視野を変えるということ

吉田松陰の松下村塾に飛耳長目録というものがあります。これは自分が見聞きしたもの、また塾生たちが見聞きしたものを記録に残しそれをみんなで読み合わせをして情報共有をはかったものです。

この記録はそもそも自分という存在が世界を変える存在であるということを認識する広い視野を育て、自分自身が見聞きして発信したことが多くの人達に気づき影響を与えることを自覚することにも役に立ったのではないかと思います。

あの当時、インターネットやテレビ媒体がないなか、一田舎の農村で育った青年がまさか自分が世界を変えようとは思えなかったはずです。しかしそこに松陰が顕われ、何のための学問なのかを背中で示し実践で感化したからこそそこで育った若者たちがその後の世の中を変革する原動力になったように思います。

そしてここで大切なのは「視野」のことなのです。

自分の視野というのは、自分だけのことしかみえないときは世界は自分と切り離されています。自分が実践を怠ったってそんなに意味がないと思えるでしょうし、別にちょっと手を抜いても問題ないと思えるのでしょう。

しかしもしも自分の実践が一つ怠ることで世界が変わるとしたら、周りが変わってしまうとしたらどうでしょうか。その自分の存在の怖ろしさに心身が震え上がるはずです。本来、世界の広さというのは別に地図で理解するものではなく、遠く広大なところなどと認識するものではありません。

そもそも誰かに刷り込まれ教化された世界などというものをいつまでも世界だと信じ込んでいるから世界観は育たないのです。世界とは、自分の視野です。自分の視野が世界なのだから自分の視野を変えてしまわなければ世界もまた変わることはないのです。

人は信じ込まされた世界がどちらが理想かで信じる世界を顕現させます。自分が先に諦めてしまったり、自分が先に絶望してしまっていては世界は今のままかもしくは今よりも悪くなる一方です。

そんな中、常に世界を自分の求めた理想に近づけよう、世界平和と人類和合を願う真心があるのならその世界にしていきたいと「自分を変える」、自分の視野を入れ替えるくらいの信心と努力、精進が必要なのです。

人ばかりを変えてもらおうとするのは自分の都合というちっぽけな視野に囚われているのです。そうではなく、自分を変えて世界を変えようと自分の視える世界を変革するものこそ君子であろうと私は思います。

実践は怠ってはならないのは、この刷り込まれ教化された世界に埋没するからです。何がなんでも埋没しない、何がなんでもマンネリ化しないと戒を持つことでまた自分を練り修行していくのでしょう。

学びは果てしなく続きますが、同志たちとの邂逅もあります。

仕合せは視野によって開かれますから引き続き歩みを強くしていきたいと思います。

視野の寛さ

視野について思うことがあり、深めてみようと思います。かつて、数々のリーダーが視野を広げる事の大切さについて語っています。有名なものに荻生徂徠の「飛耳長目」があります。これは吉田松陰の松下村塾のもっとも大事な学びの基本に据えられたものです。

言い換えれば、何よりも「視野を広くしなさい」という智慧の教えです。

 また松下幸之助に下記のような言葉があります。

 「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける」

 これはその通りで、視野が狭いというのは言い換えれば自分のことしか視えていないということです。もしくは自分の価値観でしかものごとを捉えることができないという意味でもあります。物事の見方には、単眼と複眼というものがあります。単眼とは文字通り自分からだけの目線、複眼は相手や周囲、世界からどう観えるかという目線です。

 そしてこれらの単眼以上の視線というものは、須らく共感力から行うことができます。共感力は思いやりですから、出来事を自分事と他人事とを分けてしまう時点で迷惑をかけていることに気づかなくなるということです。

 若い時というのは経験が少ないこともあり、自分の視えている世界だけがすべてだと思ってしまいます。価値観というものはそれだけ自分の中にどっぷりつかるものだからです。しかし本来、何のためにそれを行うのかが大事で、世界を変える力をもつ自分の変格力という問題意識なかなか持とうとしない限りは持てないのかもしれません。

 続けて松下幸之助はリーダー論の中で、視野の広さについてこう述べています。

 「今日では、世界の一隅に起こったことも、それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの狭い視野で事を考え、行動していたのでは、往々にしてあやまちを犯すことになってしまうと思う。いま、視野の広さというのは、指導者にとって、欠くことのできないものであろう。指導者はみずから世界全体、日本全体といったように広い範囲でものを見るよう常に心がけつつ、一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えていかなくてはならないと思う。」

