自分を気にし過ぎること

人は自分のことを気にするあまり他人からの評価が気になるようになります。また自信がなければ余計に相手がどう自分を思っているかということを気にして自分の行動基準が他人からの評価基準になってしまうこともあります。

本来、人間は自分がどうしたいのかが先にありそれをどう周囲と折り合いをつけながら取り組んでいくかということを考えるのですが自分のことを気にするあまり周囲と関係を上手く築いていくことができなくなるのです。

自分のことを気にし過ぎると、ありのままの姿が分からなくなります。同時に他人も自分のことも分からなくなります。自他が不明ですから、その人の存在は周りにとっても気になる存在になるのです。気になる存在になれば余計に周りは気にしますから、当人もまた周囲の目が余計に気になり自分のことばかりを気にしオープンな対話ができなくなるという悪循環に陥ります。

自分を気にする癖を何とかしなければなかなかそれを取り払うことができません。そのための一つは、相手がもしも自分だったらと相手の立場にたって思いやり物事を考えていくことです。自分を気にするのは、相手のことよりも自分の心配をし過ぎるからです。相手からどう思われているかということを基準にするのではなく、相手の立場で思いやり相手が自分だったらどんな気持ちだろうかと自分から離れて相手のことを慮ってみるのです。すると、相手が自分をどう思っているかというバイアスが消えてきっと相手にも深い理由があっているのだろうと心を共感することができるようになります。頭で考える自他ではなく、心で共感する自他になれば次第にオープンな気持ちで素直に対話ができるようになります。これも訓練していくしかありません。

もう一つは、全体快適といって自分だけの視野に囚われず全体が快適になるように自分を使っていくことです。自分ばかりを気にするのではなく、みんなにとって自分はどんな環境になっているだろうかと自分自身を見つめるのです。例えば、みんなが不愉快にならないように笑顔でいることや、安心できるようにオープンに自分からふるまうことなどをしていれば次第に自分のことが気にならなくなっていきます。どんなに環境がオープンでも自分を気にすればすぐに人間関係はギクシャクするものです。それは1対1の関係でも同じく、自分を気にする人は素直に対話ができません。

全体にとって快適であるかは、同時に自分も快適であるかということにつながっていきます。今の時代のように歪んだ個人主義で、それぞれの個がバラバラにされてしまっている環境の中で自分を気にし過ぎる人は増え続けています。だからこそ自分に囚われないように日ごろから全体快適であることを優先する意識を持つ習慣を訓練していくしかありません。

そして最後は、自分は何のためにそれをやるのかという初心に専念していくことです。自分の真心はどうしたいのか、自分はどう生きるのかと自分自身の決めた生き方に集中していくことで相手よりも自分の問題にしていくことです。自分自身との問題であれば相手は関係なく自分に打ち克つための修行になります。そういう意味では自分を気にし過ぎるかもしれませんが、それを逆手にとって自分の決めた初心を気にし過ぎるくらい反省を繰り返す訓練をすればいいのです。そうすれば、自分の生き方を貫くうちに気になる基準が変わり自分らしく自然体であるがままをみんなに見せられるようになり周りも安心してくれるでしょう。

これらの訓練というのは、積み重ねていくことで意識も価値観も変化していくものです。過去のトラウマも訓練というリハビリによって少しずつ薄れていきます。最初は勇気が要りますが、少しの勇気からでもはじめてみればいつかは自然体で自分らしくそして周囲と仲良く楽しく過ごしていけるような豊かな人間関係が築けます。

子どもたちが同じようになったときのお手本になれるように、生きるリハビリ、認め合い信じあう訓練と仕組みを実践していきたいと思います。

光を磨く

私たちは光を見て、物を確認することができています。これは光を見て脳が認識しているとも言えます。光が一切入ってこない真っ暗闇の中では何も物は見えません、それは光がそのものに反射しないからです。私たちは光の強弱などによってその物体を立体的に脳が認識して捉えることができるのです。

不思議ですが、その光が差し込んできて出てきた物体を見ると時にはそれが美しく感じ、時にはそれが儚く感じます。光というものを通して、その物を透かし見ているのかもしれません。光はいのちを透過させるようにも思います。

この光を見るためには、感性を磨く必要があります。言い換えれば、磨くことで光を観る感性が豊かになります。例えば、どんなものでもしっかりと磨けばそれは光ります。それが砂浜の砂であっても、貝であっても、または骨董品のようなものであっても、綺麗に磨けばそのものは光ります。

