健康

人間は、健康であるということが何よりも大切であるように思います。

身体の不調が起きると、精神や心が乱れます。また精神や心の不調が起きれば身体が乱れます。健康というのはバランスのことであり、そのバランスが崩れるから本来の自然からかけ離れた生活を送り不調が起きるともいえます。

自然というものも、気候の変動から日々の気温の変化、また全体との変質で常に変わりつづけて已むことはありません。そんな中で生活する私たちも自然の一部ですからその変化に巻き込まれ続けていくのです。

何も変化のない日など送れるわけはなく、いくら本人が変化を避けようとしても人の老化と同じく変化していないものはないのですから日々に変わりつづけていく必要が生じます。

身体の健康管理は、目に見えやすく体調の不調や病気の兆候によってはやめに察知することができます。たとえば、皮膚に出てきたり、下痢をしたり、熱がでたり、頭痛がしたりと、身体がバランスを崩す時には崩れてきているサインがあります。それを治癒するには、食事や睡眠を改善し規則正しい生活を心がけたりすることで次第に回復していきます。

また難しいのが心の健康管理です。心は目には見えにくく自分が不調かどうかを察知する方法があまりありません。しかしよく観てみれば、自分が忙しい時や余裕がない時、他人を不信がるときや人と一緒にやりたくないとき、もしくは未来のことや過去のことばかりに思い煩っているときは心のバランスが崩れているサインでもあります。それを治癒するにも、深呼吸をして心を落ち着かせたり、思いやりに触れたり、内省を規則正しく行うことで次第に回復していきます。

それに精神の健康管理もありますが、自分の志がどうなっているのかなどは考えることもありません。精神が不調になってくると怠惰になったり、自分に甘くなっていきます。志を忘れたり、何のためにという本質を見失ってしまいます。これも精神が不調をきたしているのです。常に日々に真剣に一心一事に打ち込み、規則正しく自らを練磨し修養に努めることで同じく次第に回復していくのです。

身体、心、精神と書きましたがこれらは分かれているものではありません。これらはお互いにつながりあっていますから、これをバランスよく維持していくのが健康であるということです。その健康というものを維持するのの本質は、規則正しいかどうか、道理に合っているか、そして実践しているかどうかです。

これらは「実践」によって調和するものですから、実践なくして健康であるということは考えられないのです。実践することができるというのは自分がバランスを崩さないという規則正しい生活をする覚悟を決めているからできるともいえます。

つまり長くなりましたが、実践できていれば健康であり、健康であるというのは実践ができているということなのです。

実践をせずに、色々とやってみてもそれは結局はバランスが崩れたままに直そうとすることに似ていて結局は崩れてしまいます。そうならないようにするには、常に健康を維持していく精進こそが何よりも世の中に自分を役立てて自然体になっていく真理なのでしょう。

最後に実践人の家の森信三さんの言葉で締めくくります。

「人生二度なし、真理は現実の真っ只中にあり」

空想も妄想でもなく、ただ目の前にあるものは現実だという事実、現場実践の今、此処というのがバランスの調和した場所であることを忘れず健康である正しい日々を学び続けていきたいと思います。

全体観~トータルビジョン~

物事には大きく二つの見方があるように思います。

これは自分を中心に見ている世界と、全体から観えている自分という視点です。

これは例えれば、人間でいえば自然から離れている自分か、自然の一部としての自分かという見方と同じです。もしも人間が自然の一部として考えていれば自分勝手な身勝手なことは繰り返しません。しかしもしも自然と人間が離れて、人間の一部に自然があると思えば自然は自分の思い通りにしてしまおうとするのです。

この利己的な考え方というのは、何でも自分の思い通りにしたいという欲望のことです。思い通りにしたいと思うばかり、自分の我執が固定概念に束縛されそのことから苦しみが起きてきます。その苦しみは、思い通りになっているときは満足し、思い通りにいかないときは周りに不満を向けていくのです。それを我慢しても、思い通りにしたいという欲望に呑まれているのですから結局は他人のせいにしたり言い訳ばかりになってしまうのです。他人の言うことをいつまでも素直に聴けない頑固な人もこの自分中心の考えに呑まれている人に多いように思います。

