本末樹立

学問には時務学と人間学というものがあります。これは人間が成長していく上で両輪であるとされます。時務学は末学といい、人間学は本学といいます。この本末をしっかりと調和させていくことが今を生きることになります。

例えば、どんなに新しい時代の道具や仕組みなどもその人物の人間力によって左右されます。これはIT技術などもそうですが、進歩していく技術は時が経てば発展していきます。しかしそれに対して道徳といった人間の進化が発達していかなければその技術は人間や自然を破壊するように使われるかもしれません。

本と末というのは、本ははじまり末は終わりという意味です。そしてこれが入れ替わってしまうことが本末転倒という諺にも出てきます。例えば、種があって花が咲くのであって、花があって種ができるわけではない。また幹があって枝葉ができるわけで枝葉があって幹があるわけではないということ。

これを人間に例えれば、人間が徳があってこそはじめて技術が進歩していくわけで技術が進歩することで人間ができてくるわけではないということです。

人間学を学び精進しながら本当の技術を伝道していく、これは私たちの会社のウェブも同じですが単に技術だけをやるのではなく、人間学を真摯に学ぶ人がどのような技術を使っていけばいいかを実践して示していくのです。こういう使い方が本来の姿であるということや、こういう事例は人々の徳を高めいくというように人間が進化していくのを見守っていくのです。

そのためにも、何が根幹であり何が枝葉であるかを決して忘れないことです。それは言い換えれば「何のためにやっているか」という本質は決して忘れずに「今」の技術を活用していくことです。

本質がなくなればその文字通り「本」が消失します。するとうわっつらの見せかけばかりに終始していつまでも本質に立ち返ることもなくなります。何のためにかを考える力は魂の力でもあるし、心胆力でもあります。常に理念に沿って初心を忘れずに自分が場数を踏んで働いているのなら、それは本から離れることはありません。その上で日々の日常業務などができる人、それを今の時代に合わせた仕事にしていける人物が本末樹立させていく人です。

しっかりと大地に根をはり、天に向かって大きく豊かに成長していくためにも本末樹立を大切に実践を積み重ねていきたいと思います。

できないことを頑張る努力~競争刷り込み~

人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。

私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。

しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。

実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。

しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。

協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。

だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。

働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。

子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。

できるできない刷り込み

今の世の中には「できる・できない」の刷り込みがあります。幼少のころから比較競争し能力を評価されていく経済社会の中で育てられそれに合うようにと教育を施されれば人はできるかできないかを基準に考えてしまうものです。

しかし、できるかできないかといった能力を中心にする考え方では本当の意味で持ち味を活かすことができません。例えば、自分が何ができるかを考えていけば努力次第ではなんでもできるということになります。しかし自分にしかできないことを考えてみるとできないことが何かをちゃんと取捨選択できるようになります。

人は一人でもしも生きていくのなら何でもできるにこしたことはありません。しかし実際の社會でオールマイティというものはとても弱いもので、お互いにできないものがあるから人は一緒に助け合い働くのです。

そう考えてみると、その人ができないというある種の「弱さ」の御蔭で人は人とつながっていくということになります。しかしできるできないの刷り込みが深い人は、自分からできないということを周りに公開することがありません。他人からできないことを指摘されても、それを自分でさらけ出すことはなく必死で隠そうとしたり、もしくはできたように見せかけたり、もしくはできないといわれないようにと頑なになり孤立します。そしてできるできないの刷り込みは、周りの人へ対しても同じような目線で観るようになります。あの人はできる人、この人はできない人で、できる人同士で組めばいいということになるとそのうち個人の利益を中心につながろうとしだします。簡単に言えばただメリットがあればつながるのです。

確かに競争の経済社会でそのように組んでメリットがなくなればすぐに他の人という考え方は効率的かもしれませんが、実際には会社や社會、組織ではそんな簡単に切ったりはったりなどはできません。なぜなら人は人間ですからいっしょに生きていく仕合せや豊かさも味わいたいからです。むしろ、人間が働くのは有史以前から人類がそうやって地球で豊かに暮らしてきたからであり、それが人間の本質だからです。

