かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

取捨選択との正対

物事には必ず陰陽があります。

月夜半分闇夜半分、拾う神あれば捨てる神ありというように、一長一短の側面があります。

これをどう活かしていくか、これをどう吟味していくかに人生の面白さがあるように思います。色々なことを発見するのも愉しいことで、日々に気づき新しいことをやりたい気持ちは湧き上がってきます。しかし人生は一度きりで有限ですから膨大に広げてみても為し遂げられることと為し遂げられないことがあります。そんな時は取捨選択していくしかありません。

何のためにこれをやるのか、心が定まることで今何をすべきかを正すのです。

好奇心というものは、常に心を開いていますから何でも見つけてしまいます。しかし何でも見つけて何でも行っていると目的を絞り込めず注意力散漫になり一つ事に集中できなくなってしまいます。

これでは本当に成し遂げたい成果が達成しなくなるかもしれません。もっとも大事なことに絞り込み、それに集中することで人間は可能性を高めていきます。可能性を拡げることと可能性と高めること、それは拾う楽しみと捨てる苦しみ、捨てる歓びと拾う悲しみなのかもしれません。

人間には人情や我欲がありますし、そう簡単に今まで信じてきたことをご破算にしていくことはなかなかできません。如何に自分に打ち克つかというのは、如何に目的のために絞り込んで削り取っていくかということかもしれません。

PFドラッガーの「プロフェッショナルの条件」にこういう言葉が残っています。

「成果をあげる秘訣を一つだけあげるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない」(ダイアモンド社より)

またこうも言います。

「成果をあげる人は、多くのことをなさなければならないこと、しかも成果をあげなければならないことを知っている。したがって自らの時間とエネルギー、組織の時間とエネルギーを一つのことに集中する。最も重要なことを最初に行うべく集中する」

なんでも遣っている方が効率がいいと思う時機から、これをやり遂げなければ効果がないと思う時機への変化というものもあるのかもしれません。そしてこれは仕事のやり方ではなく、人生の生き方の遷移が必用な時期に差し掛かったのかもしれません。

私もちょうどそういう年齢になったと自覚してきているのかもしれませんが、自分の原点が何か、真摯に取捨選択に正対しじっくり思案していこうと思います。

社會や世界に対しての自分の責任をどう果たしていくか、常に自問自答していくことを已めないでいようと思います。

運の善さ~早起きは三文の徳~

人は運の善さというものがあるように思います。

いつも運が善い人と運が悪いと言っている人がいますが、これはその人の生き方のことを言っているように思います。運が善い人というものは、信仰心が高い人とも言えます。自分が何か偉大な存在に見守られ歩ませていただけていることに感謝の心を持っているということです。

自分のことが信じられるというのは、見守られていると実感することです。そしてそれは見守ってくださっているから安心して前進するということでもあります。

昔から早起きは三文の徳ということわざがあります。

これは早起きをすると何かしら善いことがあるという意味ですが、これは信仰心がそうさせるのではないかと今では確信します。早く起きるのは、御蔭様に気づくからです。そしてそういう見守りの存在に気づいているから早く目覚めその感謝の心のままに動いてみようと思うのです。

感覚的ですが人は結果が視えていれば動くというタイプと、結果が視えていなくても信じているから動くというタイプがあります。前者は運が悪いと言っている人が多く、後者はいつも運が善いと言っている人が多いように思います。

これも運が善いというのは、「きっと善いことがある、きっと善いことになる」と信じているからいつも運が味方するのでしょう。そうやって善いことがあり善いことになると信じているから朝早起きして動くことができるのです。

畢竟、運の善さというのは信仰心、運に包まれている仕合せを信じて歩んで往こうとする生き方が習慣になっているのです。つまり運とは、「活かされている」という存在に目覚めているということです。活かされている存在の自覚こそ信仰心であり運の善さということです。

私にとっては南無阿弥陀仏もアーメンも、同意義として「おはようございます、おかげさまです、ありがとうございます」のあいさつの中にすべて入っています。そしてまずその最初の実践は、「お早うございます」に他なりません。

早起きとは信の実践そのものであり、運を信じていますという合図なのです。

夏期実践休暇にての報告をまとめていますが、今年も偉大な存在の導きと、そして偉大な存在の見守りの中で自己の気づきと目覚めをいただきました。心を澄ませて、心新たにまた挑戦させていただく有難い日々を精進していきたいと思います。

 

 

