日本美の創造

零戦(零式艦上戦闘機)の設計主任として有名な堀越二郎という人がいます。戦後は、航空機づくりが禁止された日本ではあまり知られなくなったのかもしれませんが、宮崎駿さんの映画でまた今の時代に広く知られたように思います。

堀越二郎さんが居た頃の日本は、航空技術は世界より大幅に劣っていると言われていました。マラソンで言えば、2周も3周も周回遅れしているところから走りだしているというように今さら追いつけるはずがないと思われていたものです。

それを一気に追いついただけではなく、西洋でも理解できないような独創的なアイデアと技術で周囲を凌駕し最先端に躍り出るのです。まるで、うさぎと亀のレースに気が付けば亀に羽が生えて飛んでくるようにうさぎにはびっくりしたものでしょう。

これは私も同じ信条で、2周も3周も遅れたものを真似しようなどとは思ったことはありません。今さら真似をしてただ必死で走っても、向こうも必死で走っているのだからそう簡単に差は縮まることはありません。

しかし、創造力でそれを補えば一瞬にしてその場所まで追いつけるであろうという確信があるから遣る価値があるのです。私は、それをシンプルさの中に見出します。例えば、どんなに凄い技術があったとしても実績があったとしても、その元になっているものは必ず同じであるはずです。

鳥をモデルに航空機を創ったのであれば、その元になっているのは鳥の自然美であるはずです。そういうものをどれだけ観察して現実の技術にまで昇華するかはその人の観察眼と、審美眼、また具体的にそれを具現化する錬磨と直観によって行うものです。

もちろん視察をすることで、本来、周りの人たちがどれくらいのところまで技術を発達させているかを感じることは大事ですがそれを創造するのは自分でなければならないのです。

以前、教育も日本のものは3周遅れだとある人に言われショックを受けたことがありました。しかしだからこそ、独創的なものを創造し、世界をアッと言わせるものを生み出そうと覚悟するのが本当のものづくりをする者の魂だと私は信じています。

私達の国は、過去にも何度も他の文明が流入してそれを組み合わせて和合させてきました。聖徳太子が神道仏教儒教を合体させて国の理念を決めた時のように、私たちも今の時代のものを単に真似をするのではなく日本人としての誇りを持ってそれを合わさったものを自ら発して生み出していかなければ先祖にも申し訳ありません。

どんなことからも学び、どんなことも自分のものにしていく、そしてそれを自然の高さに限りなく近づけて清々しいものまで昇華していくことが日本美ではないかと私には思えます。

ものづくりとは、況や自分創り、人生創りそのものです。
自分が目指したことが、自分のものとなるのです。
妥協などはあってはなるまい、必ず同じところ、必ず繋がるところがあるはずだとかんながらを信じることが真の大和魂です。

日本美の商品を開発し、子どもたちの未来や世界へ貢献していこうと思います。

本元和合

大学に「物に本末あり、事に終始あり」とあります。

私の考えですがこの本末とは、本末転倒などで使われる時の本末のことです。物事の元にある根本を忘れて、枝葉末節のつまらないことに囚われる時などに用いられます。そして終始というのは、終始一貫などで使われる終始のことで、始めも終わりも終始筋道が一本通って変わらずにいることを言います。

そして物事とは意味そのもののことであると私は定義しています。

先日、有る事に気づいたのですが私たちはその本があるということを忘れてしまうものです。外側の現象を見てはそこでの比較対象や、勉強して得た知識を使って安易に右とか左とか、陰とか陽とかを分けてしまうものです。

言い換えれば自分を中心にして、左右に分別する分別智のことをいいます。しかし、ここには落とし穴があり中心にしたもののことは入っていないことがほとんどです。つまりは、物事を△にして観えていないのです。例えば、右・左・自分、陰・陽・自分というように三方の角に置いてその元が、その本がどうなっているのかを気づかないのです。

分別智というものばかりに囚われていたら、その本がどこにあるのかが次第に分からなくなります。初心を忘れるのも、その元を見失うのもこの分別智ばかりを優先して勉強することで悟れると勘違いするからです。頭でっかちになるというのは、分別智の刷り込みに呑み込まれてしまうことをいいます。