人間は我儘になってくると利己的になり、謙虚になってくると利他的になるように思います。

そしてこの利他的な考え方というのは、「全体からみたときの自分の視野が持てる」ということです。言い換えれば、物事や自分を全体の一部としてトータルで客観視することができるということです。

自分が所属している会社、その会社の業界、業界が集まった大きな経済、時代の潮流、国家の方針、アジアの眺望、世界の趨勢にいたるまで全体から観ることができれば如何に自分がその一部であり、自分が何をすることがもっとも世の中の御役に立つのかを自覚するのです。

しかしこれが自分からの視点だけになれば、自分の所属する会社や身近な人たちだけに囚われて自分の思い通りにならないことばかりをなんとかしようとして動かそうとするのです。よく考えなくてもすぐにわかるはずですが、自分が動かそうとしたって自分の身体ですらそんなにうまく動かせないのに全体を動かすなどはできるはずがありません。それにそもそも会社がある御蔭様で自分が働くことができるのですからその会社の一部である自分が何でも自分勝手にして善いわけがありません。自分勝手の自由というのは自由の本質ではないのです。

ただし、もしも全体の一部としての自分を自覚していれば全体にあわせて何が最適か、何が最善かを省みて正しい行動はとっていくことはできるのです。自然農も然り、循環も然り、真理も然り、本質も然り、理念も然り、これらはすべて全体観から和合したものです。その全体を慮り自分を周りのためにと自分から活かしていくならそれは自由自在の境地に近づいていきます。

私も日々の理念を省みて、如何に自然と一体になっているか、如何に自他一体になっているか、如何に実践しているかというように、自分中心ではなく全体中心の思考によって自らの判断基準を設けています。社會は共生と貢献で自分を役立てるのが自立だからです。

全体観がある人は、自分の実践が如何に世界に影響を与えるのかを自明しています。しかし頭でばかり考えて実践せずに、行動もしない人というのは自分中心の欲望に囚われています。頭で考えるということ自体が自然から離れている行為ですし、脳みそはいつも自分のことしか考えないようにできているのです。

その点、心はいつも全体に開いているものです。心が開いている人は、頭で考えませんから常に行動と実践を優先し、心がつながっている世界の影響力を自覚していきます。他人に迷惑をかけるということも心はすぐに知覚しますが脳みそは他人の迷惑など顧みることはありません。なぜなら脳みそは計算はできても、実践はできないからです。ある意味で心を澄ますというのは脳みそばかりを使わないという意味でしょう。

常に全体の一部である自分自身を自覚してこそはじめて所属する価値を理解するのです。人間は色々な人たちにや自然に支えられて生きていられ、その自分が全体の一部であるからこそ自分がいい加減な行動はしてはいけない、自分の生き方や働き方が所属するところから世界に向かって開いていてその波紋や波動を放っていることを忘れてはいけないと思うのです。

今の時代、自分中心の利己的な考え方が増えているのは自然から離れて暮らしているからでしょう。自然の一部として暮らしていたころはいつもみんなを家族のように親しみ、常に相手のことや周りのことを思いやり生活していくことができていたように思います。

だからといって時代のせいにするのはおかしく反って今はそれを自らで実践し取り組む時代だと念じ、自然の一部、全体の一部としての自分自身を役立てて貢献していこうと思います。本来の客観視とは冷めた見方ではなく、全体の観方のことを言うのです。

