人生の航海

人生の出来事や物事には、必ず意味が存在します。

人生には無駄がないというのも、その意味そのものに価値があるからのように思います。

例えば、何かの拍子に病気になったり、何かのキッカケで人間関係が乱れたり、災害に遭遇したりと何かの出来事が発生します。その時、心に余裕や遊びがあればそれが悪いことが起きているとは思えずに意味があるものだと実感できます。

しかし人は、そうは簡単には心は強くなくすぐに視野が狭くなって余裕を失っていくことで焦りや不安というものに流されてしまうものです。そういう時は、なかなか実践は難しいことですが敢えてそれを楽しもうや、勇気を出してそれを味わおうと決めてしまうことで少しずつその意味を感じることができるように思います。

ひとたび、目標というものを定めれば大変苦しい道のりが待っているのは間違いありません。それは心が現実の自分の甘さに打ち克たなければならないからです。しかし、そこまでしてまでというのが大切なことのように思うのです。

心というものは、目には見えないものを捉えそこに向かって成熟していくことのように思います。それは心の余裕というもの、つまりは心が常に安んじるところを求めて育っていくように思うからです。

なぜそれが必用かと言えば、それが人生の意味に直結している問いそのものであるからのように思うのです。人生を通して人は学び、そして人生を通して人は豊かに幸せになっていきます。

様々な道のりを経ていく中で、助け合い、信じ合い、繋がり合い、導き合い、許し合い、認め合い、譲り合い、応え合い、学び合い、育ち合い、見守り合うこと。

その一つ一つこそが、大切な自分の人生の航海そのものであろうと思うのです。
ご縁を大切にしていくことで、その実感を深くしていきたいと思います。

感謝。

実践場数

今の教育の最大の刷り込みに、理屈で理解するというものがある。

学校で知識ばかりを優先させられ、それを積み上げていくことの努力しかしていないと次第に感情や体験から理解するということよりも頭の理屈で理解しようとしていしまうものです。

そもそも体験というものは、目標に対して長い時間をかけてコツを掴んでモノにしていくものでそこでは苦しい体験、悲しい体験、嬉しい体験、そのものを感情のままに理解するときにはじめて得るもののように思います。

理屈で理解している人はよく、「正論です」と言い返してきます。これは正論というものが、実践と同じ意味で刷り込まれた理屈側の人達の世界では通っているからです。

正論が分かっても役には立たず、正論かどうかよりも大切なものが現場の実践です。

実践とは、自分の脚で道を践むことをいい誰かの知識で乗り切ることではありません。今の学校は、先生も実践をせずに知識を教え、何も実習していないのに修めたとかいって自分でも修めていないものを平気で評価したりします。

制度の縛りや時間がないのは分かりますが、本来は学ぶというのは本人が時間をかけて体験からコツを学び、それがどういうことかと自ら理を修めることをいうように思います。それを大前提に理解していれば、理屈や理論は、単なる理想論であり現実からは程遠く、そんなものが役に立たないということを教え、本来の実践の中で培うことが指導だと教えることであるように思います。社会に出た学生がすぐに社会人として貢献できなくなるのも、この学校で得た刷り込みが取り除けないからのように思います。

いくら上手い泳ぎ方を黒板で書いて理解させてみても、実際に泳がないのでは上手くはならない。そしていくら美味しいカレーのレシピを伝えても、本当の美味しいカレーはできないのと同じです。

理屈で理解しないためには、理屈にならなくてもいいように即行動して感情のままに理解していく必要があります。それは頭で考えないともいい、体全体で現場実践の中で身に着けていくことをいいます。

現場で通用しない理屈を頼りにすればすぐに自信を失い、身動きできなくなっていきます。それを今まで受けてきた教育の刷り込みであると気づいたならば何を変えるかは明白です。

現場主義というのは、理屈で考えないことを言います。

それは常に現場でコツを掴むまで何度も何度も挑戦し、コツを掴んだ体得者を見習い、そこから学び掴み取るように自らを修めるといった学校とは異なった学び方を行うことです。子どもが大人の真似をしながら自分でやってみるように、様々なことは質の高い場数を通して体得していくことがいいように思います。

最後に、王陽明の言葉です。

「意思は行動の始めである。だから心に悪が生じれば、正さなければならない。まだ行動を起こしていないからと悪を正さないのは間違いだ。それは思うことは、行うことの始まりであるからである。心を正し、心の悪を退治しなければならない。 」

