自然の道~御恩に報いる~

天地の間には自然の道というものがあるように思います。

これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。

例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。

全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。

太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。

自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。

今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。

それが自然の道を思い出させる初心なのです。

四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。

子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。

常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。

準備の本質~未来との向き合い~

物事を成功させるのに「準備」という実践があります。如何に平素から抜かりなく準備を怠らないかというのは危機感のことで、常に危機感を持って日頃から準備をしているかという心の持ち方のことです。

準備といえば色々な諺があります。

例えば、「転ばぬ先の杖」というものであったり、「備えあれば患いなし」、「遠き慮りなければ必ず近き憂えあり」、「後悔先に立たず」などもそうです。これは準備というものが如何に先々の未来に大きな影響を与えているかということの格言です。

あのイチロー選手も「準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく」といって日頃の準備を一切怠らずに鍛錬していると言います。その証拠に「ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです」とも言います。未来に先延ばしたくなる怠惰な怠け癖を自ら断ち切って、この先に起こり得る全てのことを本番同様の危機意識でシュミレーションして日頃の準備に臨むのです。

準備というものは、その人の持ち味を活かすための最大最高の実践です。事前にあらゆる未来を正面から逃げずに向き合い、もしもの最悪の事態の時にどうするかを考え抜く覚悟、または最高のチャンスにどのようにするかを考え切る覚悟、その上で何を用意しておくかを日頃から取り組むのが準備ができている人の実践です。実際の仕事でもほとんどが準備に費やすだけで本番で使うのは1割から2割の配分で準備したほとんどが使わないままになっていると思うと、本番とは常に平素であることを再実感するのです。

準備は実力の発揮と密接につながり、準備をしていればその時々で準備しているものを出せばいいのだから存分に自分の実力の全てを出し切れます。逆に準備が足りていない人は出せないからさらに言い訳はどんどん増えていくばかりで現実に苛立つばかりで停滞してしまうものです。

老子が「無為自然」の境地の中で、何もしないのが無為自然なのではないことを思想で語ります。無為自然の本質は、未来が来る前に全て準備済みで先に予測して未来を先取りしているからこそ現実が来た時に余計なことをしないという境地で実践するから結果的に何もしていないように観得るだけです。

これは自然農などと同じ仕組みで、未来は予測できると自覚しているからこそ予測できない全てに準備しておこうとする日頃から危機感を持つことではじめて全てを先取りし余計なことをせずにその作物が育つことができるのです。来たものを選ばらない生き方というのは、先取りの準備、その心構えと実践ができているということです。

そのために未来は分からないからどうしようもないではなく、未来は分からないからこそ準備しようと未来を正面から向き合う心の強さを鍛えるために準備の実践を積み重ねる必要があるのです。言い訳がでるときこそ、それは未来に向き合っていなかったということに向き合う必要があります。そしてそれは信じる力を育てるのと怠ったと戒めてまた信を鍛錬していくしかありません。信があれば人は未来と向き合えますが不安や不信は未来から逃げようとする言い訳になります。

自然界にいる彼ら野生の生き物たちのように常日頃からいのちを輝かせて危機感を育て、健全な自然の危機感と一体になり、大切ないのちを守り、自分を全体貢献に発揮できるように準備を怠らない実践を積み重ねていきたいと思います。

自然に学ぶ心

世界では様々な自然災害が広がっています。干ばつ、地震、火山の噴火、竜巻、洪水、火や水を中心に自然の変化をみせています。天の道は変化を已むことなく発生しますから天を畏れ敬い私たちはどのように生きていくかを考えてきました。その上で人の道とは、道徳に沿って慎ましくあることを大切にしてきました。

天に対しては謙虚に、人に対しては素直にと、祖神たちは私たちに常に大切なことを守るようにと言い伝えてきました。それは世界中の神話や歴史の教訓として語り継がれあちこちにその記録は刻まれています。

