本義本業

人は誰しも感情があります、その感情は我があるから感応します。また人には誰しも真心というものがあります、その真心があるから真我が感応します。ここの境目にははっきりと我と真我という分かれ目があるわけではなくそこは薄明りのように和合しています。

この我や真我というものは頭で理解することはできず、たとえば真心なども言葉や知識で理解できるものでもありません。心技体、真摯に苦労をおしまず自己すべてを使い切っているときに発動しているものです。すべての物事はこの真心に懸っているとも言えます。つまり良いか悪いかは頭ですること、心でするのは真心のみです。

聖徳太子がこういう言葉を17条の憲法の中で遺しています。

「真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや 成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだ ろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。」

これは第9条に書かれており、良いか悪いか、正しいか間違っているか、それはすべては真心のあるなしがすべてであるといいます。それを受けて第10条にはこう添えられます。

「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。お互いにだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」

謙虚に自分自身の至らなさを恥じて、自分自身の真心を確認して自分を正し続けるということです。そしてこれは私たちが目指す聴福人の姿です。まずは心のままに聴くのが先だということです。そのうえで誠実に実直に真心を盡していくことこそが、人の道の根本でありそれが生きるということにおいての本業です。そういう意味で仕事のコトとは何か、このコトには意味がありますからその事が為すということは真心を盡すということであり、その真心を盡すことこそが仕事の本義本業ということになります。

頭でっかちにわかった気になる理由は、真心を盡すという本来の本義から外れているからです。頭でできるような仕事は真心を使わない分、楽を選んでいきます。自分にとって都合が悪いもの、自分にとっては苦しいもの、自分にとっては大変なものであったとしても、「それでもやるか」と自省するとき、真心がどうなっているのか、自分の至誠は果たしてどうなっているのかは自分自身(我真我)が対話をするのです。

この対話を通して人は対立関係をやめて和合し一つになります。真心を盡していくことが和合そのものであり、その真心こそが何よりも尊いのです。和を持って尊しとするのは、何よりも真心こそが全ての根本なのです。

真心の仕事こそ、カグヤの本義本業です。

刷り込みが深いのもまたこの心の対話がまだまだ未熟な証拠ですから、常に真心からの行動や言葉、そして真心での働き方、かかわるすべての物事へ真心の生き方を通して磨きをかけて刷り込みを転じて丸ごと活かし子どもたちの役にたっていきたいと思います。

 

季節をお手本にする生き方~歳時記~

かつての日本の暮らしには「歳時記」というものがありました。1872年に明治政府がそれまでの太陰暦を太陽暦に無理やり変更しました。欧米に追い付け追い越せと急いでいたため今までの日本の文化や習慣を強引に変更したことでそれまでのものが取り入れられず進化させることが間に合わなかったとも言えます。

そしてこの改暦の布告から施工までの期間はわずか23日間。従来の年中行事も慣習も全部無茶苦茶になり当時はかなり混乱したといわれています。当時の新聞には「世の中の絶無の例とされていた晦日に月が出るようになった」「十五日に仲秋の月もなく、三十日(みそか)に月の出る代と変わりけり」「三十日に月もいづれば玉子の四角もあるべし」などと書かれました。農家などは従来の慣習によらないと種まきから収穫までさっぱり見当がつかなくなったといいます。

そして季語を命とする詩歌俳諧の世界も混乱し「同じき年の冬(明治五年)十一月に布告ありて、来月三日は西洋の一月一日なれば吾邦も西洋の暦を用ふべしとて、十二月は僅か二日にして一月一日となりぬ、されば暮の餅つくこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋にかひもとめて、ことをすますものあり(中略)、詩歌を作るにも初春といひ梅柳の景物もなく、春といふべからねば、桃李櫻花も皆夏咲くことになりて、趣向大ちがいとなれり」(浅野梅堂『随筆聽興』)とまったく季節と歴が分離されてしまいました。

旧暦を時代遅れと糾弾し、いきなり新暦に換えましたがそのことから長年日本人が季節と共に暮らし、自然と共生してきた智慧をも手放していきました。年中行事や慣習はそのころから失われ始め、今ではほとんどの家庭で年中行事が行われなくなり経済効果の高いイベントが新しい慣習として国民に根付いてきています。