この時、光るのは私たちが光を観る感性が磨かれているからです。何も磨かなければただ眩しいだけですが、しっかりと磨いている人にはその感性によって光が本質を映すのが観えるように思います。

私たちは、四季の暮らしの中で様々な光を観ています。その光を観ることで、同じ空間であっても気配が全く異なり、同じ場所であってもまったく違った景色を観ることができます。つまりは、光を通して日常の一期一会を味わっているのです。

その光は、磨かれる場所や磨いている場所でこそ光そのものの美しさが出てきます。この光が集まる場のことを人はパワースポットと呼びます。つまりこのパワースポットとは磨き切られた場所のことを言うのです。

自分を磨く人は、その場によって磨かれた自分の感性を静かに見つめます。そして未熟さを知り、また磨き直していきます。このように神社や場を巡ることは、光に出会う旅路でもあります。そして光は私たちの生き様を通して灯りになります。

いつの時代も光を求めて人々は、集まりそして感性や魂を高めていきます。いのちのテーマは、永久不滅の理です。それぞれのいのちを活かし、子どもたちの持ち味を見守り続けられるように私自身の光を磨き灯りを守り続けていきたいと思います。

橋を架ける

現在、復古起新をしつつ暮らしを甦生させ子どもたちの未来に大切な日本人の心をつなごうと試行錯誤を繰り返しています。歴史を学び、先人たちの真心を読み、空間の中に佇んでいる言霊など、目には観えないものを手繰り寄せながら一つ一つを科学的にまた理論的に言葉にして整理することを続けています。

ユダヤの格言に、「自分の言葉を自分が渡る橋だと思いなさい。 しっかりした橋でないとあなたは渡らないでしょうから。」というものがあります。この言葉や文字もまた橋であり、その橋をしっかりと架けなければ人々はその橋を安心して渡ることができません。

よほどの勇気のある人でなければ濁流の滝つぼの上にある曖昧で不確か、そして今にも崩れそうで危うい橋を渡る人はいません。人々が渡る橋は、あちらとこちらが完全に繋がっていて安心して歩んでいける橋でしょう。その橋をつくるには、まず最初に自分が向こう側に渡る必要があります。そして渡ったら次にそこに橋を架ける必要があります。その橋が架かったのなら、最初は背中を押して一緒に渡っていける人を増やしそのうえで渡れた皆に協力してもらい向こう側とこちら側が安心して交流し行き来できるような立派な橋にしなければなりません。その後はその橋がまた崩れることがないように手入れを怠らずさらにその橋を見守り続ける環境を育てていく必要があります。

この橋を架ける仕事というものは、「つなぐ」ことです。何と何をつなぐかといえば、私でいえば歴史と今をつなぎ、子どもと大人をつなぎ、経済と道徳をつなぎ、自然と人間をつなぎ、人の心と心をつなぎ、世界と自分をつなぎ、文化と文明をつなぎ、目には観えないものと目に見えるものをつなぎます。

そしてこの「つなぐ」というのは、橋を架けるということです。

橋を架けるために、私はこのブログをはじめ、橋を架けるために自分に与えられたすべてを使って自分にできることを遣り切っています。その橋掛けは果たして何年、何十年、況や何百年、何千年かかるものなのか・・・考えると遠大で目が眩みます。

しかしその過程もまた橋になる途上ですから、その橋を架けることを豊かに歓びに換え渡る人たちのことを考えて丹誠を籠めて取り組みたいと思うのです。

日本人の仕事が世界で評価されるのは、後世の人に恥じないような仕事をすることです。私も目先の流行や、様々な我欲や、人間関係に惑わないように空を高く眺め、天の星の見守りを背中に感じながら橋を架けていきたいと思います。

この先も子どもたちが通る未来を楽しみに、橋を架ける人としての人生を歩んでいこうと思います。

質の本質

最近はよく「質」(しつ)に関することが話題に上がります。この「質」とは、本質のことで質が高いというのは限りなく本質に近いということでもあります。この「質」という言葉の成り立ちは価値の釣り合う+金銭が合わさる会意文字であり信に通じ「まこと」の意味を持つともいいます。

具体的に辞書を調べれば、1 そのものの良否・粗密・傾向などを決めることになる性質。実際の内容。「量より質」「質が落ちる」2 生まれながらに持っている性格や才能。素質。資質。「天賦の質に恵まれる」「蒲柳 (ほりゅう) の質」3 論理学で、判断が肯定判断か否定判断かということ。4 物の本体。根本。本質。「結合せるを―とし、流動するを気とす」〈暦象新書・中〉5 飾りけのないこと。素朴なこと。「古今集の歌よりは―なり」〈歌源〉(goo辞書)とあります。

