丸ごと愛する

先日、自己肯定感について話をする機会がありました。

一昔前までは、自己肯定感などという言葉はあまり聞かれない言葉だったと思います。最近では、よく教育の世界にいると自己肯定感がどうだという話題が出てくるようです。

これは何かと比較して不足を補っていくという強迫観念のようなものが存在しているのかもしれません。もともと唯一無二、たった一人、たった一度のその人という定義ではなく、あれもないこれもないと、こうあるべきという姿を叩きこまれると人は自分でいいと自分が感じられなくなるのかもしれません。

人を愛するということは、その人を丸ごと愛することであろうと思います。しかし、条件付きの欲望であったり、敷かれレールの中にいることが前提などと、世間のモノサシを優先すればその人はその人らしくいることを否定されていることになるように思います。

自分を愛するということは、自分は自分のままでいいということなのでしょう。

それには、まずそのものを丸ごと認め、丸ごと受け止め、丸ごと存在に感謝するというような有難い心を育てていく必要があるように思います。

自分のこれがいけないとか、これがダメだとか、そういうことを気にしていたらそのうちに他人のこともそういう風にしか見られなくなるものです。そういう自分がいるとして、それ以上にそのままでいいとか、善かったねとか、大丈夫と気楽に信じ切ってくれている存在に人は安心するのかもしれません。

自分自身も、安心する存在にたくさん救われています。それが何であろうが、今の自分が善い、このままで善い、今が何よりも善いと思えることが常に自分の存在を丸ごと実感できるものです。

自分のままがいいままに、そこは変えずに人生そのものは幸せを高めて福を広げていくために日々に自分の欲に打ち克ち精進していこうと思います。

心動

世話をするというのは、頭で行うものではなく心で行うものだとよく実感します。

例えば、植物の世話などもそうですが頭で分かった気になり世話をしたとしても実際はその生き物への配慮や心配りがなければ枯らせてしまうことがあるからです。自然界で生きていれば、自然循環の中で自らで自分の棲家を移動していきますので順応も進みます。

しかし人間都合で用意された環境、ベランダや室内などは植物に合わせてこちら側が接し方を変えなければ安心して見守ることができなくなります。それに多種多様に個性が異なり、寒暖差や水の吸収、その他、風通しまで思えばどの場所が最適なのかもその生きている生きものによって異なります。

適材適所というのは、本来はこちらが適材適所に配置するのではなく、適材適所になるように私たちの方が変化させていく必要があるからです。

そのためには、少し先の季節を先に見通し、どのように接するのかをいつも配慮していく必要があります。そしてこの見通しとは頭でできるものではなく、やはりそのもののいのちに寄り添ったり、そのものの発達を見守る自分の心の状態により立つのです。

見通しとは、そのものがどのようにしたいのかをよく観ることでそのもののが何をしたいのかに気づくことのように思います。つい自分の都合で物事を動かしたくなりますが、本来の自然の姿はそのものがやりたいと思っている環境を用意していくことだろうと思います。

植物が枯れるのもそうですが、ほんの少し長い期間、そこから離れるだけである種類によって過酷なことであったりします。その時は、誰かに頼んだりそのものが自立できるように日頃の関わりを改善していかないといけません。

育てるというのは、とても配慮が必用だと思います。それは、こちらの期待通りに育てようとするのではなく、そのものが育っていることに感謝する気持ちで接していなければおかしくなるのです。

当たり前ではなく、有難いと思えるときだけが心を配っています。
しっかりと、感謝するままの自分の維持をし心を常に動かしていこうと思います。

植物から、成長を学ぶのに振動と震動、そして心動を観直しています。

我を省く

人は自分の思いもしないような出来事が起きると、出来事が起きたのは自分が起こしたのかと考える間もなくその状況に右往左往してしまうものです。

しかし四季のめぐりや蒔いた種が芽を出すように、実は本来は自分が望んで起こした現象であるとも言えるのです。それが他人や外部から起こされたかのように感じてしまうのは、突然のことであったり、予期していないや、想定外などといった理由をつけてはそうしているのです。

例えば、先日の原発事故もそうですがそうなると分かっていることを今さら想定外ということをいっても、本来はその原発をつくるという種を蒔いているからこそその芽が出ているとも言えるのです。

人生は理不尽に感じるのは、主観で自我が強いから自分の思い通りではないや自分の都合にあわないと思うからであり、もしも主観で自分がなければ必然であることや役割であったことを受け容れるように思います。

