対話と尊重

世の中には悪平等という言葉があります。これは簡単にいうと個性や能力などの違いを考慮せず、ルールに形式に則り結果のみ平等に扱い逆に不平等になっているということです。

そもそも平等というのは、与えて側のものではありません。平等は受け手が実感するものです。平等に扱われていると思えば、それは平等です。与えての平等というのは、公平ということです。

この悪平等に似たものに不公平があります。この不公平とは、特定の状況や条件においてある人やグループが他者に対して不利な扱いを受けることをいいます。

この問題は、誰かだけを特別扱いしないということでしょうがそもそもそれをする側が自分が特別になっているということを自覚しないといけません。この世の中は、多様に色々ないのちが存在します。自分が勝手に公平だとか平等だとか思い込んでも、実際にはそんなもの存在しません。

例えば、身体の大きな動物と微細な小さな虫があったとします。同じ地球の中で、空気を吸って水を飲み暮らします。どのような場所に生れ落ちるかで環境も異なりますし、先天的で遺伝的な能力や個体差もあります。途中で病気や怪我をすることもあれば、幸運不運はそれぞれに異なります。

結局、自然あるがままのなかでそれぞれが主体的に選択してお互いを尊重しあいながらこの世で暮らしているだけです。それを、誰か特定の存在がさも法律や大多数の人たちの声だけを優先して平等や公平を振りかざせばそれが悪平等や不公平になるのです。

そもそも御飯を食べるにしても、小食の人もいれば大食漢もいます。同じランチを食べても、同じ量分けたら多すぎて苦しくなる人と、少なすぎて苦しくなる人がいます。話し合いをし、お互いがちょうどいいところをみんなで尊重しあいながら取り組むことが公平であり平等になります。同じ量、同じ分、同じ内容だけでいいという判断は、尊重しあわない受け身の時によく発生するものです。

結局、不正義というものまた同じです。主体性というのは、お互いを尊重し合おうという意識です。主体性のない、言われたことやルールにだけ従ってロボットのように働いていると悪平等や不公平を繰り返すだけの人になってしまいます。

人間には、意思がありそして自分というものを持っています。社会の中で一緒に生きていく関係だからこそ、お互いを尊重しあい助け合い支え合っていけば自然に平等や公平ということの真意が伝わり合っていくものです。そしてその中心には対話があります。尊重することは対話することです。尊重しないことは対話をしないということであり、そこに真の不公平も悪平等も存在します。

価値観やルールが異なるからと諦めることではなく、お互いの違いや異なりを認め合い共に同じ理想郷に向かって協力しあうとき自然は平和をつくるように思います。

引き続き、対話と尊重を学び続けていきたいと思います。

 

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