本来、チームや家族のような関係はできないことを補い合います。つまりできないことを補い合う方が協力になるからです。できないからこそ、助けてもらう、できないからこそ支え合う、つまりそこに思いやりや絆が生まれるということです。そしてそこには個人主義ではなく、皆のために貢献していこうとするみんなの中の一人という責任のある自分になります。

今のように個人主義が優先されれば、誰に頼ったらいいのか、誰に頼んだらいいのか、誰に任せればいいのか、次第に分からなくなって孤立するのは自分からできないことを安心してさらけ出せる組織ではなくなります。だからこそ、もっと組織においてはできるできない刷り込みを捨て去って一人でできなくてもいいという文化を醸成する必要があると思います。

それは能力がないのに努力しなくてもいいというのではなく、何のために努力するのかをみんなが理解しあっているということです。そうやって一緒になっていけば、本来必要な努力が何をすることかが必ず自明します。

引き続き、世の中が弱い人たちを断罪しないように、強い人たちばかりが頑張らないように、みんなが助け合う社會、多様性が活かされ続ける人類の至高の強みの境地、それを実現していきたいと思います。

今を生き切る

過去をひきずるタイプというものがあります。いつまでも過去の自分のことや、嫌だったことを思い出しては今の自分のことを認めることができない人のことです。人は誰しも過去があるのは、その時々で体験して今があるからですが今を生きないための材料になってはもったいないように思います。

日々というのは、毎日新しくなっていきます。当然、同時に人もまた新しくなります。その新しいというのは、過去ではなく今のことであり、新しい日々を生きるというのは、今を生きるということです。

自分を刷新していくのは、今に生き切るということで今に全身全霊を懸けているということです。過去をひきずる人は、過去の自分と比較し、過去の自分と競争し、過去の自分のことを忘れられません。例えばそれは決して過去の嫌なことだけではなく、過去の栄光や過去の成功など、自分がもっともよかった時代をいつまでも忘れないなどもそうです。バブルの頃を忘れられないや、自分が偉かった時代のことをいつまでも話したりします。

本来、私たちが生きているのは過去ではなく「現在」であり今だけです。この今此処だけに全力で盡していくことで比較の刷り込みが拭い去れ過去がすべて過去を含んだ「今」に転換されていきます。そして今があることが過去の御蔭様であることに気付ける生き方をしているのです。そういう今がある人たちは、すべてのご縁に感謝できるようになります。この今には、その人の生き方が出ているのです。

どんな人も「今を生き切る」というのは、一期一会の大切な自分の人生を生きていくための自戒だと思います。

色々なことがあったとしても、今があるのだからこの今に合わせて自分の方を換えていくことを変化といい、そして今に近づき合致していけばいくほどに成長したといいます。過去の自分と比較しての成長は成長ではなく、変化とも言いません。私たちが生きているのはこの今だけだからこそ、今どうありたいか、今の自分そのものを丸ごと認めていくことが今を感じることです。そうやって今に生き切るのなら今が仕合せになり、今の自分は変化し続けることになります。

誰しも変わらないでほしいと願うこともあります、しかし宇宙、地球、すべては万物流転し循環を已みませんから止まることはありません。自分から今を感じて生きているときだけ、その流れの中で万物の御縁と一緒に生きることになります。

まずは今の自分が好きになれるよう、今の自分が仕合せだと感じられるよう「今を生き切る」ことを大切にしていきたいと思います。

真の協力

昨日は、ある高校1年生のクラスの一円対話を見学する機会がありました。4月から関わり始め見守っていますが、あれから9か月ほど経ちそれぞれに背が高くなり、顔つきや様子も大人っぽくなり、著しく成長していく速さに驚くばかりです。

いまではとても仲が善くなり、とても素晴らしい場がクラスの中に発生しています。その一円対話に参加していると、如何にそれぞれがお互いに協力して助け合っているかの日常が伝わってくるのです。