心即理、致良知、故に実践が何よりも正しいのです。

それに知行合一、つまりは知ることは行うことと一つであり分かれない。そしてそれは心の想いと行動とは同じであるから絶えず心身を正す、これが真の実践。

理屈抜きで実践していくことが現場主義なのです。もっともシンプルな方法は、常に現場での実践の場数によって得られるというのが私の人生の学び方です。

 

貢献度

御役に立つということが何かということを深める機会がありました。

人は誰かのためにお役に立つと決めていても、その程度というものが異なるように思います。

例えば、自分がこの程度やればお役に立つだろうと考えているレベルか、もしくは世間で評価される程度のレベルか、さらには夢の実現のためのレベルかでその程度が異なります。

貢献度というものは、どの程度までやれば貢献なのかを自らが自覚することではじめて自他の御役に立てたという実感ももてるように思うのです。周りは、このくらいやったのだからと慰めたり労わったりしますが、当の本人がどの程度までやろうかでその定義も変わってくるのです。

つまりは程度とは、自分が引いている自律のラインで貢献度が決まるとも言えるのです。
何のためにやるのか、どこまでやるのか、そしてどの高みで諦めずに挑むのかで決まります。

そして理想や夢、丸ごとの責任をどこまで自分が背負うかでその貢献度も変わってきます。

例えば世界平和を願っていても、ガンジーやマザーテレサのようにどの程度まで自分の願いを実践に移すかはその人の「想いの強さ」によるように思うからです。同じ人だとしても、異なるのは程度の差であるということなのです。

御役に立ちたいと思う心に、自分の持てるものをまだまだ使わしめてくださいと真摯に祈り誓い歩むことに頂上はないのかもしれません。心の広さも深さも無限で、まず想うことから願うことから、祈ることか誓うことから決心するという過程を得るのかもしれません。

自らの定めた理想や夢の程度に従い、貢献というもの、御役に立ちたいと思うことを深めて学びとっていきたいと思います。せっかく一度しかない人生、自分として生まれてきたのだから、ご縁を確かめ、使命を味わい、どの程度まで貢献するかはその人次第であろうと思います。

いのちというものの理解を深めていきたいと思います。

仲間と夢

今の時代は、表面上の付き合いを重んじるばかりに本当の仲間というものを求めようとしないように思います。

または自分のことを優先してしまい、夢を小さくしてしまい自分一人ではできないようなことを誰かと取り組むということを避けてしまう傾向があるように思います。

一人でできそうなことを夢にしても、一人ではできないことばかりだから他人の力を頼らなければなりません。しかしその時、信じていたものが失ったり傷ついたりしてどうしても先に諦めてしまうということがあるように思います。

そうやって何度も信頼と裏切りを体験しながら、本当の絆を深めていくのもまた仲間であろうと思います。言い換えれば、仲間になっていくということであるようにも思うのです。苦しい体験や艱難辛苦を共にしていくことで、耐え忍び、心を通じ合わせていくのです。

そうやってひとつひとつを乗り越えながら絆は深まっていくというような感じなのです。

無難に互いの夢を聴かないで表面上だけを意識して関係をつくることで、そういうものを避けたいと思うようになったのだと思います。しかし、人生の中で真の仲間や心の友と出会えるのは互いに夢を共有しその夢から逃げずに関係を乗り越えて互いに諦めないことのようにも思うのです。

夢は別に同じものである必要はないのですが、夢は同じくらい強いものでなければなりません。その夢に向かって共にする時間で、どこまで互いの夢に近づけられたか、そこに仲間の意義があるようにも思うのです。

当然仲間との旅は、最期まで共にできるかどうかはわかりません。論語の「与に共に学ぶべし、未だ与に道を適くべからず。与に道を適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず」とあるように、共にできるといってもどこまで共にするかはその人の覚悟にもよるものだからです。

