好循環の実践

古語に「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」があります。この言葉は江戸時代の大名で剣術の達人でもあった松浦静山の剣術書『常静子剣談』で出てくる言葉です。

これを紐解けば「道にしたがい、道をまもれば、勇ましさがなくても必ず勝ち、道にそむけば必ず負ける」と記されています。

この考え方は、百戦錬磨の場数を踏んだ実力のある人が持つ境地のことでありこの時の不思議な勝ちとは何かということです。この不思議というものを少し深めて見たいと思います。

不思議というのは私にとっては他力のことです。自分以外のチカラが働きそのチカラによって物事が動いていくということです。自分は何もしていないのに、自分の思っている以上のことが起きて結果的に勝ってしまう。まさに運の善さというか、好運をいつも持っている人は不思議なチカラでいつも幸福に恵まれていきます。また逆に何をやっても不運である人がいます、自分の力を頼り自分の力のみを信じてやっていてもいつも邪魔が入り負けてしまいます。この理由は何か、それはチカラというものの理解に由ると私は思います。

もともとチカラとは何か、それは自分が引き寄せるチカラのことです。それを王道や自然の道といってもいいかもしれません。どんなに自分が頑張ってチカラを入れていても、それが自然の流れとさかさまであれば動かすのは至難の業です。しかし、もしも自然の流れに従って重力や引力を活用し上から下へとチカラを活かせばほとんど自分の力を使わなくて頑張らなくても少しの工夫で自然に重たいものは動かせます。

このようにもともとあるチカラを用いることは自分の力ではなく、「御蔭様のチカラ」を活かそうとする考え方です。これを道ともいってもいいかもしれません、自然のチカラを使えるようになるには他力が観える必要があります。

例えば運の善い人がいます、まずそれは物事が動くのは自分のチカラだと慢心していない謙虚な人のことです。なぜ謙虚な人が運が善いのか、それは周りの御蔭様に気づいて感謝しているからです。周りが動いてくださっているからと周りが動いてもらえることに素直に感謝する心が他力を活かすことをその人に感得させます。その他力のチカラが観える人は、自分が何をすれば周りがもっと動くのかを知っています。これは自然に精通しているといっていいかもしれません、こういう無我の境地を持つ人はいつも真心を活かして真心を盡すことが出来るのです。

古語に「積善の家に余慶あり」という諺もあります。善いことを積み重ねていく人はいつもなぜか不思議なチカラが入り好運が起き続けていくということです。これこそまさに不思議の価値を知り、その不思議がいつまでも続くように謙虚に好循環の実践を日々家人たちが積みかさねているのでしょう。

また負けに不思議の負けなしというのは、全部自分に何らかの問題があるということです。負ける人は自分には非がない、自分のせいではないと、いつも自分の言い訳をします。また自分が言い訳をするのは自分がやっていると勘違いしているからです。御蔭様が観えない人には、自分がさせていただいているとは露ほども思わず自分がやっているから上手くいっているという勘違いをしてしまいます。自分がやっているのは、あくまで御蔭様の他力を引き出す努力であって自分がやっていることはないのです。人の道は、謙虚さや素直さ、また感謝の心でいることで道に従い道にそむかないことになることを言うのでしょう。

好循環の実践を行うことで確かな勝ちを積み重ねていくことこそ古今一流の流儀だと思います。世界でも通じる本物の実力者とはみんなこの共通の境地を会得しているように思います。

子どものためにも、どんなときにも好循環の実践を繰り返し積み重ね余慶を愉しみ真心を盡していきたいと思います。

場創り

人は思想を持ち、実践を積み重ねていくことで「場」というものが創造されていきます。この場というものは、そこで生きている人たちが思いを大切にし行動した集積によって文化が醸成されていくものです。そしてその場には目には観えない確かな「息づかい」や「佇まい」といったものが顕現してきます。