人生はトータルですから、常にトータルで観る目を養っていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

利己心の魔

先日、見学した日本理化学工業で大山会長は「利他心」の大切さを教えてくださいました。この反対に利己心というものがあります。

これはどういうものかということを考えてみることにします。

利他心が人の為に自分を尽くしていくことに対して、利己心というのは自分の利害のために動き他人のことを考えない心のことを言います。利他で生きる人は、常に自分の心も感情も澄まされていますが利己で生きる人は嫉妬、不満、不足、不安、怒り、恨み、悪感情に苛まれています。

そもそも人間というのは、波があるものです。心が澄まされ清らかであればあるほどに相手のことを思いやり他人のために自分を尽くせることに幸せを感じられるものですが、ひとたび自分の感情に呑まれれば正しくないようなことを平気で行っていたりするものです。

自分が大変だと余裕がなくなれば余計に心は乱れ感情も波立ち、まるで嵐のような世界の中で暴走する車のようになってしまうものです。利己心が働くときはそういう時で、そうなってしまえば他人の迷惑なども顧みず好き勝手に我儘をして周りを困らせてしまうものです。

直接的に困らせてはいないと本人は自覚していても、実際はその波長は必ず周囲に影響を与えます。私自身も、その波長をもつとすぐに周りに似たような人たちの波長を感知して伝染してしまいます。これをメンターは波長同通の法則と仰っていましたが、言い換えれば自分の波長次第でいくらでも貢献することができるということです。

もしも自分の波長が、正しいことをさせてください、他人に親切にさせてください、誰かの御役に立たせてください、子どもたちのために力を使わせてくださいと祈るように実践していれば、自ずからその波長が周囲を巻き込み、周りも同じような波長の人たちが集まりご縁はさらに善い方へと広がっていくように思います。

しかし逆に利己心に呑まれてしまえば、自分自身の身中の虫、己心の魔、己そのものに負けてしまいバランスを崩して外界を破壊するような暴挙に出てしまうかもしれません。そうなっているときにいくら感情を抑えようとしてもすでに利己心に呑まれているのでそれは取り払うことができません。

先祖たちはそれを自覚していたからこそ、神社に参拝し心を澄ませる精進を怠らなかったのではないかと私は得心しています。つまり清めたまえ祓いたまえのことです。心を澄ませるというのは、いつも神様と同じ道を歩んでいるというかんながらの真心で生きることだからです。

それは自分が真心であったか、思いやりで実践できているか、その学びが他人の御役に立てているか、誰かの幸せのために自分を尽くしているかと、常に自分を正しい方へ、誠の方へ、感謝の方へと自己実現させているかということに由るように思います。

克己の工夫というのは、如何に自分の心を澄ませていくのかということに尽きるように思います。利己心の魔を退治するのは、利他心の澄んだ真心です。

これは人間生きている以上、「生き方=活かせ方」ですし「働き方=働かせ方」ですから日々に修養を怠らず、常に自己との対話と内省によって高めていくものだと私は思います。

言うのは簡単ですが遣るのは一生であるのがこの自分を修めるということです。日々、正しいかどうか、誠かどうか、心が澄み渡る利他心で歩めるように先に自らが魔が入る隙を与えないくらい心と正対し、善なるご縁を大切に有難い一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

今の時代、人々が神社に穢れを祓いに行くことも少なくなりました。子どもたちの魂も今は色々な大人の波長で影響を受けています。だからこそ逞しく健康を心がけ、かんながらの道を弘め、自らが動く存在として市井の中で正しい自己実践に努めようと思います。

自警自戒の志

人は志を育てていくことではじめて志士たるゆえんです。

志というものは自らで叱咤激励しながら、自分の本体本心と正対しそれを信念にまで昇華していく必要があるように思います。心を落ち着かせていくだけが学問ではなく、どんな状況下においてでもその志がなんら影響がないという木鶏のような姿が本来の姿のように思います。

吉田松陰は、若くして人格を修養し多くの人たちに多大な影響を与えました。自らの天命を遣り切り、自らを自らで育てあげた日本第一級の人物です。その松陰先生も、常に自らを発奮しながら歩んできた足跡があらゆるところに残っています。