もちろん、主観か客観かという意味ではなく、その両方の主導権をどう持つのかということになるのではないかと思います。

自他を尊重しようとすると、自分もですが相手のことも同じくらい思いやる必要があります。それはまるで、自分の身体も心も大事しているのと似ていていつも感謝のままでいるということに他なりません。

人はつい当たり前と思うと、すぐに自分の都合で当たり前であることを認識します。しかし本来のことすべては当たり前ではない、実は有難いことだと思っていれば自然に感謝していくことができるのです。

気が付くと人は自分のことばかりを考えていて、あまり全体や周りの人々のことを考えなくなってきたように思います。もちろん、だからこそ優しい人は目立つ世の中になってきましたがみんなが目指した日本人の姿に近づけるようにそれぞれが正直に精進していくことしかないように思います。

そのような他人の事を自分のこと以上に考えられるような温かい心を持つ人をリーダーに育てていくような環境もまた必要だと私は思います。昔の模範はいくらでも足跡や人々の心に残っています。これは今の時代だからとか、環境が異なっているからできないのではありません。

御互いの利害を超えてまで生き方に正直に真摯に取り組んでいく誠の心を今の世代の責任者として体現していくことがこれからの子どもたちの未来への希望になるはずです。

利害を超えて、心から共に歩めるような同志を求め師と共に自らの我を省くことに取り組んでいきたいと思います。

旅のご縁

昨日、国立科学博物館でグレートジャーニー人類の旅の特別展を見てきました。

もともと人類はどのような経路をたどって今に至るのかを、科学的に解明していくのは大変興味があるものです。それを探検家の関野吉晴氏がその足跡を辿りながら、原住民やその土地の人たちと触れ合い人類の生き残るための智慧を洞察したものです。

興味深いものはたくさんあったのですが、どれも自然と文明との共生をどうするか、先人の智慧に学びどう活かすか、忘れてはいけないものは何か、今までに感謝しこれからの子孫へ遺していくものは何かと、今の私たちに訴えかけてくるものです。

人類は、今までも様々な困難を乗り越えて世界へと分布してきました。新天地を求めて旅をし、どんな厳しい環境の中でもそこで生活していこうと努力してきました。まさに私たち人間のDNAは、新天地を求めて挑戦し、そこの生活に適応していくことで生き残ったのかもしれません。

そう考えてみると、いまや月や火星にまでいきその宇宙空間でもどうやって順応していけばいいかと挑戦しているともいえます。

ここから洞察できるのは、種を遺すためにどの生命も必死に適応しようと進化を已みません。そしてそれは新しいいのちとのつながりを求めていく旅をしているのかもしれません。つまりは、生き残りの智慧というものは頭で理解し考えるずっと以前から自分の中に備わっているということです。

人は、誰が教えなくても本当は生きる智慧も生きる力も備わっているともいえます。それが教えられることで邪魔され本来のものが出てきにくくなっているとも私は思うのです。今のように教えられることが多い世の中にいれば、当然、関野氏のような教えの削除のような実学による体験が必用ではないかと思います。

先人の智慧を学ぶのはその格好の学習材料です。その中で、忘れてはならないことと今を生きる上で大切なことを学び直すことであろうと思います。

その探検家関野氏のインタビュー記事(TOKYO人権52号より)をご紹介します。その中で特に印象に残ったのは、

「ぼくが訪ねた先住民社会では、みんなが「ハッピー」でした。自分と自分の家族だけが良ければいいなんて考えは、彼らにはありません。獲物が獲れたらコミュニティの全員で分けあう。でも、日本を含め、先進国はどうだろう? 自分と自分の周囲のことだけしか気にしない人が増えているんじゃないかって思います。」

「自分さえ良ければという考え方ではなく、地域の人同士で助けあおうという考え方なんですね。ただ、助けあいながらも、個人を尊重することは大切です。それは、民族や文化においても同じです。自分と異なるものを批判するのではなく、認めあう姿勢が大切だと思います。」

「思ったことをまっすぐ言わないところは、なんだか日本の若者に似ていますね(笑)。でも、ぼくは、迷惑をかけあえるつながりが本当のつながりだと思うし、本当の友達や家族なんだと思いますよ。」

自分さえよければいいという自利中心の世の中に、生きる智慧はないのかもしれません。常に利他中心で家族のように互いを大切にしていくことにこそ私たちが旅をしていくための最大の鍵があるように思います。