 ここで大事なのは広い視野を持つことの大切さを訴えるということでしょう。

 結局は、自分たちが行う実践や自分たちの生き方が、自分の周囲を易えて、自分の所属する組織を易えて、業界を易えて、日本を易えて、竟には世界をも易えるという考えを持ちなさいということです。

 自他を分けて自分くらいというの意識そのものが周りに大きな心配をかけ迷惑をおこしていることに気づく必要があります。それは懺悔ではなく、それだけの存在である自分、それだけ世界の一員である自覚と誇りを持てということなのでしょう。実践を正しく行うのも間違い怠るのもその人の持つ視野の問題ということでしょう。

 世界は一人一人の気づきと変革の集積によって出来上がってきた産物です。だからこそ自分の生き方次第で、それが大きな影響を持つのです。たとえ大河の一滴である自分のいのちであったにせよ、諦めずに自分を易えることで理想の世界を求めていきたいと思います。

 視野の狭い人間にならないように、心を常に寛くもち内省し周りを慮り、自他を同一に思いやれる真心の生き方を実践していきたいと思います。

水の流れ~自然技術の妙~

自然農園の田んぼに出てみると本当に沢山の虫たちに驚きます。

稲の周りには、トンボやクモたちをはじめ、水中にはゲンゴロウにエビやカニワナ、数えきれないものたちが生活を一緒に営んでいます。不思議ですが、4月まではそこには水中生物ではない生きものたちの棲家であったものが今ではすっかり別の生きものたちに入れ替わっています。

環境が変化するということは、そこに棲まう生きものたちも変化するということです。

如何に環境が大切なのかということを実感します。

またその環境を左右するのが水であることは明白です。この水というものは、如何に生物たちに多大な影響を与えているかが分かります。水の流れというものを通して、光や風を感じるのが生命です。その水は生命を活かすのです。水が澱むことで腐敗をうみ、水が通ることで発酵をうみます。つまりは水を如何に通すか、水が如何に流れるかが大事ですがその水も適量な水量と適切な水流がいるのです。

田を学んでいると如何に「水」というものがキーワードになっているのかが分かります。あまりにも当たり前すぎて見過ごすところですが環境を学ぶのにこの水の流れというものの自然の技術の習得が必要なのでしょう。火や水、土や木、光など自然を使って技術化したところに人間文明の進化発展してきた真実があるのでしょう。

学びははじまったばかりですが、山から流れてくる清らかな水に心も体も研ぎ澄まされていきます。水は流れているときに水の徳性が顕現するように思います。流れる水に心を澄ませ、自然の技術を会得し祖神たちの恵みと智慧を復興していきたいと思います。

精進

精進という言葉があります。

そもそも精進とは何をもって精進か、それは単に努力をし怠けないことをいうのではなく理念に対して真摯に実践していくことをいうように私は思います。

何のために努力するのか、その何のためというのは大変重要なことです。しかし実際はこの何のためということに立脚せずに物事の善悪を自分の都合で解釈して努力していても、それは間違ってしまうこともあるのです。

理念を持つ、理念を発するということは、この何のためにということへの根本を正すことに他なりません。

そしてこの理念があってその理念を飾るのではなく、本心から理念に沿って実践に取り組み続ける日々を送ることではじめて精進ということになるのでしょう。

道元禅師の遺言に「諸々の善法において勤修すること無間なるを精進」とあります。

これは意訳ですが天地の道理にしたがって至善に止まりつつ一切の怠りを取り除き励み続けることが精進であると述べています。まるで呼吸のように、吸う息も吐く息も、その真理や本質の顕現であるとした理念に由るときはじめて精進となったということです。

理念があるから精進できるのであり、理念がなければ精進にはならないのです。そして何を精進するのかというのに、人が自分の我欲を乗り越えて大義に生きようとする覚悟が定まるように思います。

そう考えれば修行が辛いということはありませんが、修行にならないことが何よりも辛いことのように思います。日々にこれが修行だと思い込んでみても、それが理念に由らないのなら修行風であって真の修行にはならない。