歳時記というものはこの旧暦と共に存在していたものです。歳時記のはじまりは中国から渡来したものですが、それを日本の風土に照らしてはじめて著書として遺したのは貝原益軒です。書名は《重鐫(じゆうせん)日本歳時記》また《榑桑(ふそう)歳時記》ともいいます。

1688年(貞享5)3月京都日新堂刊され大本7巻7冊、半紙本4冊あり〈三百六旬の間の故実雑事を,唐土の文に出たるをば我国の文字にやはらげ,又我国の事をば見もし聞けるにしたがひて書つゞけ侍りぬ〉と述べて,民間を対象に歳時の事宜を叙述したとあります。四季12ヵ月に分かち,各月に公事,祭礼,農事,衣食等を年中行事風に配列し,異名,漢名,来由,故事を説き,図解や詩歌の作例をも掲げるなど啓蒙的な歳時記として今でも日本の伝統を確認できるものです。(世界大百科事典より)

二十四節気や七十二候など季節に密着して暮らしてきた日本人の姿が見えてきます。私たちは身の回りの自然と共に生きてきましたから、いつも周りの変化をみながら季節を常に観察していたとも言えます。

季節外れのというような感覚は、この歳時記に沿って生きてきたから察知できるものでありいつも歳時記に照らしながら変化に対して順応してきたから私たちは豊かに仕合せに生きてこられました。

今は歳時記が消え、人間都合の時間に追われ心の余裕やゆとりも失い、季節感もなくなりただ時間というスピードだけが加速度的に増してくる時代になっています。そのことから心を崩して疲れている人も増えてきています。

もう一度、日本人の生き方や暮らしを見直す時機が来ているように私は感じます、人間としての本来の幸福はこの暮らしの中に存在するからです。引き続き子どもたちのためにも歴史の問題点を見抜き、自分たちの時代で検証したものはすぐに改善していきたいと思います。

実践の語り合い

昨日、長年お取引をしていただいている保育園の先生がお二人ほど会社見学に来ていただきました。とても熱心な先生で私たちの社内の環境を観てあらゆるところを写真を撮り、持ち帰って実践できるところなどを書き留めていらっしゃいました。帰り際にはとても感動され、充実した一日だったと喜んでお帰りになりました。

実践をしている先生がさらに新たな実践を求めてやってくる、そして実践を高めている先生がお互いの実践を聞いてさらにそれを発展させていく。ここに私は道の尊さを感じます。

伊藤仁斎という江戸時代の儒学者・思想家にこういう言葉が遺っています。

「一人之を知りて十人之を知る能はざる者は道に非ず。一人之を行ひて十人之を行ふ能はざる者は道に非ず。」

現代の言葉に意訳すると「自分がいくら分かっているつもりでも周囲の誰も分からないようなものはそれは道ではない。自分だけが実践できても他の者が実践できないようなものは道ではない。」という意味です。

つまりは実践とは、皆と一緒に実践できてこそはじめて道につながっているということです。この一緒に実践していくということは、共に道を歩んでいる仲間の存在があるということです。実践が弘がっていくという尊さは、同志たちによって伝道されていくということになります。

そのように自分たちの生き方、働き方が道になっていけばその道を求めて人が集まってきます。そして同じように道を歩もうとする同志たちがそれぞれ一緒に道を歩むことで磨き合い高め合い道は踏み固められていきます。

常に実践は自分だけでわかればいいのではなく、自分だけが実践できればいいのではない。何のために実践しているのかを顧みれば、実践する目的や理由に辿り着くと思います。同じ思いや同じ祈り、同じ願いを持つ人たちは「実践によって語り合います」。

実践によって語り合うからこそ、道の先覚者であることを知り、その思想が単なる幻想ではなく現実に即したものであることに気づけます。現場実践を行うということは、それぞれの場所で同じ理念を実現しようとする生き方の合わせ鏡です。人の道を高め合う中には深い愛があります。この愛を循環させていくことが実践を語り合うということになるのです。