私も何度も若い時はその言葉に支えられ、また天命を生き切ること、自分を遣りきることの大切さを何度も味わうことができました。

例えば、このような言葉も記されています。

「自(みずか)ら淬厲(さいれい)して、敢へて暇逸(かいつ)することなかれ。」(安政二年四月二十四日「清狂に与ふる書」)

これは自分から進んで人格修養に努め、決してのんびりと遊び、無駄な時間を過ごしてはならないという意味です。淬厲とは鉄を焼き磨き続けよというように常に自らを高め続けて怠らない、暇をもてあそぶなという戒めです。

他にも「自警詩」というものの中で「士苟いやしくも正を得て斃たおる、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。 幾を見て作なす能はずんば、猶ほ当に身を殺して仁を成すべし。 道は並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。」とあります。

意訳ですが、志士たる者、誠に正しいことのため、人々の為に命を懸けて尽くして斃れるものです。どうして自分の保身や自分のためだけに賢くなり学問をするのか。 もしチャンスを得られずそれができないというのならば、その一身をもっと捨てて人々のために思いやりを尽くすべきではないか。 道は常に並行して決して尽きること無いのです、いつの日かもしくは百世後には、わが志を知る聖人も現れることもあるのだから。

他人の評価を気にして志は為せません。誰が分かってくれなくても淡々滔々と真心を尽くすこと、思いやりを実践することではじめて志は育つのです。誰が分かってくれないとかうまくいかないとか、チャンスが来ないとか環境が悪いとか、色々と言い訳をしては自分の真心を尽くさないのではそれでは修養する価値もないのかもしれません。

王陽明は、事上練磨という言葉を用い日々の修養を説いています。しかしこの学問も、ただ穏やかになりたいくらいでやるのなら価値がないと喝破します。学問は須らく、困っている人たちや悩み苦しむ人たち、そのことにより世の中がより善くなるために行うものだからでしょう。

日々というのは、仕事があるにせよないにせよ、学ぶことばかりです。

その理由は、自分の体験が誰かの御役に立てるからです。だからこそ自分を生き切るということは何よりも学問をするうえで大切な道理であり人生の大道であるようにも思います。未来の子どもたちや聖人たちに恥じないような生き方かといえばまだまだ私は情けない日々を送っています。

あの吉田松陰ですら怠惰な自分の心に喝を入れ、甘えに打ち克つ努力を貫徹し忘れなかったと思えば、私もこれではいけない、このままではいけないと自警自戒しつつ自らの志を磨いていきたいと思います。事上練磨によって自らを発奮奮起していのちのままに学びを高めていきたいと思います。

 

人のために動く~働く幸せ~

先日、日本理化学工業を見学するご縁に恵まれ、大山会長から「皆働社會」についてお話をお聴きすることができました。

そもそも「働く」という字は、人の為に動くと書かれています。この字は日本語であると仰られ、他人の御役に立つという意味で用いられるのが本来の意味であると教えていただきました。

昔の日本人というのは、暮らしそのものが働くことだったと言われます。西洋のようにバカンスもあるわけではなく、休みも週休2日かだったわけではありません。日々に御日様が昇りご挨拶をしたら社會のために自分のできることでお役に立ち、日が沈めはみんなでまたその日一日の仕合せと御蔭様に感謝し御休みするという繰り返しの中で助け合っていました。

今では個人主義が蔓延し、朝から仕事をして夜寝る前まで黙々と行うことが増えているように思います。時には徹夜で休みもとれず仕事に追われるような日々を送っている人も多い時代です。

そのうち何のために行うのか、これは何のお役に立つのかを思うのではなく終わらせることが目的になって疲れはてている人も増えてきました。人間というものは、自分のできることが誰かの御役に立つ実感がでるときその疲れもまた清々しいものになるものです。しかしそれを思わずに、ただ遣ることがメインになれば疲れもとれず楽しくなくなってしまうものです。