夢を諦めないということは、仲間を諦めないということであろうと思います。

いつの日か、その夢に到達するときその夢の仲間にも到達しているように思います。
自分のことよりも夢を共有するから仲間はできるように思います。

今の時代は仕事が夢になっているかどうかは大切なモノサシではないかと思います。
その仕事に夢を語れてこそ、仲間の存在を実感することのように思います。

人生は唯一無二なのだから、数々の仲間との思い出を創っていきたいと思います。
夢に向かって信を厚くしていきたいと思います。

心配すること

心配するという言葉があります。

よく心配しすぎとか、先々のことやありもしないことを不安に思うことで杞憂だと言われるようなあまりよくないときにこの心配という言葉が使われているように思います。

しかし本来の心配とは何かというのを深めてみます。

この心配というものは、心配そのものが善いとか悪いとか意味があるとかではなくその心を何に使うのかということに本来の価値があるように思います。読んで字の如く、「心+配る」というのは自分の心をどれだけ何に配り続けるのかということを意味するからです。どれだけの時間とどれだけの質量でその心を使うのかが大事だということであろうと思います。

例えば、ある人は自分のことばかりを考えて心を配る人もいます。またある人は自分以外の人達や世界中の困っている人たちの救済のために心を配る人もいます。またある人は表面上だけ心配する人もいれば、相手がまるで自分のことのように深く心配する人もいます。これは同じ心配でも、何をどこまで心配しているのかということが大切だということです。

そして一日24時間、一年365日、一生、何十年あるとして、その心を、何にどれだけその人が費やしたかということでその人生は大きく変わっていくのです。この心というものは、日々の日課と同じで使えば使うほどに成長して真の実力は具わっていきます。

その心を単に自分のためにつかっていたら、そのうち杞憂というレベルまで到達し毎日自分のことで一杯一杯で不安になってしまうのも無理はありません。しかし本来、心は無限の広さと大きさを含有するものですからどれだけ偉大に考えていても心はそれに応じて成長していくものなのです。カタチがないものだからこそ、無限の広さを持つのです。

その心の広さや深さが現実の世界を創るというのは、その心配にどれだけ費やしたかということとイコールではないかと私は思うのです。守りたいものが大きくなればなるほどに、私は心も大きくしていくことが必要だと思うのです。自分の心のサイズは変えないままに、増えていく大切な守りたいものを守ることができないと感じるからです。

そして真心というものは、自分を先にするのではなく私心や自我を拭い去り相手のためや人々のためにと思う時に顕われてくるものです。同じ心という字を使っていても、我心というものと真心とは異なっているものです。

心配するということは、何を心配するのか、もっと何に心を使うのかということを言っていて自分のためにばかりに時間も場所も会社も仕事も使うのではなく、もっとそれ以上に困っている人たちやお客様、そして自分を守ってくださっている御恩の在る方々のために自分の心を配ろうとしていくことではじめて心通じ合う世界で豊かに生きていけることができるように思います。

今の時代は、心をどこに配るのかまで気を配る人は少なくなっているように思います。ちょうど心配を深めていたら船井幸雄氏の言葉にも出会いました、ここにはこうあります。

「人の心がわかる心の大きさ。人を悲しませない心のやさしさ。そして、何事にも前向きに取り組む心もち。あなたは、意識していますか?当然のことができていないこともありますね。目にみえるものを磨くように、思いも磨いてみましょう。」

日々に理念を思いことや、日々に自分の信念に立ち返ること、そして日々に自分の原点を確認すること、思いそのものが人生を創っていきます。人が生きるというのは、本来は心配することですからもっと大切なことのために真心の実践を通じて心を育てていくことが本業なのかもしれません。

心の配る先にあるものを見据えて、思いを磨き続けて精進していきたいと思います。

学問と自責

色々なことが身近に起きるたびに、そのことに強い意志で取り組むにはその起きる出来事に真正面から向き合って取り組んでいこうとする意欲が要ります。

そしてこの意欲は、全てを学びにしていこうとするような自助努力があってこそ実現するように思います。

例えば、何かの出来事が発生することを自責の人になるか、他責の人になるかで受身か主体かということも変わってきます。自分次第だと思っている人は、全ての出来事を自分の責任として丸ごと抱えて逃げずに取り組んでいくことができるからです。

しかしそれが相手次第であったり、何か次第、あれこれ次第であるならばいつまでも自分自身が問題から逃げてしまうことになってしまいます。本当は自分が学びたいと魂から感じたことを自分が最初に否定してしまうのならそれは迷いとなって苦しみのみになってしまいます。