「場」というものはもっとも長い年月人々が教えずに学んできた人類最高の智慧の仕組みといってもいいかもしれません。

その場が出来上がるまでは、何回も何回も季節の廻りの中でその時々に思いを抱いて手入れを怠らず実践を積み重ねて文化にまで昇華していきます。この文化というものは頭で知識として知ったから分かるようなものでは一切なく、その場で共に学び一緒に暮らし、互いに自他一体の境地をもって初めて感得できるある種の境地のように思います。

今の時代は、知識一辺倒でこういう「場」のことを考えることがありません。本来、「場」こそが教育の本質であり原点ですがその場のことは思わず場違いなことばかりをしています。たとえば歴史を学ぶのにその場にいかず卓上でだけ教えることや、生活を学ぶのに実践することなしに映像でだけで伝えたります。特別に何かをじっくりと体験をさせるのではなく、上っ面の表面だけをなぞるように見た目だけを教えたりします。

こんなものでは文化の継承などは行われるはずもなく、子ども達が自国の歴史や文化について関心を持てるはずもありません。世界では自分たちのルーツ、つまりはどのような経過でここまで道を歩んできたかといったプロセスを子ども達に「場」を用いて伝承します。そうすることで、その国の長い年月で淘汰してきた暮らしの智慧を伝承し、未来の子ども達へその気候風土で生きてきた自然の叡智を引き継ぐことが出来ます。

知恵というものはすべからく先人たちが自らの体験をもって試行錯誤して得て来た貴重な財産です。その財産を「場」によって伝えようとしたのが私たちの先祖だったのでしょう。

しかしその「場」を今はいともたやすく破壊してしまっています。海外からも日本人はいにしえの伝統的建築物や、それまでの文化をまったく大切にしていないと非難されています。古いものが価値がなくなんでも新しいものばかりが価値があると信じ込まされているようにも思います。今を生きる世代がその本来の場の価値に気づかなくなったのはこの「場」による教育が失われたからではないかと私は思います。

人は詰め込み教育ばかりして暗記して知識をいれてテクニックばかり教えても先人の智慧を体得するわけではありません。先人たちの生きた息遣いを感じる「場」に自分の心身を運び、何度も場数を踏んでは先人たちの智慧を学ぶ。学問の大道は全てにおいて暮らしを「温故知新」することで成立すると私は思います。

引き続き子ども達のためにも、「場」づくりを怠らず、「歩歩是道場」だと真摯にこの居場を実践で文化の息遣いを譲っていくことこそが先人の知恵と真心を受け継ぎ守ることだと常に回訓し、「場」を見守り育てていきたいと思います。

 

 

文化と伝承~教育の刷り込み~

教育とは何かと考えるとき、人は単に知識を教えることだけが教育ではないことは誰でも認識していることと思います。なぜなら知識で教えられることと知識では教えられないことが存在することを知っているからです。

例えば、生物というものには本能というものがあります。生まれながらにしてどのように生きていけばいいかというのを生物たちは自明します。生まれた生き物たちは周りに同じ種類の生物がいなくても食べて寝て、自分の特性に気づいて自ずからその特性を伸ばしていきます。

これは人間や動物に限らず、植物昆虫をはじめ様々な生物は自ずから自分がどのように生きていけばいいかを己の中から自明しているのです。自然科学が解明されればされるほど、遺伝子や本能、先祖から時代を経て淘汰されて残った智慧を母親から受けとっていることが分かってきます。

古来よりこのことを「伝承」と人々は呼びます。

この伝承というものは、言い換えるのなら「文化」とも言います。文化は一朝一夕で出来上がるものではなく、その環境の変化の中で本当に大切なものだけを残し、他は省き温故知新して今の時代まで受け継がれてきたものです。今を生き残っているということは、それを永い時間をかけて先祖たちが命を懸けて体験し子孫へと受け継いできたのです。

こういうものが本来の教育の本質であると定義するとき、「場」というものが如何に教育に密接につながっているのかに気づき直すと思います。今は世界ではティーチングではなく、ファシリテートという言い方をして教育改革が行われていると言います。