「質」とはそのものの本体でもあり、変わらぬ真実とも言えます。その本質が分かること、真実が観えていること、その真実に沿って取り組むことが質を高めることになります。

ではなぜ質が下がるのか、質が低くなるのかといえば真実から遠ざかっていったり、本質とは関係ないことをやりはじめるからです。その理由は、人間の個々の我欲や保身によることが多いように思います。

例えば、人間は「足るを知る」ことができれば豊かで質の高い人生を歩むことができます。それぞれが自らの分度を定め、十分に満ち足りているという暮らしを優先することができれば暮らしは人類の本質に近づいていきます。そこには助け合い思いやり、分け合い、尊重され、お互いが自由に幸福を味わっていくことができます。

しかしひとたび、「足るを知らず」、まだまだと欲望を際限なく肥大化していけば自ずから暮らしは消失し、貧しさが増え、人類の本質から遠ざかり比較、競争、画一化、奪い合いと不自由から不幸が増大していきます。

「質」から考えれば、本質的で質の高い暮らしは足るを知ることです。つまりは「質」を高めようというのはより原理原則に沿って真実に近づいていこうという生き方をしようということになります。

質が求められるというのは、それだけ本質的ではないことをやっているからです。今の時代は、本質であることよりも市場経済や金銭の獲得を優先するばかり本質ではないことの中で質を語られます。何をもって質なのかということすら、議論されることも少なくなっています。

そもそもそれは本当に必要なのかとそれぞれが足るを知る議論ができてはじめて、質とは何かということを考える入り口に立つことができるのです。物が増え、欲望もキリがなく、資本主義に呑まれ人類の手に負えなくなっているほどの今日、「質」について真剣に取り組む必要があると私は思います。

子どもたちの本質は何か、そして質の高い保育や暮らしとは何か、それを信念と実行で取り組んでいく本物の人物たちが次の時代を切り拓いていきます。私たちもその時代を創る一人になれるように、本質を見極めながら実践していきたいと思います。

 

 

自己の心

人間は自分のままでいいと自己を肯定していないと自分のことが分からなくなっていくものです。言い換えれば、自分のことを知ることができはじめて自分を認めることができるとも言えます。

自分のことを自分で知れば、自分はこのままでいいと思えますが自分を知らないからこそこのままではいけないと自己を否定してしまうのです。自己を否定すればするほど、自分のことを客観的に観れなくなりますし、他と比較しては自分にないものを求めてしまうものです。

ありのままの自分を如何に素直に認め受け容れることができるか、そこには心を育てていくしかないように思います。心を育てていけば、心が強く広く大きくなっていきます。

ではどのように心を育てていけばいいかということになると、それぞれに方法はありますが何よりも自分の心との対話を続けていくことのように思います。その心の対話は、心の声に耳を傾けることからはじまります。

例えば、一日が終わり色々なご縁と出会います。そのご縁を味わいながら一つ一つを丁寧に振り返りをします。そして振り返る中で、心の声に耳を傾けて内省します。内省した後は、心の声に従って素直に行動してみます。そうやって、心を前進していけば自分が何をしたいのか、自分とは何かということが次第に明らかになっていくようにも思います。

その時、心を澄ませていくための道具として仏陀や孔子、または同じように自己を発見した先人たちの書物や体験談を参考にしながら自己の穢れを取り除いていきます。もしくは共に道を歩もうとする師友を持つと人生の旅路も豊かに明るくなります。

様々な我や煩悩もでてきますが、その時こそ、自分の心と正対していくチャンスだとして自分と向き合っていくことを繰り返すのです。他人ばかり視ず、遠くばかり視ず、自分の主観や感情でばかりに囚われず、足元を見つめ直すのです。

心はそのように少しずつ体験を通して育っていきます。人間は体も育ちますが同時に心も育ちます。心は目には見えませんが、心は広く大きく明るくなって伸びていきます。天地の心といってもいいかもしれませんが、自然のような心を持てる人、地球のような心を持つ人に限りなく近づいていくことで私たちは天地人一体になります。

そう考えれば、人間が造った文明や市場経済、お金といったもので私たちは人間の本質や本来であったものから遠ざかっていきました。それをまた修行によって回帰しようとしているのだから、物質の進化と逆行して心の進化は劣化していきました。