最後にまた伊藤仁斎の言葉です。

「蓋し道は窮り無し。
故に学も亦た窮り無し。」

道には終わりというものがない、故に学ぶことも終わることがないのであると。

分かった気になっている暇もなく、刷り込みに流される暇もなく、道は無窮、万物流転を已まないのだから、常に学ぶ仲間たちと切磋琢磨しつつ道を楽しみながら感謝の一歩をまた日々に新たに歩んでいきたいと思います。その道が子どもたちに続いていくことを信じて実践で語り合っていきたいと思います。

欠点の美

先日からAI(人工知能)のことを書いていますが、理想の人間に近づくための完璧な能力を持つということは欠点がなくなっていくということでもあります。この欠点のないものを完璧と人は呼ぶのですが、欠点とは転じればそれは長所と呼ばれるものであり持ち味ともいうところです。

色々な生き物にはそれぞれに一長一短があります。ある場面ではそれは長所であっても、またある場面では短所になります。そうやってお互いに場所を棲み分け、また役割分担をし、共生し貢献しあうようにすることで一緒に必要としあって生きているのがいのちの仕組みです。

現在は、完璧主義の思想が蔓延することで自分を必死に直そうとして苦しんでいる人が増えてきているようにも思います。欠点がなくなるということは、言い換えれば全部ひとりでなんでもできるようになることなのでしょうがそのために孤立して仕合せから遠ざかったでは何のために完璧を目指したのかということが問われます。

本来、欠点というものは直すものではなくそれは活かすものです。上手く使えば長所になってみんなに貢献できるのだから、それをどのシーンで使えば上手くいくかを伸ばすことこそ欠点を活かせたとも言えます。

この何でも活かそうとする発想というのは、悪いところを裁こうという思想ではなくその悪いところも好循環できるように活かしていこうとする一緒に生き認め合う仲間の中で生きようとする発想です。

なぜ人が認め合うことができなくなってきているのか、それは過度に能力主義に偏ってきたからかもしれません。本来、人はそれぞれがあるがままであっていい、その人らしいことが美しいというように存在そのものを認めその存在そのものが愛されていると感じることで幸福を感じます。

これをした場合のみ愛されるや、あるがままをやめた時だけ受け入れられるような社會の中では欠点はあってはならないものになるものです。みんなと一斉画一に金太郎あめのように同じになることを目指すのではなく、自分の持ち味が如何にみんなに活かされるかを目指すことで欠点は美点に変化します。

人間の持つ価値、人間らしさというものはこの持ち味によって磨かれ光り輝いていきます。引き続き、生き方を通してこれから先のこどもたちがあるがままに生きられるように自ら実践し見守っていきたいと思います。

特異点と徳以転

現在、AI(人工知能)が発展して技術の進歩がより著しくなっています。このAIの進歩は人類にどのような影響を与えるのか、今はまだその議論がまったく追いついてきていません。しかし、進歩を止めることはなく、次々に新しい技術は開発されていきます。

似たようなものの中に、遺伝子工学というものがあります。遺伝子を操作することで様々な生き物たちの姿かたちを自由に変えていく新しい技術です。最近では天才を作り出す遺伝子(賢い遺伝子)の研究も進められ、超秀才という理想の人間を作り出すことができるようになるといいます。AIも遺伝子もどれも理想の人間、いわば能力を最高まで発揮する天才を生み出すためにあらゆる技術開発を進めています。

これらの技術は、まだそれが成ったあとのことはほとんど考えることができていません。言い換えれば、人類はその技術の進歩を受け入れる準備がまだほとんどできていません。つまりは進歩に対しての人間の成長や進化がまだまったく追いついてきていないのです。

これらの技術は現代社会の人間が使うにはあまりにも危険であるという意見が様々な社会学者から世界に発信され続けています。すでに核の技術などもそうですが人間が未熟な上に人類を滅ぼす技術を人間が持ちえる場合、その高度な文明と技術によって人類が滅びるという考え方になるということです。

現時点であっても、世界は核実験を繰り返し世界中のあちこちに核が拡散されミサイルはお互いの敵国へ向けて発射できるように配備されています。約1万発以上の核ミサイルの半分はいつでも発射できる状態で待機しています。

