心をオープンに

人は心を使って何かを感じ取っているものです。

例えば、思いやりや察することのように話さなくても分かるとか、話しても分からないというように互いの心を通じ合わせて相手のことを理解するというコミュニケーションを持っているのです。これは東洋西洋の違いもなく、心が豊かで心が優先される社会を築けば自ずから互いのことを思いやり助け合おうとしていきます。

しかし言葉をぶつけ合ったり議論したりして理解しようとして、知識と言葉だけを使い認識し合って相手を理解しようとするコミュニケーションになると互いのことは分かっても互いのことが分からないということが発生したりします。

これは表面上の会話で反応や反射するのが対話ではないことにすぐに気づけます。

本来の対話というものは、御互いの心を通じ合わせて理解しあっていきます。そのためには、常に心が開いている状態を維持し、自ら心を通わせて思いやり察しつつ言葉を使ってより深く相手に共通し共感していくということを行います。

つまり言葉というものは本来は、心を乗せるための道具として産みだしたもので昔はその道具がなかった時代は常に心を通わせ交流したように思うのです。

例えば、動植物や昆虫のような生きものと対話をする際には知識だけで理解したことで言葉を投げかけても相手は応えるわけではありません。もちろん分析して、こういう生きものであるということは理解できます。それは人間であれば、息をして水を飲み、食べて寝て育つと等という理解と同じです。

しかし実際はどうかというとそこに心が存在してます。複雑で繊細な感情もあるのです。そういうものの理解は言葉で理解するものではなく、心を通わせて互いの同通させて思いやりの中で共感するのが本来の対話なのです。

対話というものは、相手の気持ちになって相手の中に入り相手のことを自分のことのように思いやることで相手の気持ちに寄り添うような実践を行うことです。どんな気持ちであろうかと、どんな心持になっているのだろうかと、心配して一緒に同体験を実感する中で得ていくものです。

いくら言葉だけで形式的に何かを交わしてもそれが対話ではないということです。

対話というものは、どんなこともこちら側の姿勢でできるものです。相手に反応するのが対話ではなく、こちらが対話にしていこうとする姿勢が対話であろうと思います。

対話というものは、自分の心を開いておくこと、自分の心がつながりや絆の中に投影できるということ、自然に思いやり察していけるところにこそその心のリードがあるように思います。

常に心が自分をリードしていくようにしていくことは、自らの本体を大切に相手の本体を尊重していくことに似ています。今のような時代、日々の刷り込みからコミュニケーションという言葉が歪んで伝わらないように、自他への思いやりや優しさ、尊重を優先して心がいつもリードできるように心をオープンにする実践を積んでいこうと思います。