透明であること

昨日から、守静坊の庭池のお手入れを本格化して進めています。もう随分長いこと、たぶん数十年間そのまま手つかずでしたからあちこちが崩れ、また汚泥が溜まっていました。それを少しずつ、汲み上げて、石を再配置して直していきます。御蔭で、筋肉痛の日々が続いています。

池の中には、イモリがいたり沢蟹がいたり、水生生物たちも豊富にいます。英彦山の宿坊はどこでも庭池がありますが、これは単なる観賞用としてではなく火災の時の貯水に使っていたそうです。

むかしもっとも恐れていたのは山火事です。山は、風があちこちから吹いてきます。住んでみるとわかるのですが、ある時は里の方から吹き上げてくる風。またある時は、山の上からの吹きおろしのような風もあります。そして横から強く吹いてくる風もあります。大雨や台風の時などは、轟音が響き渡り山全体が唸っているかのようです。

英彦山は、水の神様、龍神がお祀りされており常に水が溢れています。宿坊の周囲も、あちこちから清流が流れ込み、井戸を含め、水が豊富にあります。この水の豊富さは、家屋には大変で梅雨時期などはあちこちがカビていきますから対策に追われます。

しかし清流が多いというのは、マイナスイオンも多く、水に囲まれているから家屋もひんやりとしていますがそれだけ心身も澄まされていくのを感じます。

この場所で過ごしているだけで、心の濁りや体の汚れが取れていく感覚があります。お手入れやお掃除がとても気持ちよく、聴福庵と同じように澄み渡った空気が満ちています。

私は浄化場を調えるのが得意のようで、何かを浄化していくのが大好きです。浄化というのは、綺麗になること。綺麗になるというのは透明になるということです。透明が好きなのは、産まれてからずっとで今でも透明なものに感性が揺れ動かされています。

久しぶりの連休は、私はお手入れやお掃除でびっしりですがそれがとても仕合せです。心静かにこの一期一会を味わっていきたいと思います。

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