自立の発露

先日、カムイロケットの植松努さんの講演を拝聴する機会がありました。北海道に訪問してからもう4年の歳月が流れ、あの頃と変わらずに直向きに子どもたちのために「どうせ無理」という言葉をなくそうと行動している様子に勇気を頂きました。

私たちの会社も「とはいえ」をなくそうと、大人の都合をどれだけ外せるかと様々な実践を積み上げていっていますがその道は険しくまた遠大です。しかし、子どもや未来を信じるのは今の自分の実践次第ですから怠らず努めていくしかありません。

世の中の閉塞感、いじめも虐待、そして自殺の問題も本来は一人一人が自分らしく他を邪魔しなくなれば自ずからそれらは次第に消失していくものだと私は思います。数々の刷り込みがこの世の中には蔓延りますから自らで考えて日々に入ってくる刷り込みを自らの実践でかき消していくしかないようにも思います。

人間には自我がありますから、気が付けば自我にとってかわられていることにも気づかないものです。素直な心で物事を省察しては、全てから学ぶ謙虚な心で感謝のままに生きるという自然な生き方ができるには数々の問題を一つ一つ片づけていくしかないようにも思います。

自分のやりたいことをやるといっても、そのやりたいに翻弄して迷っている人もいますが本来は初心です。初心に対して迷わないというのは、楽をせずに苦しくても愉しい方を選んでいく小さな勇気なのかもしれません。

印象深かった言葉は、「夢は大好きなこと、仕事は社會の役に立つこと」という言葉です。大好きなことをやっていると次第に経験や仲間が増えてきて、それが仕事になるかもしれないとありました。思い返せば、どちらが先かは思い出しもしませんが世の中を憂いつつ自分の持ち味と得意分野を伸ばしていたら今の自分に出会っていました。

誰かの評価を求めずに、ただ自分が信じたものを遣り続けるから今に出会っています。数々の貴重な経験は楽しいだけではなくほとんどが辛酸をなめるような苦しいものもありました。仲間にも同志にも出会い、自分がもっとも理想としていた仕事もさせていただけるようになりました。それまでの道のりはただ必死なだけでしたが、今思い返せば大好きなことを社會の役に立つようにしただけです。

言い換えれば、自分にしかできないことで誰かの役に立とうとしたということです。自分らしさというものは、その心の発露から始まるのかもしれません。小さな自己満足で仕事をしては一生を終えるような雇われるための生き方ではなく、自分の一生を如何に何のために創造するかという生き方、つまりは自分の初心や信念を貫く生き方を選択するかどうかということを常に試練にして自らを磨こうとする人生を歩もうということです。

人は初心や信念があるから自分を磨いていくことができます。自分の目指した生き方に沿って行こうとする分、日々はその姿勢を試してきます。本当に出し切ったのか、本当に遣りきったのかと、常に当たり前ではない日々は語り掛けてきます。その時、本気であること決心があること、覚悟をしているかが自問されます。

夢を得るには楽はなく、楽をしないから夢は逃げない。

苦中楽有の心境とは、夢の中という意味でしょう。すると、苦こそが夢であり、その苦に挑む好奇心が愉しんでいるということかもしれません。

ものわかりのいい人間になりロボットにされてしまっては、安定や成功ばかりと求めては失敗や罰を恐れてか弱い心ばかりが育ってしまうかもしれません。逞しい自然の姿、強くて優しい心はやったことがないことに挑戦していくことで育っていくように思います。

世界は今、やったことがないことを遣りたがる人、最後まで諦めない人、創意工夫ができる人がどの国でも求められています。それが希望を与えてくれる人だからです。夢を持つというのは、そういう自分らしく持ち味を発揮して存分に自分を遣りきっていく人になるということです。

子ども達が自分自身であることが肯定され、自分らしくいきていくことが如何に将来の愉しさや倖せにつながっているのかを実践の背中で見守ることができるなら未来は開けていくように思います。刷り込みの毒など気にしないくらいに、自分自身を発掘し、発明し、発達し、発展し、そして発揮していきたいと思います。

