類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。

心のやわらかさ~一生青春~

人間は色々なことを悩みすぎると心が硬くなっていくように思います。一つのことに思い煩いそこに感情が呑まれればどうしてもその執らわれから抜け出すことができなくなります。そうやって自分自身への思い込みが強くなってくると、次第に心が硬くなっていくように思います。

魂を如何に消耗させないでいるかは、常に青春を続けていくことのように思います。

しかし年々、様々な柵が纏わりついてきますし人間はどうしても様々な人たちとのかかわりの中で利害なども発生していますから悩みはつきません。相田みつおさんが「一生勉強一生青春」の中で「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、頭が固くなること、心が固くなることです。心が固くなると、感動、感激がなくなります。一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」と仰っています。

心のやわらかさというものをどう持ち続けるか、そこに魂を消耗させないヒントがあるように思います。

河合隼雄さんが「冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。」とも言います。

心のやわらかさを思う時、この”笑う”ということを思い出します。笑っていられる心のしなやかさ、そして果報は寝て待てではないですがその時が来るまで面白いことや好きなことにでも没頭して待つこともまた心のやわらかさかもしれません。視野が狭くなり心も硬くなってしまったら、見守りや御蔭様、周囲からの応援にも気づけなくなってしまうかもしれません。

そう考えてみると、「一生青春」というものはあらゆる出来事を楽しむ境地にあるように思います。どんなことがあっても笑っている、何があっても笑って歩んで往く、そういう「笑う門にはいつも福が来る」ように思います。

時折、大切な人のことが理解してあげられず、そして自分がどうしてあげていいのか分からず、ただただ悲しみ、無事を祈りつつも実際は何もできない自分に苛立ち、独り悔しい思いをすることが幾度もあります。しかし本来は丸ごと信じているのだから先に自分の心が硬くなってしまえば、かえってもっとも身近で応援しようとしている自分がその人の邪魔をしてしまうかもしれません。

だからこそそういう時こそ常に明朗快活に心をやわらかく、子どものようなしなやかな姿のままに笑って福を待つことで正直に生きていきたいと感じます。正直さというものは、まっすぐで潔白というイメージもありますが同時にとても柔和な側面もあるように思います。

心に正直に、人生の醍醐味を和らいながらその時が来るまで日々粛々と実践を怠らず天命を待ちたいと思います。

本心本来の自分自身

人は自分の心のことがなかなか分からないものです。頭では分かっていても、自分の心となるとどこにあるのかそしてどうしたいのかが観えなくなってしまうものです。なぜなら人には感情があり理性もあり、そういうものが自分のやりたいことと、本当に本心からやりたいことを入替えてしまったりするからです。

そもそも自分の本心とは何かということを知るというのは人生の一大事であろうと思います。自分の本心が分かり覚悟が決まるなら、迷いも消えて目の前のことに没頭し打ち込んでいくこともできるのでしょう。いや、目の前のことに没頭し打ち込んでいるからこそ自分の本心に出会えるとも言えます。『無になりたいなら頭で考えるな。 目の前のことに没頭さえすれば、 おのずと無になることができる。』と禅の世界では語られます。本心本来の自分自身に出会うというのは無になっていくということなのでしょう。

そして以前、その無の顕現でもある「天命」ということについて神渡良平さんが書いた文章に出会いました。そこにはこうあります。

「天命とは」

現在の仕事を離れて

天から降ってくるものではない

現在の仕事に没頭していれば

自ずから導かれていくのだ

天はそれぞれに

最高の人生を約束している

誰もが持ち味を発揮

できるようになっている

腐ることなく

めげることなく

倦むことなく

努力していこうではないか

自分の仕事に打ち込んでいる人は輝いている(神渡良平)

今の目の前のことに無我夢中に没頭できるというのは”信じている”からに他なりません。この信じているという気持ちは、謙虚で素直な心の在り様です。そして真心を籠めて与えてくださったものを選ばずに全身全霊を懸けて取り組んでいくことで自ずからご縁は導かれて”なるようになっていく”ということのように思います。