ご縁を大切にしていくことを再認識する機会になりました、有難うございます。

発達論4~プロセス~

生きものが育つということは、今まで生き残ってきたプロセスの証であるともいえます。

例えば、植物や昆虫などもそうですが必ずある順序性をもって成長していきます。菜の花でいえば、種から芽が出て伸びて花が咲き、そして種をつくります。てんとう虫でいえば、卵から幼虫になり、さなぎを経て成虫になりまた卵を産み繰り返します。

そのように、一つのいのちから多様に分化しそれぞれの生きざまで役割を果たします。そのプロセスは全て必要不可欠でその生き物にしかない大切な役割を帯びています。あらゆる生命のために、その経過と課程を育っていくことでその生き物の生涯を全うしていくのです。

発達の過程というのは、まるで魂を磨き続け人生を掘り下げていくことに似ています。ひとつひとつの発達を獲得していくことで、より自分の役割や使命を果たすために必要な機能は身についてきます。その過程をどのようにその人が自発的に取り組んだかでその人にしかない体験を積みそれをその生涯で活かしていくのです。

つまり発達というのは、その過程を大切にするということが尊いいことであり、そのプロセスを正しく観て、そして信じることでそのいのちが求めるままにさせてあげることで最も全体に必要な使命を果たしてくれるのです。

そうやって貢献していると実感することで、いのちは磨かれそして深められていくからです。

そう思えば、善悪を自分の主観や誰かの決めたモノサシで決めつけるのではなく、その体験、その過程が福だとし善いことにしていくことがそのいのちが望んだ成長を援けていくことになるのであろうと私は思います。

発達過程を信じることは、そのものがそのものでいいと丸ごと受容していくことに似ています。自然の中で私たちがそれぞれに好きに多様化して世界を調和していくのも全てはプロセスを信じることに他なりません。

人生と同じでふり返ってみたら意味がなかったことは何もなかった。そして無駄であったと思うことも何一つなかったと思えるのが人間であろうと思います。それが発達過程であるというのが私の発達論の一つ、「プロセス」であるということです。

何でも画一にし、誰かのモノサシで管理し、時間のスピードがあがっている昨今、プロセスというものの意義が薄れてきているように思います。方法論ではなく生き方を優先できるようになるのも、それはプロセスを深く信じ味わうことから実現するのです。

プロセスを見守り、そのいのちの成長を味わっていくことが子どもを信じることだと思います。

 

見守るという生き方

変えるというものに、自分の外側のことを変えるのと自分の内側を変えるというものがあります。

外側というのは、自分の内側を変えないで外側を変えようとすることでよく言い訳をするときや責任逃れをするときは外側に意識が集まります。しかし、問題の原因は外側ではなく自分の内側にあるものだと自分のそれまでの誤った考え方に気づき変えることで生活習慣そのものを見直すとき責任は自分になり内側に意識が集まります。

例えば、原理原則を知っているといっても、原理原則を外側で使うのと内側に対して使うのは異なるように思います。例えば、玄米を食べるというときに玄米を食べる理由を自分の外側から起きた問題を解決するために食べている人と、自分の内側から問題を解決しようと内省的な実践をしようと取り組むのでは意味が異なるということです。

人は、生き方まで変えないといけないということについては大変なアレルギー反応を起こすように思います。いくら頭では分かっていても、全身が拒否するというのは、過去の何かの出来事から好悪感情を抱き、思い込みから嫌いになってしまうのに似ています。

食べものの好き嫌いなどもそうですが、嫌いだったものを思い込んでいていくら美味しいといってもその人が食べようとしないのに似ていて、かつての嫌な思い出や記憶が拒絶を生み、そのことから過剰反応してしまうことで避けようとするのです。

子どもの頃に、無理やりにピーマンを食べさせられたり、または自分の発達に合わなかったことを無理をしてさせられたことが発達のねじれとなり、その歪が生涯をかけて生活に影響を与えてしまうこともあるのです。

しかしそれが本来は悪いというものではなく、そういう機会を得たことでそれを天からの贈り物として捉え、機縁を活かし実践を通じて乗り越えることができたなら、そこでまた人生で得難い邂逅をいただけるのが人間の真善美のようにも思います。

いつまでも内省を避けて通ろうとするのではなく、全てを受け容れて実は善いものだったと実感できるところまで弛まずに諦めずに徹底して実践していけば次第にそれが内省そのものになっていくように思います。

内省といいながら、外省をしていても内側の問題は解決していかないように思います。外の世界を信じるように、自分の中も信じることができればそれがすべてを福にしていくという考え方に出逢い、生き方を楽しめるように思います。