真の修行、つまりは己に打ち克ち修める実践に於いて目下脚下のあらゆることを天地自然の道理に従い内省し、その日々の心を正しい方向に直しつつ進むということです。

人は自分の過去を捨て去ることはできませんから、今の自分を正しい方向へと向きなおすことしかできないのです。今というのは常に選択の連続ですから如何に方向を間違えないか、方向を間違わないかに日々の精進があるように思います。しかしここに救いが入っているように思います、人はどんなことも精進次第で善にも福にもしていくことができるからです。

人生は一度きりの旅路、そしてその道は曲がりくねっているものだからこそ正しい道を歩めるように精進できることに感謝しながら先人たちの足跡を辿って見習っていきたいと思います。

和の精神~引受ける生き方~

人は自分の都合を優先し外側を抑え込もうとする生き方と、自分の都合を抑え込み内側を調和さえていく生き方があるように思います。人間はみんな自分勝手です。言い換えれば本来、すべての生きものは自分勝手で生きています。それぞれに欲があり、自分の思い通りにしようとするのです。

しかし自然界では、それをすることで大事なものを見失うことを本能で自覚するからあえて自分の欲を抑え込み周囲との調和を優先します。それを乱せば天敵が顕われ自然に調和する方向へと導かれます。

天敵は調和しなくなる方であり、天敵を抑え込むためには自然に逆らったものをたくさん用意しては対抗していかなければなりません。そもそも調和しないという選択が対抗ですから、不和でも自分の都合を優先すると押し切ってきたのが人間の欲望なのかもしれません。

日本では和の精神といって、そもそも調和していることを何よりも尊びました。それは調和が良いとか悪いとかではなく、調和が愉しいからにほかなりません。

自然農をはじめ、子ども第一主義の経営にいたるまで、自分の都合はほとんど優先できません。優先しても思った通りにはならず、そのための農薬も肥料も使えず、また世間の管理術も通用しないのですから実際は己との闘いのみを永遠と繰り返すだけです。

しかし一つ己に克ては一つの発見があり、一つ己に克てば一つの和が産まれるのです。

和の精神というものは、本来は和を産むことです。そしてそれを人間に当てはめれば克己復礼を実践することです。自分の都合も入れさせていただくのだから、周りの都合のことも配慮していく、周りの都合も叶うように如何に自分を使用していくか、そこに調和の愉しさを見出してこそ地球で暮らす仲間と一緒に活きる生き方を選んだことのように思います。

地球に暮らしながら地球の生きものを抑え込みながらいつまでも自分たちの都合を他の生きものに押し付けるのか、それとも他の生きものを受け容れながら他の生きものたちと一緒に引き受けるのか。

これは責任と置き換えてもいいかもしれません。

自分たちの責任を次世代に押し付ける生き方か、それとも自分たちの責任として引き受ける生き方か、祖神たちは常にその時代時代の調和をめざし取り組むことで子々孫々の繁栄を祈りここまでいのちをつないできたはずですから恥じないように本来の姿を求めていきたいと思います。

協働観~大家族主義~

今朝がたから春にそのままにしておいた小麦の脱穀を行いました。

大量に収穫したため手作業での脱穀が億劫になっていましたが、みんなで行うと楽しいものです。太古の昔から今まで私たちは協働作業をすることを通して仲よくしてきました。言い換えれば、協働作業を通して生きていく智慧を忘れないように工夫してきたともいえます。

もともと自然界の中で、一人で生きていくにはあまりにも脆弱なつくりである人間がみんなと力を合わせることで厳しい中でも生き抜いてくることができました。言い換えれば、人間の本能の中に人と一緒に暮らしていくというものが刻まれているともいえます。

まず一家を形成して、その後、大家族を形成していくというのが人間の発展です。

そのために一家が仲よく協働作業を通してあらゆることを一緒に行うために思いやりを学び、そしてその中でそれぞれの個性が活かせるという幸せを育むのです。

一家というのは、言い換えれば運命共同体であり、共に協働作業をしていくためのかけがえのない仲間であるということになります。しかし今の時代は、本来、ありえるはずのない歪んだ個人主義が蔓延し、家族という定義もまた変わってきているように思えます。

それぞれが自立ということが他人に迷惑をかけないで自分のことは自分でやるということなってしまうと協働作業するよりも単独作業で効率を優先した方がいいということになってしまいます。