記録の中には、人心の荒廃というものが環境に及ぼす影響について書かれている箇所があります。人々の暮らしが謙虚で素直でなければ必ず天災が発生するということです。ひょっとしたら、人間の天敵は人間ですから人心の荒廃こそが真の天敵なのかもしれません。地上最強を謳いながらも地球の環境の一部であることは変わりない事実ですから分けて考えることは不可能です。

自然災害は人間だけに発生するわけではなく、あらゆる生き物たちにもその災害は与えられます。地震、洪水、火山の噴火、竜巻、台風、寒波、熱波と発生します。しかし自然界の生き物たちは、天を敬い自然環境と一心同体になっていますからその被害も最小で済んでいます。人間は自然環境に沿っていきることをやめ、人工物の中で思い通りにしてきたからこそその自然災害に多大な影響を受けるようになったのかもしれません。改めて、こういう時代に入ったからこそ自然の中に入り、自然を観察し、自然と一体になって暮らす大切さを感じます。

天災は慈愛に満ちているものですが人災は自分たちの生き方の間違いから発生するものだからです。間違いを改め、自然の中に入り、生き方を改心していかなければいよいよ自然から遠ざかり人災が天災を超越してしまうかもしれません。天災を思うとき、常に自分たちの生き方への警鐘であることを忘れないでいたいと思います。

弘法大師空海の性霊集に下記のような言葉が遺っています。

「境は心に随って変ず。
心垢るる時は即ち境濁る。
心は境を逐って移る。
境閑なるときは心朗かなり。
心境冥会して道徳玄に存す。」

この「心境冥会すれば道徳が磨き貫かれる」という言葉。この心境冥会とは、自然に学び自然の心になることのように思います。善も悪もなく、至善の境地に入るということなのでしょう。

自然を知る心は、私たちの世界の本来のあるべき姿を知る心のように思います。心の原点回帰を人がするとき、はじめて心は道徳に照らされるのかもしれません。本来のあるべき姿に戻っていくことは心との対話を続け、心を高めていくことであろうと思います。そしてその自然に学ぶ心で助け合い共生する自然社會の循環こそが、人災を防ぐ方法のように私は思います。この先も私たちの生き方の中に自然に学ぶ心があれば、天地の王道の間で”いのち”は悠久に守られるように思います。

自然に学ぶ心を忘れずに、精進していきたいと思います。

死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

自然の誕生~地球のはじまり~

最近は、大きな地震が立て続けに発生しています。また世界ではあらゆる火山が噴火活動に入り、あらゆる場所で地震の頻度が増え、気候もまた大変な様相を見せています。

そもそも私たちは頭では理解しえないものが自然であり、その自然を理解するのに知識や意識で理解しようとすることに限界があります。あまりにも広大、あまりにも遠大、あまりにも無限であるものを理解することは限定された相対観ではたどり着けるものもなく、如何にあるがままの存在を理解するかということに似ています。それは自然に融解して自然と一心同体になる感覚に近いのかもしれません。

地震や天変地異はなぜ発生するか、そこには地球の成り立ちから考え直すことが大切であるように私は思います。そのことについて、弘法大師空海はこのように詩にまとめています。

『生物の住みかとなる自然世界の全体詩』

「自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか

気体(ガス)が初めに空間に充満し

(そのガスが凝縮して)

水と金属がつぎつぎと出て

(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)

地表は金属を溶かした火のスープでおおわれた

(やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)

深く広大な海となり

(冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)

地表は持ち上がり、山々は天空にそびえ立った

(そうして、出来上がった空と海と)四つの大陸と多くの島に

あらゆる生物が棲息するようになった」

『十住心論』巻第一、「自然世界」の章 (密教21フォーラムより)

自然(地球)というものは、ガスから産まれそして今の現実のように変化してきました。岩盤と呼んでいるこの地面は、その熱で溶けた液体が冷えて固まったようなものです。言い換えれば、鍋料理の湯葉のように表面上を覆いかぶさっているだけでありそれが時折、海流や磁場の変化、宇宙のダークマターの影響を受けては変動しているようなものです。