視野を変えるということ

吉田松陰の松下村塾に飛耳長目録というものがあります。これは自分が見聞きしたもの、また塾生たちが見聞きしたものを記録に残しそれをみんなで読み合わせをして情報共有をはかったものです。

この記録はそもそも自分という存在が世界を変える存在であるということを認識する広い視野を育て、自分自身が見聞きして発信したことが多くの人達に気づき影響を与えることを自覚することにも役に立ったのではないかと思います。

あの当時、インターネットやテレビ媒体がないなか、一田舎の農村で育った青年がまさか自分が世界を変えようとは思えなかったはずです。しかしそこに松陰が顕われ、何のための学問なのかを背中で示し実践で感化したからこそそこで育った若者たちがその後の世の中を変革する原動力になったように思います。

そしてここで大切なのは「視野」のことなのです。

自分の視野というのは、自分だけのことしかみえないときは世界は自分と切り離されています。自分が実践を怠ったってそんなに意味がないと思えるでしょうし、別にちょっと手を抜いても問題ないと思えるのでしょう。

しかしもしも自分の実践が一つ怠ることで世界が変わるとしたら、周りが変わってしまうとしたらどうでしょうか。その自分の存在の怖ろしさに心身が震え上がるはずです。本来、世界の広さというのは別に地図で理解するものではなく、遠く広大なところなどと認識するものではありません。

そもそも誰かに刷り込まれ教化された世界などというものをいつまでも世界だと信じ込んでいるから世界観は育たないのです。世界とは、自分の視野です。自分の視野が世界なのだから自分の視野を変えてしまわなければ世界もまた変わることはないのです。

人は信じ込まされた世界がどちらが理想かで信じる世界を顕現させます。自分が先に諦めてしまったり、自分が先に絶望してしまっていては世界は今のままかもしくは今よりも悪くなる一方です。

そんな中、常に世界を自分の求めた理想に近づけよう、世界平和と人類和合を願う真心があるのならその世界にしていきたいと「自分を変える」、自分の視野を入れ替えるくらいの信心と努力、精進が必要なのです。

人ばかりを変えてもらおうとするのは自分の都合というちっぽけな視野に囚われているのです。そうではなく、自分を変えて世界を変えようと自分の視える世界を変革するものこそ君子であろうと私は思います。

実践は怠ってはならないのは、この刷り込まれ教化された世界に埋没するからです。何がなんでも埋没しない、何がなんでもマンネリ化しないと戒を持つことでまた自分を練り修行していくのでしょう。

学びは果てしなく続きますが、同志たちとの邂逅もあります。

仕合せは視野によって開かれますから引き続き歩みを強くしていきたいと思います。

視野の寛さ

視野について思うことがあり、深めてみようと思います。かつて、数々のリーダーが視野を広げる事の大切さについて語っています。有名なものに荻生徂徠の「飛耳長目」があります。これは吉田松陰の松下村塾のもっとも大事な学びの基本に据えられたものです。

言い換えれば、何よりも「視野を広くしなさい」という智慧の教えです。

 また松下幸之助に下記のような言葉があります。

 「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける」

 これはその通りで、視野が狭いというのは言い換えれば自分のことしか視えていないということです。もしくは自分の価値観でしかものごとを捉えることができないという意味でもあります。物事の見方には、単眼と複眼というものがあります。単眼とは文字通り自分からだけの目線、複眼は相手や周囲、世界からどう観えるかという目線です。

 そしてこれらの単眼以上の視線というものは、須らく共感力から行うことができます。共感力は思いやりですから、出来事を自分事と他人事とを分けてしまう時点で迷惑をかけていることに気づかなくなるということです。

 若い時というのは経験が少ないこともあり、自分の視えている世界だけがすべてだと思ってしまいます。価値観というものはそれだけ自分の中にどっぷりつかるものだからです。しかし本来、何のためにそれを行うのかが大事で、世界を変える力をもつ自分の変格力という問題意識なかなか持とうとしない限りは持てないのかもしれません。

 続けて松下幸之助はリーダー論の中で、視野の広さについてこう述べています。

 「今日では、世界の一隅に起こったことも、それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの狭い視野で事を考え、行動していたのでは、往々にしてあやまちを犯すことになってしまうと思う。いま、視野の広さというのは、指導者にとって、欠くことのできないものであろう。指導者はみずから世界全体、日本全体といったように広い範囲でものを見るよう常に心がけつつ、一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えていかなくてはならないと思う。」