仕事を楽しもうと無理に楽しんでも、それは一時的な娯楽のような楽しみは感じられても長続きする愉しみにはなりません。よく仕事で疲れたからと旅行にいってみても、帰ってきたらどっと疲れるということがあります。本来、仕事の疲れというのは、仕事でしかとることができないのに、仕事以外のことで疲れをとろうとするから楽しくなくなってしまうともいえます。

長続きする真の愉しさというのは、働くことで得られるものです。それはただ業務を遂行することではなく、誰かのためにお役に立ち、そのことでお役に立てる実感を自らが味わっているとき働く幸せを感じて愉しくなるのです。

仕事が楽しくないというのは、業務そのものが目的になってしまい本来何のために行うのか、誰かのために自分が親切であったかというのが関係しているのです。

私も日々に忙しくしていますが、どんなに忙しくても自分の存在や自分が一生懸命に取り組んだ仕事が誰かの御役に立っていると実感するとその疲れも吹き飛んでいきます。自分が他人のために動くとき、働ける有難さ、働くことの幸せを実感できるのです。

心の豊かさと心の貧しさというのは、働くと仕事の違いに似ています。西洋でもwork とlaborという言い方で単語が分かれているそうです。言われたことをちゃんとできるのが仕事に対し、言われていなくても他人のために動くのが働くということです。

毎日、自分を存在させて有用に活用してくださる組織や社會に対して、どれだけ自分が御恩返しをしているか、どれだけ自分から困っている人たちの力になれているか、そういうことを探して自分を用立てていくことがみんなで働くということなのでしょう。

社會とは本来、みんなで働けるという意味が本質のように思います。

他人の御役に立てる有難さがあるから、自分が幸せになるというのは人間は本来周りと一緒に豊かになっていくための存在であるということなのでしょう。一人で仕事ができるようになることにあまり意味を感じません、それよりも多くの人たちと働くことができるような人になることを自立といいその中で自分が役に立った実感が得られることが自己実現というのでしょう。

仕事から考える自己実現は自分勝手で我儘なものですし、それを得ても本当に周囲が幸せかどうかは微妙なものです、それよりも働くことから考えた自己実現は思いやりにあふれ自他もみんな一緒に豊かで幸せになるのが分かります。

どちらに生きるかも、その人の生き方、そして働き方次第です。子どものモデルになるような生き方働き方を見つめていきたいと思います。

親切~人道の極み~

人間をはじめ、すべての生き物にはできることとできないことがあります。

たとえば、ライオンが鯉にはなれないように太陽が海にはならないようにそれぞれにはそれぞれの役割というものがあります。ひとつで全部の機能を持つというのは、石が空を飛び、樹木が走るようなものです。そんなものをその特性は必要としていません、それはそのいのちが余計なことをしない方が自分が役に立つことを知っているからです。

生きものというのは不思議で、無理に役立てようとするよりも自分のままでいることが誰かの何かの役に立つということを信じている方が役に立てるように思います。無理にクワガタが蛇にならなくてもいいし、お米がトマトを目指す必要もありません。

しかし人間は、誰かと比較され一斉に社会に求められた能力を獲得していく過程である一定の能力がある人を高評価するようになってきました。学校でいえば優等生であり、会社でいえば経営者などもそうです。能力が高い人がもっとも価値があるかのように評価されれば、能力の低い人たちは無能というレッテルを貼られるのです。

そういえば昔、成績が悪い時、クラスの平均点を下げるからと補習を受けていました。その際、無能の集団だと言われみんなにバカにされたことも覚えています。私には他に自分には数々の特殊能力があって自信があったので気にしていませんでしたが、真面目な友達は深く傷つきこのままでは役に立てない親不孝だと嘆いていました。

植物や動物、昆虫にいたるまで成績が高いから生きている生き物は皆無です。実際は、時分らしく生きている生き物たちが周囲の中でお互いを有益につながりあい、無益な争いは避けようとします。