その岩盤の隙間から、その熔けた高熱の液体が飛び出してくるのが熔岩です。地球の最深部はまだまだ高温で熱し続けて液体を沸騰させるのだから温まれば温まるほどに沸騰の回数も頻度も増えるということなのでしょう。

ここまで理解できるように書いたとしても、実際は理解できないものの中にあるのが自然(地球)です。それをそのままにどう在るものを受け取るか、それは空を観ては空と観ず、土を観ては土と観ずという、あるがままに一心同体になってみてはじめて達する境地なのかもしれません。

空海が言わんとしたこと、自然の中にあって学んできたこと、今の時代だからこそそれを明らかにしつつ、心はどうあるべきかを観なおして子どもたちに伝えていきたいと思います。
 

魂の故郷~玉響~

心が自然と一体になるとき、不思議な感覚を覚えるものです。自然の中には不思議な空気が存在します。光と風、水と土の香り、そして渾然一体となった音の響きがあります。耳を澄ませ何も思わずそのものであるかのように解けこんでいくとき、まるで存在そのものになったかのように満たされていくものです。

人々の心を救済したいと願をかけ、祈るように真理を求めては、現実の実践に回帰し続けていても時折、人の間を離れて静かに自然と一体になると魂が安らかになります。

生きているということは、修行させていただいているということであり、その修行の最中に出会うご縁に不思議な魂の邂逅があるものです。自分自身の存在を大切にしていくことは、人間の愛を分かち合い、助け合い、そして自然の真心と響き合い、許し合うことなのかもしれません。

田畑に出ては、他の生き物たちと共に呼吸し、太陽に包まれて暮らしている仕合わせを感じては有難い活かされている魂を養っている思いです。

こういう時は、弘法大師空海の一遍の詩を思い出します。私たちの魂の故郷はこの一遍の詩の中にこそ存在しているのかもしれません。

「谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが
清らかな”自然の道理”と一体になって存在していると知る。
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ
経(真理の言葉)を一口つぶやくと
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。
そこに無垢なる生き方の悟りがある。」(性霊集 密教21フォーラムより)

 

魂の玉響を楽しみながら、瑞々しい風土一体、大和尊魂のままで自然と一緒にいのちを養っていきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

真の最強~じゃんけんの法理~

自然界は、ありとあらゆるものがそれぞれの持ち味を活かして他と共生し生きています。人間はよくスーパー○○というように、完璧を求めては最強であることを目指したりします。何でも自分でできるようになろうとしては完璧と求めて最強になった時には一人ぼっちになったでは、その目的が倖せから遠ざかってしまうかもしれません。

例えば自然界には、必ず勝者と敗者という関係が存在します。必ず天敵が発生し、その天敵に負けることでバランスを維持していきます。それはまるで拳遊びの「じゃんけん」のようなものです。

この「じゃんけん」は、近代になってから発明されたそうですが、拳を石と鋏と紙の三種類を見立てて行う遊びです。グー・チョキ・パーでその時出したもので勝った負けたを楽しむものですが、当然ですがグーとチョキのみならば常にチョキは負けてしまいグーは勝ちます。相対のものだけでは常に勝者、常に敗者になります。もしも全てに勝つような絶対的勝者を作ってみたとしたらどうでしょうか、それは結局は勝者と全ての敗者のみの関係になるでしょう。絶対的勝者は今の人間(自我)が目指している究極の姿のようにもみえ、協力(助け合い)とはまるで反対の方に進んでいるようにも感じます。

本来、自然は「協力」(助け合い)をするように多様化していくものです。一つのものだけになれば、生き物たちは助け合えなくなるから多様化します。そこにはこの「じゃんけん」の理のような法理がハタラキ、御互いの持ち味を活かしあうことである時はグーが頑張り、ある時はチョキで対応し、またある時はパーで乗り越えるように、様々な者たちがお互いの徳性を活かしあってこの地球上を共に生き抜いてきたとも言えます。