 ここで大事なのは広い視野を持つことの大切さを訴えるということでしょう。

 結局は、自分たちが行う実践や自分たちの生き方が、自分の周囲を易えて、自分の所属する組織を易えて、業界を易えて、日本を易えて、竟には世界をも易えるという考えを持ちなさいということです。

 自他を分けて自分くらいというの意識そのものが周りに大きな心配をかけ迷惑をおこしていることに気づく必要があります。それは懺悔ではなく、それだけの存在である自分、それだけ世界の一員である自覚と誇りを持てということなのでしょう。実践を正しく行うのも間違い怠るのもその人の持つ視野の問題ということでしょう。

 世界は一人一人の気づきと変革の集積によって出来上がってきた産物です。だからこそ自分の生き方次第で、それが大きな影響を持つのです。たとえ大河の一滴である自分のいのちであったにせよ、諦めずに自分を易えることで理想の世界を求めていきたいと思います。

 視野の狭い人間にならないように、心を常に寛くもち内省し周りを慮り、自他を同一に思いやれる真心の生き方を実践していきたいと思います。

優しく集う仲間たち

人生の中で、信頼できる仲間がいることほど幸せなことはありません。特に人間は群れで集団で生きていく生き物ですから、周りを信頼し助け合う豊かさで厳しい自然環境の中でも慈しみあい暮らしてこれたのです。

だからこそ人は仲間が欲しいのです。

人は独りでは何もできないのだから沢山の仲間たちと一緒に取り組むことではじめて大きなことが為せるように思います。それは多様な価値観があるからこそあらゆる事象に順応していくことができるのからです。これは人間は脳が教化されたようなもので仲間をつくるのではないということです。それは心がはじめて仲間と思えるかということだからです、そして仲間とは心から信頼し合えるということです。

人は志を観る時、その人を信頼します。なぜならその人の心が形に顕われているものが志だからです。同志というのは、志を信頼し合う者たちということでもあります。だからこそ、価値観を受け容れることができ、だからこそ深い絆を持ち合えるようにも思います。

吉田松陰に下記のような言葉が残っています。

「自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。」

本当に大事なことであろうと思います。人はみんな一人では生きていけません。沢山の人達の支えや見守りに助けられてようやく一人立ちできます。自分も昔は何とか一人でやろうと無理をし責任感から強くならなければと頑張りすぎたことで間違った強さばかりを求めて孤独になってしまっていたことがあります。

人を頼るということを情けないと思い、何でも自分で遣った方がいいと信じていた時期もありました。しかし自分一人では何もできないと思うことよりも、もしも相手が自分だったならと思うともっと頼ってほしいと祈り、何でも一緒にやろうという気持ちが湧き上がってくるのです。

人は自分の弱さを受け容れることと、人の気持ちを自分のこととして思いやれることではじめて本当の意味で強く優しくなれるように思います。間違った強さと間違った優しさは、結果的に自分を苦しめるだけではなく周りとの絆も頑なに拒否し頑固に自分の価値観を通そうとする我儘につながってしまっていただけなのです。

人の価値観を受け容れるということは、はじめて思いやりを持てる人になったといっても過言ではないように思います。それは自分に都合がわるくても、その人がそう信じるなら自分も一緒に信じようとする和の心、八百万の神々を認めてきた祖神と同じ真心になっていくことかもしれません。

強くなることが優しくなることではなく、優しくなるからこそ強くなるのです。力に呑まれず心が先んじるような生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

精進

精進という言葉があります。

そもそも精進とは何をもって精進か、それは単に努力をし怠けないことをいうのではなく理念に対して真摯に実践していくことをいうように私は思います。

何のために努力するのか、その何のためというのは大変重要なことです。しかし実際はこの何のためということに立脚せずに物事の善悪を自分の都合で解釈して努力していても、それは間違ってしまうこともあるのです。

理念を持つ、理念を発するということは、この何のためにということへの根本を正すことに他なりません。

そしてこの理念があってその理念を飾るのではなく、本心から理念に沿って実践に取り組み続ける日々を送ることではじめて精進ということになるのでしょう。

道元禅師の遺言に「諸々の善法において勤修すること無間なるを精進」とあります。

これは意訳ですが天地の道理にしたがって至善に止まりつつ一切の怠りを取り除き励み続けることが精進であると述べています。まるで呼吸のように、吸う息も吐く息も、その真理や本質の顕現であるとした理念に由るときはじめて精進となったということです。