私からすれば本来の教育の定義が変わることなしに、その価値観も変わることはないのではないかと思います。教えられないものを教えていくものが本来の教育であると、如何に刷り込みを取り払った人たちが増えていくか、そこがまず大切な議論の元になると思います。

見守るということもまた、今の自分がどのように育ってきたのかを自分に内省して紐解いていけば次第に気づくように思います。

まず何かをする前に、常にゼロベースであるか、本質は何か、何のためにするのかと考えることで刷り込みは次第に取り払われていきます。そして取り払われた刷り込みを文化レベルで原点回帰する必要があります。しかしその原点回帰は、今の時代に通用する温故知新した習慣を刷り込みのない人が新たに開発しそれを広め実践していかなければなりません。

例えば「場」一つで考えても、明治以降の日本の場と、明治以前の場ではあきらかに環境は激変しています。日本建築が西洋建築に変わったように、それまでの家が持っていた文化の伝承は途絶えてしまっています。

途絶えた文化を早めに復活させ、もう一度元に戻すという作業は早ければ早いほど修正がきくと思います。遺伝子や本能に遺る、それまでの自分たちの先祖たちが生きてきた生き様や知恵を如何に子ども達に伝承するか、本来の子ども第一義の理念にそって取り組んでいきたいと思います。

便利と不便

人は一人で生きていけば分からないことも、二人以上で生きていけば分かることが増えていきます。誰かと一緒に生きるというのは、それだけ御互いの中に思いやりを学びます。この思いやりを感じることができれば人は豊かさの本質を学びます。

便利な世の中というものは、一人で何でもできる世の中を目指していきますがそれでは相乗効果という自然の豊かさに気づくことはありません。

不便であればあるほどに人は不便の中にある大切なものに気づき直すものです。人間関係の中にある不便とは御互いを思いやり配慮するから不便であって、自分勝手に何でもできるから便利であるという事と対照的なものです。

たとえ自分が不便だからとお金を払って不便を他人に押し付けて目に見えないようにして隠していても必ずどこかで誰かに多大な迷惑をかけています。だからこそ不便を楽しむといった境地を体得することで昔の人たちはその不便の中にある豊かさを感じていたのでしょう。

例えば不便の中にある豊かさといえば、囲炉裏であれば火を熾しゆったりと鉄瓶で御湯を沸かし、一杯のお茶をのむのは大変な時間も手間もかかります。今は瞬間湯沸かし器でスイッチ一つですぐにお湯が沸きますからそれに比べればとても不便です。しかしその不便さを通してその中でゆったり内省したり、火を囲んで周りの人たちと談笑したり、火を見て心を穏かに落ち着いたり、暮らしの道具に囲まれてつながりや手作りのいのちを味わったりと実に豊かな物語が増えていきます。

これは誰かと一緒に生きていくのも同じです。

自分の思い通りにしたいからと一人で生きていこうとすることもできますが、誰かと一緒に生きていけばもちろん感情のストレスがかかってきます。思い通りにいかないときにメンドクサイと感じるのでしょうが、だからといっていつも一人で仕事をしたり一人でやっていたら便利ですがその中にある豊かさはなくなってくるように思います。

一緒にやる中にある感情は確かに辛く苦しいこともあります。時間を守らないとか、情報共有してくれなかったとか、裏切られた気持ちになったとか、自分を大事にしてくれていないとか、感情が沢山湧き起ってくるものでしょう。しかしその一緒にやることを通して人は様々な物語を味わっていくことができます。嬉しさ、悲しさ、喜び、出会いと別れ、そして愛、真心などその人間関係の中に人の仕合わせと豊かさがあることに気づき不便ですがそれが実に豊かな物語だと思えるのです。