自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

常識という刷り込み

世の中には「常識」というものがあります。これは世間一般としてはこういうものだと自分が思い込んでいる制限の世界のことです。または自分が見聞きした中で定めた自分のルールと言ってもいいかもしれません。辞書には、健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別と言います。

これをアルバート・アインシュタインは、『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』と言います。

よく学校から社会人になって、最初の3年間に今まで学校で学んだことを御破算にしてやり直しなさいと新人教育する必要があるのもいつまでもこの常識に縛られて本当の社會人になれないから学び直しをしてもらうのです。学校の常識は世間の非常識とも言いますから、社會貢献や仕事の意義、考え方を見直してもらうために研修したりするのでしょう。

その人が持つ先入観の堆積物とは、それまでにその人が何を知識として思い込んできたか、何が刷り込みとして持っているかというその人の知識の副産物のことです。常識を破るというのはその知識で彩られた世界を勇気を出して毀してみる、恐怖があっても敢えて取り組んでみて新しい自分に体験を通して変わっていくことでその常識は新しいものに刷新されていきます。

しかしよく考えて観れば、18歳までに身に着けた刷り込みとは何でしょうか。そしてよく自分は常識的(普通)だという人の言うその常識とは何でしょうか。

それは世間一般の先入観に一番長けている、世間一般の常識に一番執着している、言い換えれば自分を合わせるのが得意だということにもなるように思います。自分を世間一般のものに合わせて造りあげてきて、その自分になりきっていて、その自分を維持していくのができる人になっているともいえます。刷り込みを持って他を刷り込んでいくのが教育だとしたら、誰かによってそういうものだと教え込まれて自分でその本質や答えを考えなくなればもうそれは先入観=常識そのものの人になっているということです。少し考えればそんなのは果たして自分そのものであるのかということに疑問が湧くはずです。

本来、人間は思い込みを取っ払ってあるがままに物事を素直に観たら本質や真理はその時々で変化します。百通りの真理があり、千通りの本質があります。それがその人らしいその人の観方です。それをこうでなければならないと、もっとも正しいと思い込んだルールを自分の中で頑固に維持し、それを他人に押し付けて周りが間違っていると矢印を他人に向けていたら気が付いたら自分が一番その思い込みや先入観に囚われてしまうかもしれません。

人は皆、誰しもその人らしさを持っていることで周りの勇気になります。自分らしさというのは、自分がオープンでフラット、何ものにも執らわれずあるがままに物事が観得る常識に囚われない自分でいることです。囚われない自分、それを自信といってもいいかもしれません。

だからこそ、まず自分自身の常識を疑ってあまりこうでなければならないという先入観に縛られないようにすることが自分自身であることや、自分らしい自分を信じる実践になっていくように思います。

世間の常識は常にその人らしさを奪っていきます。自分が勝手に思い込んだものを誰かを攻撃し否定するためにつかってはどうせ無理だと他人の自信まで奪うというのは、その人の常識の問題だということに気づいた方がいいかもしれません。むしろ、その刷り込みを使って人を非難し否定し攻撃するその心の態度が自分らしさを潰していることに気づく必要があるのです。

きっとこうだと自分勝手に思い込む前に、素直な心で新境地や新しい自分との出会い、未知との邂逅やご縁の有難さを心で求め遣りきってみたら見たことのない素のままの世界に出会えるかもしれません。

自分の殻とはこの自分の常識や偏見、先入観の事です。

その自分の殻を破っていく面白さが、人生の醍醐味であり愉しさでしょう。そういう人に出会っていくことや、そういう人に学んでいくこと、そういう人になっていくことではじめて自分自身に出会えると思います。またそういう人が語る言葉には大きな夢があります。できないのではないかと思うことに挑戦した仲間の行動から、勇気と自信を沢山いただけるのも、その刷り込みに真っ向から挑んでくれた面白さ、自分らしさに気づかせてくれたからかもしれません。

久しぶりにある人の講演を聴きにいきますが、あの頃よりももっと面白い自分らしい自分になっているか、偏見のコレクションをどれくらい捨てきったか、自分自身、色々と確かめたいと思います。