そしていつの日か、自分の持ち味が存分に発揮できる日が来るかもしれません。そうやって信じて念じて、信仰のような心持で真摯に没頭している人は周りからみても輝いて観えるのでしょう。独りが輝けば周りもまた輝いてきます、それは天の星々のように満天の宇宙でそれぞれの光を放つ星空のようにです。持ち味のすごさというのは、八百万の神々のようにそれぞれが唯一無二の役割を果たしあういのちになれることです。

つまり天命を知るには、どれだけ真摯に目の前の志事に没頭するかに懸っています。

頭で考えることも大切ですが同時に頭で考えることなどは全体の一部も分かりません、こころのままに、本心のままあるがままに御蔭様御蔭様でと与えてくださったことをさせていただける仕合せと感謝でどんな仕事も取り組むことができるなら人は天を敬いつつ命を天に預けていけるのかもしれません。気づきというものもまた、天に預けているからこそより研ぎ澄まされていくのでしょう。

素直や正直さというのは本心でいることであり天の真心と同じ姿であるということです。

子ども達に天を敬う生き方が譲れるようにあの植物たちや動物たち、虫たちなどの自然な姿から自分の心を静かに見つめ、天と一体になれるように日々を真摯に精進していきたいと思います。

 

地球人財5~地球人としての生き方と働き方~

インドネシアに「未来のリーダーを育てる奇跡の学校」と呼ばれているグリーンスクールというものがあります。特徴はインドネシア・バリ島のジャングルの中に存在し、建物の全てが竹で作られ、電力は太陽光発電で賄われているというこだわりでできています。

さらにそこに入学するための選考は如何に自然環境に対する自分の想いだけでなく、どれだけたくさんの人たちに影響を与えることができるかをテーマに行われます。つまりは自分の生き方と働きかけが何よりも重要であるとし、それを未来型リーダーの原点に据えているところです。

地球人としてどう生きていくか、それをどのようにグローバルに発信していくかをこの学校生活を通じて仲間と刺激し合い自然に解けこみ学び合うという感じです。

なぜ未来型教育である必要があるか、それは持続不可能な生活を続ける私たち地球人の在り方が問われる時代に入っているからです。このままでは持続しないということはもうほとんど全ての人類がそれを知っていても自我欲に負けてしまい何もできないでいることです。

誰かが何とかしてくれるのを待っているのではなく、自分が地球人として何ができるかを考えようとする取り組みこそ未来型教育であると私は定義します。持続不可能な生活に待ったをかけ、如何にしたら持続可能な世の中にしていけるかをそれぞれの生き方や働き方で世界に示していくことが必要なのです。

私が自然農を取り組み、対話や協力、そして思いやりや真心の実践を会社を使って開発したり発明したりするのもすべては持続可能な循環社會を地球人財の一員としてどう世界に発信するかということを悩んでいるからです。それは地球人としての責任であり、子ども第一義を思えば思うほどに未来のことに責任を感じます。

未来がどうなっていくのかは当然今の私たちの暮らし方に懸っています。グローバル人財とは何か、地球人財とは何か、それは自分の生き方や働き方に責任を持つ自分自身のリーダーになれる人物のことでしょう。

このグリーンスクールの理念にはこうあります。

「私たちはまだ種をまいたに過ぎない。本当に重要なことは、世界の人たちが私たちを真似て、さらに改良を加えて行動すること。常にその瞬間の自分の行為が孫世代にどう影響するのかを考えるようになれば、自ずと未来は変わっていくだろう。第二のグリーンスクールをどんどん作ってほしい。私たちは協力を惜しまない。」

地球人財とは自分自身が主体的に自分自身のリーダーになり、世界の常識を覆していけるような本質的な人物であることです。周りがどういう生き方をしていようが、自分自身が決めた生き方を貫ける勇気と信念、愛と平和に生きる徳才の人物です。

自分がグローバル人財でなしにグローバル人財を育てられるわけがありません、自分が地球人財でなしに地球人財も育ちません。だからこそまずは自らが地球人のリーダーとなるべく実践を積み重ねて人類の未来に発信していくことだと思います。