理念があるから精進できるのであり、理念がなければ精進にはならないのです。そして何を精進するのかというのに、人が自分の我欲を乗り越えて大義に生きようとする覚悟が定まるように思います。

そう考えれば修行が辛いということはありませんが、修行にならないことが何よりも辛いことのように思います。日々にこれが修行だと思い込んでみても、それが理念に由らないのなら修行風であって真の修行にはならない。

真の修行、つまりは己に打ち克ち修める実践に於いて目下脚下のあらゆることを天地自然の道理に従い内省し、その日々の心を正しい方向に直しつつ進むということです。

人は自分の過去を捨て去ることはできませんから、今の自分を正しい方向へと向きなおすことしかできないのです。今というのは常に選択の連続ですから如何に方向を間違えないか、方向を間違わないかに日々の精進があるように思います。しかしここに救いが入っているように思います、人はどんなことも精進次第で善にも福にもしていくことができるからです。

人生は一度きりの旅路、そしてその道は曲がりくねっているものだからこそ正しい道を歩めるように精進できることに感謝しながら先人たちの足跡を辿って見習っていきたいと思います。

和の精神~引受ける生き方~

人は自分の都合を優先し外側を抑え込もうとする生き方と、自分の都合を抑え込み内側を調和さえていく生き方があるように思います。人間はみんな自分勝手です。言い換えれば本来、すべての生きものは自分勝手で生きています。それぞれに欲があり、自分の思い通りにしようとするのです。

しかし自然界では、それをすることで大事なものを見失うことを本能で自覚するからあえて自分の欲を抑え込み周囲との調和を優先します。それを乱せば天敵が顕われ自然に調和する方向へと導かれます。

天敵は調和しなくなる方であり、天敵を抑え込むためには自然に逆らったものをたくさん用意しては対抗していかなければなりません。そもそも調和しないという選択が対抗ですから、不和でも自分の都合を優先すると押し切ってきたのが人間の欲望なのかもしれません。

日本では和の精神といって、そもそも調和していることを何よりも尊びました。それは調和が良いとか悪いとかではなく、調和が愉しいからにほかなりません。

自然農をはじめ、子ども第一主義の経営にいたるまで、自分の都合はほとんど優先できません。優先しても思った通りにはならず、そのための農薬も肥料も使えず、また世間の管理術も通用しないのですから実際は己との闘いのみを永遠と繰り返すだけです。

しかし一つ己に克ては一つの発見があり、一つ己に克てば一つの和が産まれるのです。

和の精神というものは、本来は和を産むことです。そしてそれを人間に当てはめれば克己復礼を実践することです。自分の都合も入れさせていただくのだから、周りの都合のことも配慮していく、周りの都合も叶うように如何に自分を使用していくか、そこに調和の愉しさを見出してこそ地球で暮らす仲間と一緒に活きる生き方を選んだことのように思います。

地球に暮らしながら地球の生きものを抑え込みながらいつまでも自分たちの都合を他の生きものに押し付けるのか、それとも他の生きものを受け容れながら他の生きものたちと一緒に引き受けるのか。

これは責任と置き換えてもいいかもしれません。

自分たちの責任を次世代に押し付ける生き方か、それとも自分たちの責任として引き受ける生き方か、祖神たちは常にその時代時代の調和をめざし取り組むことで子々孫々の繁栄を祈りここまでいのちをつないできたはずですから恥じないように本来の姿を求めていきたいと思います。

協働観~大家族主義~

今朝がたから春にそのままにしておいた小麦の脱穀を行いました。

大量に収穫したため手作業での脱穀が億劫になっていましたが、みんなで行うと楽しいものです。太古の昔から今まで私たちは協働作業をすることを通して仲よくしてきました。言い換えれば、協働作業を通して生きていく智慧を忘れないように工夫してきたともいえます。

もともと自然界の中で、一人で生きていくにはあまりにも脆弱なつくりである人間がみんなと力を合わせることで厳しい中でも生き抜いてくることができました。言い換えれば、人間の本能の中に人と一緒に暮らしていくというものが刻まれているともいえます。

まず一家を形成して、その後、大家族を形成していくというのが人間の発展です。

そのために一家が仲よく協働作業を通してあらゆることを一緒に行うために思いやりを学び、そしてその中でそれぞれの個性が活かせるという幸せを育むのです。

一家というのは、言い換えれば運命共同体であり、共に協働作業をしていくためのかけがえのない仲間であるということになります。しかし今の時代は、本来、ありえるはずのない歪んだ個人主義が蔓延し、家族という定義もまた変わってきているように思えます。