 

 

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

相乗効果(シナジー)の価値

相乗効果(シナジー)というものがあります。これは二つ以上の要因が同時に働いて、個々の要因がもたらす以上の結果を生じることを言います。

全ての出来事を振り返ると、効果というのは常に一つ以上の要因が重なり合って発揮されているように思います。人々がもしも大きな目的に挑戦するとき、誰にも頼らずに自分だけできるものなど存在しないと諦めることができるなら、同時に自分が相乗効果のためにベストを盡せばいいと覚悟を決められますが刷り込みが深く個別の成果は意識していても、相乗効果に対しては意識がいかないものです。

「7つの習慣」の著書、スティーブン・R・コヴィー氏は、相乗効果についてこう語ります。

「相乗効果は人生において最も崇高な活動である。残りの習慣すべてが身についているかどうかのテストであり、またその目的である」

つまり自分の習慣は、自分自身の実践がどれだけ全体の効果を発揮させたかをみることだと言います。自分だけは自分らしい実践を怠っても問題ないだろうという意識というのは、相乗効果の真価に気づいていないのかもしれません。

例えば、何かの仕事は一人でやった方が早いと思っている人がいます。もちろんそういう仕事もありますが、実際は自分の思い通りに進められない、他人と進めるのは面倒だといっては協力したくないから自分だけで全部処理していこうとします。しかしその時、肝心な視点が外れていることに気づきます。

それが相乗効果(シナジー)の価値です。

一人では相乗効果(シナジー)は生まれず、二人以上でそれぞれの個性を発揮して目的に対して助け合い協力し一緒に何かを行う時、自分の想像を超えるような効果を目のあたりにするものです。

自分だけではできなかったことが、誰かの協力によってできるという実感。それは例えば、離れていても心を寄せてくれる信頼できる人の見守りを感じているときや、仲間が勇気を出して諦めずに挑戦する背中を感じた時、そういう無形のものでさえ自分のモチベーションを高めてくれたり、信じる力を集めてくれたりと様々な相乗効果(シナジー)を発揮してくれるのです。協力の楽しみや協力の有難さ、協力の真価を知れば如何に相乗効果が素晴らしいかに気づけます。

そしてそれは常に「一緒」であること、助け合おうとする心、それぞれが自分の決めた実践(習慣)をそれぞれが確実に守ることで役割を果たす時に相乗効果(シナジー)は高潮するように思うのです。

仲間がいるということや、チームで取り組むということは、一見、みんなで同じことをしていることのように勘違いしている人がいます。しかし本来は、一人ひとりみんながそれぞれの個性を存分に発揮してそれぞれが全体のためにできることを全身全霊で実践するのを怠らない時にこそ期待以上の成果を全体に及ぼしているのです。

常に視点は自分だけのことを考えるのではなく、自分の実践がどれだけみんなの力になっているか、自分の習慣がどれだけみんなの効果につながっているのかの自覚を大切にして、皆の守りたい理念や優先したい目的に協力していこうとすることが自分の全体の中での役割を知る近道なのかもしれません。

同じことをするのは一緒ではなく、バラバラでも一緒であることはあるのです。それぞれが自分らしく協力する実践を一緒にしていればそれはバラバラでも一心同体です。一心同体になったとき、相乗効果(シナジー)は奇跡を呼び込み、一人ひとりの役割を明確にし、人と人の絆、そして人間であることの幸せを感じられます。

子ども達の未来のためにも、一人の力云々よりも、相乗効果(シナジー)の一員であることに誇りが持てるような社會を実践人になって創造していきたいと思います。

実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

自分の道を征く~天分を活かす~

人間は誰もが不平不満というものが出てきます。幸せすぎれば感謝を忘れ、与えられ過ぎれば御蔭様を忘れます。そして自分のことを心配しすぎれば、他人との比較をはじめます。今、あるものがもっとも自分に相応しいとは思わずにないものばかりを求めては努力をしなくなるでは不平不満も悩みも解決することはありません。