今日からまた日常の実践に回帰しますが、何のために生きるのか、常に地球規模の意識でリーダーシップを発揮できるようカグヤを通して生き方と働き方を磨いていきたいと思います。

 

地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。

地球人財3~一円融合、結和の人~

今回のシンガポール視察で改めて実感するのは、人々の往来のスピードが加速し国と国の国境がいよいよボーダレス化し、多様な人種の接点が急増するとき、世界の一人ひとりが今後どう和して地球全体のために貢献していくかということが問われている気がすることです。

それはアジアのリーダーとしての人財をアジアからどう排出するか、あるいは世界のリーダーをどう自国で育てていくか、そこには人類の未来がかかっているということです。混沌とした夜明け前の人類は今、一つの地球の中で人類の理想の地球人財という徳才を兼ね備えた本物のリーダーたちの出現を待ち望んでいるようにも思います。

先日のIB(国際バカロレア)の教育理念は「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」と書かれます。

その上でグローバルに活躍するリーダー像、つまり世界人財として必要な徳才は「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を挙げています。

世界に出てみれば多様性や柔軟性はすぐに求められます。しかしこれは世界に出ていなくても常に自己を変化させ順応する力というのはリーダーには必須の徳目だと私は思います。つまりリーダーは、道を切り開き徳を広げていく人物であるということが自明してきます。

正解のない問題に如何に立ち向かっていくか。

21世紀はそれぞれに正解が存在していく時代であるように私は思います。だからこそリーダーは人々をファシリテートできる人物であり、全てのことを善いことへと転じ一円融合することができる”結和”の人であることが大切ではないかと私は思います。

つまり地球に棲むすべてのいのちの心の声に深く耳を傾け、あらゆるものを尊重し共感しつつ思いやり、その存在の価値を認め、その全てを福にしていけるようなリーダーが結和の人ではないかと私は思います。

今、世界が必要としているのは正義を対決させていく力よりも対話により一つの正義に結和できる力ではないかと私は思います。畢竟、グローバル人材というものは人として一人一人が如何に地球人としてのモデルを示すかということに他なりません。

対話を日々に行うことも、実践を常に怠らず高めることもすべてはこの地球人財である自分を自覚するところからはじまります。子ども達はこの先、正解がない世界で白紙から自分で未来を創造していかなければなりません。その手本としての私たち大人の生き方や働き方は必ず子どもに大きな影響を与えていると思います。

自分自身がグローバル人財ではなしに、グローバル人財を育てることなどできません。自分自身が地球人財であるからこそ、はじめて周りを地球人財にしていくことができるのです。

常に自身が世界人財のリーダーの責任者であることを自覚し、そのお手本になれるよう様々な実践に真摯にチャレンジし続け自己変革(イノベーション)を続けていきたいと思います。

 

地球人財2~徳才の責任者(リーダー)~

今回の視察の中で特に印象深かったのはカンボジアの通訳の人物です。この方は、日本に来たことはないのですが日本語は流暢に使いこなし、日本の人たちがどのような気持ちを持つのか、何に共感するのか、自分自身の持ち味を存分に活かし周りを楽しませ、周りを笑顔にし、一回のご縁で私たちの心に深く遺るような仕事をしてくださいました。

この人は言語ができるだけではなく、人間力がありました。そしてその上で役立つものはなんでも誰かのために使える人物でした。人財と人材と書いていいかもしれませんが、人は財であり、そしてはじめて人は材になる。才能だけを集めて天才集団をつくっても、その材が活かせるかどうかは人財にかかっています。

実際は道具であっても道と具によってはじめて互いに活かしあうことができます。常に目的が善であってはじめて手段は適切になるものです。手段をいくら磨いてもそれがグローバルとは言わないと私は思います。その目的の高さに応じて手段もまた磨かれ活躍の場が世界の現場に拡がっていくのです。しかしその最初はいつも自分の身近な身の周りの実践の積み重ねからはじまります。

そもそも地球人財というものについて考えるとき、一つのある問いを思います。それは如何に自分を世界に役立てることができるかという問いです。役立てるというのは、本人からすれば役に立ちたいという人間本来のお役に立てる仕合せの実現です。

