責任と責任感

人が自立をしていくのに責任感というものがあります。責任というものは、よく誰かから押し付けられるものだとして悪いイメージを持つ人もいます。しかし実際は責任は他責される罪や罰のようなものではなく、自分から周りを思いやり自分のできることを自分の持ち場で果たす自責の念が責任感とも言えます。世間でいう責任と責任感は異なるのです。

今は、責任は誰かに取らされるものだという認識からすぐに自己防衛に入り他人ごとのように距離を置いたり、または自分に責任が降りかからないように「自己責任だから」などという言葉を用いて思いやりに欠けて責任を押し付け合って人間関係が殺伐としている状況をよく見かけます。

そしてこの責任という責めと罰を用い、人間を管理する方法は当たり前のように長く用いられてきました。その最たるものに戦争があり、人権尊重しなくても無理に従わせるという手法で組織管理に定着していきました。実際は責任を与えて管理するかどうかが問題ではなく、人を信頼するか信頼しないかということが責任の本質にあるのです。

本来、立場に責任を持たせて管理するという方法はそこに人を信頼するというものがなければ本来の助け合い協力し一緒に目的を達成する自立した組織にはなりません。なぜなら人を信じなくて済むからと管理を導入し、立場やマニュアルを用い責任を押し付けてもそれは主体的に自主的にやっているのではなく外圧という外の力を用いて他律の中で責任を果たしていることは責任であって責任感にはならないからです。

本来は、自主自立、目的を共有し納得し御互いが助け合い思いやる中で、自分が果たす役割を自らで認識し真摯に全てのことを自分事として自律している中で責任を果たすことが責任感を持っているということになります。

そしてこの責任感というものは、教えられるものではなく思いやり助け合う中で育っていくものです。自分が日頃多くの方々の御蔭様で成り立っていること、いつも周りに助けていただいているということ、そういう感謝の心が育ってくることで同時に責任感は育っていきます。つまり責任感が強い人は、人一倍感謝の心も強い人とも言えます。

先日、ある学校である子どもが宿題を忘れたらその同じ班も連帯責任にして罰を与えているということを訊きました。なぜそれをするのかと尋ねると、罪の意識を持たせ責任を教えているということでした。ここでの責任の意味は、罪に罰を与えることであり、自分が悪いことをしたらそれ相応の罰がくるということで責めを負わせ罪悪感を教えています。

本来、責めは負わせるものではなく自ら負うものです。それは罪悪感ではなく、感謝の心から発生するものです。それを責めて負わせるようなことを教えるから責任は持ちたくない、責任は持たされるものだと勘違いするように思うのです。そしてマジメな人であればあるほどその罪悪感が重くなって責任に追い込まれていきます。

昔の教育は、担任が一人で責任を持たされそれを果たすことが責任だという認識がありました。それは信頼というベースがあってはじめて成り立っていたから責任感も持てました。しかし今、不信をベースに責任を持たされるのならそれで責任感が持てるはずがないのです。

だからこそ今の時代は、まず責任感を持てるように思いやりを中心にした組織にすることが必要不可欠でありそれがリーダーの何よりも重要な責務になってきています。社會に信があれば、思いやり助け合いの心で人々は責任感を持ちますが社會が不信に満ちるなら人々は責任を押し付け合います。

小さな組織もまた小さな社會ですから、その小さな社會の在り方を変えていくことで世の中の大きな社會もまた変化していくように思います。

子ども達がいる現場をどのような豊かな社會にしていくかは、一人ひとりの責任感に由ります。そしてその責任感は、思いやりと感謝の心によって目的と初心を定め、理念の実践によって醸成されていきます。

責任感を持つ人が増えることは、思いやりを持つ人を増やしていくことです。子ども達のためにも、新しい組織の在り方を示し仕組みを広げていきたいと思います。

  1. コメント

    「責任を取る、取らされる」と言いますが、せいぜい職を辞したり、金銭で話をつけるくらいで、本当の意味で「責任をとる」ことはできません。対して、「責任感」は、そういう結果に対することではなく、自分が主体的に持つ姿勢のことです。この「責任感」には範囲があり、人それぞれに「責任感を持てる範囲」が違います。「何に責任を感じ、どこまで責任を感じて行動できるか?!」ということが、その人の実力であり、器です。この「責任感」から、自分の志や使命感がどこまで本物かということを確認しておきたいと思います。

  2. コメント

    協力が基盤としてあれば連帯責任も意味をなすのかもしれませんが、罪と罰では一人の方がいいと協力から離れていくように思います。自分もそんな経験をしたように思います。お互いを責め合うよりも、認め合い自分に自信を持てるようになるとかえって、責任感が湧いてきます。それは一円対話で認められ、日々実践したことを振り返り、話を聞きその繰り返しが自分自身を作っていることを実感するからです。協力が難しいのは、責任の押し付け合いを小さい頃にそれぞれが体験しているからかもしれません。自分の体験も元にこのことを深めていきたいと思います。

  3. コメント

    昨日の一円対話で「子どもの頃の心に残っている冒険や挑戦した話」というものを自由テーマにしてみたところ、参加者の皆様からの話から「冒険や挑戦の裏には、必ず誰かの支えがあり、誰かの見守りがある」ということを強く感じられました。子どもの頃は何でもやってしまい、後でこっぴどく叱られることもあるかもしれませんが、それも思いやりあってのことなのでしょう。最近は何でもやる前から「危ない、危険だから」と止めてしまう傾向がありますが、もし相手を信じず、その経験がきっとこの子の為になると受け入れることもなければ、昨日の参加者の皆様の話して下さった、あたたかな思い出や人生の転機になりそうな体験は無かったのではないかと思えます。挑戦の機会をいただいていること自体が信じられていることであり、見守られていることなのだということを忘れず、感謝をもって生きたいと思います。

  4. コメント

    与えられた責任も与えられた罰も、価値を成すのは与えた本人であり、与えられた者にはあまり良い経験や育ちにつながるようなものではないように感じます。自分自身が選び、決め、掴んだものとは天地の差があるように感じます。やはり、自分自身をどのように使って頂けるかを日々機会を見つめては、主体的にいることを大切にしたいです。まだまだ自分の中には比較や分けると言った価値観が住んでいますが、自らでその刷り込みを取り払っていきたいと思います。

  5. コメント

    仰るとおりだと思います。

    正し、思いやりを一番にという点だけは同意しかねます。
    確かに思いやりがないから他の事が出来ないというのは私もそう思いますが、だからと言って思いやりだけに執着すれば、また道を踏み外す者も出てきます。何かに偏ると必ずそこからあぶれてしまう者も出てくるのです。

    だからこそ、全てを均等に対等に、教えていく必要があります。思いやり、真心、愛、そしてこの世の真理の中では平和など訪れないからこその人の世の真理を教える。

    思いやりがあっても間違った事を教えられていては人は育ちません。結果として育つ人が出てくることはあっても万人にそれが通用する訳ではありません。真心や愛もそう、人の世の真理だけ教えてもそう、全てを均等に対等に教える必要が在るのです。

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