しかし人間だけは、いつまでも無益な争いはやめず、有能かどうかで人を裁きます。有能ではない人間は社會の邪魔者扱いされ、有能な人間だけはスターのように周囲の憧れになっています。

他人の役に立ちたいと能力ばかりを磨いてきても、役に立っている実感がないという人が世の中にはたくさんいます。先日も、自分が役に立ててないと泣いている先生たちと話す機会がありました。

そのどの方々も能力はずば抜けて高いベテランの先生方です。能力だけで役に立つのではなく、自分の存在で役に立つことは人に親切にすることだと私は思います。どんな人でも、親切にしたいと願い行動するなら必ず誰かの御役に立つことができるからです。

私は、困っていることがたくさんありますし何回も困っている場面に出くわします。そんな時、困っていたら周りの方々がいつも助けてくださいます。周囲はとても親切なのです。その親切を受けているからもっと自分も周りに親切にしたいと願うようになりました。

人は有能かどうかよりも有用だと昨日のコメントに書いてくださったのは本当にその通りだと思いましたが、そのうえで親切にすることは何よりも大切だと改めて私は確信するのです。

毎日、一つでもいいから他人に親切にしていれば必ず自分が誰かの御役に立つことを自覚できるように思います。困っている人を探したら、自分が力になってあげる、その力がなかったとしても一緒に考えてあげる、それだけでいいのです。

生きるということは時折つらく苦しいものだと思えます。そんな時、仲間がいたり、友人がいたり、自分のことのように共感し援助し励ましてくださる方と出会うことで生きることが楽しくなり、周囲の御蔭様を知り有難い気持ちに心が幸せになるものです。

人は誰かを信頼し、誰かの役に立つために親切にしていけば、自ずから自分の価値を正しく学べるように思います。本来の社會とは、もっとも身近な人たちのために親切にしていくことだと私は思います。

子どもたちにも、能力が高いから優秀なのではなく、人に親切に生きているからこそ価値があるのだということを背中を通して伝えていきたいと思います。自分ができるかできないかはわかりませんがいつもたくさんの方々の支援の中で自分の道が歩めています、その御蔭様に感謝しつつその御恩返しを今日会う方々、明日会う方々へと譲り渡していきたいと思います。

天才~いのちの法理~

人間には誰にも天与の才能があります。

これは天は、あまねく人々すべてに何かしらの役に立つ才能を与えているということです。一見、何の才能もないように感じることもありますがそれは役に立てるように才能を使っていないだけで何か必ず役に立てることがあるのに出会っていないだけともいえます。

人はその天与の才能があることを忘れて、才能を私物化しようと様々な能力を求めます。しかし実際に与えられている才能は人それぞれ異なり、それを活かすことの方がいのちも歓ぶのです。

なぜ才能を私物化してはならないかといえば、不必要なものを生んでしまうからです。誰か一人が完ぺきに才能を持ち、ありとあらゆることを自分で完結してしまうならその時、必要と不必要が発生します。

できる人は必要でできない人は不必要になります。みんなが一斉に同じことができるようになれば、それができない人たちは要らないということになってしまいます。たとえば、極端ですがお米以外の作物は必要ないといってしまえば、どの野菜も全部お米のように改良するとします。そうであれば、お米以外のものは人間には必要がない、不必要だから邪魔な存在になるのです。

実際に、人間の都合や自分の都合で要るとか要らないとかを分別するほどにこの世から不必要なものを排除しようとしているのです。都市を観てもわかるように、人間社会に要らないものは置こうともしなくなっています。

本来は、八百万の神々がいるこの日本は、すべてのものには何かしらの神様が宿ると信じられてきました。ゴミと西洋では呼ばれるものでさえ、私たちの国の神話ではそこに必ず神様の名前があり、それを尊び守り重んじ大切に祈りを捧げてきました。

私たちの祖神、先祖たちはこの世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。すべてが神様の化身なのだからそのいのちを大切に使われていただきますという姿勢でいのちを活かしてきた民族だったのではないでしょうか。