世間ではよく仲が良いという言葉を使います。先日、別の学校でもうちのクラスは仲がいいととか、うちの職場が仲がいいとか聴きましたが実際に入り込んで個人面談をするとまったく正反対だったりします。そこでは、表面上問題が起きないように仲が悪くならないようにしているだけで決して協力したり助け合ったりを自然に行っているわけではないのです。

私が思う仲が良いとは「協力する風土ができている」ということです。それぞれが自分らしい自分であることを保障され、チーム全体やクラス全体のためにいつも心を開き、主体的に支え合い助け合いをしたいと思ってそれが自然体で行われている状態のことです。

しかし実際には、ほとんどの組織においてみんな自分のことばかりを考え、周りへの配慮が欠け、個々がバラバラに好き勝手になっているところがほとんどです。そして協力しなければ責任問題になるというような状況をつくり、手伝わないといけない状況になっているだけでそれを仲が良いと思い込ませたりしようとしています。

責任を押し付けたり立場を分けたり、罰則を与えたりする中での協力などは協力という言葉を使ってはならず、本来の協力の意味とは大きく異なっています。誰かによって操作された協力などは協力という言葉ではなく、それは協力風に見せかけても真の協力ではないからです。

真の協力とは、それぞれの人生を尊重しつつお互いに目的や理念に対して真摯に正対し、同時に一緒に生きていく仲間なのだから助け合い支え合い歩んでいこう、また思いやりの社會のために自ら参画するときにこそ発生すると私は思います。つまりは、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が実現しているということです。

だからこそ、常に主体的に自ら選択して理念を共有していくことを一人一人が実現していく必要があります。また全体が一人ひとりの人生を見守るためにも、目的を定めその目的が実現できるような環境をみんなで一緒に創造していく必要があるのです。自分の使命を自らが自覚して自分の人生に責任を持つのです。

子どものころから、子ども同士の中で子どもたちはお互いを認め合い支え合い生きていくことを学びます。言い換えれば人間社會を学びます。どんな人間社會にしていくかは、今の子どもたちの様子がそのまま将来の社會になります。今はいじめや不登校、その他、悲惨なことが学校でも起きていますが将来安心した豊かな人間社會を実現できるように私たち大人がまずそのお手本を示し、協力する風土を醸成していきたいと思います。

一人一人が幸福な人生を味わえるように、引き続き理念の実践を通じて人間の持っている徳を伸ばし、善心を引き出せるように聴福人の実践を高めていきたいと思います。

 

人

人は人に魅力を感じるのは、その人の根底にあるものに惹かれるからです。例えば、その人の人間性、義理堅さ、また信念、人柄、人格、生きざまや生き方など、つまり私たちは「人」をみて自分が一緒に着いていくかどうかを判断しているものです。人を観るとき、自分は自分の中にある大切にしているものを観ています。自分の中にある大切なものをその人も持っていてそこに共感するものがあるからこそお互いの存在価値を認め合えるのです。

昔、ずっと若いころ私は人が自分に着いてくるのは自分の能力が高く、才能があるから従ってくれていると思っていた時がありました。自分の存在価値は、自分が誰よりも周りの人と比較して能力が高く結果を出しているから人が着き従うのだろうと思っていたのです。その頃は、自分のできるところや能力の高さを周囲に認めさせようと躍起になり、失敗を隠し、できない自分を見せないようにし、完璧な存在であるように振舞っていました。さらには組織において人が言うことをきいてくれるのは、自分には立場や肩書があるからだろうと仮初の自分を構築してはその立場や肩書通りであるように演じていました。