これらの核技術についてもその進歩に対して、私たち人間の倫理はどれだけ進化したかといえばほとんど変わっていません。日本でも戦後70年を経た今、あの頃の記憶もまた風化して再び核拡散と核武装をするという話が出てきています。原発という技術の恐ろしさを東北の震災で直視したのにも関わらずです。10万年以上処理できない、人類では片づけられない技術を進歩という成功モデルにしがみついてはいつまでも同じことを繰り返しています。ここに倫理は果たして育っているのかと感じるのです。

人類は成功モデルや進歩することばかりを追い求めることに躍起ですが、同時に如何に幸福や進化を社會に創り上げていくかという人類の真の成長を求める必要があるように思います。それはかつて孔子をはじめ、様々な人類の先覚者が中庸といって徳を深めて徳を弘めるといった道徳によって築いてきた社會です。

これから時代は特異点(シンギュラーポイント)を迎えるといっています。しかし明治以降、私たち日本人が江戸時代まで大切に謙虚に生きて幸福な社會を築き上げてきた進化を西洋の進歩に入れ替えて能力主義のみを優先してきました。その結果として今がありますが、この進歩が果たして人類の幸福を生んだかということについては現在の社会問題を観ていれば答えが出ています。今は幸福よりも成功が幸福であり、不成功が不幸という歪な社会が存在します。テレビでは連日無縁、孤立、格差が深まり、進歩の陰で人間社會は貧しくなっている報道ばかりです。物が増えて技術が上がって成功しても、幸福度は貧しくなったでは本末転倒です。

そう考えてみると、これからもっとも大切なのは進歩に対して進化するために必要なものは人間の人間力ということになってきます。これはAIや遺伝子工学では生み出せません。なぜなら道具の使い手は人間であり、人間次第で道具はどのようにでも変化するからです。そして本物の人類のリーダーと呼ばれる徳を磨いていく社會の導師たちが如何にこの進歩のことをそれぞれの場所で受け入れ、それを温故知新して正しく活かせるように人類を伝道し教育していくか。つまりは徳が循環し高まっていかなければどんな進歩も活かせるかということになってきます。

私は人類がこの特異点の時代において、どちらに転ぶかはこの「徳」こそがキーワードになると思います。そして新しいこれからのリーダー像は、本来の人類としてのいのちの幸福を求めて自然の一部としての初心を忘れずに、今の技術的進歩を進化と両輪でバランスよく調和できる人類の人格を高めていく人物を醸成することです。言い換えれば自然の摂理と人間の道理に精通した人物を育てることです。

人間は本来、みんな馬鹿じゃありませんからいろいろなことをこれから体験していきますが最後は必ず人間らしい本来の姿に回帰していくと私は信じています。古代人が持った精神にもしも近代の技術があったなら、もっと世界や宇宙は平和に豊かに暮らしていけるように私は思います。

引き続き子どもたちのためにも、自分がその温故知新のモデルが示せるように精進していきたいと思います。

人工知能と原点回帰

ロボット工学が発展してくると、いよいよ人間の価値が何かということがはっきりしてきます。大量生産大量消費を通して、物の価値観が大きく変わってからそれが発展した先にこのロボットがあります。そして現在ではAI(人工知能)の開発技術の進歩が著しく、人間により一層近づいて人間の理想を凌駕するのではないかともいわれています。

先日、韓国から帰国する新聞に中国の龍泉寺でロボット僧というものが開発されそれがとても優れているという話題が紹介されていました。このロボット僧は、禅の高層の一問一答をすべて人工知能が吸収しそれを自分なりに咀嚼し、質問する人に対して答えるというものです。

その質問への答えは禅問答であり、その一つ一つには奥深い禅の哲理が入っているそうです。例えば、賢二に「渋滞に巻き込まれたんだけど、どうしたらいい?」と聞くと、「お経を唱えるのにちょうどいい」と答え、「お母さんがうるさいんだけど?」と聞くと、「年寄りなんだからほっとけば」と答えてくれる。そしてその答えを聞いた人は「心が癒される」「心が楽になった」「幸せを感じた」などという感想がたくさん出ているそうです。

これは単に正解を知っていて答えているロボットではありません、人工知能がディープレーニングを通してその智慧を答えていくのです。その際、では今の禅の僧侶たちはどうなっていくのか。今までと同じことをしていたら、それはロボットが代行するのだから自分たちの役割は何かということになってきます。

