実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。

 

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。

心の在り処

人生はゆっくりでいいと言いつつも、この世の中のスピードは目まぐるしく変化していきます。周りを見ては比較をし、遠くをみては不満ばかりを募らせ焦ることも多々あります。

人間は自分の思い通りでなければ不安を感じるものですし、執着がありますから様々なストレスがかかってくるものです。しかし論語の「速やかならんを欲するなかれ、 小利を見るなかれ。 速やかならんを欲すればすなわち達せず、 小利を見ればすなわち大事成らず。」にあるように、なんでも急ぎ、自らの我欲を満たそうとすればそもそもの初心や原点を忘れてしまうものです。

如何にそうならないようにするには、一つ一つの実践を踏み締めていくことでしょうがもう一つ別の心境もあるように思います。

先日、ある場所で下記のような詩に出会いました。作者はちょっと難しい名前で○石と書かれていましたがこの○のところの漢字がどうしても読めませんでした。その詩に、今を生きることの大切さ、焦ることの愚かさ、現実の只中で生きていくことの真価を学んだような気がしましたので紹介します。

「足元ばかり見てたら 行く先がわからなくなった。
遠くの夢ばかり見ていたら 足元の石ころにつまずく。
だから休みながら のんびりのんびり
遠くを見たり 近くを見たり
ゆっくりゆっくり 今を楽しみながら。
あしたもきっと しあわせないちにち。」

焦る気持ちが今との直視を避けるものです。心が着いてきていない日々はまるで迷いと不安で心落ち着かない状態になっていることになります。そんなときは、一度立ち止まり何度も内省し、大事なことを思い出し、今の有難さや御蔭様に気づくことのように感じます。

人間、畢竟、天を敬い足るを知ることで心の本来の在り処に気づけるのかもしれません。まだまだ物来順応の境地には程遠いですが、見守りに逆らわずに子ども第一義の道草を味わい尽くしていきたいと思います。

 

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。

 

からだ~自然の智慧~

先日、地元だけではなく全国で名医と慕われる医師に身体についての話をお伺いすることができました。その方は、知識で身体を学ぶのではなく身体から身体を学ぶというように、身体の反応をよく観察しその反応から原因の根を探し出すというような感じです。

先生の言い方では、雨漏りがあればどこが雨漏りなのかを探せばいいという感じです。身体のことを会社経営をたとえに説明してくださり、経営改善と体質改善が同じであること、体温を如何に下げないで血流を整えること、またもっとも集まっている場所(内臓)のところの環境を温かくすることなどを教えていただきました。

特に目から鱗が落ちる話は、身体の痛みが回復そのものであるたとえです。今の医療はすぐにどこかが痛いや何かのストレスがあるとすぐに薬を出していますが、それでは対処療法にしかならないという話です。

膝を曲げれば足が痺れてきます、それは血流が滞ってきているからです。そして膝を伸ばせば痺れがとれて血流が順調にめぐりはじめます。その時、足はジンジンしてきます。そのジンジン痛いというのは、血流が流れはじめて回復しているということです。他にも熱が出たり、怪我したときの苦しみは痛みは、すべて治癒している証拠であると話がありました。

今では病院に行くときは薬をもらいにいっているようなものですが、その都度、苦しみや痛みを悪者のようにして薬を処方していたら直るものも治りません。本来、治癒の本質は苦しみや痛みを伴うように私も思います。

人間が成長し発達するとき、そこに大きなストレスがかかります。あらゆる感情や妄想が頭をもたげてきます、しかしそのもたげたストレスをどのように善いものに転換できるかで私たちは治癒を働かせていくように思います。

ストレスといえばすぐに良い悪いと区別しては、コントロール不能に感情に呑まれていますが、本来は善いも悪いもなく、そのものを生長の糧にしていけばいいのでしょう。

しかし今の社会の在り方がストレス社会になっていますから、気が付けば刷り込まれてありとあらゆる病気を引き起こしているように思います。それは知識が氾濫しルールばかりが増えて、速度超過、多忙を極めた不安と心配で緊張して、人とのつながりが薄く金権主義的な世の中になっているからです。言い換えれば、不自然な世の中にいるからストレスが悪いものになっているのです。