方法論が蔓延る世の中で、外側だけは足し算のように増えていきますが、これからは引き算の時代のように思います。これだけ物が溢れて豊かになったのなら、内側は引いていくような自らの生き方の見直しを全人類でやっていくことだろうと私は感じます。

そこに平和という生き方があり、真心対話を通じて異次元調和を志す新しい時代を子々孫々へ譲れるように思います。これは造語ですが真心対話とはあらゆるものに心が宿るとしその心の通じ合わせることと、異次元調和はあらゆる異なるものの個性をそのままに渾然融合していけるという意味です。

これが私の発達論の中心となる思想です。
見守るという生き方を、真摯に味わい、師と共に歩みきっていきたいと思います。

自然が働く

先日、自然治癒について色々と気づくことがありました。

もともと自然治癒というのは、自分の中に本来治る力がありそれが働くことで自然に治癒するという考え方です。そこには、病もまた自然の一部として治るために一時的に病むということです。

この考え方で有名なのはアンドルーワイル氏ですが、そこには信じるということの大切さを述べています。「患者がその治療法を信じること、医師がその治療法を信じること、 そして患者 と医師が互いに信じあうことである。 この三つの要素が働けば真の治癒が起こりうる」と断言しています。

この信じるというのは、自然を働かせるのにとても大切な意味が存在します。

そもそも外側の力で治るという考え方は、治れば信じるという現象に対して信じるかどうかを疑心暗鬼になっている状態です。しかし本来の信じるというのは、どのような現象であっても必ず内側の力が働いてそれが外側の力の協力を得て解決すると信じている状態です。

これは人事を尽くして天命を待つのと同じで、信じるからこそ人事を尽くすことができ、人事を尽くすからこそ他力を呼び込み最終的には福になるという考え方と同じであるのです。

そしてそれを引き出すのは、本人の信じる力、そしてそれを見守る人の力、そしてその本人と周りが互いに深く信じ合うことで自然発生的に根本から治癒していくことができるのです。

根源治癒というのは、信じるということで信じれば根源から治り、そこに疑いや不安があれば対処療法ばかりを遣り続けることになるのです。

信じるというのは、きっとこれで善いのだと思うことや、最終的には待っていればきっと善いことになると楽観的に考えることができるかということだと思います。そこには芯の強さと同時に、信念が必要になるように思います。

生きていれば色々と起こりますから、その一つ一つに正対し、何度も何度も困難を乗り越えていく中で信念が醸成されそして遂に楽観といった安心の境地を持てるように思います。そしてそういう時こそ、自然が働くということです。

自然が働くというのは、信じることが働くと言っていいと思います。

常に楽しく働くには、信じるかどうかということに由ると思います。
見守るということをさらに実感して内省していきたいと思います。

善行動

人は実地実行の質量で変化というものを体現することができます。

特に、何かを思い何を行うかというのは、一日一日の中で試されるようにも思うのです。いくら善いことをしようと祈っていても、善いことは何をするのかの実践をしていなければそれは善いことになろうとしているだけで善い人ではないのです。

二宮尊徳にこうあります。

「朝夕に善を思うといえども、善事をなさざれば善人というべからず」

これもいくら善いと思っていても、具体的に善いことの実地実行をしていなければ善人ではないということです。

会社でいえば、何をするのことが善なのか、どんなことをお客様や世の中に奉仕していくことが善行なのかを決めてそれを日々に積み上げていくことが価値だということになろうと思います。

具体的なことにしていくには、何が善いことなのかを決めてそれを探し、一つでも多く善いことを求めて働かせていく必要があるように思います。今日も自分は、誰かのお役に立てただろうか、具体的な改善ができただろうか、お客様や社会の発展に貢献しただろうかと、常に念じ続けて一つでも多く勤めていくことが大事だなのだと思います。

人は念じ続けることで、求め続けることでアンテナが立ち、発見しやすくなっていくように思います。例えば、探しているから見つかるように、善行をしたいと念じ続けているからその善行のチャンスを見逃さないということだと思います。

何か少しでも、一日一日、ご縁を活かそうと、機会を逃すまいと思えば思うほどにそのチャンスを見出せるようにも思うのです。

チャンスというものは、毎日の積み重ねの集積によって得られるように思います。常に人事を尽くして善行を実地実行した種が芽をだし、発育し収穫できそして次の種になっていくように思います。

自然に繁栄していくには、思うよりも行動することのように思います。
日々に行動をベースに改善していきたいと思います。

天地神明

太古の昔より、私たち日本人は生まれた場所に特別な思いをもって育ってきました。

地域には氏神様や鎮守、産土神というようにその生まれた場所や地域には自分の成長を守護し見守って下さっている存在があるとし、地域への恩返しを通して先祖代々への感謝や祈りと結びついていました。