今や時代の価値観の転換期ですから、心を育て心の豊かさで文明を維持するということも考えなければなりません。そうでなければ、本質的で確実な進歩もなく、物質の劣化も進むばかりです。本物の進化にするためには、人間の心を高めそのうえで物質を磨かなければなりません。

日本文化を深めていると、職人の人たちが高めたものを観るたびに畏れを感じます。そこには自然観や地球観、その広大無辺な心によって物質の持ち味を最大限まで活かして仕上がった精神性や真実を観ることができます。もしもこのままの心を高め時代が進むのなら、文明はさらなる進化に向かうはずです。

自分を知るという入り口は、時代の価値観を換えていくための偉大な一歩です。引き続き、分かっているようでわからない自分と向き合いながら謙虚に深め続けていきたいと思います。

共通の価値観

人間には共通の価値観というものがあります。それは、単に考え方が似ているやタイプが似ているという共通の価値観だけではなく、何を信じて生きていくか、何を大事に守っていくかという人間本来の道徳や理念的なものの共通の価値観もあります。

よく組織においては価値観の共有が大事だとは言われますが、それはその組織が何のためにあるのかと理解するために必要なだけで押し付けるものではありません。そもそもの理由が伝わっていないと、主体的に自ら考えて行動することができないから価値観の共有が必要なのです。

それが目的を伝えずに、価値観だけ共有させようとすると一つの価値観のみを優先するといったおかしなものになってしまいます。みんなそれぞれ人は異なりますから価値観が異なるのは当たり前です。しかしその中心となっている何のためにという目的を知れば、それぞれが異なって取り組んでも大丈夫という柔軟性が組織には必要です。それが安心感を醸成し、個々の主体性を引き出していくのです。

しかしこの価値観の共有は、お互いによく傾聴して対話しなければ理解することが難しいものです。それぞれ自分の価値観が優先させ狭い視野で対話を避けて思い込みはじめれば歪んだものになってしまいます。誰かに言われたことをやればいい、トップの決めたことに単に従えばいいとなると自分の価値観で相手の価値観を裁いていることになります。

自分の価値観が最上であると思うのではなく、自分の知識がもっとも正しいと思い込むのではなく、それもいい、これもいい、それも一理あると、一緒に考えていく中ではじめて価値観の共有は実現するのです。

人間はすぐに自分が中心になり正否を分別しますが、何のためにという方向がお互いに観えていれば色々な価値観があってもいいというのが本来の価値観の共有なのです。

このやり方でないとと固執するのは我執であり、こうでないとと思うのは自分に都合が良い方を無意識に選ぶからです。それを権力を持った人がやれば独善的になり独裁になります。全体にとって居心地よく快適である安心環境というものは、個々の価値観や生き方が尊重されながらも目的に向かっていける状態のことです。形を一つに縛らず、根底にある目的をお互いに大切にしていこうとするところに真の仲間も絆も産まれるように思います。

本物であるものだけが偽物であることも楽しめ、本質であるものだけが偽善であることも味わえます。これは仲間や絆でも同様なのです。

引き続き、仲間づくりをたのしみながら子どもたちが豊かに生きれる社會の土台を醸成していきたいと思います。

時代を創っていく

昨日、GTサミットでは藤森代表が講演の中で「時代を追いかけるのではなく、時代を創っていくこと。それが時代に翻弄されないということ、そして乳幼児期が重要だからこそ、そうあるべきである」と語られました。

この時代を追いかけるのではなく、時代を創っていくというのは「ブレナイ」こととも言い換えることができます。自分が本質から定めた初心や理念に対して、如何に流行に流されずにブレずに取り組んでいくか、それが実践されているとき時代ははじめて創られていくものです。

しかしこの時代を創るというのは、当然として流行というものがあります。しかしそれは流行を先に操作して時代がつくられるのではなく自分らしく自己の革新を続けていく中で流行が後から着いてくるのです。時代の価値観というものは、そのようにしてその時代に本気で問題意識や危機感、そして自由に生きた人たちによって創造されてきました。常に時代の中の本物こそが流行の源泉なのです。

そしてもう一つはこの流行に「流されない」ということ、つまりはその時代時代に自分の信念に従って勇気を出して前進し続けた覚悟の歴史が時代を創ってきたとも言えます。たとえ流行とは逆行していようが、流行とは乖離していようが、構わずに信念と実行を続けていこうとすることです。