私たちは幼少の頃から、教育によって様々に分別された知識を暗記させられ詰め込まれます。それを勉強と言い、その分別智を学んではそれを頼りに様々なことを理解します。しかし、それを体験しないで理解するというものではその本がどこにあるのかが分かりません。言い換えれば、それを実践する人間は誰かということです。

実践する人間が生み出したのが末であるならば、末ばかりを探してはその本が分からないというのは本末が転倒しているとも言えるのです。また終始というものもそうですが、どこから湧き出たものかを忘れて、向こうから来たように思って順序を忘れてしまえば道に迷ってしまいます。

順序とは、筋道のことで私達であれば日本人としての民族性、その血縁の由緒に元ずく流れを一貫しているかということです。最近では、日本人が西洋化し、西洋の人が日本の文化を学んだものをわざわざそれを日本人が教科書にして学ぶような可笑しなことが起きています。

本来は自分たちから湧き出たものであるならば西洋によって分別されたものをいちいちやらなくても、自学自悟に自明していけばいいのです。本来、自分に由緒があるものを西洋の解釈したものから勉強するという時点でその順序が間違っているのです。世間では、海外のものをさも素晴らしいと取りいれますが、自分の中にあるものを忘れてやっているちは本当のことは掴めないと思います。

そして出来事、つまり「物事」というものは、全てにあますところのない真実の意味が存在していてその意味を真剣に深めていくことで自然に為るように思います。その意味づけを根本のところでどのように行っていくのかで、本末と終始は素のままになり常に道に中るように思います。

道を学ぶということは、この「本」ということにどれだけ当たり続けるかということであると大学では言っているかのようです。本当のことは全てが混ざり合ったところにあるものです。それは「分別しない」ところにあると言ってもいいと私は思います。

これを和合とも言いますが、それは今を真摯に実践していきその意味の由緒を顕現させていくことのように思います。

宝さがしのような日々、この地球の楽園にいることに感謝し、物事の本末と終始を大切にしていきたいと思います。分別する魔の入る余地がないほどに、その物事と一体になって取り組んでいこうと思います。

 

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。

心の通じ愛

人は心を通わせながら一緒にいることに歓びを感じるものです。心を通じるというのは、心を合わせるということです。

例えば、何を考えているのか分からないというのがあります。心が通じなくなってくると何を考えているのか分からなくなってくるものです。そういう時は、共に哀しみ、共に歓び、共に味わい、共に怒りと、何かを一緒にすることで御互いが通じていくものです。

この通じるというのは、何よりも大切なことで一緒にいるというのは共に一体になって実感するということだからです。

楽しいことがあって善かったと同時に思える事や、悲しいことがあって辛かったねと同時に感じること、自分が先に周りの気持ちと一体になってそう感じることが心が通じ合うためには大切です。

自分のことを分かってもらおうとし過ぎたり、自分のことを誰にも吐露せずに自閉的になってしまえば、この共に体験するとか、共に味わうとか、共に感激するということがなくなってきます。

すると心が離れていくものです。心というのは敏感で、そういう心ないものには針を触るかのように遠慮してしまうものです。そうなるとまた同時に実感することができなくなるものです。

相手の幸せを同時に喜べることや、誰かと一緒に何かを創りあげる幸せは、社会で生きているということにおいて最も大切なことであろうと思います。人が社会を創るのは、共に生きることを求めているからです。

一生に一度だけ、一期一会に出会った人たちだからこそそのご縁に感謝して信を優先してその掛け替えのない時間を大切に過ごそうとする生き方。

そういうご縁の集積こそが、人生をより寛美にしていくように思います。

共に歓び、共に怒り、共に哀しみ、共に感動し、失敗も成功も共に味わう。その心の通じ愛を感謝にしていくことが自他一体の幸せで生きる利他につながるように私は思います。

自分から心を通じていく努力を忘れてはいけません。

心は自分から通じていけば、自分の何倍も何十倍も幸せを創造していけるからです。心の通じ愛でより大きな愛を世界に膨らませていきたいと思います。

我を忘れる

人は何かに没頭するとき、我を忘れて取り組んでいるものです。

誰かのために一心に祈る事や、何かのために全身全霊で挑むことで「我」があったことも思い出さなくなるのです。

例えば、仕事と自分が分かれているときはどうしてもそこに我が入ってきます。計算とも言いますが、その心を優先するよりもどうやったら上手くいくだろうかと考えてしまうものです。そういう時の中心は自分の我の方にある時がほとんどで知らずしらずに本質から外れていくものです。