そもそも私たちはよく勘違いをし、自分だけで育ったと思ってしまうこともあります。
今の自分があるのは、当たり前だと思い違いをするのです。

それはないと言う人もいますが、それでは太陽があるのが当たり前か、水があるのは当たり前か、家族があるのは当たり前か、今、生きているのは本当に当たり前なのかと、その当たり前は次第に持っていて当たり前になってしまうから感謝の心が曇っていくように思います。

よく考えてみると、自分がここまで育ってきたのは周囲の御蔭があってこそでそれは直接的だけではなく間接的にもいつも自分を見守って下さっている存在がいるからだと言えます。寝る場所がある、食べるものがある、そういうもの一つ一つをどれを取っても実は先祖代々、また先祖代々と共に生きてきた様々な自然、そしていのち、そういったものが連綿と存在したつながりの中ではじめて私がいるといえます。

これは滅多ではない大変有難いことであろうと実感することを、一番身近なところから実感していこうとすることが豊かさの真実でもあろうと思うのです。

当たり前を実感できるというのは、心が豊かであることでありそれを常に身近ないのちと歓喜していくというのが幸福というものであろうと思います。

今の時代は、当たり前の使い方が自分にとって当たり前になってしまい、本来の滅多にない有難いことだという意味ではなくなってきています。人間都合、自分都合の当たり前というのは権利の主張に似ていて物がありあまっても不足だという欲望から来ているように思います。

有難いと思う心は、自分の一番身近なところに存在しているように思います。

当たり前ではない全てのかんながらの存在をいつも心に実感して生きていこうとした先人たちの清らかで正直な生き方に故郷を思い出しました。

天地神明というものの本質は、八百万の神々が常に見守ってくださっているという意味でしょう。だったら天地神明の安心の中で古来の先祖の遺恩、正直ということへの感謝を忘れないでいるということを常に自らの欲を打ち払い、穢れに打ち克ち、祈り続けるという真心の実践が大切なのだと思いました。

当たり前ではない邂逅に深く感謝しています。

自分の歩むかんながらの道の中で、出会うべくして出会える旅に心が震えます。
誠心誠意、全身全霊で見守りへの御恩返しをしていきたいと思います。

理念に由る

人はそれぞれに価値観があり、自分が正しいと思うことを信じて取り組んでいます。

それは元来、その人が生まれながらにして持っている使命があり役割や責任を果たそうとしているからとも言えます。それを間違っているというのは、その人の価値観が自分には正しくないからということになってしまうのです。

例えば、誰かに利害が発生してしまう場合は利の場合は善とし、害の場合は悪となるようにその人やその集団を中心に物事のモノサシを持つのですから当然無意識に善悪を決めてしまうのが人間なのです。

しかしそういう善悪などの利害を超えて存在しているものを本能は知覚しているのも事実です。分かっているのに知っているのに心が突き動かされるようなものです。それが役割のようにも思うのです。

動植物の世界でも、まるで自らそれを知っているからのようにいのちを投げ出したり、過酷な運命であっても役割を担ったりしているのではないかと思えるような出来事を拝見することがあります。それは運命を受け容れているかのようです。

人間は、それでも価値観を優先して自分が正しいと貫いて争いを繰り返すようにも思います。それでは正しい人と正しくない人が存在しますからいつまでも協力できずに停滞してしまいます。

だからこそ価値観を超えていくものが互いに必要だと思うのです。それは何よりも遣りたいこと、仁義や真心に由って決めた自分のお役目の場所で語り合うことができれば実現すると思うのです。

価値観を認めるというのは、理念を実現するためにその方法論はいくらでもあった方が善いと思うことだと思います。人は自分の中に見え隠れしながら潜んでいる自利がありますから、無意識にそれが邪魔をして理念を曇らせるように思います。

だからこそ利他で生きることが、自分の中の理念をより明確にしていき何をもって正しいかを互いに確認していき人々を導いていくことになるように思います。そしてそこには、多くの人達の使命を活かす役割を同時に果たすことになるのです。

論語に、「己れに克ちて礼に復るを仁と為す。一旦己れに克ちて礼に復れば天下仁に帰す。」があります。一日一日を、どれだけ理念に由って遣り切るかが、世の中にどれだけ貢献しているかになるのであろうと私は思います。

常に理念に由って、日々の実践を踏み固めていこうと思います。