表現の自由

昨日は、自由の森学園の音楽祭に参加する機会がありました。子ども達が、自分たちで「有志」という仲間を募り舞台でそれぞれに自由に自分を表現する様子はほのぼのとし、また青春を感じます。

私は子どもたちの表現を観ていると、表現こそが自由ではないかと思います。周りに合わせて無理やり自分を造ってきた不自由さというのは次第に子どもの表現を奪っていくように思います。周りを気にしては自分がどう思われるか、どう見られているか、そういう刷り込みからの脱却が舞台での信じ見守られる環境の中でできるように思います。

人は自分の本心と向き合わず、我慢をして周りに無理に合わせてきた自分をそのうち本当の自分だと思い込んでしまうものです。自分が決めたことを遣りきることよりも、周りの状況に合わせて自分を決めてきた人は本来の自分というものが分からなくなっていきます。そして心を閉ざし自分に嘘をつく日々を送ることで、自分らしくいるということも分からなくなっていくものです。

自分というものの本心は、頭で考えて周りに合わせていくことではなく自分の心の声に耳を傾けてどういう自分でありたいかを優先していくことです。

その最初の本心を優先する自信は、表現を通して行われるように思います。自分の言葉で伝えることや、自分の行動で発信すること、自分の心を素直に周りに開くことで次第に融けていくように思います。自分を丸ごと認め信じることは、他を認め丸ごと信じることにつながっています。

大人はそうした中で刷り込みが取り払われ本当の自分の好きに出会うのでしょうが、ただ好き勝手にしていればいいのではなくそこには社會の大義を学びます。大義を学ぶことで好きな自分を遣りきって周りを同時に仕合せにしていく過程で感謝という基本が身に付いてくるようにも思います。

何のために表現するのかと思う時、人は御互いを思いやり認め合うために必要になるように私は思います。

自由は人を育てるのは、自由の中にある自然の姿から何を基本に生きていけばいいかを自覚することができるからかもしれません。野生の感性や、自然の真心は、自然と同じ環境を通してはじめてカラダに沁み付いてくるように思います。

子ども達が自由に表現することの愉しそうな姿から、子どもの頃のことを思い出します。大人の価値観に縛られず、新しい時代を切り開いてくれる子どもたちに明るい未来を感じました。

私たちも子ども第一義の理念を優先し、学び直しを続けていきたいと思います。

 

  1. コメント

    「芸術」はすべて自己表現だと言いますが、実は、「仕事」も自己表現の一種であり、さらには、「生き方」そのものも自己表現と言っていいでしょう。ただ、日々の生活や仕事では、それぞれに「個性」は出していても「魅力」までは発揮できていません。それは、自分の一部しか現せていないからでしょう。随分長い間、うまく表現できずに生きてきましたが、もう一度、心の声にしたがって素直に自己発揮してみたいものです。

  2. コメント

    小中学の時よく課題にあった作文ですが、とても苦手でした。何を書いていいかが分からず毎回苦戦していました。今は書くことも一つの自己表現と感じられていますが、他のクルーを見るとまた表し方に特徴があることを感じます。そう思った時、保育で大事になってくるのは子どもたちの表現をどう受け取るかのようにも感じます。自分が苦手だったのは作文を書くことではなく、同じことをやらされている感覚があったからのように感じます。形の表し方はどうあれ、どんな思いでいるのかそこに寄り添える自分でありたいと思います。

  3. コメント

    5領域の「表現」の発達項目を見ながら自分の子どもの様子を思い浮かべてみると、どれも楽しそうだった姿が思い出され、表現とは本来とても楽しいものなのだということを感じます。点塾での花一輪ゲームは、それが大人になっても変わらないことを改めて気づかせてくれました。表現も言葉で表そうとすると頭が働きやすいため、自分の場合は感覚で表した方が心が入りやすいように思います。子ども達の楽しそうに表現する姿を守るため、自分自身もそこに向き合っていきたいと思います。

  4. コメント

    仕事とプライベート、生き方と働き方、そうやって分けてしまうのは自分自身のあるがままで居ていいんだとは思えない今があったからだと、以前を思い出すと感じます。理想の自分自身を見せよう、そうあろうと繕うよりも、今の自分自身を磨いていく事に時間を使う事を覚悟するまでは、ずっと課題は続きました。今もまだまだ課題は残りますが、覚悟してからは、いつも有り難さや豊かさを課題に感じます。次は愉しむ事を深めて行きたいと思います。

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