この「相応しい」という言葉は、私は実践することではじめて体得できるように思います。実践させていただける有難さ、今の自分のことを深く知り、それを受け容れるからこそ実践を積み重ねていこうと思う気持ちが湧いてきます。

老子にこういう言葉があります。

「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」

これは足るを知るということと、志を実践するということは同じであるという境地で語られた言葉です。足るを知るという言葉は、皆が知っている通り、ないものねだりをするのではなくあるものの方を観て感謝していこうとすることです。自分が天から与えられた徳やもっとも相応しい能力を使って、如何にそれを世の中に還元していくかを考えていこうとするものです。

自分が何を天から与えられているか、それを知るために私たちは日々に研鑽を積んでいるといっても過言ではありません。あれもほしいやこれもしたいなど、我欲もあるのでしょうが実際は天から与えられたものとはそれは合わないことがほとんどです。誰かの人生をみてはああなりたいやこうなりたいと憧れもしますが、実際は自分にしかない天命があります。孔子も、五十にして天命を知るというように、実践し研鑽を積み重ねてようやく50歳になった時に天命を知りました。そう簡単に、自分が天から何の命を受けているのかは自分自身も分からないように思います。

だからこそ志が必要です。志を持ち、精進を続けるという境地は自分の天命を信じて自分が何に向いているのか、どこに向かうのかを日々に怠らずに実践を続けることで自分の天命に近づいていくように思います。そこにはないものねだりはなく、あることが有難いと実践させていただけることに感謝の心があります。

以前、教育者の森信三先生が遺したある言葉に出会ったことがあります。そこにはこの老子の境地が書かれているように思い、如何に実践人であり続けるかの大切さ、豊かに富むことと、志を高めることの両輪の価値を再認識したのを覚えています。

『人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。』

天分を活かすというのは、まずその自分に不足がないと思うことからです。自分に与えられているものはすべて備わっている。だからこそ精進して引き出していこう、それをなんでもお役に立てるのなら立てていこうという心です。古今より、その天分は他人様のお引き立てにより引き出され活かされることが多いと聴きます。独り自ら粛々と実践を続けていると、それを憐れんで助けてくださる方々がいるように私は思います。それはまるで天が、陰ながら一生懸命に真摯に腐らずに素直に純粋に努力する自分のことを可愛そうだと憐れんでくれるかのようです。今の自分が最も相応しいと思えるのも、そういう境地を大切にしたいと思っているからかもしれません。また同時に生き方の先輩の凄まじい覚悟に、志がますます強くなるからかもしれません。森信三先生はこうも言います。

『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』

決して報われたかどうか実感できなくても、それでも信じて念じて祈り、そして本気で遣りきっていかなければ何事もはじまらないのだと仰います。これはまた有難い言葉で、大きな勇気と今の自分で相応しいと実践を心より楽しもうといった境地にも入れます。二度とない人生、どんな生き方をしたかどうかが天分を全うすることにつながっています。

この先の時代を生き抜いていく子どもたちの天命のためにも迷わずに自分の道を歩んでいく心の強さ、そして心の豊かさを真心で体現できる自分でありたいと思います。

人為の本質~真心~

無肥料無農薬、自然農を実践しているとそもそもの自然には全て備わっていることに気づくことばかりです。何かを足した方がいいという刷り込みがありますが、何もしない方がいいという価値観になっていくのに気づきます。そもそも何もしないといっても、自然は偉大なことをしてくださっています。

例えば、太陽の光の恵み、地球の水の循環の恵み、風が吹き抜ける恵み、土が発酵する恵み、生物たちの活動の恵みなど、数え切ればきりがないほどに様々な恩恵を受けています。それに比べて人為的なものは、助長することばかりで自然の恵みにはとても敵いません。

そう考えてみると、人間ができることは余計なことをせずに少しだけ手伝うことだけです。幼い頃にどうしても負けそうな時にだけ手を貸してあげたり、弱った時に助けてあげること、後は信じて見守るだけです。