自分か相手かになれば、敵味方になりますが本来の自然はみんなが味方だという考え方に根差しているように私には思うのです。それは昆虫だけではなく、樹木、または動物たちにいたっても御互いが「じゃんけん」しながら遊び、この時は何でいこうかと互いの持ち味を認め合って伸ばしあっていくのです。

人間が最強であると錯覚すれば、もしも天変地異で自然界が破綻するとき私たちは本当に最強だとその時でも思えるのでしょうか?宇宙にいけば、結局は星々に今の地球の生物たちを選択して持っていくしかなく、しかしそれでも適応の変化に耐えられず必死に種類や数を増やそうとするはずです。それは自明するはずなのに、なぜ今のように絶滅していくものをそのままにするのかは人類の滅亡を早める気がしてなりません。

本来の多様性は、自他を丸ごと認め持ち味を活かし、その持ち味によって助け合う時に最大限に効果を発揮します。こんな時は誰、こんな時は何と、まるでじゃんけんのようにみんなが役割を出し合っていけば、本来の「最強」の真実が確信できるように思います。

組織の本来の「強み」とは一体何か、その強みを活かすとは一体何か、そして「弱み」とは本当は何か、自然界から照らしてみて本来の姿を確認していきたいと思います。自然は全てを物語りますが、じゃんけんを産み出した発明者のような技術を開発し、子どもたちにその智慧と工夫を譲っていきたいと思います。

心の実践~誤魔化さない~

自分自身であるというのは、自分を誤魔化さないということでもあります。周りに合わせて自分をつくり自分の評価が下がらないようにいつも誤魔化していたらそのうち本当の自分のことも分からなくなってしまうものです。

例えば、最初から今の自分のようになったわけではありません。今の自分のようになったのは何かの体験や経験から今のようになっています。本来、幼児期の子ども達は自然の姿に近いものでそれぞれが自分のままあるがままが出ています。しかしそのうちに何らかの教育を施され、気が付いたら何かに合わせている自分になっているものです。

何に合わせているのかはその人の先入観と思い込みですから、合わせているものが取り払わられない限りいつまでも刷り込まれたものは残るように思います。もしもそれに気づいたならば如何に自分を自分で誤魔化さないかということが大事であろうと思います。

誤魔化すという字の語源は、二通りの説があると言います。ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。これは弘法大師空海の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからであり、もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説で「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによるそうです。

どちらにしても、正直ではないという意味です。自分の都合やとはいえを持ち出しては、心のままであることを我慢する。心が思ったことに正直であるよりも、世間の評価や周りの目を気にしては自分を出さないということです。

こうやっていつまでも誤魔化していると、そのうち誤魔化した方が自分になり、本来の自分が何だったのかすら忘れてしまうことになります。だからこそ、自分が心で思ったことを自らが実践していくということ。誤魔化さず、正直に自分の信じたように信じて行じていくということが本来の自分を取り戻す方法のようにも思います。

自分が心で思ったことを如何に行動に移したか。それはやってみたいと思ったことを周りに伝えて、思い切ってやってみた質量に比例するのかもしれません。周りに合わせて我慢してきた分だけ、自分自身を出せなくて苦しそうな人たちをたくさん見かけます。

刷り込みや先入観、常識に囚われて希望を持てなくなってしまう人もいます。子ども達、あの幼児期にはそんな子どもはほとんどいませんから後天的に沁みついていくのでしょう。その心の沁みつきに負けないように、自分の心の赴くままに行動してもいいと見守る安心できる環境があることでその人もまた救われるかもしれません。最初からあった自由をどう取り戻すのか、周囲の大人たちの目覚めに懸っているようにも思います。

心で思うことをカタチにしていくことは自分の心を解放していくことなのかもしれません。子どもたちのように心を解放し自分を開放していくことが、思いやりにつながり、絆を深め、みんなを安心させ、みんなのお手本になっていくのかもしれません。

日々の心の実践を優先していきたいと思います。