しかし実際に社會の中で生きている人間にとって一人で生きていけるわけでもなく、貨幣に頼っていけるのは貨幣が使えているときだけで実際にもしも自然環境が大幅な変化や食糧難の時代に入れば本来の家族主義に人間は必ず回帰していくはずであると私は思います。今の社會システムは金融を中心にした仮想のものですから物が潤沢にあるときはいいのでしょうがそうでなくなればすぐに崩れるものだと思います。

もともと幸せというものは、そのものが自然の中で安心して暮らしていける状態をいうと思います。自分がどういう時がもっとも安心であるか、それは一家を形成し、大家族の中で自分の存在が認められ共に生きているときでしょう。

運命共同体というのは、御互いに生きていくために必要であるということです。そのために常に協働作業の楽しさ、協働作業の有難さを実感していることが本来の仲間作りであり仲良くなるためのコツだと思います。

一見、効率や効果が低いような協働作業も、心を通じ合わせる時間を一日に一度持てるというだけで家族の存在、一家の存在に支えられているという安心感や勇気をいただけるのが人間です。

だからこそお互いのためや思いやりを優先でき、安心することができるのでしょう。協働作業をたくさん行うことで一家が産まれ、村が産まれ、国が産まれ、世界が産まれたと思えば、共に暮らしていく仲間とは協働作業をする仲良したちということでしょう。

流されてつい一人で何でもできることが良いという価値観に刷り込まれそうになりますが、どんな社會を遺していくか、未来のために自分の協働観を育てていきたいと思います。

 

基本の見直し~初心の技法~

指導というものを深めてみるとき、当たり前のことが何であるかを見直す機会がありました。

そもそも指導というものは上級者に行うものでありません。指導はすべて初心者に行うものです。そんなことは誰もが知っていると思いますが実際は上級者である自分という意識があるあまりにその指導方法が応用の難しいことばかりを教えて自己満足でおわってしまうことが多いように思います。

つい自分ができることばかりを求めて自分ができてきた人は、教えることはできていてもその人ができるようにすることができないと言う人があまりにも多いのです。これはその人が教えるという考えを転換しなければ気づけないようにも思うのです。

一般的には教えないで育てるというコーチングの考え方がありますが、これが相手ができるようにするための技法のように思います。自分がどのようにしてできるようになったのか、今の自分が何でできるようになったのか、それを掘り下げていたらすべて基本というものがあることに気づきます。

この基本というものは、教えられるものではなく伝授するものです。その伝授するものは、昨日のブログで書いたような「信じること」であったり「感謝すること」であったり、その他「勇気、愛、真心、大義、夢」などキリがないですがこれら基本が心技体すべてに沁みこんでいくことではじめて入るのです。

そう考えてみると指導者は何をすることが指導者であることがわかります。単に教えてできるようになるのならそれは基本を伝授しているわけではなく応用を教えているだけになってしまうのです。基本の気づきがないのに応用ができるはずがありません、それでたまたま応用ができてもその人が本当に自らの気づきで体得したのではないのならその人はできるようになったわけではないのです。

これらの基本の鍛錬を行い、できるように見守ることが指導者の役目ではないかと私は思います。言葉にするのは簡単ですが、その人ができるように簡単になるわけではありません。その人に素晴らしい場数という出会いの連続があることを助け、真摯に丹誠を籠めて信じて育つプロセスを信じる必要があるように思います。

どれも時間がかかる事ですが、時間をかけて信じるからこそ人ははじめてできるようになると思います。人生は先人たちも今の自分も同じように努力し精進し、出会い気づくことでできるようになってそれをまた次世代へと譲るのですから自分が怠るわけにはいきません。そうやってできるようになった人が指導者になり、指導者が周囲をできるようにする。伝承と同じで、それが命の連鎖であり、命の伝道であろうとも思います。

人が真実にどうやったら気づくのか、それはいつも周囲の温かい言葉と見守りの中で感じられたように思いますから同じようにその人の尊い気づきを信じて待って祈っていたいと思います。自分がしてきたことと自分が周囲にしてくださってきたこと、その両輪が指導の基本です。