この「信じて見守るだけ」しかないという現実の中に身を置いてみたら、如何にいのちに寄り添うということが何よりも大切なことなのだということに気づきます。

それぞれは自分の主体性で生きています。何もしなくても生きているのは自明の理で、それは心臓が脈打つように、血液の流れが止むことがないように、意識しなくても生きています。自然も同じく、何も意識していなくても生きているのです。

この生きているのだからという絶対観、当たり前の場所で自然は常に変化を已みません。その変化の中で育つのがそれぞれのいのちですから、余計なことをするとかえっておかしくなってしまうかもしれません。それは病気でも同じことです、自然治癒を邪魔することでかえって重大な危篤を招いてしまうかもしれません。

自分の中で育っていないという勘違いや、自分の中でもっと足さなければならないという思い込み、自分の中でできないことは悪であるという刷り込み、そういうものを一つ一つ取り除いていくことで、余計な邪魔をしないで自分らしく自分の成長を味わっていくことができるように思います、そして同時に同じように他を見守っていけるように思います。

自然界の中で私たちは自然が造形した化け物とも言えます。すべてはこの地球から生まれ、植物たちと同じように分化し続けて湧いて出てきたとも言えます。だからこそ偉大な恩恵の中での人為は限りなく最小で限りなく最大なのです。

そしてここでいう人為とは一体何か、それは「心」です。その心を寄せて、心を寄り添わせていくことこそ、私たちができる唯一の人為=真心かもしれません。自然界は、すべてその人つなぎの「思いやり」によって成り立っています。

自然の中での真心を学び直していきたいと思います。

自然の村~生き物の棲む場所~

自然農の田んぼで今年の田植えを無事に終えることができました。苗作りも順調に進み、ここからが本田での見守りに入ります。水田をよくよく観察してみると、生態系が大変豊富で、沢蟹や蛙、ヤゴや川エビ、他にも小さな虫たちが水中で活動しています。また土の中や上には、沢山の種類のミミズや虫たちが生活しています。

耕さないことで、生態系の棲まいをなるべく壊さないで配慮していることで年々のめぐりの中で暮らしを充実させしっかりと繁殖することができるのかもしれません。土が豊かに発酵していくと、生き物たちの暮らしも発酵しているのを感じ、循環をちょっと手伝うだけで自然はいつも応えてくれます。多様な生き物たちの暮らす場所が増えれば増えるほどに循環もまた豊かです。

そう考えてみると、私たちにも家があり住まいがあるように彼ら生き物にもあちこちに棲む場所があります。それは雑木林であったり、池であったり、窪地であったりと、それぞれに自分の特徴に合わせたところに移動してはそこに私たち人間と同じように住まいを創り暮らしを定着させていくのです。

そして食べて食べられる関係がありますから、必ず天敵が近くにいて次第にまた次の天敵を集めては一つの生態系の群がつくりあげられていくのです。そして絶妙なバランスの中で、食べて食べられる関係が必要な分だけになったときその場所は生き物たちの楽園になっていくのかもしれません。

自然界というものは、そのあちこちに生き物たちの住まいがあり群(村)があります。その村の中で、何世代もずっと長く彼らはそこを故郷にして生活を続けていきます。そう考えると、そこに農薬や新種の外来種などが入ってくることで彼らの生活は脅かされるのかもしれません。

昔の日本人は、なるべく自然の姿を壊さないように、生き物たちがあまり死なないようにと配慮しながら農業を続けてきたと言います。そこは排除するのではなく、私たちもその生態系の群(村)の一員に加えてもらおうとするような感覚だったのでしょう。決して全部は貪らず、思いやりの心をもって必ずその生き物たちが棲む場所を失わないように配慮してきました。その一つが、神域とした神籬、磐座、つまり鎮守の杜であり、川、池、樹、岩、つまりは自然の結界でもあったように思います。

この心構えを省みると全部自分の思い通りに進めることが如何に危険で傲慢なことかをきっと先人たちは自然から学んでいたのでしょう。今の時代は、自然をまるで敵ともみなすような技術が蔓延り、拝金主義の都市化された人間中心の社会の中で人間の都合に合わないことが不自然であるかのような価値観が常識になっています。