人は頭でっかちになると、頭で全部を認識し頭で何かを行おうとしてしまいます。心で共感して魂が揺さぶられ行動するという実践をするよりも、頭は目先の現象を解決しようと躍起になってしまうものです。

人は利他に生きる時、我を忘れるように思います。

その人が大丈夫か、その人はどうなっているか、相手をまるで自分以上に思いやる時にこそ我が消失していくからです。そういう状態を没頭というように思います。

この没頭という言葉の同義語は、「無我夢中 ・ 心 ・ 打ち込む ・ 一向 ・ 虫 ・ ひたむき ・ 一心 ・ 耽る ・ 熱 ・ 傾斜する ・ 集中させる ・ 見向き ・ 埋没 ・ のめり込む ・ 脇目 ・ 情熱的 ・ 注ぐ ・ 入り込む ・ 嵌まる ・ 明け暮れる」(webilio類語辞典より)とあります。

どれも我がないときを表現する言葉です。

人は我があるのは、自分の方を心配するのを先にして相手を先に慮ることをしなくなるからです。相手のことを相手と一体になるほどに思いやったり、相手のために少しでも自分を活かそう、相手がもしも自分だったらどうすればいいかと具体的な行動によって信を実践するとき、はじめて頭では考えられなかったような奇跡とも言うべき現象に出会うように思うのです。

何かに没頭するというのは、悟りを得ることに似ています。

それはまるで、いつ悟ったのか分からない程に偉大な気づきを毎回得るのです。そこには感謝から昇華した澄んだ真心や、得難い機会を得た無常の歓喜などいつも其処には存在しているのです。

これを一番得意に遣り切っているのは眼を輝かせている清澄の魂がある子どもたちです。

我を超えたもののために自分を使っている毎日を真摯に生き切る実践を求めていこうと思います。若さを武器にし、理念を主軸に自分を変えるような同志を世の中にたくさん輩出していきたいと思います。

仕事一魂~自物一如の精神~

仕事というのは、元来はどのようなものかと考えてみます。

辞書には「1 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。「やりかけの―」「―が手につかない」2 生計を立てる手段として従事する事柄。職業。(yahoo辞書より)とあります。

一般的には、仕事とは会社に入り自分の与えられた役割を果たしてその報酬を貰うという感覚があります。例えば、仕事を発注した人と発注された人の間で何をしてもらうのかを決めてそれを行い結果を出すといった感じです。しかしそれで仕事が成ったかというと、それはまた別ものであろうと私は思うのです。これはその仕事と定義しているものの質によるからです。

ものづくりの人に本田宗一郎があります。以前、静岡のものづくり伝承館に訪問しその歩んでいきた生き方や生きざま、そこに展示されている商品を見てきました。そこには、数々の道具たちや、生み出したそのもの、また物語や声、手の傷痕まで紹介されています。その際に、如何にそのものと一体になってその人が生きたかというのを実感したのです。

そのものに本気になるというのは、その物と一体になるということだと思います。これを自他一如と言いますが、その人と自分を分けない、そのものと自分を分けない、仕事とプライベートを分けないというように、自分の全てを「没頭」させるほどに全身全霊の全てを懸けて取り組む中にその本田イズムを体験したのです。

その仕事にどれだけの魂を籠めたか、その仕事にどれだけの命を懸けたか、そして自分の持つあらゆる魂の全てを注ぎ込んだかということがその軌跡から実感できるのです。自分のことなどは入っていない、自分がどこにいるのか分からない、つまりはどれも他人事などが入り込む余地がないものが元来の仕事の本質であると気づくのです。

本田宗一郎が言う、やりたいことをやれとありますがここでのやりたいは中途半端なことでありません。 全てに遣り切っているから、どの仕事も本人そのものであったのだと思います。仕事を趣味にし、仕事に生き甲斐を感じ、仕事が大好きであったその人の生き方から、私たちがつまらない刷り込みの中で働いていることに戒めを感じました。