よく考えてみると、私たち地球上に生きる生き物は一つとして無駄なものがありません。どの生き物もそれぞれに大切でそれぞれに天から唯一無二のお役目を与えていただき、共に有機的に繋がり合って一緒に生きていきます。それは偉大な循環の中で、決して切れることがないご縁の世界のように互いに役割を全うしています。その多くを丸ごと活かす存在こそ徳の高い人であろうと思うのです。

これらの徳が高い人(存在)は、地球上のどんな場所であれ、どんな多様な生物のなかであれ、どんな条件下であったとしても地球全体を喜ばすことができるように思うのです。つまり自分の存在を自分が喜ばせ、同時に周りに役立てる地球が喜ぶ人財なのです。まさに孔子の言う「己達せんと欲して人を達せしむ」の境地です。孔子もまたグローバル人財だったからこそ今も多くの人たちの役に立っています。

この徳というものを磨くことなしにグローバルに活躍する真の人材は存在しないのではないかと私は思います。技能は手段ですからその方法を活かすのは徳のちからに由るからです。

地球人財は常に自分の徳才を世界の中で活かすための責任者(リーダー)であり、その道を誰よりも極めたプロフェッショナルです。一人ひとりの徳の宝をどう発見し発掘し発明していくか、それが原点となり人類の発達と発展の未来の可能性を広げていきます。

引き続き、今回の学びを綴ってみたいと思います。

 

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。

 

聖の意味~善い政治~

昨日は、猛烈な蒸し暑さの中でアンコールワットやアンコールトム、その他の寺院を視察しました。杜の様子はかつてインドでみたタージマハルにも似ていて、また雰囲気は日本の寺院や神社にも共通するものがあり、聖地というものは土と木と石と水、風など光と影が織りなす心地よい場にあることを改めて実感します。しかしその聖地の心地よさとは別に、信仰と紛争の傷跡もそこに遺っています。

今回の遺跡でも、権力者が変わると信仰している宗教もまた変わります。仏教であった寺院が、ヒンズー教になればそれまでの寺院もまた入れ替わります。印象的だったのが石に刻まれて容どられた仏陀の姿の彫刻や仏像を、すべて削り取り壊してヒンズーの神様に彫り直し作り変えた痕跡がありました。今までの宗教を否定し、新しい宗教を塗り替えていくというのはそれまでそこで過ごした信者や僧侶はどうなったのだろうかと思ったら虚しい気持ちになるものです。

そもそも世界どの場所であれ、聖地を訪ね信仰しようとする心は共通するものがあります。しかし同時に、一つの信仰、一つの正義にこだわって戦争や紛争を繰り返すというものも共通しています。

かつて日本でも聖徳太子の時代に、仏教が伝来しそれまでの神道を信じるものたちが豪族を中心に争いました。蘇我氏と物部氏の争いですがその紛争で聖徳太子は身内を目の前で失い、同じ国の民が信仰によって殺し合う姿に心を深く痛めたと言います。

そしてそのどちらも尊重できることができないかと考えあの有名な「和をもって尊しとなす」という17条の憲法を定めました。聖徳太子は神道、儒教、仏教を学び直し、そのどれも素晴らしいではないかとし、そのすべては一つのところから来ているとして自らが納得し周囲に説いたのです。

その思想は、一本の植物であるとしたそうです。根と茎と花、それは分かれているようだけれど実際は一本の植物である。神道と儒教と仏教もまた同じく、その本質は一本の信に変わりはないということを人々に諭します。

より善い政治を行っていこうとするとき、違いばかりを言及しては偏った正義を押し付けるのではなく本来は一つであることを伝え、それよりも人間は協力こそが大切であるということを理念にしました。

私が協力に活路を見出すのは、多様な社會の中でそれぞれが全て持ち味を発揮するために必要であると実感するからです。価値観が違うということは、それだけ人間には可能性があるということです。一つの常識、一つの価値観のみを信じるというような画一性は短期的にみたら効果があるかもしれません。しかし実際に世界遺産を訪ね、信仰の持つ側面を洞察すると長期的にみればみるほどに画一性の危うさを感じます。