それぞれが自立ということが他人に迷惑をかけないで自分のことは自分でやるということなってしまうと協働作業するよりも単独作業で効率を優先した方がいいということになってしまいます。

しかし実際に社會の中で生きている人間にとって一人で生きていけるわけでもなく、貨幣に頼っていけるのは貨幣が使えているときだけで実際にもしも自然環境が大幅な変化や食糧難の時代に入れば本来の家族主義に人間は必ず回帰していくはずであると私は思います。今の社會システムは金融を中心にした仮想のものですから物が潤沢にあるときはいいのでしょうがそうでなくなればすぐに崩れるものだと思います。

もともと幸せというものは、そのものが自然の中で安心して暮らしていける状態をいうと思います。自分がどういう時がもっとも安心であるか、それは一家を形成し、大家族の中で自分の存在が認められ共に生きているときでしょう。

運命共同体というのは、御互いに生きていくために必要であるということです。そのために常に協働作業の楽しさ、協働作業の有難さを実感していることが本来の仲間作りであり仲良くなるためのコツだと思います。

一見、効率や効果が低いような協働作業も、心を通じ合わせる時間を一日に一度持てるというだけで家族の存在、一家の存在に支えられているという安心感や勇気をいただけるのが人間です。

だからこそお互いのためや思いやりを優先でき、安心することができるのでしょう。協働作業をたくさん行うことで一家が産まれ、村が産まれ、国が産まれ、世界が産まれたと思えば、共に暮らしていく仲間とは協働作業をする仲良したちということでしょう。

流されてつい一人で何でもできることが良いという価値観に刷り込まれそうになりますが、どんな社會を遺していくか、未来のために自分の協働観を育てていきたいと思います。

 

基本の見直し~初心の技法~

指導というものを深めてみるとき、当たり前のことが何であるかを見直す機会がありました。

そもそも指導というものは上級者に行うものでありません。指導はすべて初心者に行うものです。そんなことは誰もが知っていると思いますが実際は上級者である自分という意識があるあまりにその指導方法が応用の難しいことばかりを教えて自己満足でおわってしまうことが多いように思います。

つい自分ができることばかりを求めて自分ができてきた人は、教えることはできていてもその人ができるようにすることができないと言う人があまりにも多いのです。これはその人が教えるという考えを転換しなければ気づけないようにも思うのです。

一般的には教えないで育てるというコーチングの考え方がありますが、これが相手ができるようにするための技法のように思います。自分がどのようにしてできるようになったのか、今の自分が何でできるようになったのか、それを掘り下げていたらすべて基本というものがあることに気づきます。

この基本というものは、教えられるものではなく伝授するものです。その伝授するものは、昨日のブログで書いたような「信じること」であったり「感謝すること」であったり、その他「勇気、愛、真心、大義、夢」などキリがないですがこれら基本が心技体すべてに沁みこんでいくことではじめて入るのです。

そう考えてみると指導者は何をすることが指導者であることがわかります。単に教えてできるようになるのならそれは基本を伝授しているわけではなく応用を教えているだけになってしまうのです。基本の気づきがないのに応用ができるはずがありません、それでたまたま応用ができてもその人が本当に自らの気づきで体得したのではないのならその人はできるようになったわけではないのです。

これらの基本の鍛錬を行い、できるように見守ることが指導者の役目ではないかと私は思います。言葉にするのは簡単ですが、その人ができるように簡単になるわけではありません。その人に素晴らしい場数という出会いの連続があることを助け、真摯に丹誠を籠めて信じて育つプロセスを信じる必要があるように思います。

どれも時間がかかる事ですが、時間をかけて信じるからこそ人ははじめてできるようになると思います。人生は先人たちも今の自分も同じように努力し精進し、出会い気づくことでできるようになってそれをまた次世代へと譲るのですから自分が怠るわけにはいきません。そうやってできるようになった人が指導者になり、指導者が周囲をできるようにする。伝承と同じで、それが命の連鎖であり、命の伝道であろうとも思います。

人が真実にどうやったら気づくのか、それはいつも周囲の温かい言葉と見守りの中で感じられたように思いますから同じようにその人の尊い気づきを信じて待って祈っていたいと思います。自分がしてきたことと自分が周囲にしてくださってきたこと、その両輪が指導の基本です。

指導の道の学びを高めて、初心の技法を究め、基本を見直していきたいと思います。