先ほどの囲炉裏の話では、ただ湯を沸かせばいい、ただ火をつければいいのではないのです。そのプロセスの中にこそ、真の豊かさがあり、真の情緒があります。また自然界の持つバランスは相乗効果ですから、様々な御縁が折り重なって結ばれ新しい出会いや感動が生まれてより豊かさが増していきます。人間が一緒に生きることが出来れば人ははじめて自分に自信を持てます、それは御互いに存在を分け合えるからです。確かに成功だけを求めたり結果だけ求めて何でもできる人になるのは便利なことです。すぐに利用価値があり、すぐに効果がある方がいいと思い込みますがそれは使い手にとってそうであるだけで本人にとっての豊かさとはまた別物です。

便利な世の中になればなるほど、不便を楽しむという実践が必要は思います。このような物質経済に溢れる時代だからこそ便利か不便かではなく、豊かさとは何かということを自問自答していくことこそこれからの人間の健やかで素直な生長には欠かせないと思います。

だから敢えて私たちは一緒にやるのです。

引き続き、人類のためにも子どもたちのためにも「一緒にやる」ことの豊かさを子ども達に継承していけるように様々な感情と向き合いながらその中にある物語を味わっていきたいと思います。

京町家の心構え

昨日、1700年創業で12代薬業を商ってきた京都府下京区の伝統的商家の京町家泰家を見学するご縁をいただきました。ここ泰家は幕末の大火で焼失後明治2年に建てられた京町家です。

建物は築140年ほどになりますが、代々家に続いている暮らしや文化、その生活の本質は今もなお継続されその佇まいから家の息づかいを感じました。現在、郷里の町家再生に手掛けていますが家が喜ぶ使い方とは何か、家主としてどうあるべきかなど、子ども達のためにどのようなことを遺せばいいか、その他、秦様より体験からの示唆深い気づきを教えていただきました。御縁に深く感謝しております。

昔から日本には「場」や「間」、「和」という考え方があります。例えば「場」というのものには場力というものがあります。現在ではパワースポットとか言われ、ブームになって旅行するときの目玉になったりしていますが本来は「場」は日本人にとってなくてはならない大切な感性の一つでした。

自然界の中でも、土地にはその土地に場のチカラがあります。その土地のチカラを観えるようにして神社が建っています。また人が集まるところにも場ができます。この時の場は、人物によって場が醸成されます。松下村塾の吉田松陰なども同じく場を創造したとも言えます。

昔から私たちは暮らしの息遣いを通してその場を発酵させてきたとも言えます。私が郷里で行う高菜漬けについても、その自然農の田畑をはじめ漬物の発酵場、一年のめぐりなどを通してそこには確かに暮らしが誕生し「場」が創造されるのです。

この「場」のチカラというのは、自然のチカラの一つであり人間が本能的に持っている大切な能力の一つでもあります。今の時代はこの「場」というものをあまり活用せず知識や頭でっかちになり場を壊していることにも気づかないように思います。

例えば、無機質の狭い会議室の中で蛍光灯が明々としている中で語り合うのと、神社仏閣のような美しい境内で穏かな風や光、鳥の声や水の音、植物たちや木々に囲まれる中で語り合うのとではその「場」のチカラによって語り合いはまったく異なるものになります。

私たちは心を原点回帰するとき、もしくは平常心というものを取り戻す時、「場」によって活かされて心を研ぎ澄まして洗い清めていくのです。家というものは、家主がいてその家主の生き方や暮らし方、その日々の心の様相が永い年月で醸成され息遣いの中に残存して「場」が生まれるのです。

京町家といっても、今では外国人たちの間で町家泊がブームになり不動産をはじめ外国人の資産家がリフォームをして貸し出したり、ちょっと古く質の高い町家があれば飛ぶように売り買いされているとも言います。暮らしの息遣いの方には一切目もくれず、日本風の建物に泊まって雰囲気を味わってもらうことで旅行の目玉にしています。

観光の本来の意味はそのものの持つ徳性を発見しその徳性によって己を磨くことを言います。家には主がいますから、その主とその家人たちの暮らす「場」を実感し、その一家が持つ佇まいや息遣いを感じることが本来の家の学び方だと私は感じます。