他者評価ばかりを気にして、周りが着いてくるような人になろうとしていて頑張っていると次第に、周りが自分の何を認めてくれているのが分からなくなっていきます。自分に自信があるのならいいのですが、実際の社会では比較、競争、争い、評価と日々にそういう圧力の中に存在しますから周りの声が怖くて自分の自信が持てなくなっていきます。自信がなくコンプレックスばかりが増えれば増えるほど、より能力ばかりを頼ってしまうのです。そして能力が高まれば高まるほどに反比例して自分の存在価値の自信がなくなっていくのです。さらに悪いことに能力だけで人を判断する物差しが強くなればなるほどに、他人の評価も能力ばかりを重視するようになっていきます。言い換えれば、その人ができる人かできない人か、能力があるかないかを基準に見るようになるのです。そうしてしまうと、大きな勘違いがはじまり「人」を観なくなっていきます。人を観なくなり能力だけになればもはやその人は、単なる道具や機械のようになっていくのです。こんな人には誰も着いていきたいとは思わなくなります。なぜなら人と人にならないからです。

人間は人格や能力は生きていく上でどちらも欠かせません。それがバランスよく成熟するためには、お互いに理念を共有し理念を中心にしてそのどちらも磨き上げ、人格と能力を高め続けなければなりません。今、たとえ人格が追いついていなくても年を積み重ねて経験を糧に精進していけばそのうち人格は成熟していきます。能力もまた然りで、鍛錬していけばその能力もそのうち成熟し成果も出てくるのです。

だからこそ、すぐに完璧を求めるのではなくもともと完全であることを自覚し、人間はお互いに同じ目的を握り合って弱い自分、できない自分、人格的に未熟である自分を認め合い、互いに助け合って支え合っていくなかにこそ「人」である価値があるのです。

人がもしも「人」を観て選ぶのなら、その人は必ず時間の経過と共に成長し成熟していきます。その紆余曲折のプロセスこそが豊かなことであり、そういう豊かさを一緒に味わえるからこそ人生で出会える仲間や同志の醍醐味もまたでてくるのです。

人間の夢や志は、その豊かさを味わえるためにあるといっても過言ではありません。人が生きていくというのは、仕合せになることであり、仕合せになるというのは「人」になることであり、それが「人生」の幸福になるのです。人生の幸福は心の豊かさを得ることですから、人としてお互いに認め合うことが私たちの大切な人生目録なのです。

今から未来の人々の人生を豊かにしていくためにも、人の魅力に気づかせて人の魅力を引き出せる生き方をしていきたいと思います。子どもたちの憧れるような人を目指していきたいと思います。

今変化人

人は過去の認識で今を持つものです。しかし今の認識が過去になっているのなら、自分の修正は過去に対しての今になるはずです。本来の今とは過去に対しての今ではなく、今に対しての過去でなければなりません。この認識がズレてしまうといつまでも変わらない時代遅れの人になってしまうこともあるのです。

過去の成功体験などもその一例で人間はその過去の成功体験に基づき、その成功体験から物事を考えてしまえば今の認識が歪んでいきます。時代が変わっているのにかかわらず、その時代の変わっている認識が昔のままでは自分の対処法も変わっていくからです。

例えば、今では情報化社会になっているのだから昔のようにアナログ電話などはほとんど使われていない時代になっています。それなのにアナログ電話の時のような機能や考え方で今の新しい時代のスマートフォンの機能を考えるのは過去の産物にしばられて自由に発想することができなくなるものです。

つまり過去の産物から考えるのではなく、今の時代の産物から物事を想定していくと今の認識が持てるようになるのです。教育であっても同じで、かつての一斉に画一的に教え込むといった情報処理能力ばかりを高めていた時代から今はアクティブラーニングといって情報創造能力を高める時代に入っているとします。そうであれば、過去の教育を基準に考えて今を修正するのではなく、今の変化済みの社会に合わせて今を修正していくといいのです。言い換えるのなら、今の社會と子どもたちがすでにアクティブラーニングになっているのだから変えるべきは過去の教育であるとして過去の分を修正していけばいいのです。

