器と道

人には様々な運命があるものです。生まれてきてはこの先どうなるのかが不安で自分探しばかりをする人もいれば、時の流れに身を任せて安心して我執を捨てている人もいます。
すべての生き物には天命がありますから、どうにもならないこともあります。その中でどうにかなるとしたら、自分というものに囚われないことかもしれません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」これは和歌や川柳から出たことわざの一つです。そしてこれは平安時代の僧侶 空也上人(903~972)の作と伝えられています。
『山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』「空也上人絵詞伝」

これは山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだと詠まれます。

自分を大事と思って、いつまでも我に執着していたらなかなか道が開けないという意味で用いられます。この身を捨てては、我執を捨ててということですがこれが覚悟の本質であろうと私は常に思います。

何を大事に守るかという問いは、道を歩むことにおいては何よりも重要なことのように思います。迷いはどこから来るものなのか、それをじっと見つめてみることです。
私たちはいわば「器」です。

その器を自分でいっぱいにしていたら、何もその器に入れることも載せることもできなくなります。器は空っぽであるからこそ、その器は無尽蔵に活かされていきます。

我で満たされた器にしないように私たちは初心や理念を持つ必要があります。
そうやって初心や理念によって本当に大事なものが大事なままで維持されていくのです。

先ほどの「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は、自分を手放せば本当の自分が観えてくる、そして道が顕れるということを意味しているのでしょう。

何を優先して生きていくかは人生一生の課題です。

優先順位を間違わないように、常に大事なものを大切にした生き方を積み重ねていきたいと思います。

  1. コメント

    空也上人の詩から、ずっと自分のことに執着してたら腐り果ててしまうそんなことを感じました。自分にもそんな時期があり、あのままいっていたら間違いなく、腐っていたと思います。あの時があったから今があると思うと感謝しかありません。今でも時折、自分を優先していると思うことがありますが、振り返って正して感謝を大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「身を捨てる」とは、「身を任せる」ということであり、それは「その方が自分が生きると信じる」ことです。信じて身を任せれば浮かぶものを、信じられなくて足掻いてしまうから溺れてしまうのでしょう。「一体になる」ためには、この「身を捨てる」という感覚を掴んでいる必要があります。「放すこと」をもっと学びたいと思います。

  3. コメント

    活かして頂いている、見守られているという実感は、自我がある程に気付けません。感謝を忘れたら直ぐに欲に持っていかれます。毎日の振り返りの習慣や朝の習慣のお陰で随分と助けて頂いています。組織が出来上がっても良い習慣が組織になければ、我に囚われてしまうのだと感じます。いかに働きと生き方を一致させて行くのかが幸せな人生への道のように感じます。

  4. コメント

    自分で一杯一杯にしないためにやっていることのはずが、逆にやることのせいで一杯一杯になってしまっているのだとしらた本末転倒だと思いつつ、例えそんな状況になったとしてもやっている方が近づいていけるような感覚はあります。心の余裕とは、やることを減らして生まれるものではないことを忘れないようにしたいと思います。

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