これはやりたい仕事があったからそうなったのでしょうか、そうではなく全身全霊でどの仕事にも本気で没頭したからやりたいことが観えていた状態だったのではないかと私には思えます。

その時、人事を尽くしているので天命が観えてきます。やりたいことは何かもそういう時にこそ顕われてくるように私には思えます。強みにいつまでも特化できないのは、やらなくてもいいことに時間を費やしてしまうからです。

没頭するほどに取り組んでいるか、その仕事と一体になるほどに遣り切っているか、仕事か自分かの違いがないくらい本気でやっているか、自問自答は今を中途半端にやろうとする自分への自戒にしていこうと思います。ダイヤも磨けなければ、使う場所が合わなければいつまでもただの石ころです。

ものづくりの魂を持った日本人の鑑として、先人の歩んだ生きざまを誇りにして自分も新たな創造という仕事、その変化への挑戦に突き進んでいこうと思います。

ものづくりの精神

何かを創るというものには行為があります。人は思っても知っていても、それを実際に自分でやってみなければ創っているとはいいません。何かに取り組む際に、やってみたかどうかというのは大変な勇気が要りますがそれをしてはじめて自己形成といった本来の成長になるように思います。

本田宗一郎にこんな言葉があります。

「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”をほとんどしない。」

人は自分を省み、反省するのは見たり聞いたりしたことをよくよくふり返り自分を観て心に聴きます。しかしそれで反省した気になっては、いつまでたっても次を創ったわけではありません。

次を創るというものは、反省して次にどうするかのほうが大事なことだということを教えているのです。失敗は成功の母とも言われる所以は、本来の失敗とは悪いものではなく、その失敗を糧にそれを転じてモチベーションにし次へのトライのキッカケにするというものです。

何でもそうですが、失敗したら倍返し、失敗を恐れずに思い切って前に進むというのも、目標と目的をはき違えないようにするためです。何のためにから離れない人は、どんな時でも目的が何かということを忘れていません。だから、どんな失敗があってもそれが必然であったこと、その失敗は自分に次への改善を指示してくださったとすぐに気持ちは切り替わります。

しかしそれが与えられた目標になってしまい、自分で目的を深めていないとすぐに失敗しただけで納得してそこで考動を終わらせてしまうことがあるのです。何のためにかというのをモノにするというのは、自分の言葉でその志をものにしないといけません。

そしてそれは本質からずブレずにやってみることではじめてものになるのです。試すというのは、志を試すことであり試練というのは、日々に試しては訪れず失敗と成功にどれだけ真剣に向き合って自他一体に取り組んだかということです。

悔しい思いも悲しい思いも、複雑な思いもそのままに、必ず次こそはものにするという覚悟でその事物と一体になるほどに没頭すれば自ずから創ったことになるのです。真の変化とはそこまでしないと変化と一体にはなれません。

本田宗一郎の「試す人になれ!」と言うのも、この試すことが創ることだからです。創ることは失敗することだからです。

創れないと嘆く前に、今が常に変化の試練だと思ってその試練に思い切って飛び込まないからかもしれません。何のためにこれを与えてくださったのかと思えば、諦めて肚を括って何事も試しに遣り切った方が清々しいものです。

試練を沢山経験することで、創造力もアイデアもはじめて磨かれるように思います。試練を試練にしていけるように、ものづくりの根本精神を大切にしたいと思います。

自然の美意識

日本人が発展させてきた技術には常に座右に日本の美意識というものがあります。この美意識というのはものづくりには必要で、世界中どこでも生き方を含め「美」というものを追及したように思います。

この美とは自然を直観で感じて自然を愛でる時に美しいと感じる美のことであろうと思います。

自然の中には無駄が一切ない、完全にそぎ落とされた美があります。

例えば、雲があの様相なのも、霧がかかった靄がかかるのも、雨が降るのも、突風が吹くのも、そこによく観察すると自然の美があります。そこにはやはり一切の無駄がありません。有機的にあらゆるものがつながって何かの役にたっているところに私たちは美を感じているものです。

そしてその全ての役割が切り離されずに調和した状態を合理的であると私は定義します。この合理的であるというのは、その人が繋がっている中で物を観る感性があるということです。