AIが発達すればするほどに仕事がなくなり、人間がいらなくなるというのはこの例からも推察できます。これからますますロボットが人間の理想に近づけば近づくほどに、私たち人間は本来の人間としての価値の原点回帰に迫られるように思います。

私は自然農や古民家再生、見守る保育の仕事をしながら決してAIが代行できないものを自覚しています。それは人工では決して近づけないものです。そういうことを磨く時代になっていたとしたら、これから先の未来はある意味では楽観的に考えられます。

結局は人間の理想というものは、対立した中では実現できません。如何に自然と一体になっているかと鑑みると私たちは逝きついた先に原点に回帰することになります。自然は常に往復しバランスを取りますから、今の時代は過渡期だということでしょう。

こういう時代にあって逆行している私のやっていることは、回帰するときには最先端になっているだろうと思います。それまでの間は、粛々と磨き上げいのちの再生を自然と一体になって風土を醸成し続けていきたいと思います。

どんなことも転じていきますから福にして、さらなる一歩、温故知新を迷わずに歩んでいきたいと思います。

 

ダイバーシティ

今回、韓国保育視察ではいろいろと学び直す好い機会になりました。改めて隣国、韓国でどのように質をとらえているか、何が優先されているかを観て日本の未来や行く末のことなども洞察することができました。

昨日は視察とは別に明洞や南大門など、お土産を買いに散策もしました。そこで鞄や洋服、時計などを販売している方がブランド品の「完璧な偽物がありますよ」と呼び込みをしていました。それを聴きながら完璧な偽物とは一体なんだろうと考えてみました。完璧こそ偽物であり、偽物は完璧を目指すことではないかと思うのです。

私はそれぞれにはそれぞれの天与の個性があり、あるがままであるときその持ち味は最大限発揮できると思っています。それを徳性と言います。この徳性が異なるからこそ、ダイバーシティが創造し、人類は発達と発展を永続していくことができるからです。

これは歴史が証明していて、人間においても多種多様な人たちや天才と呼ばれるような何かに特化した人物がその時代の歴史を塗り替えていきます。自然においても、秩序と混沌を繰り返し、変化に順応するために多様性を常に維持しながら原理原則に沿って営み循環を已むことがありません。

持ち味というものは均一なものや完璧を目指す中では出ては来ず、それはまるでロボットを目指そうとする生き方です。これからの時代はロボットが人間にとって代わるといわれています。人間にしかできないことが求められる中で、果たしてそのように人間の都合の良い人間だけをつくって豊かで仕合せな社會が築けるのでしょうか。

私たち人間は全体の中で循環する生き物ですから、如何に全体が好循環をするかを考える必要があります。そしてその循環は如何に自分の持ち味を活かし他を活かすかという共生と協働によって成立します。

ロボットになって技能や能力が高まっていくことはそれは文明の進歩かもしれません。しかしそれを優先し過ぎていたら本質的に時代が成長し変化できるかと言えば私はそうならないと思います。人間が進化するには、それぞれの持ち味を活かし一緒に成長していく渾然一体となった和合する力が求められます。世界は今、急速な勢いで距離が近まり多様な価値観が集合する時代になっています。これは人類の進化が求められている変化の時代になっているということです。

そんな時に、今のような子ども本来のあるがままの姿を保障しないような教育や保育が果たして時代に合うのかと疑問を感じます。子どもあるがままを理解するというのは、人間の本質を理解するということです。そのうえでどのようにしてその人間が愛を循環して未来を創りあげていくのか、それを信じて「見守る」ことが先を生きる私たちの本来の使命なのかもしれません。

その観点から改めて「見守る保育」の三省を振り返ってみると、

「子どもの存在を丸ごと信じただろうか」(子どもは自ら育とうとする力を持っています。その力を信じ、子どもといえども立派な人格をもった存在として受け入れることによって、見守ることができるのです。)

「子どもに真心をもって接しただろうか」(子どもと接するときは、保育者の人格が子どもたちに伝わっていきます。偽りのない心で、子どもを主体として接することが見守るということです。)

「子どもを見守ることができただろうか」(子どもを信じ、真心をもつことで、はじめて子どもを見守ることができるのです。)