本来は、自分がそうしたいからそうなった。だからこそ、自分から進んで困難や艱難を引き受けようと、そして少しでも世のため他人のために背負おうと決めてしまえば、後は道をどう楽しむかということに専念していくことのように思います。

どうしても人はあまりにも背負いすぎるともう背負ったものを手放したくなってしまいます。しかし、ふり返ってみると過去のたくさんの出逢いを無駄にしない、今まで教えて下さった方々のためにも御恩に報いて本懐を遂げたいとも同時に思うのです。

だからこそ、私たちは常に人生という道場で学びを深めていく必要があるように思います。

二宮尊徳にこうあります。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ。 学んで道を知らざれば、学ばざると同じ。 知って行うことを能はざれば、知らざると同じ。 故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず。 学をなすもの、必ず道を知らざるべからず。 道を知るもの、必ず行はざわるべからず。」

自分が真心から真理を学べば、それを実行に移して実践していくこと。

それが学問するということでしょう。
学びに換えれば、全ては楽しい日々に美化されていきます。

学問するのも自分次第、自責の人生を味わっていきたいと思います。

御互い様 〇

大人になるというのは、自分の思い込みの中でいようとするということかもしれません。

子どもの頃に当たり前だったことが分からなくなってきて、頭の中で憶えたことでうまく世の中を渡っていけるようになるものです。しかしそもそもを考えてみれば、未熟さというものは一生涯変わらないものでその未熟な人間が他人を育てたり他人に教えたりしているのです。

例えば、先生と言われる人たちも親と言われる人たちもまた仕事でプロと言われる人たちですら未熟さを持ったままで生きているように思います。

だからこそ時間をかけて成熟していく中で、様々な出来事が起きてそのことから深く学び生長を続けていくのです。もしも未熟ではなかったならと時折、悔いそうなときもありますがそれは本来は違うのです。

未熟者同士だからこそ、御互いの苦しみや歓び、幸不幸をシェアしていくことができるのです。

人はそうやって魂をいつまでも研鑽し、高め合う中でご縁を結び、そしてより澄んだ共感を得て共生の美しさに気づいていくように思います。かつては、逆の立場であったものたちが、今回はまた異なる立ち位置で学び合う、自他一体の境地で相手を思いやれば相手こそが自分で自分が相手であるのです。

だからこそ未熟は未熟なりに、正対し真正面から取り組んでいくことが誠意であろうと思います。お互い様というのは、真にお互いを共感するときにこそ感じられる境地かもしれません。それはまるで円環しているように〇く廻りつづけるものかもしれません。

学び合える人がいることがご縁の神妙さかもしれません。

今の風に吹かれて、回り逢う友に愛と感謝を手向けたいと思います。

子どもになる~自然観~

子どもと共に遊んでいると子どもになっていきます。

子どもはどんなことにも興味を持ち、私たち大人が当たり前と思っていることにも大きな驚きと感動を示します。そして地球の中で自分たちが夢見る現在に生きています。子どもたちがあんなに楽しそうにしているのは、そこに自分の生きる現在を持つからです。

大人になれば、先々のことを心配したり、過去を悔いたり、心配事はいつもこの現在の中にはありません。そうしているうちに、この現在の中にある一瞬の驚きや感動に生きることを忘れてしまうのです。

昨日、死生観についてのブログを書きましたが生きるというものはそもそも現在そのものでいることであり、死もまた現在そのものでいることであろうと私は定義するのです。

一生懸命に現在を生きるというのは、子どもになるということでしょう。

私の子どもは、この現在の中に棲んでいます。

私は子ども第一主義というものの本質には、この子ども心を失わないでいるということであると思っているのです。子どもの中にある、すべての感動や感性を失わないままで私たち大人たちが現在に生きればこの世は一体どうなっていくのかを死ぬまで見届けたいのです。

子どもに学んでいくことは、忘れてしまうような当たり前のことに気づき直していくことです。

生涯かけて、子どもになることを学び続けていこうと想います。
これが私の自然観であり、子どもの姿です。

改然の妙理

時間をかけてじっくり育っていくものにより善くしていくというものがある。

これは発酵の原理と同じで、今よりも善くしていこうとすることが生きるということかもしれません。人間は歳とともに、発育生成していくものです。じっとしていても身体も心も次第に育っていくようにできています。だからこそ、自然というものは浩然の氣に満ちていて万物は徳の中に育成されているというように思います。