人間の心に素直に問う、正しいよりも楽しいかというのは、自分が正しいに執られていないか、孤立ではなく協力をしているかという自戒の意味もあるように思います。

改めて私たちの政の理念を「和」にしてくださった親祖たち、思いやり真心を大切にそれを何よりも忘れないために「協力」を優先してくださった先祖たちに何よりも感謝の心が強く湧きました。どんな理念、どんな初心をもって生きるかはその後の歴史を決めてしまうからです。

歴史を探訪するのは子どもたちの未来を探究するのに似ています。当たり前すぎて気付かなかったものを歴史の残り香を吸い込み、もっと深く気づいて今の生き方から見つめ改善していきたいと思います。

今はカンボジアを出てシンガポールに来ています。

今日はこちらの学校を4校ほど視察する予定です。発酵途上の異国の教育の現場から、今の私たちの取り組んでいる実践を観直してみたいと思います。

 

 

 

 

尊重~世界共通の法理~

昨日はプノンペン郊外にあるNGOが支援する保育園と草木染の作業場を視察することができました。保育園では寄付やボランティアの力をかりて、様々な遊具や本、または資金を集め共働きの村の子ども達を集めて保育を行っていました。また草木染では、藍染めを中心に現地の伝統工芸に新しい技術を加味して高品質で高級な反物をつくり都会で外国の人たちに直接販売をしていました。

NGOの役目も、段階段階で変わっていくように思いますしまた現地の人たちの生き方もまた自分たちで選んでいくように思います。権力やお金が生み出すあらゆる差別と画一というものは、グローバリゼーションと共に世界に拡散しています。その中で人は人間本来の自由を急速に失っていきますから、世界の在り様を直視していかなければなりません。今回はそういう意味でも国を問わず場所も問わず、改めて人間教育の本質とその意義を考え直す善い機会になりました。

どちらにしても激動の経済変化の波の中で、少し都会から外れただけでかつての懐かしい田舎の暮らしがそこにあります。面白いことに激動の変化のスピード感溢れる都市部に比べ、まるで穏かで平和な農村部のスローな暮らしがありました。

都会では道路が拡張し建物も増え、車やバイク、あらゆる店が新装開店中です。同時に田舎ではハンモックに揺られ、木蔭で孫たちの世話をするお年寄りが楽しそうに家事を勤しんでいます。周りには鶏やアヒル、犬や猫、牛やヤギなど家畜も放し飼いです。

そういえば、昔は貝を拾いその貝を装飾し御守りにして大切な人に贈り合い、それを大事に身に着けていた時代があるといいます。

時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。

人々が捨てていくものを敢えて拾っていく人がいるからこそこの世の中は面白いように思うのです。多様性や柔軟性というものは、自然が平等に生き物たちに自由を与えてくださっていることを証明しているように思います。

人間のように一つの基準だけで他を差別し評価し裁くのではなく、あらゆる生き物たちの生き方を尊重して自由に選択することが許されています。

何が自然で何が不自然かは一目瞭然なはずですが、新しい都市化する生き方もまた排除されるものではないと私は思います。だからこそ自分自身がどのような教育を行うか、そしてどのような生き方のモデルを示すのか、子ども達の未来のことを憂慮すれば自ずから本来の在り方に回帰します。

まだ視察ははじまったばかりですが、とても印象に残った風景で締めたいと思います。

カンボジアの農村部では雨期に甕に一年中の雨水を貯めてそれを上手に活用します。甕の中には身体を洗う水や、飲用に使うもの、様々ありますがその中に一匹の蟹が入っていました。

この蟹は何のための蟹なのかと質問すると甕の中に発生するボウフラ(蚊の幼虫)を食べてくれるからだとありました。なるほどと手を打つとともに自然に精通しているその人たちの智慧を感じて何を共通して尊重したのかを気づくに至りました。

今日はアンコールワットとアンコールトムを視察します。

この地の感性に触れてみたいと思います。