子どもという存在をどれだけ深く理解しているか、それは自然をどれだけ深く理解しているかということです。人間の都合での解釈ではなく、謙虚に子どもや自然から学ぶ姿勢にこそ本来の人間を見守っていることになると私は思います。

また見守る保育の原則に5Mというものがあります。

①もったいない(MOTTAINAI)

②むすぶ(MUSUBU)

③もてなし(MOTENASHI)

④めりはり(MERIHARI)

⑤めぐる(MEGURU)

これらの一つ一つに照らし合わせながらそれぞれが内省し、自分の在り方から生き方を見つめ謙虚に学び続けて学び直すことが原理原則からブレナイということでしょう。そういう原理原則をマスターした人たちが常に改善を続けて理念を実践していく中ではじめてそれぞれの天与の個性、つまりは持ち味が発揮されていくように思います。

大前提がズレてしまった保育や教育には、本物を維持する力がありません。引き続き、何を優先して生きるのか、保育は生き方、つまり道ですから道の大原則に沿って改心をし続けていきたいと思います。

色々と韓国から学び直すことがありました。アジアをはじめ世界の子どもたちのためにも自分自身の改革を緩めずに努めていきたいと思います。ありがとうございました。

 

評価基準?

昨日は、韓国の企業や財団が運営する保育所を3施設ほど見学しました。施設はとても充実しており、保育環境は国家の評価基準によって均一的に準備されています。どこでも同じような施設、同じような保育、同じような環境があり多少の設備の差があってもほとんど同じサービスが提供されていました。

当然、日本の病院と同じく同じ病気で通院するのにあまりにも異なる治療をされたら患者さんは不安で病院にいけなくなりますから同じサービスをするというシステムが機能しています。それと同じで韓国の学校もその同じ質を求めて一定ラインの標準化がされているように感じました。

しかしあまりにもそこに「質」というものを求めすぎると似たような同じものが最高だと信じて本質から外れてしまうように私は思います。韓国では整形手術が流行っているといいます、みんな同じような顔になっているのは来てみるとすぐにわかります。

先日もニュースで、ミス韓国を選出する出場者リストの写真には同じ顔ばかりが並んでいました。これを見た人たちからはコメントで「同じ顔ばかり」「姉妹が出ているのか」「一人が何回も応募しているのか」というものであふれていたといいます。

これに対し韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏が「韓国人の〝美の基準〟というのは、ものすごく狭いのです。ひとつの美の型が決まると、皆それに合わせて作る(整形する)のが韓国の感覚です。私は〝韓国式たい焼き美人〟と呼んでいます。たい焼きのように同じ顔が量産されるということです。ミスコンで同じ顔ばかり、ということは、つまり、美の理想型に近い、全員美人ぞろい、ということで、むしろ〝褒め言葉〟になります」と指摘したといいます。

誰かの定めた評価基準に従っていれば理想という考え方は、果たして本当の質を高めるのかと私は思います。そういう意味で私はこの評価基準というものの用い方についてかねてから疑問を感じているのです。

韓国ではこの美醜が、その後の学校の成績や就職にまで関連してきます。誰もが同じ道を通り誰もが同じ理想を求めて競争して比較していたら劣等感ばかりが育っていきます。その劣等感を解消するために、美の理想の型に近づけるというのは本当に自分に自信を持つことができるのだろうかと思います。

「あるがままである権利」ということを昨日も書きましたが、ここにきてそのあるがままの権利の意味とその価値を再認識することができました。

一つの基準だけでなんでもやろうとするのは無理がありますし、その基準は時処位で変化しますからもはや理想は原理原則から離れています。理念を持ち実践し生き方で示す原理原則の体現者がそれぞれに必要であり、またその実践をする体現者が常に現れるように切磋琢磨しその物差しが歪にならないように常に注意していく必要を感じます。

私にとっての原理原則、その物差しは自然ですから、自然は人間の都合で変えられることはありません。常に自然に沿って自然体でいることこそがあるがままであるとし、今回の学びをまた子どもたちに還元していきたいと思います。