自然というものの中に身心を置く私たちは、常に改善していくことが自然であるということです。

しかし実際は、大事なことを忘れてただ生きながらえることや目先に自分の目先の欲望のために動いてしまうことで様々な悪循環を抱えてしまうとも思います。

物事は禍福一円、常に出来事には意味が存在しています。

その意味を一つずつ学び、さらに今をより善いものしていくことで自然の法理にスパンと入っていけるというのが本質であるように思います。

発酵を学んでいく中で、私が感じることは継続していく中の改善にこそ発酵の真理があるのではないかということです。糠床ひとつをとってみても、やはり創意工夫がなければ味もなにも分からなくなっていきます。

常に研究と開発、そして弛まない創意工夫というものが自然の力を引き出すものであり、その状態の時はじめて人は自然を覚知できるように思います。

自然農も自然養鶏も自然発酵も、どこにも実践していく中で共通するものを見出せます。
同じ理念を共有しながら、日々に改善を繰り返すことに安息も安泰も活きています。

今年は「家」がテーマで、本日は会社のクルーたちと皆で寺田本家の蔵見学に伺います。

より善いものを取り容れ、より善いものに換えて子どもたちへ貢献していきたいと思います。
改然の妙理を楽しみたいと思います。

偉大な凡事~凡事中無尽蔵~

人が変わるということは、甘えを断ち切り非凡になるということかもしれません。

人として当たり前のことを当たり前に行うというのは、この当たり前を何に定義していくかによるのです。例えば、生き方というものや働き方というものは業務云々に出てくるものではなくその大前提としてどう生きているか、どう働いているかというものがあります。

生きている方をいえば、感謝で生きる人、いつも譲る方を選んで自分を利他のために発揮させていく生き方。また働き方でいえば、御役に立とうと御蔭様で働く人、いつも与える方を選んで自分を世間様へ役立てていく働き方。

そういうものが当たり前のことであろうと思うのです。

何をもって凡事というかというのは、この凡事とは当たり前のことであり総じて非常に尊い行為のことをいうように思います。人は何かをする前にその動機が何かを常に問われるように思います。その動機次第で、結果が良くも悪くもなるように思えるからです。プロセスを大事にしていく生き方や働き方というものもその当たり前のことをどれだけ徹底したかということによるように思います。

全ての問題は自分にある、100パーセント自分のせいと思う生き方の中にこそ昨日と同じく真理の門は開くように思えます。矢印が自分というのは、完全に自分に向いているときしか分かった気にならないということでしょう。

人が生きるのも働らくのも、そして幸せになるというのもこれらの凡事の中にあるのです。

「年輪経営」(光文社)で有名な、塚越寛氏の著書でモチベーションのことが書かれていてとても共感しました。そこにはこう書かれています。

「彼らが望んでいるのは、穏やかな人間関係の中で、自由にのびのびと仕事ができる職場です。これは甘えを許すこととは違います。自分で自分を律しながら、常に向上心を持ち、新たな目標に挑戦していかなければ、会社にとって必要な人材とは認められません。管理されるよりも、もっと難しいことなのです。よほど高いモチベーションを持たない限り、実行できないでしょう。私は、社員のモチベーションを上げるのは、お金や地位ではなくて、「働いて、去年より良くなった、去年より幸せだ」と感じられることだと思います。去年より今年、今年より来年の方が、幸せ感が増してくるような会社。そんな会社にいれば、自然とモチベーションは上がってきます。だから経営者は、今年は去年より少しでもいいから、社員が幸せを多く感じられるようにすることが大切です。」

今の世間では、モチベーションは何か勘違いされていて生き方も働き方もそこには問われず、目先の損得や、ちょっと先の自分にとっての利害かどうかだけのモノサシで動いていることが多いように思います。

本来、人が人生に意欲をもって生きるというのは自らが高い目標を引き受け、世の中の御役に立とうと真摯に取り組む中で出てくるもののように思います。それは使命感ともいい、それが向上心ともいうものです。

経営者自身の姿勢が、働く人たちに感化していくように思います。そして組織改革も、まず根本から見直さなければ改革したとは言えないように思います。まずは何の当たり前から取り組むのか、遠い先の光を追いかけながらその脚下の偉大な凡事を見つめてできるところから自然に取り組んでいこうと思います。

かんながらの道の実践に心から感謝いたします。