発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

未来型とは何か

子ども達の将来に必要な力とは何か、学力についてこれから少し深めてみようと思います。

以前、米デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソン氏が2011年8月、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と言いました。

つまり約15年か16年後には、65%の仕事が新しいものに入れ替わっているというのです。それくらい変化は著しく、常に今までやったことがない仕事が日々に発生し、そして淘汰されていくということです。

そこにはまったく今では想像できもしないような仕事があるはずです。

よく考えてみると、自分が小学生1年生の頃、将来の仕事でどんなことがあるかを思い出すとインターネットもまだ普及していなかったし、携帯電話もありませんでした。他にも今の社会で存在しているような職業もほとんどありませんでした。あの頃、将来どんな仕事につきたいかという夢を画用紙に書かされた記憶がありましたがあれなどは愚問だったと今なら思います。

子どもたちの可能性は、新しい未来に向かって開いています。

だからこそ、未来の教育とはそういう新しいものを認めてあげること、子どもたちがやりたいことを信じてあげること、つまりは子どもを信じ、丸ごと認め、そして子どもがやろうとしていることを見守るといったかかわりが必要なのではないかと私は思うのです。

今、幼児教育では藤森平司先生が「見守る保育」を実践しています。

まさにこの見守る保育そのものが、未来型教育の原型であろうと私は感じるのは子どもを見守るということにおいて何よりも子どもを尊重する教育方法であるからです。

子どもの未来を信じるということは、子どもを見守っていくということです。その見守り方の中には、周りにいる大人たちの生き方が問われます。そして子ども一人ひとりの主体性を如何に発揮させていくかといった、子どもを丸ごと信じて環境を設定するといった智慧が必要です。

年齢は関係なく、これは企業教育でも同じことが言えると私は思います。

未来は、創造と破壊を常に続け変化を已みません。自己改革や自己変革、つまりイノベーションという発達と発展をどう自分との対話、そして周囲との対話によってブラッシュアップしていくか、気づきの連鎖が未来の扉を開く鍵であろうと私は思います。

どう気づき、どう伸ばすか、子ども達には自由に未来を信じられるように見守りを深めていきたいと思います。

生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

自然の異~発達と発展~

身近な植物を眺めていると、その姿かたちの違いに驚きがあります。私たちが植物と一括りにしてみているものは実は全く異なる性質を持ったものです。これは私たちが似ているものを括り、鳥は鳥、魚は魚、動物は動物だと分けて理解しているように異なるものをどこに棲んでいるかで棲み分けをしているということです。

この棲み分けには、鳥は空に棲み、魚は海に棲み、植物は陸に棲みというようにそれぞれが棲んでいるところで分類分けしているとも言えます。この分類は人間が仕分けたものであり自然界は分類分けをしていません。

そもそも言葉というもの自体も思考の分類されたもので、これは人間が人間都合で人間基準で分けたものを一つの標準に当てはめて大よそで理解し合うために用いているからです。

しかし実際は全く異なるものを同じもので一括りするということは本来は不可能であるように思うのです。確かに似た形のものがあるのがこの世の中ですが、本当によくよく観察すると全てに似て非なる存在であることに気づきます。

人間の指紋が一つとして同じものがないように、同じ顔がないように、同じであるとうことはないのがこの世の中です。同じであると思い込むが故に、周りと異なることがよくないことだと思い込まされ、みんな同じにしないといけないと考えること自体が不自然であるように思います。

そのものの持ち味とは、そのものが異なっていることを自覚することではじまるように思います。同じ人間であっても、人には全く異なる性質があります。それは性格に顕れますし、それは生き方にも出てきます。発達と発展を考えるとき、少しずつ異なっていくこと、それは多様性ともいいますが本来異なっていった方が助け合えることが自然界の道理にあります。

金子みすずの「みんな違ってみんないい」と言う言葉がありますが、自然界は「みんないいからこそみんな違う」のでしょう。自然界はちょっとした変化によって大きく変わっていくものです。同じように観えて少し異なる存在、つまり「異」なる存在があるからこそ時代の変化、環境の変化に適応していくのでしょう。

宇宙生成や宇宙発展の進化にあわせて生命というものは、小さな変化を怠らず異なりを進めていくものです。異なっているということは、実はとても素晴らしい自然の叡智そのものです。異なっていることを恐れずに、可能性を発揮し、自分の中にある変差値に気づいたなら、それを周りのために役立てていくことで発達と発展は伸ばしてけるように思います。

自然界の慈愛は、全ての生き物たちが倖せにいのちがあるような環境を用意して見守ってくださっていることです。すべての生き物が倖せになるチャンスがある、それがまさにこの全ては「異」なるということの真意なのでしょう。

変わっているかどうかを気にするよりも、その異なる部分をどう周囲に活かせるか、それこそが自然が与えてくださった天恵であることを自覚し、共異共感を大事に自分らしく新しいことに挑戦していきたいと思います。

思いやりの心~内省実践の真価~

心を亡くすと書いて忙しいと書きます。この忙しいというものの本質は何か、それは心を見失うことのように思います。そもそも心とは何か、それを見失うということが何なのか、それを少し深めてみようと思います。