これを私は一石二鳥を一石百鳥、一石万鳥と一石全鳥としていく中で自然美を実感できるように思います。私が無駄が嫌いなのは、この言葉に換えれば一石一鳥ではいけないと思っているからです。

この無駄があるというのは、そこに次第に知識が増えて我が入るから無駄が生まれます。ここでの無駄というものがないというのは、刷り込みがない幼い子どもの同じ状態のことで物事をあるがままに捉えられることをいいます。

知識を得て技術を真似たとしても、そこに我を消し合理的に自然に近づけていこうとすることがなければそれは単に表面だけをなぞったことになってしまいます。本物にしていくには、表面をなぞるのではなく自分のものにしていく必要があります。それは万人に等しく、自然を直に観てそこから自分を通したものになっていなければなりません。

言葉一つであろうとも、物一つであろうとも、人生一つであろうとも、全て自分を通過させていく中で自然の浄化のようなことを自らが削り取って削ぎ落として美しくしていかなければならないのです。

水という性質が、先ほどの例えのように様々な様相に姿を変えてもそれが全体とつながって偉大な合理性を持っていることが観えるのです。それを自分の感性を通してどれだけ今の時代に合ったものをアウトプットするか、それが日本の美意識ではないでしょうか。

子どもが没頭して夢中になるような砂遊びが楽しいのも、水遊びが楽しいのも、そういう合理的なものが観えるからです。大人になれば、自然農も自然養鶏も楽しくて仕方がないのは私もその中に合理性が観えるからです。

私は、日本人の美意識は全てにおいて自然の観察によって得られたものであろうと思います。西洋文明も同じく自然から観察した技術を独自の文化で発展させてきましたが、私達日本人はより一層この美しい島国、新鮮で幼児性を保たれている風土の中でまるで幼子のように自然を観察する力を駆使して西洋文化で築いた技術に新たな息吹を加味したように思います。

この幼児性というものは、魂のことでその魂を維持していくことは日本再生のカギであると私は信じているのです。

いつの時代も私達の観察力というものは、自然を観る事で引き出されていくものです。そのものがそのものの価値でいること、そのものの価値をそのものの価値で活かすことができれば自然になっていきます。この合理性、つまり自然の観察力を磨いていくことは、日々に無駄のないところで全身全霊で生き切ってその生死の美学や美意識を高めていくことと同じです。

常に美しくありたいと願う生き方は、自然でいたいと思うことと同じです。

自然の直観力を磨いて、世界に誇るかんながらの魂を今の時代に還元したいと思います。

烏骨鶏の育児~自然から学ぶ~

自然養鶏を実践しつつ、烏骨鶏の育児を観察して色々なことに気づきました。

もともと烏骨鶏は原種で改良をされていない鶏で、子育ての方法なども昔から変わらずにそのままです。誰が教えたわけでもなく、自然に子育てをしていく姿に本来の自然に沿って生きていくことの尊さを感じました。

観察したことを書くと、烏骨鶏は繁殖期に入る2月、3月の春先に卵を温めだします。夏の餌が豊富な時期にあわせて、また子どもは体温を維持できないので暖かい時期に成長するように季節に合わせて孵します。

卵は雌鳥たちが、数羽で身体を寄せ合って協力して温めます。うちでは5羽の雌がいるので数個の卵を絶妙に転がして交換しあったりして温めていきます。約21日前後の間は何も食べず、何も飲まずに少しも卵から離れずに抱卵し続けます。

外敵から襲われようと身動きせず、危険が自分の身に迫ろうとも命懸けて子どもを育てます。またその子どもを守るために、雄も雌も一致協力して守りつづけます。

そして卵から雛が孵り、小さな烏骨鶏が出てくればその子の世話をする雌鳥が担当します。子どももお母さんが誰かというのを認識していて、いつもぴったりお母さん鶏から離れません。

しかし雛には過酷で、生まれてすぐに死ぬのがほとんどで生き残れるものはそんなに多くありません。今年も5羽孵りましたが、結局は3か月で1羽しか生き残れませんでした。必死に生きているものだけを、本気で生きたものだけを遺そうとする自然の本筋には身を引き締める思いがしました。