どのようにストレスと向き合っていけばいいか、そこには考えずに行動したり、悩む前に実践をしたり、優柔不断になる前に覚悟を決めたりといった方法でストレスを善いものへと転じていくしかありません。

そもそも上手くいかないから上手くなりたいと願うものですし、できないからできるようになりたいと思います。さらに優しくなれないから優しくなりたいと思い、人の役に立てないから役に立ちたいと願うのです。すべては表裏一体に自分の心の赴く方を示しているのが感情です。

その感情に素直になるためにも、今此処、一瞬一瞬を大事に味わいつつ内省し人事を盡して信じたことを天にお任せしていくことしかないように思えます。そしてそれがストレスを福に転じるコツかもしれません。

転じるというのは、めぐりを善くすることです。

川が海に流れてそれが雲になり雨になって川になる。変化に柔軟であることが、自然であり、その自然をお手本に身体を労わることが自然治癒を学ぶ基本なのかもしれません。

自分自身のからだから自然の智慧を学び直していきたいと思います。

結び~真心の共感~

人の心に共感する仕事というのは、人の心に寄り添う仕事です。数々の現場でいつも感じるのは自分の真心がどこまで相手と一体になっているか、自分のことに思えているかという自問自答でした。欧米ではカウンセリングという言葉もありますが、それでは何か足りないとずっと感じていました。

なぜかといえば、相手と自分が分かれているなかでいくら相手に近づいてでもそれ以上は近づけないという場所があります。それは自分が相手と同じにはなっていない、どこか分けてしまう場所があるからです。相手の心に寄り添うというのは、ありとあらゆる感情に一緒に向き合うのですから単に知識や頭でできることではなくまさに全感覚を研ぎ澄ませていくものです。

それに自分がどんな状況でも望みを捨てず信じているからこそ、相手はその自分によって哀しみや苦しみが癒されていくのです。不安や心配の中で真摯に耐え忍び乗り越えようと人がするとき、そこに希望を探します。その希望を見出し守るのが本来の共感ではないかと私は思います。自分がどれだけ相手の絶望に寄り添いながらも自分が希望を捨てないか、それがどれだけ厳しいことかといつも感じるからです。

聴福人、一円観を実践する中に、傾聴、受容、共感、感謝があります。その中のすべてはある一点に向かいます。それは日本文化の真髄でもあるし、かんながらの道の達する境地でもある「結び」の一点です。

心がよそにいかず、心をうしなわず、いつも心がそばにいるという境地は、「分けない」ことではじめて可能です。どんなに忙しくてもどんなに状況が変化があっても、心はいつも結ばれたままであるという安心を与えることです。そしてその結びのご縁というものも、「この人と私は強い結び合いがある」と互いに信じることで希望の糸は織られ紡がれていくからです。

この結びという真心は、目には観えませんが私たちの精神の支柱になっているのではないかと私は思います。かつて、私の祖母や私が尊敬する方々は皆、この結びによる真心の共感を私にも発揮してくださいました。

そのことで矛盾する様々な感情を全て丸ごと受容でき、御蔭様の実態を見出し、全て感謝に昇華していきました。この考え方は、これからの世界を変える可能性を秘めた私たちが尊ぶ「和の心」と密接につながります。

一円観の境地は、数々の実践現場でのみ磨かれるものですから心を離さず、心を寄り添い、心を分かち合い、心を結び合い、心と心の共感によって得られます。

単なる思想ではなく、如何に現場で技術として活かせるかが何よりも大事です。現実を変えなければ世の中も変わっていかないからです。聴福人を育て、子どもたちの未来を一緒に創造していきたいと思います。