指導の道の学びを高めて、初心の技法を究め、基本を見直していきたいと思います。

信という種

人は自分が何を信じるかで周りの人を感化していくもののように思います。

その人が未来に何を信じているかで、人は大きな影響を受けるのです。

過去の体験の中で人は経験という意識の中で信じているものの世界に生きています。きっとこうであろうという思い込みや、こうなるはずだという刷り込みというものもまた、その人が信じ込んでいる世界に生きているということでもあります。

かつて、乗り越えられなかった過去があったとしたらそれに縛られてしまうと未来はその信じたように引き寄せていくものです。もしも未来をまったく別のものだと信じているならば、その未来が変わるまでその人は信じようとするのです。

信じるということは頭でできるものではありません。それはまさに全身全霊、五感をフル導引して新たなことに挑戦しているときに体験を通して積み上がっていくものです。自分が信じたいと思う世界を引き寄せていくには、自分が信じる方向性を変えつづけていく精進が必要だからです。

それはまさに己に克ち続けるという実践のことです。

自分が信じ込んでいる世界を刷新していくには、自分の中に未来への希望と理想を抱き、その理念が実現すると真摯に信じ切る実践と体験を通して積み上げていくのです。

どんな未来を実現したいか、どんな未来にしていきたいか、その志があるからこそ信じることのために天命に身を捧げ使命を生き切ることができるようにも思うのです。

かつての先人たちが理想の世界を信じて繋いできたもの、それが義であり愛です。

こういう世界にしてほしい、こういう未来になってほしい、こうでありたいと深く尊い祈りを籠めて自分たちの生き方でその信を繋いできました。日々の人生の出会いや旅を通して、そういう人たちの魂に触れるたびに心魂が揺さぶられ、自分もその大義を結び生き抜きたいという気持ちになっていきます。

何を信じて生きてきた人たちがいたか、そして人々をどの方向へと導いていけばいいか、それがこの世に生を受け、社會の中の大切な一員である自覚のように思います。

日々に何を信じて行じていくか。まさに日々是道場、日々是真剣勝負ということでしょう。

己に克つのは信じる力を醸成していくからでもあります。子どもたちに譲っていきたい未来のために、どれだけ信を強くするか、そして出会う人たちに信の種を蒔いていくか、それは己の心の覚悟です。

信という種を蒔き、未来を信じるものへと転換していきたいと思います。

与えるということ

自然が繁栄するということに「与える」ということがあります。

植物や昆虫、あらゆる生きものは天から様々な恵みをいただき生きています。もっとも偉大な恩恵というものは当たり前すぎて誰も気づない所にあるものです。太陽の徳や地球の徳、宇宙の徳も先祖の徳もそうですが、あまりにもその存在が偉大ゆえに誰も与えられていることに気づかないのです。

空気のようにという言葉もそうですが、存在が絶対不可欠なものというのはそれを与えられていることに気づきにくくなってしまうのです。しかし身近な食事や生活の中で、御互いに与え、御互いに助け合い、私たちは日々を暮しています。

そこには、自分が与えられたように周りにも与えるという自然の法理を使って同じように自分たちを繁栄発展させていくのです。例えば、親子などもそうですが親が子どもを自然に育てるように本能でそれを行います。自分が与えられたことを、同じように与えようとするのを自然に行うようになるのです。

与えるということは、与え合うということで与えれば与える程に御互いが繁栄していくというのが自然の法理であるように思います。しかしここに奪うというものもあります、御互いが奪い合っていくのなら衰退していくというのもまた自然の摂理のように思います。

松下幸之助にこういう言葉があります。

「十のサービスを受けたら十一を返す その余分の一のプラスがなければ 社会は繁栄していかない」

これは与えるということと奪うということの本質を述べているように私は思います。

人は与えられるばかりになってしまうと、無意識に奪う側に入ってしまいます。自分では奪っていないと思っていても、確実に与えられているのが生きているということです。人は独りでは生きてはいけませんから、沢山の周りの恩恵や御蔭様で自分が今日も生きて働くことができます。

そのためには周りが与えて下さっている以上に、いつも周りに与える存在にならなければ自然に奪ってしまうことになるのです。或いは、自分が与えていると思っていてももっと与えてもらっている場合もまた奪ってしまうことになるのかもしれません。だからこそ与えるにも大切な技術を心と体で場数を踏んでその与え活かすコツを掴まなければならないように思います。