しかし実際は、私たち暮らしている地球には多様な生き物たちもまた同時に棲んでいますから棲む場所を全て強奪してしまっていては最期には地球は人間だけしか住めない場所になってしまうかもしれません。

あの宇宙空間のどこかの星に人間だけが人工コロニーをつくってみても一時しのぎはできてもそこで悠久に生きていくことはできません。人間のみという生活はできず、地球から野菜から果物、動物や虫、菌類などを持ち込むことではじめて数年は暮らしていけるくらいです。私たちは本来、地球と一緒に暮らしているのだから、そこからいくらミツバチや蝶だけを都合よく連れていったとしても、今の地球のような環境をつくることは不可能ですし愚かなことです。

それに気づいたならば、豊かすぎる今の地球の環境に不満をこぼさず御蔭様と感謝の心で謙虚に大切に他と共生していく道を選んでいきたいものです。子ども達の未来には、どんな世界が遺っているか、人間だけしかいない世界よりも少しでも多くの自然を遺してあげたいと思います。

自然の実践を通して、自分の生き方から引き続き見直していきたいと思います。

犬の記憶~なるようになるさ~

先日、ある本の中でドリス・デイの言葉に出会いました。その本は、「犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。」(シンシア・L・コープランド著)という本ですが、私も幼い頃から犬と一緒に暮らして犬から様々なことを教えて貰った記憶があったことを思い出しました。

幼少期から17年、その後は15年、今では6年、人生のほとんどを犬と暮らしています。その犬は単なるペットではなく、自分の人生のありとあらゆるシーンで時には親代わりになり、ある時は親友になり、ある時はメンターになり、またある時は家になるというように自分の心に如何なるときも寄り添ってくれました。悲しい別れもありましたが、それよりも一緒に暮らし散歩したときの当たり前の風景の中にあった倖せの感覚はいつまでも心の中に遺っています。

ドリス・デイの言葉ではこうあります。

「深く思い悩んだときには、ただ黙って献身的にそばにいてくれる犬こそが、他の何からも得ることのできないものを与えてくれる」

何もしてあげられないけれど心全部丸ごと惜しみなく寄せてくれることにどれだけ心は救われるか、犬は愛するもののために惜しみない愛情を与えてくれます。人間が与えているように錯覚していますが、実際に与えられ続けているのは私たちの方でそれに気づかなくなってくるだけとも言えます。感謝を常に受け容れる犬の姿には感動し、学び直すことばかりです。

またこのドリス・デイの歌う有名なものに「ケ・セラセラ」があります。これはスペイン語で「なるようになるさ」という意味です。激動の人生の中で愛を失わず全てを受け容れる、そしてなるようになるさと信じるということの価値を感じます。

歌詞を紹介したいと思います。

「幼い少女だった頃
私は将来何になるのってママに尋ねた
美しくなる? お金持ちになる?
そうしたらママはこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

成長して恋に落ちて
恋人に尋ねた
将来は何が待っているの?
日々虹に恵まれた生活を送るの?
そうしたら恋人はこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

今は子どもに恵まれて
子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの
美男子になるの?お金持ちになるの?
だから私は優しく答えるの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

ケ・セラ・セラ」

思い悩んでみてもどうにもならないものはどうにもならないもの。人生は丸ごと運任せ、流れる川に浮かべた舟のようなものなのかもしれません。流れ着く先がどこなのか、そしてこの先どうなるのかは何も分からないものです。自分らしくいられずに常識に囚われ不安になれば誰しも未来が心配になったりするものです。

そういうときは、自然の成り行き次第だから「なんとかなるさ」の心で寄り添ってあげたいと思います。自然界は常になんとかなるさで心を寄り添い支え合う仲間たちばかりです。その仲間の一員である人間、自分の存在を間違わないようにしていきたいものです。

今日もなるようになるさと明るく楽しく朗らかに感謝を丸ごと味わう一日を過ごし、心を自然の成り行きに任せていきたいと思います。