変えてはならないもののために、如何に変え続けていくか。それは自己の刷新や革新、変化を創造し続けていくということでもあります。当然ですが、目的や理念、初心を決めれば時代の流れと共に合わないものが出てきます。その合わないものを調和していくには、自分の思い通りにはなりませんから大自然のお手本に従い自然を変えるのではなく自分自身を柔軟に変化させていくしかありません。

人間はすぐにマンネリ化し固定され、変化を嫌う傾向があり少しでも成功したり上手くいくとそのまま固着させてしまうものです。変化を嫌えば好奇心も減退し、同時に勇気も失われていきます。少しでも手を抜けばすぐに実力が衰えるのが世の常ですから、成長し続けること、変化を求め続けて変わり続けることは、自分を創造し続けることと同義です。

だからこそ、今に満足せずに時代を創り続けるために「勇気」を出して大切なもののためにリスクを選んだり、守るために挑戦することこそが変化そのものに近づいていくことなのです。

常に時代は価値観の変化と共に、一つの時代が終わりまた次の時代が訪れます。研鑽を積み続け達し続ける豊かで楽しい努力が仲間を集め、新しい時代を創造します。

子どもたちのためにも、信念と実行、そして勇気と覚悟で前進していきたいと思います。

足元の価値

人は物事に躓くほど自分を見つめ直す機会ができるといいます。それは様々な事柄から目を逸らしてきたから余計に足元を見つめ直す必要が出てくるのかもしれません。

今できることを、今改善できること、今しかできないことをやろうとはせずにできないことや、何か簡単に解決する方法ばかりを追いかけてしまうと大切なことから目を逸らしてしまうものです。

人間は自己中心的ですから、主観的に物事を観ては願望のバイアスがかかっていくものです。こうであればいい、こうあってほしいなどの理想が高ければ高いほどに現実から目を逸らしてしまうものです。現実から目を逸らせば、必要な努力や改善とも向き合いませんから反って理想から遠ざかる一方です。そういう時こそ、足元を見つめ直す必要があるように思います。

この足元を見つめ直すには、客観的に現状を把握し何をどう改善すればいいかという手を一つ一つ丁寧に取り組んでいく必要があります。一発逆転や、一気に問題解決などの安易な方法論に引っかからずに、何をどこから改善し、その改善をどのように今後に活かしていけばいいかといった地味な手を打っていくしかありません。

主観が入れば入るほど、現実から乖離した手を打とうとしますから現実の直視は何度も何度も自己と正対し謙虚に受け止めていく必要があります。理想から遠ざかることを恐れて抵抗し、こんなはずではなかったといくら責めても解決することはありません。現実から逃げても、現実は必ず目の前に現れるのです。

如何に現実の厳しさを謙虚に受け止めて、自分の本当の問題に向き合うか。いろいろな感情が邪魔すると思いますが、その現実を受け止める力こそが真剣さを本物にし、本気を発揮させる力の源泉になります。

もしも自分でできない場合は、信頼できる人に現実を一緒に見つめてもらって課題や問題を整理する時間があってもいいかもしれません。人間は一気に力技でいこうとするときこそ現実を直視しなくなる予兆ですから注意する必要があります。足元を見つめることは一人で向き合いながらも、一緒に向き合ってくださる人があることに感謝することかもしれません。

足元の価値を大切にし、子どもたちのために信念と実行を優先していきたいと思います。

目には見えないこと

現代の日本では、各地の伝承や口伝などの民話や神話をはじめ神秘的なものや妖怪などの話をオカルトや宗教だと決めつけて差別するような風潮があるように思います。しかし先人が伝承しようとしてきたものは、民話や神話などでより子孫たちがイメージしやすいようにと工夫を凝らして文化にまで高めてきたものです。

例えば、地域のお祭りや風習などもそうですがこれらもその土地でかつて何かしらの出来事があり、それを忘れないためにと毎年繰り返し行われ文化にしておいてその土地で暮らす人たちが安心して生きていけるようにと仕組みにしてきたものです。

それが連綿と続いていく中で、伝承されてきた意味には非科学的な事柄の方がむしろ多く、なぜこれを続けているのかが説明できないものがたくさんあります。また言葉では説明できないものもたくさん籠められています。

そこには津波の怖さを伝えるもの、大雨による水害を伝えるもの、そして伝染病などの予防のために続けているもの、自然のバランスを崩さないように続けているものなどキリがありません。民俗学などもそうですが、各地に伝承される言い伝えやお祭りなどには私たちが知識で理解できること以上の暗黙知が大量に籠められているのです。