あるがままの権利

昨日は韓国区立の保育所と大学付属の保育所を視察する機会がありました。とても丁寧な保育を展開され、スペースも十分、教材も豊富で思っていた以上に設備が充実していて驚きました。ベースとなる評価基準や保育課程もしっかりしており、そのうえで施設長の判断で方針が展開されていました。表面上ではほとんど日本と変わらないその施設に改めて何が異なるのかという大局の観点を考え直す好い機会になりました。

そもそも保育は誰のためにあるのか、そう考えてみると親のため、国のため。子どものためなど色々とその主としているものが変わることで保育方法や概念も変わっていくものです。それは必ず保育現場に現れます。子どものためにといいながら実際には保護者のためにというところがほとんどで、理想と建前を使い分けている施設が多いのも事実です。しかもそれがもっともらしい理由がつくと、明らかに大人と子どもとが分けて語られるようにも思います。

本来、江戸時代に寺小屋という仕組みがあったころは学校は子どものためにありました。子どもが主体的に異年齢の中で一緒に学びあっていきました。師友の関係の中で、それぞれ道徳を学び、能力を高めそれぞれの持ち味を活かしながらどのように生きていくかを学びあったといいます。そこの教育現場を歴史を紐解いて深めていると、子ども主体の教育や保育が行われていたことがわかります。

現在、子どもの権利条約の関係でそれを批准する国々は子どもを尊重していく必要があります。しかし実際には、何をもって尊重しているのかということを勘違いしているところも多いように思います。ただ子どものいうことを聞けばいいではなく、子どもと一緒になって成長しあっていくような場を用意していくことだと私は思います。

子どもの権利条約のモデルになったヤヌシュ・コルチャックは、「あるがままの子どもである権利」を言います。そして「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもだから。」と言います。大人と子どもとは一切分けてはおらず、如何に自分を理解して子どもたちを同じように愛していくか、自分自身になっていくことを述べています。

現在、保育現場にみられる姿はそういうものとは異なり大人と子どもがはっきりと分かれています。「とはいえ」という理由をつけながら大人になっていき子どもと自分を分けていく姿の先にあるがままである権利は成り立たないと私は思います。

保育の方法を語り合う前に、このあるがままである権利を如何に考えて保育を創りこんでいるか。「見守る」という考え方、いや保育という生き方の中にはここが明確な主柱になっているからブレずに原理原則から離れず世界標準を展開できるように私は思います。

引き続き、本来の子ども主体について韓国の保育事情がどうなっているのか視察から洞察してみたいと思います。

相互発展

昨日から韓国のソウルに来ていますが、こちらは気温が零下にもなりかなり寒い状態です。先日のシンガポールは35度近くまであって真夏でしたが、今回は急に真冬です。少し離れただけでもこれだけの気温差ですから体調も崩れるのも仕方がないのかもしれません。徐々に変わっていく変化の方が負担がないことを観ると、自然はとても生き物たちに親切です。

今日から学校視察ですが、昨日は空港の中で韓国文化の展示などを拝見してまわりました。使っている道具や言葉など、日本と韓国は昔から隣国として交わっていたことがわかります。韓国にきてもあまり異国のように感じないのはそれくらい交わり一緒にかかわってきた期間が長いからのようにも感じます。

例えば、言葉なども日本語と同じ言葉がたくさんあります。それに食文化についても似たような食材がたくさん使われていますし、音楽や芸術なども似ているところが多いといいます。顔も似ていて服装も似ていますから、いっしょに訪韓している異国好きのクルーも全然韓国に来た気がしないと言っていたのが印象的でした。

それだけ似ている国だからこそ、共通の課題がありまたその中でもお互いに注意すべき点が出てきます。切磋琢磨の関係もそうですが、お互いに似たもの同士だからこそ何を気をつければいいか、批評をするばかりではなくお互いの改善点や美点を学びあうことで互いに発展が持続できるように思います。

いろいろと過去の歴史は続いていますが、未来の子どもたちのためにもお互いの美点を発見し、互いに磨き合い徳を高めあうような相互関係が築けるといいように思います。私の友人の韓国人も今は中国で働いていますが、離れていてもお互いのことをいつも心配しあっている親友です。学びあっている関係には相互発展が継続していきます。

国の違いを超えてお互いのいいところを今日も発見していきたいと思います。