それは過去から今を修正するのではなく、今から過去を修正するという発想です。

こうやって今の自分を刷新できる人だけが、正しく今を集積してその今の上にある未来を豊かに創造していくことができます。今ここに集中するというのは、過去から考えない、今から過去と未来を修正するという発想が必要なのです。

時代は何度でもこのブラッシュアップを人々に求めてきますから、変化し続ける人であるためにもこの部分の認識をゆがめないようにしたいと思います。今を創り続ける今変化人になっていきたいと思います。

 

イニシアティブチャレンジャー

昨日、チームのことを書きましたが人がチームを形成するときに何が邪魔して協力することがスムーズにできないかはそれは個々の意識の問題でもあります。そもそも個人というものとチームというものを対立して考えてみると、個人から見たチーム観、チームから見た個人観というものがあるように思います。

例えば、個人から見たチーム観であればまずは自分ができるようにならなければならない。チームの足を引っ張るわけにはならないといいながら自分の方に意識を向けていくものです。しかしチーム観から見た個人でいえば、誰がやってもいい得意な人がみんなをリードしていけばいということになります。つまりはせっかくチームなのだら色々な人があるのだからこの分野は誰、この分野は自分というように全体の中で興味があったり自分が向いていたり、持ち味を活かせるのならチーム内の誰かがイニシアティブをとっていけばいいのです。

しかし実際の組織を見るとそうやってチーム観で動くのではなく、自分がやっていないと思われたらどうしようかと誰も手を上げず周りに迷惑をかけないようにと誰もイニシアティブをとろうとはしないものです。これは、もしも自分が責任問題を発生させたらどうしようかとか、自分だけできなかったらどうしようかとか、ここにも平均を最良とする刷り込みが入り込んでいるように思います。

「イニシアティブ」というのは、翻訳すれば「自発力・先導力・率先・発案・先制・主導」という意味になります。つまりは、自発的に自分からやろうとする人であり、全体の中で自分がやったほうがいいと自分から挑戦する人のことを言います。

これは決して管理型組織においての上司や管理職のことを言うのではありません。自らが率先垂範して取り組んで形にしていく、仕事であれば仕事の組み立て方を構築したり、ノウハウを具現化したり、周りの仲間が安心して取り組めるようにまずは自分から場数を踏んで挑戦してその使命を果たそうとする人です。

その時、周りはその人が向いていると思えばその人を信頼して任せ、自分は自分がチームの中で得意を活かせるところに活かされればいいとして貢献できるチャンスを待てばいいのです。

さらに応用ができるのなら、この件は誰と誰が組んだ方がいいかや、イニシアティブを一緒に取れるパートナーとペアで組んだ方がいいなどプロジェクトに発展していくように思います。

よく考えてみればすぐにわかることですが、自分がやるよりもチームでやった方が効果があるだけではなくその楽しみや豊かさがあります。これはわざと全員で取り組んでいるように見せることにエネルギーを費やしてチーム風にするのではなく、イニシアティブをそれぞれ全員が取っていくということでチームになっていくことです。

一家宣言をしていても、まだまだ仕事を通してのリハビリが必要になります。常に日々に課題があればイニシアティブをとって前進していくチャレンジャーが状況を変化させていきます。今までの牽引したり纏めたりするリーダーではなく、これからは人々の持ち味を活かし一緒に豊にしていく「イニシアティブチャレンジャー」こそが、新しい時代のチームを創造していくのでしょう。

引き続き、歪んだ個人主義の刷り込みや平均ばかりを押し付けてきた価値観を見つめながら子どもたちに豊かさを弘めつつその打開の仕組みを構築していきたいと思います。

チーム

一人ひとりの持ち味を活かしていくチームというのは、それぞれの個性を認め合う組織であるとも言えます。それは言い換えるのなら、そのままでいい、あるがままの自分のままに周りに役に立っていくということを言います。そのためには、全体がお互いに自分のままでいいという考え方を持てる必要があります。