心というのは、頭で理屈で理解できるものとは異なるものです。例えば、感謝というものであれ頭で考えて感謝する人と、心から感謝する人がいます。同じ感謝であっても「心から」ではないのだから頭で行う感謝は心が入っていないものです。感謝が心から出ない時、人はその心にないものねだりや不平不満を抱いています。現実は一切に嘘がなく、その心と考えが一致していないのだから心の方が現実の世界のギャップに本人自身が苦しむものです。心は正直そのものですから、心からかどうかは自分自身が一番よく分かっているはずです。だからこそ自分自身「思い」をどう育てていくか、心をどう高めていくかは、「心から」の「心がけ」に由るように思います。

孔子が論語の中で「巧言令色鮮し仁」という言葉があります。これは本当に考えていること、心から思っていることを顔に出さない人は道徳心が少ない人だという内容です。思いやりと思いやり風の道徳心の違いは本心かどうかのことを言うのでしょう。

この本心というものは、本当の心のことで「心からそう思っているか」という自分の心と静かに向き合い心で感じていることをそのままに伝える真心の事です。よく裏表がある人や、自分の心よりも頭で考えた方を優先する人は、心がそこに入りませんから頭で考えたこととのギャップに苦しむことになります。「心から」である人は、心の赴くままにあるがままに自然体で思いやることができますから、自ずから人間関係をはじめ全ての物事を素直に感受していくこともできるように思います。

今は特にスピード社会で時間を気にしたり、比較社会で評価を気にしたりして自分の保身ばかりを考えていたら、頭で考えることが増えてしまいますからその心がどうなっているかまで気を付けることが少なくなっているのかもしれません。何かの行動を起こす時、すべて「心から」になっているか。そして自分でこれは「心から」そう思っているかと常に内省し素直さや正直さを取り戻す必要があるように思います。

そしてそのために必要な内省の工夫は、自分の心と静かに向き合い、自分が心から思っていることが何かを確認することです。それを「初心を忘れない」ともいい、「原点回帰」ともいいます。つまりは、「心を大切にする」ということです。

心が入らないことはすべて単なる作業です。心が入って初めて仕事になります。忙しいというものの本質は心からではなくなっているということでしょう。心からやったことは必ず相手の心に届きます。そしてその心は周りの人たちの心にも響きます。

「心無いことをして傷つけてしまった」とよくある後悔の念に縛られている人たちもたくさんいます。この「心無い」という意味を思い返すことで心からに気づけるかもしれません。本来人は誰しも最初はみんなとても善い人たちで思いやりがある優しい人たちです。その人たちが心を亡くし、心を見失ってしまうと、その大切な思いやりが次第に消失してしまいます。

本来、助け合い思いやりを交換し合うのが人間社會であり、共生や貢献が自然の道理ですから如何に思いやりを忘れないかを一人ひとりが生き方やあり方の芯に据えられるかが日々の実践の本当の真価のように思います。

内省は克己の工夫の最大の智慧です。常に「心から」かは自分自身が逃げずに自分の心を向き合っていくしかありません。内省しやすい環境や、また風土、一人で心を見失った人たちが自分を取り戻しまた思いやりのある人たちに戻ってこれるように、自分自身の内省実践を高めていきたいと思います。

 

禍福の道理

人間万事塞翁が馬の故事「福いは禍いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。」にあるように、一見、禍だと思ったことが実は福であったということが人生では沢山あるものです。

まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。

自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきます。

例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。そもそも禍も福も同一のものであり、それを如何に過ぎないようにするかが禍福合一の境地のようにも思います。

二宮尊徳は夜話の中で禍福一円をこう語ります。

「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」と。

その上で例えとして、包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるとしました。

これが禍福の道理であると言います。

結局は、禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第でどちらにも観得ということです。禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているのが運であるように思います。どんな運もその運を伸ばしていくかいかないかはその人の覚悟した生き方や実践が決めるようにも思います。

禍転じで福にする、禍福一円観の心境というものは如何にめぐってきた運を選ばずに受け入れて前進するかということに似ています。

この禍福の道理に従って、あるがままにありのままに運と一緒に歩んでいきたいと思います。

対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。

 

ちょっとずつ~自然のハタラキ~

自然界というものは、「ちょっとずつ」みんなで分け与えながら存在しているものです。あまり大きくはせず、あまり無理もせず、あまり欲張らず、いつもちょっとずつのハタラキの中に存在しているように思います。

もしもこの世に時間という概念がなく、終わりも始まりもないとしたらそんなに急ぐこともないように思いますし、焦る必要もないように思います。その急ぐ焦るの気持ちはどこからくるのか、それは自分への執着によっておこるようにも思います。

自然の生き物たちは、まるで大樹の根が長い年月を経てゆっくりとじっくりと張り巡らすように、まるで雨だれが長い月日を経てポツリポツリと石を穿つように悠久の年月に「ちょっとずつ」取り組んでいきます。

自分が生きていると思っている存在と、周囲に活かされていると感じている存在。

一見しては同じように観えていても、その心は生長はまったく異なる次元で存在しているようにも思うのです。ちょっとずつ歩んで往く姿というものは、外から見れば平凡で何も変化のない愚鈍にも見えるかもしれません。しかし実際の自然の姿から観ていたらその志や信念足るや非凡そのもの、力強く芯が思いをカタチにしていることを実感します。

如何にちょっとずつ進むかは、その人の信念の強さ、また心がけの正直さによるのかもしれません。自然から学び何よりも感動したのがこの「ちょっとずつ」という真実です。

まだまだ我欲や執着、思い込みや固定概念が抜けずに煩悶とする日々ですがそれもまた自然を学び直す教材の一つと受け容れ、引き続き実践を発明していきたいと思います。

誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。