そうして人生というものは、常に学び、その学びを常に発信していく必要があるように思います。なぜなら社會というものは、御互いに生きていくために学び合い高め合い道を歩む中で成長したという証明であるからです。

自分の存在がどのように社會に役立てることができるかが自明することが自立ですから、自分の生き方が社會に反映されていくのも事実です。だからこそ、自分というものが如何に与える存在であるか、受けた分よりも一つでも多く与えようと、相手の歓びに貢献していこうとするのが社會を繁栄させていくことだと思います。

そう考えてみるとあの目の前の植物も自分が生きることで周りの菌を活かし、昆虫たちを活かし、動物を活かし、地球全体を活かそうと日々を怠けずに精進しているように観えてきます。

常に与える存在でいたいと思うことそのものが、本能であり自然なのかもしれません。不自然な社會を癒していくのも、社會貢献したいと願う日々の行動と実践です。信を拡げる者として、与えていただいていることに深く感謝していきたいと思います。

それで御客様は喜びますか?

何かの商品を開発するときや、誰かに自分の持っている商品をご提案するというのは相手の立場を思いやらなければできないものです。自分が善いと思うものを相手に伝えるのも、相手の心と一体になるからです。

人には欲と心というものがあります。良いことをしたといっても自分の欲で喜んでもらったと感じるのと、相手のことを思いやり自分のできる全霊で相手が心底喜んでくださったと感じるのではまったく意味が異なります。

松下幸之助は「お客さまの欲しがるものを作ってはいけない。お客さまの喜ぶものを作りなさい」といつも説いていました。いつも社員が何かをするとき、また提案するとき、常に「それで御客様は喜びますか?」と真摯に確認していたそうです。

「松下幸之助は自ら興した松下電器の究極の目的を、金儲けではなく、人間の幸せを実現するということにおいていた。したがって、松下で仕事をするということは、利益を上げることが究極の目的ではない。それはあくまでも結果であり、究極は「どうしたら人間に幸せを与えることが出来るか、どうしたら人間に喜びを与えることが出来るか」と考え続けていくということである。」『全ては人間の幸せを実現するため』それこそが、松下幸之助の目指したことであった。」このように長年、松下幸之助の側近として仕えた江口克彦さんの著書で書かれています。

道というのは、どんな分野でも道があります。それが生き方です、職業で道は分かれるのではなく生き方次第で道か道ではないかがあるだけということです。商売道を行うならば必ず達すれば同じところに達します、それは保育道であっても同じく、あらゆる道は必ず達すれば同じ境地に行くのです。

それは山をどこから登るかだけでちゃんと登った人は必ず同じ頂きを知るのだと思います。

実際に御客様が喜びますかという問いは、究極の問いでそれだけ自客一体であったかという質問なのです。相手の立場がもしも自分なら相手が欲しがっているのではなく、相手は本当に心から喜んでくれたかどうか。それは自分自身が相手を喜ばせたい、言い換えれば幸せにしたいと願い祈る真心が発露していなければそうなりません。

目先の結果だけを追い求めて、単に相手が欲しがっているところに合ったからと売るのは本来の商売道ではなく、如何に自分が販売するということを通して人を幸せにしたかということを言うのです。

人が人に関わるというのは、どの職業であれ幸せにするということが本懐です。つまりは相手が自分に出会えて善かった、あなたに出会えて善かったと一期一会の念を抱いてくださるような自分自身を持つことです。

その自分の存在が相手の御役に立つとき、それは自分の欲で単に役立ったのではなく、幸せの御役に立ったという実感になるのです。この世の中は等価交換の世の中です。対価に対して対価を払うのですが、実際は相手は物の価値の対価だけを払うのではありません。その物を販売する人の真心や誠実さ、また幸せを願う真心にも対価を払うのです。

人は心がありますから、心が満たされるということは幸せになれたということなのです。

物心両面の幸せを提供するという言い方かもしれませんが、そもそも自分を活かすという発想も自分の人生を世の中に役立たせて捧げ切って往こうとする生き方も、日々の出会いの中で自分を確かめることができます。

一件の商談から自分の生き方が観えるのだから、現場はとても正直なのです。弛まずに緩まずに怠けずに、幸せのために自分を使っていただけるように精進していきたいと思います。