私たちの会社も一家にして4年目になりますが、その家の人たちの生き方や日々の実践、家風とも言える家人の風格が次第に家を形成していくのを感じます。初代の当主が何を大切にして代々に初心や家訓を文化として継承してきたか、それをどれだけ永い年月をかけてその後受け継いだ人たちが大切に守り継承してきたか、その目には観えない永い時間のシステムの中に本当の真価が遺っているのです。そしてこの日本人の生き方こそが真の財産であり、国の宝です。

泰家のような国の宝に気づける国民性を育てることが、国を存続させることだと私は感じました。子ども達にとってこの古民家は、家が見守ることを伝承するものであり、家の中の暮らしが日本人としての原点を伝授してくれるものです。家は教師そのものなのです。家と教育は決して切り離すことはできないのです。

今回の訪問で子ども第一義における古民家再生の意義を改めて感じ直し身が引き締まる思いがしました。引き続き、何度も深めながら改めて家にある暮らしの息遣いから生き方を教えていただき、町家の原点、町人そして商人の心構えとは何かを学び直していきたいと思います。

本当にありがとうございました、今後ともよろしくお願いします。

日本人の原点

町家再生を深めている時、町家大工棟梁の「京 町家づくり千年の知恵」山本茂著(祥伝社)という本に出合う機会がありました。その著書の中で京都の枳穀荘という旅籠が紹介されていました。

今回、その枳穀荘に御縁をいただき宿泊しお話をお伺いすることができました。千年の知恵とは何か、改めて日本人の原点について考えました。それを少し整理してみたいと思います。

そもそも日本人というものはこの自然風土に融け込み自然と一体になって暮らしてきた民族のことです。自然は悠久の年月でじっくりと循環していく存在ですから、その偉大な循環に沿ってその中で自分たちも一緒に暮らしを育んできました。もしもその自然の循環に逆らって生きていたら千年持つということは考えられないと思います。

昨日、枳穀荘の当代から日本建築のことをお聴きしました。その時、日本建築の素晴らしさを教えていただきました。日本建築とは、日本の気候風土に合わせて建てられたものです。町家は、通り庭、おくどさん、季節のめぐりに沿って建具を変えて風を通し水を活かします。木は、夏の湿気で膨張し冬の乾燥で縮小する、このように呼吸しながら今も生きていると言います。

京町家を視察し、様々な暮らしを体験していると千年生きる人たちが如何に「自然と調和」しているかに気づきます。美しい暮らしの中には、千年が今も息づいています。その千年に映る自然は、謙虚に自然の廻りに沿って町を形成し町を活かした町家の姿があります。

町家の中の調和は、千年の仕組みで満ち溢れていました。木、土、石、そして水、風、光、その調和は美事なほどで、お祭りを中心に風土に沿った年中行事を実践する。そこに代々受け継がれている人々の文化を感じると、流れている歴史、悠久の循環を感じます。風土の中にいにしえから今まで続いているものを自然との調和、美しい暮らしを同時に思います。それをふたたび「千年」という尺度で観直すとき、日本人の原点を感じ取るのです。

今回、私が最も感じた千年の知恵とは自然に逆らわない千年の都の中にある自然との調和、美しい暮らしのことです。

今の時代は便利か不便かで判断をし、そのどちらかに偏っているように思います。しかしそのモノサシで行動するのではなく、これは千年持つのかという千年のモノサシを持つことで常に自然との調和が働くように思います。

本来、私たち人間も自然物の一つであり日本の先人たちは自然と調和することを何よりも重んじてきた民族だったからこそ、その暮らしぶりもまた自然と調和していることを優先して生きて来たということです。まさに先祖たちの継続の偉大さはこの一点に尽きると私は感じます。

これからの時代、膨張から縮退へと時代は刻みます。少子高齢化はますます進み、経済の姿は一変することでしょう。その際に必ず日本人は原点回帰を迫られてくると私は思います。

