをしていきたいと思います。

  4. コメント

    以前、子ども教育にはゆとりをということでゆとり教育が定められましたが結果、学力の低下を招き、まさにここで書かれたことが起きていたように感じます。
    子ども達にとって何が優先されなければならないのか、この時期にしかできないこととはなにかが
    はっきりしていないのに、単純に時間や科目を減らすだけで、ゆとりを持てると思ってしまった
    ことはゆとりということを履き違えていたのだと思います。
    ゆとりとは誰かから与えられるのもではなく、自分から生み出し、感じていくものだと思います。
    生きることや仕事の考え方などの思想を深め、目先の出来事に動作的になったり、受け身にならず、
    本質的な生き方が余計なことや不自然を無くし、余裕を作っていけるのだと思います。
    日々の仕事、生活の中で取り組んでいきたいと思います。

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