自分の答えに生き切る~自分らしく~

幼いころから、周りのありとあらゆる正解というものを与えられて私たちは育ってきます。大人と呼ばれる人たちから大人になれと様々な正解を教え込まれてきます。そうちに楽を覚えて何かを知ろうとすればすぐに正解を探してはその正解という常識の中で誰かの答えに合わせるのです。知識で自分の人生が変わるはずはないのに、知識でまるで人生が変わったかのように錯覚してしまうほどです。

自分の人生を思うとき、答えは自分の中にしかなく、尊く生きた実体験の中で自分の答えを出していくしかありません。しかし実際は、刷り込みから誰かの答えが先にあるから自分で答えなくてもいいと勘違いしている人も多いように思います。

一度答えを刷り込まれて考えることをやめてしまったら、自分の答えを放棄してしまうことにもなります。誰かが言ったからや前例にないからや、きっとやっても無駄だからと思うのは自分の答えに生きることをやめているのです。

人生はその人その人に個性がありますから、誰かと同じようにはならないものです。その人の姿かたちが微妙に他の人と異なっているように、自分の人生もまた同時に千差万別に異なるのです。だからこそその答えもまた異なります。

如何に自分の答えに生きていくかは、自分のままでいるということです。評価の中でねつ造した自分ではなく、誰かに言われたからそう思い込んでしまった自分ではなく、刷り込まれる前の子どものままに自分で手さぐりで答えを感じ取っていく好奇心全開の自分の中で出た正解に生きるということです。

人がどういおうがもしも人生を最期まで自分らしく生き切ったならその人の人生は偉大な幸福であったと言えるように思います。最期には、「あの人は遣り切ったね」と言われたらきっと「自分の答えを出したんだね」というように憧れられるように思います。

人生は産まれてきたときから、その人にしかない物語、その人にしかない個性、その人にしかないご縁があるように思いますからその人らしくあってほしいと願うのは人類の目指す理想かもしれません。

心の原風景の中に、自分の答えに生き切った人がいることは絶対的な安心感です。子どもたちのためにも、憧れを大事に生きるミスターチルドレン(子どものままの大人)の一人になれるよう足るを知りつつ歩み続けたいと思います。

後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。

 

一円対和~認め合う社會~

人は物事を対立で考えるときに、様々な問題が出てくるものです。そもそも一つであったものを二つに分け、それを対立させるのはお互いを認め合わないからです。本来、ニワトリが先かタマゴが先かというだけで、同質のものの先をどちらにしようかという話であることがほとんどです。

なぜそうなってしまうのかといえば、そこに対立思想があるからのように思います。自分とあなた、これとあれ、善か悪か、正しいか間違いかなど違いを分けてお互いに要求していけばその先には紛争や戦争が待っているかもしれません。

だからこそお互いに対話によって近づいていこうとするアプローチを世界中の様々な教育現場では試行錯誤されているのです。私たちの会社には一円対和というものがあり、二つ以上の分かれたものを一つに融合するというマネージメントを持っています。

本来、違うと思っているものも皆で持ち味を活かしあえば大和になるという思想と実践です。これは、お互いが違うからこそお互いを活かしあえば偉大な力になるということです。そのためには対立から対和へと舵を切ることと、その中でお互いが認め合うことで和合するという一円観を磨くことです。認めてもらおうとばかり思うのは自分を特別視するからですし、相手に自分を認めさせたいからです。

それぞれが違うというのは、それぞれに与えられてる才能や使命があるということです。言い換えれば「協力できる」「助け合える」「一緒にできる」ということです。お互いに一つの目的のためにその力を活かしあえばどの組織でも、衆智を集め、一家団欒の平和な社會が顕れてくるように思います。そしてこれが和合です。

この和合という考え方は、私たち日本を代表する文化の一つです。

対立し比較されまたは個性が認めてもらえずに心が傷ついている人たちはたくさんいます。その人たちが少しでも自分の持ち味に気づき、その個性を共に活かしあい認め合う世の中にしていくために、日々の実践を強く厚くしていきたいと思います。

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。