出会いの哲学

人との付き合い方というのは、人それぞれに生き方が異なるように接し方も人それぞれに異なったものを持っている。

それは何を基準にするかはわからないけれど、自分自身の心との対話の質によるものでそれが軽いものから浅いもの、重いものから深いものまでその人の生き方や生きざまが外側の色々なところに現れてくる。

自分が真剣に自分の人生と同じく他人を大事にする人であれば深く厚く重たく大切に関わりを持つものだし、あまり自分の人生にも無頓着なまま他人にも無頓着であれば、浅く軽い薄い付き合いをするものだ。

そして、もちろん他人を選び付き合う人もいれば誰にも変わらず同じように接する人もいる。そこにその人なりの「出会いの哲学」というものがある。

私の場合は、一期一会が座右であるからその出会いの持つ奇跡と出逢いの不思議さ、その人との邂逅で万物一切のものが変わってしまう偉大さや深遠さをいつも体験しているからこそ人との繫がりには穢れや迷いなどが一切入らないようにと真心を込めて愛するようにしようと生きている。

人は出会うことで本当の自分を知り、人は出会うことでその真の心を覚る。

どれだけその出会いを大切にするかで人生は見事に変わっていくものだから私は何よりも出会いというものを特別なものにしたいと常に思っている。その神聖で神妙なものにあまり色々と雑多なものをいれるのが好きではない。

真っ直ぐ正対し、本心と真心を真剣に交わし合うという感じでいたいというスタンスを変えたくないということであろうか。

昔から、面白くないや空気を読め、重たいや息苦しい、もっと軽くしろなどと言われたけれど、それは生き方の違いなのである。逃げないで生きているからこそ、それを向き合うことに躊躇いがないのであろうと思う。これは単に変な遠慮をして形式ばったものや見た目を軽くすることに意味を感じていないとも言える。

分かりやすく例えれば、挨拶では何かをしながらやられたくないや、言葉を飾らずにやけたりしながら語られたくないや、誰かたくさんの周りの人たちに聞こえるようなところで気にしながら話されたくないなど、それもあるけれど、ちゃんと以上のことをやったにせよ肝心な真剣さや本気さ、そしてそこに混じりけのない透明で素直な良心がなければならないと思っているようだ。

そういう大切なシーンや大事な局面ではいつも自分の本当の姿でいたいと思う性質や性分がどうもあるらしい。

つまり私は正直に感じたことをそのままに相手を自分と同じように信頼をして言葉や真心を交し合うことに繫がりの本質を味わえ感謝の絆を深めていくことを歓びにするタイプのようである。

思っていることをそのままと素直に語るというのは、心をいつもその人のことを心配し思いやっていなければできないことだ。今の時代はあまり素直であることを良きとしない人が増えてきているようにも思う。

素直であることや正直であること、自分をさらけ出すことは恥ずかしいことなのかと思っているのか、日本人がシャイだからなどとあるのかもしれないけれど私にしてみれば損な時間を使っているなと感じてしまうのだ。

しかしそういう人でも、もしももう二度と今回の人生でその人に会えないとしたら、この時、この瞬間に本当に自分の心を伝えられたらと願わないだろうか、心を交わし合いたいと思わないのだろうか。

何でもそうだけれど、遣り切るというのは相手を信じ切るということである。

そこに少しでも疑いがあれば、その人のことを信じ切ったとは言えない。

言い方を変えれば、この人から裏切られたならそれでも十分悔いはないといえるくらいの出会いを自分が主体的にすることである。

私は自分のこのかけがえのない人生を愛しているからこそ、色々な御蔭でより人のことに真底から自分の好奇心が駆り立てられるようになったからこそ、その瞬間であるこの今に心を籠めることの大切さを体験し学び続けている。

日々を振り返れば、やはりそこには最高の今、最高の日々、最高の出会い、最高の時空、人生はやっぱり今を思へば面白いことの方が多いのだ。

過ぎ去る日々に、これは怠れないなと学べることの出会いの意味を感じます。

「年を経るのがどう感じるるかはこの今をどう感じているかによるものだ。この今を楽しむ心があればいつまでたっても年を経るのは豊かで楽しいものです。」

師からいただいた今回の誕生日の言葉に、時空を超越した今を感じました。

これからも、今この一瞬にすべてを懸けて生き切っていこうと思います。時代の変わる大事な場面に、素晴らしい出逢いと邂逅があったことに心から感謝しています。

一期一会

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