本来の日本人が何を大切にしてきたかを学び直し、それを正しく実践することが、子ども達の未来に今の世代の私たちが責任を果たすことになります。引き続き、町家再生を通して日本人の原点を磨いていきたいと思います。

 

日々新たな感性

人間の感覚と言うのは、集中力を発揮するときに活かされるものです。今まで気にしなかったものが突然目に入ってきたり、今まで感じることがなかったことが突然感じられたりするのは五感が活用されているからでもあります。

例えば一つのことに集中していると、それに関する物事や出来事ばかりが繋がっていきます。同じ景色であったとしても、その人の観念によって見える景観が変わっていくのです。これはその時々の感性や心の様相でも変化していきますがその観える世界がどのようになっているのかを自らで確認していくことで自分自身を知るキッカケにもなるものです。

しかしこの集中は時として強い思い込みにもなったりします。もしも自分見た世界でのみ世界を視れば、その世界しか存在しないようにしてしまいます。それを価値観の窓ともいいいますが、自分自身の価値観でのみ物事を観ていたらその価値観だけを正しいと信じ込み真実や現実がたとえ事実と違っていても思い込んでしまうものです。

一度その価値観に囚われればその中でいくら考えてみても、自分の価値観を抜け出すことはありません。そうなってしまいと思い込んでいることが強すぎて誰の話も聴こうとはせず、何のアドバイスも受け容れることができなくなります。これを固定概念とも言い、自分がきっとこうだと思い込めば思い込むほどその思い込みの世界が実現するように五感が働いていくのです。例えば疑い出せばキリがないように、いくらでも自分の思い込みで見える世界を変換してしまうのです。

このように人間の五感も使い方次第で、善きにも悪しきにも使い分けることができるものです。しかしまずその五感を磨ぎ澄ますことが大切なことのように私は思います。五感を磨ぎ澄ますというのは、「思い込まないこと、先入観を持たないこと、自分の価値観に固執しない」ことです。

これを融通無碍ともいいますが、言い換えれば素直な心を持つということです。

素直な心があれば、こういう見方もあるんやなと思ったり、それも一理あると感じたり、間違っているのは自分かもしれない、非があるのは自分の方にもあったと素直に反省して自分の価値観を柔軟にして円熟させていくことができるからです。

人が生長するというのは五感を使って新しい世界を変革していくことだとも言えます。時代がどんなに変わってきても、それに応じて自分自身を変化させていくという柔軟性。この中にこそ、進化成長、温故知新の人間の自然の姿があるように思います。

五感を使わないで頭でっかちになんでも知識のみで補おうとする中に、心の用い方の訓練や感性の磨き方の必要があるように思います。本能が減退しないように、常に物事をゼロベースにしていくこと、常に本質は何かと深める工夫がその人をその人らしくしていくように思います。

子ども達のためにも、日々の変化を味わい愉しみながら日々新たに感性を磨いていきたいと思います。

学ぶ心

人はみんなどこか必ず自分に似たところがあります。古語に「我以外皆我師」という諺があります。これは人に限らず自分以外のものはみんな先生であるという意味です。自分が驕り高ぶり思い込みを持てば人の話を聴かなくなります、そうやっているうちに学ぶ心を忘れてしまっては成長が止まってしまいます。

人はみんな未熟だからこそ、周りをみては自分が未熟であることを実感していくから学びが深くなってきます。人間関係というものは、自分自身と向き合うのにとても大切なことのように思います。

自分に似ているところが良いところもあれば、自分にとって似ているのが嫌なところがあったりします。他人の嫌だなと思うところは自分にとっても嫌悪しているところが多く、自己嫌悪すればするほど他人を嫌悪していくものです。自己嫌悪が他人嫌悪のようになり次第に人間不信になっていけばより一層自分自身のことを認めることが出来なくなります。

自分が自分を認めることは、未熟な自分を認めることです。その上で未熟だからこそ改善していこう、未熟だからこそ学び直していこうと精進できる有難さに気づけるようにも思います。