今のように循環しない、ゴミや無駄や不必要に溢れた世の中になったのは天与の才能を人間に都合がよい才能だけにしてしまおうという傲慢さの現れではないかと思います。

あの雑草と呼ばれる草にも、害虫と呼んでいる虫たちにだってとても大切なお役目があります。その御役とは、天才があるということです。みんな生きているこの世のすべての生命は、天与の才能が与えられているのです。

その才能が適材適所に配置されるとき、この世はまるで楽園になったかのように幸福な世界が顕現するのです。

才能を無駄遣いしないというのは、自分にしかできないことをやることです。言い換えれば、自分の天才を活かすことです。天才は、何でもできることがいいわけではなく、自分のままでも世界の御役に立てる方法を自らが発見発明していくことです。

そして真の教育者とは、そういう天才の徳を見出し、その徳を活かすために配慮し、環境を用意しその発育や成長を見守り「いのちの働き」を活かすものだと私は確信しました。

今の時代は、知識を教え込み、天才を無能にしてしまうようなことを刷り込みます。しかしそのことからいのちが悲しみ嘆き、自分は何者なのかと苦しみ病気になる人たちが増えています。働くことで仕合せを感じていたはずが、マニュアルによって仕事ができるようにさせることでより一層いのちの使い方を間違い、そのことからさらなる無駄と不必要をつくり、それを解決するために膨大な資金や労力を使わせています。

先祖たちはいのちの法理を知っていて、この世には一切の無駄がない、神々がいる世界にこの世を近づけていたのです。それをこの100年程度の西洋の文化がすべてにおいて優っているという思い違いが氾濫することで、私たちが先祖代々、何よりも大切にしてきたいのちの法理をも忘れてしまうのは本当にもったいないことだと思います。

私の志す、かんながらの道にはいつも八百万の神々がその見えざる姿、聞こえざる声によって自然を通じて何が大切かを親切に手ほどきをしていただきながら教えてくださいます。自然から学び直していると、自然は一切の無駄がなく一緒につながり絆を育みながら共生しあい貢献しあい、あるがままにそのままに天才を活かし仕合せを生きています。

子どもたちにはそういう世界を譲っていきたいと切に願います。

三つ子の魂の救済を、ご縁と支えられている皆様への御恩返しとして自らの天才を存分に発揮しつつ実現させていきたいと思います。

今問答

人は物事に取り組むとき、答えから探そうとする人と問から導いていこうとする人がいます。

もともと学校では、答えがあって答え合わせをし、適切な手段で答えを出したことで合格になるように教え込まれてきました。そのためか結果よりも手段が大事であり、手段が間違っていると思えば答えが出る前に諦めてしまう人が増えたように思います。

しかしよく考えてみると、手段というのは刷り込まれた常識のことで本当にその通りにいくわけではありません。実際の人生を振り返ってみても、最初の入り口はマニュアルが必要でも応用はまったくマニュアル通りにはなりません。手段とは、あくまで最初の段階であり目的に対して本質かどうかが結果に対しては重要だと私は思います。

そもそも結果というのは、結果が先ではなく体験して挑戦したことの現れとしての結果が出てくるだけのものです。その結果をどう受け入れ改善し、次の挑戦につなげていくかで体験そのものが善いことになるのです。

世の中は答えが出ているものをわざわざ探求しようとする人はいません。それは常識というものと同じです。常識は変えられないものだと信じ込んでいたり、世の中はそうなっているものだと疑問にも感じないようになればそれはもう考えていることをやめているともいえます。

考えるというのは、常識を疑うことを言います。それは自分自身の中にある常識に「?」を持つことです。本当にそうだろうか、自分が思い込んでいるだけではないか、実際の世界は自分の思っているものではないのではないかと、自問自答を繰り返して行く中で自分の中にある真実を見極めていくのが学問です。