そしてその1羽がだいぶ大きくなり、今では親鳥の半分くらいの大きさになりましたが親の後ろをついてまわって見て真似ている姿には微笑ましく感じます。先日も、止まり木に上っているお母さんを追って一生懸命に飛びますが高くて乗れず泣いていたらまたお母さんが降りてくるというように、子どもにあわせて自立できるように少しずつ子どもにあわせながらも自分たち大人の生活に合わせられるように見守っています。

自然界の子育てに、本来の子育てを学ぶことが多く、私達人間もきっとそうやって数々の動物から育児を習ったのではないかと思うのです。自然の中で生きていくということは、教えてもらわなくても活きる方法を知るということなのでしょう。

今の烏骨鶏の子どもの姿に、一生懸命に生き切ること、本気で真摯に試練に立ち向かうこと、そこに自然界の摂理を学べます。自然界の弱肉強食とは力が弱いから死に強いから生き残るのではなく、自然は常に本気でいのちを遣い切るものだけを長くこの世に遺そうとしているように私には観えます。

自然養鶏を実践しながら、観察して気づくのは自然の中の教えそのものでした。

烏骨鶏の育児の方法は、本当に現代の私たちに大切なことを教えてくれます。この体験を、世の中に還元していきたいと思います。

 

自然治癒の学び

病を得て、治癒を待ち、回復するのには長い時間がかかるものとそうではないものがあります。しかしほとんどがその病そのものの質によるものですか、相応の時間を要するものです。

どこかで何かが無理をすると、バランスが崩れて外部から病が入り込んできます。そうなると感染症に罹ったりすることで、様々な炎症が体内で発生して心身共に苦労することになります。

先月からの体調の不調も落ち着いてきましたが、するとすぐにまたいつものように求道して寝不足になりまたハードに働き向き合いはじめるところを鑑みると自分は元気な証拠だと懲りないことに驚くばかりです。ふり返れば少し体調が悪い時の方が、坦々と安全運転のようでいいのかもしれません。

今回の長い病の体験の中でまた得るものがあったのですが、治癒というのは常に内部から訪れてくるものです。それをじっと待つというのは大変なことです。例えば、外側では様々な出来事が次々に発生してきます。特に自分を捧げていこうとするならば、求められ応じるままに日々は忙しくなっていくものだからです。

しかしその出来事に心が着いてこなかったり、身体が着いてこなかったり、感情が伴わなかったりすると、そこから中心が乱れ治癒が働き難くなってきます。それを薬ですぐに治療だとしても、一時的にその身体や気持ちを整いますが副作用があるもので全体の治癒にはやはり掛かる時間は必ず掛かるのです。

長い時間をかけて治癒をしていると、ちょっとずつですが隅々まで回復していくのが自明で伝わってきます。動的と静的ではないですが、自然と同じく急な災害で何かが崩れても、それを時間をかけて回復していくかのように常に私達の姿も自然と同じように働き治癒も等しくできているものです。

しかし自然治癒をするのは待つだけのように思われますが大変な勇気と決断が必要です。病になればすぐに治さなければという常識を持つ私たち現代人は、すぐに治せる方法ばかりを試しているうちに自然治癒の邪魔をしてしまうことがあるように思います。治ったとか治らないとかあまり考えていると、感情の起伏にまいってしまいます。

そうして急いで修理をしてしまうと、後後で面倒なことにもなります。例えば私の地元の神社が、水害で水路が崩れましたがそれを工事でダムを設けコンクリートで固めてからは水質が汚れ、生き物がいなくなり、暑くなると嫌な匂いが漂っています。そもそもの神社とともに守ってきた自然の水の流れ、浄化という本質から離れて人間の都合が優先してしまうと修理の意味をなさないように思います。

自然を敬い、自然に見習うということは、自分の中にある自然と対話をすることに似ています。自然は常に内部から訪れるものだと私には感じるからです。内部から来る自然によく耳を傾け、勇気を出してじっくりと待つことが本来の自然であろうと思います。

せっかちなのはまだまだ常識に囚われている自分への警鐘であろうと実感しました。自然治癒に感謝し、その自然の自信を今日の実践に換えてまた使命を探求し、捧げ切る日々を楽しみたいと思います。