今の時代は、教育の刷り込みからか周りの評価を気にして自分の価値がどうなっているのかを気にするあまり本来の自分(自己)というものとの付き合いが出来なくなっている人が増えているように思います。

自分というものを認めることが他人を認めることになり、自分が学び直すことが他人から学び直すことにもなります。この逆に自分を認めなければ他人を認めませんし、自分が学ばないから他人からも学べないのです。

人間関係はまさに自分を磨く砥石です。御互いに似ているところがあるからこそ、何を気をつければいいか、何を教えてくれているのか、相手の姿は自分の鏡だと思い自分からその鏡に向かって直していこうとすれば相手もまたその鏡によって変化していくように思います。

他人の善いところを沢山見つけられ発見できる人は、自分の善いところも沢山見つけられる人です。他人のことが尊敬できる人は自分のことも尊敬できる人です。もっとも身近な自分のことを大切にできなければ、自分の大切にしたい人を大切にすることができなくなります。

だからこそ自分自身の人格の一致、これが何よりも大切なことです。そして言行一致した自と己との一体感は自分自身に安心を産み出しより自然な成長に原点回帰していくのでしょう。本来、人間が学ぶ意味は「学び直し」にあります。だからこそ我以外皆我師という実践を行うことで、評価の刷り込みを取り払い、常に自分自身を学び続けて精進し、高め続けて人格を磨き醸成する仕合わせを味わうことができるように思います。

道は誰しもその人に与えれてもらっている天与の道ですから、他の方法論などはなく「学ぶ心」を高めることで未熟さが成熟し納得のいく人生を送れるようにも思います。だからこそ日々に自分の間違いに気づける謙虚さと、日々に間違ったら直そうとする素直さを大切に自分の中にある子ども心と未来の子ども達のためにも持っていたいと感じます。

我以外皆我師として、内省を怠らず学ぶ心を育て、学び直しを続けていきたいと思います。

尺度

四季を通じて様々な生き物たちが生長をし活動しています。つい都市で働き時間に合わせて生きていると、身のまわりの植物たちや魚や鳥などの生長には気づかないものです。ある時、ふと立ち止まり周りの声に耳を傾けていると次第に季節がどうなっているのか、周りの生き物たちがどのように伸びているのか、また何が増えて減ったのかといった自然の景色が観えてくるものです。

自然界とは別に人間は「時間」というモノサシをつくりました。ひとつの基準として昔は星時計、そして日時計、今では分刻み秒単位でデジタル時計が出てきています。これは人間の間で御互いにモノサシを持つことで、一つの基準を定めたと言えます。このモノサシとは尺度のことで、言い換えるのなら人間の価値基準ということです。

この価値基準というものを疑わず、もともとそういう価値だからとその価値観の中に囚われてしまうことを刷り込みとも言います。物事の本質を捉えず、周りの価値観を真実だと思い込めばそれ以外の世界は見えなくなります。

先ほどの景色も同じく自分の刷り込みや思い込み、価値観の尺度ばかりの中にいれば自然界のことは分かりません。人が自分の尺度を観直すとき、それは自然界の中にある実相を観るときに行われるように思います。

宇宙も同じく計り様のないものを計っても計ったところまでしかわからないのが人間の尺度でもあります。この尺度をどの尺度で観ているかが、その人の世界観を決めています。

歴史の尺度、宇宙の尺度、自然の尺度、いのちの尺度、いろいろな尺度を持つことができることが思い込みや刷り込みを外していくためのコツかもしれません。常に本質は変わらないからこそ、本当は何かといった尺度を磨くための実践を積み重ねていきたいと思います。

近代史から学び直すこと

明治のことを調べていると、そこには近代日本に向けてどのように変革が行われてきたのかが観えてきます。開国を迫られ、不平等条約を結び貿易をする中で如何に西洋が持っている技術を自分たちが取り容れて対等に貿易をしようかと急速な変化を優先した結果がその当時の様子に見てとることが出来ます。