昨日、藤森代表の講演の中で平等についての話がありました。それはそれぞれの生き方を認めることであるといいました。今の世の中は、生き方まで文句をつけてはそれを無理やり直そうとしたり、みんなと同じことをできるようにさせようとします。また個性があるにも関わらず、個性を潰したり、個性をなくさせたりします。しかしそれでは平等でいられなくなってきます。

自分が相手に与える平等ではなく、受け手がどれだけ平等だと感じるか。そこにはお互いに生き方を認め合い、その生き方を保障してあげるような思いやりが必要になります。またチームにおいては、それぞれがお互いの特性を活かしあっていくからこそ同じことをさせようではなくお互いの持ち味を出し合っていこうということになるのです。

個々がバラバラであることがダメだとなるのは、その根底には同じ価値観を持たせることや同じでなければならない、できるできないで差別したり、自分が正しいと思い込んで他人を否定したりといった不平等が存在するのです。受け手の平等というのは、受け手が自分が認められている、自分が活かされていると感じられるように自分自身が全体に役に立てていると自信を持つからもてるように思います。

自分への自信とは、存在に対する自信です。周囲がその人の存在を丸ごと認めているからこそチームというものが実現します。そのためにも、皆で一緒に一つの目的に向かって取り組んでいたり、理念をみんなで実践して互いの価値観を認め合うような日々の取り組みがいるのです。

引き続き、自分たちの生き方と働き方をみてもらいつつ、子どもたちの保育に活かしていただけるように精進していきたいと思います。

道の徳育

昨日、GTリーダー研修が竹橋で開催されました。全国各地から見守る保育の理念で取り組む園のリーダーやベテランの保育者が一堂に集まりそれぞれで課題や問題を共有していきます。

今までの過去の保育を今の時代に適合させていくために、変えてはならずに守るものと変えていくものを真摯に向き合って話し合っていきます。子どもを守るといっても、何を守り何を守らないか、それは今を生きている大人たちが判断していかなければなりません。先日の神事と同じく、変えていいものと変えてはならないことを正しく理解しそれを実践していくことで未来への方向性を確かなものにしていくのがこの仕事の使命をいただいたものたちの責任であろうと思います。

藤森代表は、子どもを守るのは子どもの主体性を見守ることだといいます。つまりは私が言えば一人ひとりの発達を保障することですが、そのためには一人ひとりのことを一人の人格者として認め尊重した保育が実現しなければなりません。そのための手段として見守り方もあり、具体的な見守る仕組みも存在するのです。

講演の中でいつも気づきがあるのはこの見守る保育は、「見守られる子どもにしていく」という言葉です。見守られていると感じられる子どもは責任感を身に着けていきます。人は信じ認められることで自分が尊重されていることを自覚します。そうすると自信が持てて自分の役割を活かそうと考え始めるものです。原理原則として人間の幸福というものを保障するのが大前提にあり、そのうえで時代に合わせた変化を取り入れていくのです。

そして一人ひとりの子どもたちを見守るためには、まずは大人たちや先生同士が支え合い協力している必要があるといいます。その大人たちの姿を見て、子どもたちは子ども同士で同様に支え合い助け合い、協力していくことを学ぶといいます。

今の時代は子どもたちに色々と教え込みますが、かつての日本は身近な大人たちの姿を見て子どもたちは子ども同士で学んでいたのです。寺小屋なども同じく、地域の神事や祭りをはじめ様々な大人同士の関係性の中で子どもたちは協力していく大切さを学び、信じあうこと助け合うこと、つまりは道徳心を身に着けていったのです。

見守る保育が取り組んでいることは、道の徳育であり、その徳をどのように一人ひとりが身に着けていくか、それは大人も子どもも関係がなく一人ひとりの人間的な成熟、つまりは自立に結ばれているように私は感じます。

助け合い支え合い協力する、そういうものをもっとも醸成できる人物こそがリーダーではないかとお話をお聴きしていく中で実感しました。引き続き本日も研修は続きますが、それぞれの園での課題はまさに社會の課題そのものですからよく聴いて今後に活かしていきたいと思います。