それを誰かがいつも答えを持っていると、答えさがしばかりをしていたら体験したことを活かすよりも体験せずに先に手に入れることの方を優先してしまうものです。体験の尊さというものは、その人だけのかけがえないのものです。

その人の体験は、必ず誰かの御役に立つのです。これは人類だけではなく、動植物から昆虫にいたるまでそれぞれの個性にそった人生を生き抜くことで環境の変化、時代の変化に順応していく種を次代へとつなげてくことができるのです。

またその体験の中にこそ、ご縁や一期一会、御蔭様や有難さ、勿体なさも感謝も真心も全てがそこにあるのです。体験をしても体験しない人もいれば、体験をしようとしていたのに体験をしたがらない人もいます、これこそが常識に縛られている証拠なのかもしれません。

当たり前ではない日常にどれだけ本気で味わい尽くすか、当たり前ではない今にどれだけ真摯に向き合っていくか、仏陀が言う通り人生は四苦の生老病死のみならず、八苦の愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦があります。

しかしそのすべての体験こそが自らの魂を磨き、そして心を鍛え、精神を高めていくのも事実です。体験を避けて過ごす一生もまた一生、体験を味わいながら痛快愉快に歩むのもまた一生。

全てを善かったことにしていくためにも、体験の意味を味わい、その体験をさらに人の御役に立てていくことで人生の花もまた咲いていくように思います。

日々は学びの連続ですから、学ぶのを已めないことこそが体験を尊ぶ生き方なのかもしれません。疲れや忙しさという甘えに己が負けないように、あれこれ思い煩わず体験を優先しそれを味わい反省する面白い今に邁進できるようになりたいものです。

二度とない今問答だからこそ、今しかできない有難き今の感謝の心のままにご縁を歩んでいきたいと思います。

王道は正直

今の世の中は、何でも簡単便利に効率よくというものが人気があります。

販売されている商品も、負担を減らすためにという言い方をしつつもより楽をしようとするあまり反って本質から外れて忙しくなったり、初心や目的からズレて仕事を増えたりしているものです。

制度なども同じく、制度を作った方が便利だと用意したけれど結局はその制度のせいで思いやりが欠けたり、柔軟な対応ができなくなり硬直したりと、安易に即効性のあるものはその後は長続きせずに形骸化しそれが変革の邪魔になってしまったりするものです。

本来、学び方も教え方でも同じことですが「サプリメント」を与えるようなものを簡単便利だからと優先すればそのサプリメントで乗り切れると勘違いする人たちを増やしてしまうのです。コンビニで売られているサプリメントや薬の類は、結局は根本治癒をするものではなくその場しのぎを増やしていくだけでより状況は慢性化し悪化していくだけです。

根本治癒をするには、時間をかけてゆっくりと内省しつつ対話によって解決していくしかありません。それは結果さえよければいいではなく、そのプロセスをどれだけ大事にしているか、それは教えるのと同じで教えてできるのではなく、自分で考えて行動して自らが気づき答えを出していくということを何よりも大切にするということです。

人間を信じるということは、その人は必ず気づき覚るであろうと信じることかもしれません。

すぐには気づかなくてもじっと待っていれば、その時が来ると念じていればその日が訪れるのです。祈るようにその人の気づきを待ち、自分自身が実践を已まずに道を歩んでいればご縁の妙に導かれて必ずその人の気づきが訪れるのです。

それがいつになるのかは分かりませんし、自分が生きているうちにはこないかもしれません。しかし私自身がそうであるように、師から諭された言葉も気づくまでには何度も挑戦し、内省を繰り返しながら数年から十数年でハッと気づかされることが多いからです。

道には王道があり、王道を志すならば正直が一番です。

人に求めて焦る気持ちが出てくるときは、自分の足で自分の道を歩むことをお座なりにするときかもしれません。日々の脚下の実践を怠らず、克己の工夫を探求し子ども第一主義を深く掘り下げていきたいと思います。