西洋の持つ人工的な科学力、その文明を真似て自分たちのものにしようと貪欲に学びこんだ人たちが近代化を促進したのです。それまでに築いた循環型の暮らしを手放し、西洋と同じく消費型の暮らしに変わったのもこのころからだったように思います。

ちょうど明治に入ったころ、「御雇い外国人」という人たちがいました。約数千人の御雇い外国人を世界から招き学校をつくり様々な教育を行い技術者を育てていきました。

その中の一人に「大日本」を記した英国のヘンリー・ダイヤーがいます。この方は工部省工学寮(東京大学工学部の前身)の教頭に任命され多くの日本人に技術を教育してくださった方です。近代技術工学の父と呼ばれ、エンジニアリングとは何かということを常に優先して指導に当たったそうです。著書「大日本」では東洋の小国がわずか30年で近代化を果たした原動力は何かを解き明かしています。

彼の指導を受けて建築家の辰野金吾やアドレナリンを発見する高峰譲吉、土木技術者、工学者の田邉朔郎など多くの人材を輩出します。

「理論に実践が伴って初めて工学の価値が生じる」という信念を持ち、理論よりも実践を重んじ大学在学中の5年間の中の2年間は常に現場で場数を踏ませて学ばせることを重んじました。さらに、社會を換えるもっとも影響があるのは「ものづくり」をすることで改革されるとし、エンジニアとは社會を変革する人物でもあるとしました。

そのヘンリー・ダイアーはこういう言葉を遺しています。

「これまでさんざん言い古されてきた、『日本人は非常にモノマネが巧みだが、独創性もなければ偉大なことを成し遂げる忍耐力もない』といった見方は、余りにも時代遅れというものである。」(ヘンリー・ダイアー著『大日本』より)

実際に指導にあたったヘンリー・ダイアーは、この逆を見ていたということです。日本人はあっという間に西洋の技術を自分たちのものに変換していきました。実際に日本に来て次々と形にしていく技術者の姿に如何にその評価が間違っていたのかを記しています。

また指導にあたり日本人の特徴や特性も見抜いています。

「日本の学生は、何でも本から学ぼうとし、それよりもはるかに大切な観察と経験を疎かにする傾向がある。・・・工学に携わる人は、どんなに立派な理論を知っていても、知識だけの人にはなってはいけないし、また、どんなに器用でも、無知であってはならない。」(明治 第二集 模倣と独創~外国人が見た日本~ 2005.4.16 番組内の説明より抜粋)

知識だけの人に成ってはならない、器用でも無知ではならないと言います。つまり経験と場数を踏んで現場から学ぶことの方が本よりも価値があると言います。理論より実践を伝えてくれた教師だったからこそ、日本の近代化は進んだとも言えます。

しかしヘンリー・ダイアーは晩年に日本の未来を憂い下記のようなことを記しています。

「日本人は自分たちの国をすばらしいものにし、国民の生活を充実させるためには、西洋の科学と文明を利用すべきだが、同時に、日本人の生活と品性の特性を持ち続け、その個性を失わないようにすべきである。みずからの過去を忘れ、独自の特質とを棄ててしまうような国民には、真に偉大な国民となる資格がないし、またなれるものではないのである」

そしてこうも言います。

「日本は強大であるだけでなく、善良な国でもあることを示してほしい。」

その後、理念なき成長が軍事大国へ向かうことになり戦後の今の日本があります。今も昔も何よりも大切なのは、日本人らしい日本人としての成長であってその理念や理想を優先して日本人の徳性や品格、その歴史や個性を失わないことです。

近代史は、直近に先祖たちによって行われた私たちの歴史です。その歴史をよくよく検証し学び直しこれからどのようにかじ取りをしていけばいいかを決めるのは今の私たちの使命であり未来の子ども達の為にも私たちが向き合わなければならないことです。

引き続き、暮らしの再生を通して譲っていきたいもの遺していきたいものを深めていきたいと思います。