よく私もこのようなブログを書いていたら宗教っぽいやオカルトだと揶揄されることもありますが、そもそも非科学的なものを理解するためにはどうしても暗黙知を言語化するために表現が抽象的なイメージになるものです。それに目に見えないものの存在を確かめることは哲学でもあり、どのような経営者もみなそのような存在を感じながら経営しているものです。それは運とも呼び、学問では道ともいいます。

松下幸之助氏は、経営の神様と称されるのは経営を科学的な面と非科学的な面の両面から捉えてそれを実践に昇華したからです。日本人はかつては当然として神様のような存在も当たり前にあると認識し、妖怪や先祖の霊や神様、魂なども共存していたものが今ではそれを語ると宗教やオカルトになってしまっていることに違和感を感じます。

いのち一つを創れない人間、自然や宇宙の神秘のほとんどが理解できていない人間が、知識で語れないことを敢えて知識で語ろうとすればそのほとんどは神秘になります。その神秘を知らないということは、知識だけの中で生きていくことでありそれではあまりにも狭い視野になってしまうように思います。

目に見えるミクロから如何にマクロを観ていくか、それはこの海や空の間にある偉大な空間をどのように直観していくかという自然の解釈とも似ています。偉大な人物には、宗教も哲学もそういうものが分かれておらずただ観念として理解しただけのように感じます。そしてそれをそのままにあるがままに子孫へ伝承しようとしたように思います。

私たちはもっと謙虚に、知識では理解できない知恵を先祖の遺言として受け止めて大切に守り続けていく必要があるように思います。引き続き子どもたちのために一つでも多くの災害から自分たちを守れる智慧を、そして大切な人たちを失ってしまった悲しみを後世のひとたちのために役に立てたいと祈った人たちの思いを受け継いで、初心を伝承していきたいと思います。

 

普遍的な経営学

日本の経営学の祖とも称される人物に、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠がいます。徳川吉宗の思想に多大な影響を与え、その後、各地の藩校の思想として取り入れられてきました。

よく考えてみると、経営というものは歴史から学べるものです。どれだけ永く続くことができたか、繁栄と発展を持続できたかなどは同様に組織を持ち人々を集め、経営をしてきた人物たちの知恵や仕組みを観れば共有するものがあるのです。

その共通したものをよく分析し、それをその時代の特徴に照らせば凡その改善点は観えてきます。しかしそれを知ってもできないのは、人間が自己中心的であり我欲に負けたり、また自律的な道徳観によって和していくことができなくなるからです。ちょうどこの荻生徂徠のいた300年前も今の日本と同様に都市化が進み、スピード社会になり、金と物とのバランスが崩れた時代でもありました。

国家をどのように守っていくか、そして経営をどのように進めていくか、言い換えれば今の時代の経営コンサルタントであったともいえます。

徂徠の経営学の要諦は徂徠訓の中に見て取れます。

一、人の長所を初めより知らんと求むべからず。
人を用いて、初めて、長所の現はるるものなり。
ニ、人はその長所のみを取らば、即ち可なり。短所を知るを要せず。
三、己が好みに合う者のみを用ふるなかれ。
四、小過を咎める用なし。ただ事を大切になさば可なり。
五、用ふる上は、その事を十分にゆだぬべし。
六、上にある者、下の者と才智をあらそふべからず。
七、人材は必ず一癖あるものなり。器材なるが故なり。癖を捨つべからず。
八、かくして、上手に人を用ふれば事に適し、時に応ずる人物、必ずこれにあり。
九、小事を気にせず、流れる雲のごとし。

意訳ですが、すべてにおいてないものを求めずあるものを活かすという考え方です。そして短所をカバーし長所を伸ばすという人の活かし方です。人間を経営者の都合で使うのではなく、その人そのものの持ち味を活かせという経営方法です。

これは古来より、人間が調和し組織の中でそれぞれが活かし合うための妙法として君子や聖賢たちが取り組んできたことです。驕り高ぶらず謙虚にあるがままのその人を認め、その人が活かせるような環境を創るということです。

そのうえで、その環境を伸ばすためにそれぞれに合った制度を立て多様性を維持してくことと、人々が安心して生活するために儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を磨き尽力することを諭します。

経営学は、いろいろな人たちが語りますが古今から普遍的に君子が守るべきものは尊重することです。その尊重することを、それぞれの時代でしなくなることから世の中が荒れ平和が維持されなくなっていくのです。

会社で行う小さな尊重こそがやがて世界の尊重になっていきます。経営を学ぶものとして、徂徠訓を肝に銘じたいと思います。