運も実力のうち

先日、「運も実力のうち」という言葉を考える機会がありました。運の善さというのは、自然の摂理に従って人事を盡していることで目には見えない何かに見守られいつも助けてくださっている感謝に包まれているものをみるとつい運の善いと思ってしまいます。

多くの出会いに恵まれて素晴らしい環境を創造していく人たちに共通するのはそこに運の導きを素直に受け取っているその人の生き方があるように思います。

その運を次第に引き寄せるのはその人の実力のように思います。その実力とは、その運が善くなるように日頃から知らず知らずのうちに努力ができているということではないかと思います。

つまりは正しい努力を怠らないことができているから運が善くなっていくという好循環のことです。自分の中に何がもっとも善いことなのか、つまりは善良や善心を持つ人はその本心本性に従って自ら自然に精進を怠りません。

すると、その努力はもっとも純粋に地球の好循環と同じ流れに入り運もまた活かせるように思います。例えば私でいえば、選ばないことや、他人のいうことを神様のように聴く、意味を味わい尽くして学んでいくなども努力しているところです。

日頃から何を努力している人なのか、それが目に見えないところで怠らず慎み実践している人だから実力があるということなのでしょう。

運を学ぶということは、努力の意味を学ぶということです。

日々に気づいて改善していきたいと思います。

伝心

人は知識があるないにかかわらず、信じているか信じていないかは言葉に表れて出てくるものです。何のために知識を持つのか、それがかえって不安材料になってしまうのではせっかくの知識がうまく活かせないことになるかもしれません。

先日ある人が、若いときは「できないことが増えるから挑戦したくない」ということを言っていたという話を聞きました。優等生で優秀であったために、何かをすればできないことが増えるから何もしたくないという心理があったとのことです。それを聞いた周りの人は「できないことが増えるのはできることがそれだけ増えることだからもったいない」と言っていましたが、その人はできないことが増えることは可能性が広がるという考え方でした。

同じ事柄であっても、できるできないをどう捉えるかというのはその人のセルフイメージが決めています。セルフイメージとは自分の心と思いのことです。自分の中で何を信じているか、自分の中でどのような思いがあるかということに気づけば自分の努力の方向性が分かるようにも思うのです。

人は対話をします。その対話はただ言葉を行き来させているのではなく、その人の心や感情を伝えるものです。いくら上辺を繕って表面上は誤魔化してみても、心はそのまま相手に伝わります。心や思いがどうなっているのかは、語らずとしても伝わるものです。

これを以心伝心といいます。信じるということもこれに似ています。その人が言っているから鵜呑みにして信じるではなく、自分から能動的にどれだけ信じようとするかということが大事なのです。

言葉にはその人の信が入ります、そして眼差しにも信が入ります。信じ合っている絆は強く簡単には崩れません。しかし信が弱くなれば、絆は脆くなります。お互いが信じ合っているという関係を維持するのは、お互いにその信を送り続ける努力が必要なのです。

信じるというのは、自分が信じる実践を積み重ねていくことで溜まっていきます。自分との約束を果たし続けていたり、自分に打ち克ってきた場数によって信はより篤く盤石になっていきます。もしくは自分の信じる人が信じているものを一緒に信じることでその信を結び信頼の手綱を握り合うこともできます。

目には見えませんが、その信があるからお互いに頼り合うことができるのです。自立というのは、信頼関係を築けるということです。つまり自ら信じることができるようになるということです。

信じさせてもらおうという態度では、いつまでも他人のせいにできるような姿勢では信じることは難しいものです。自分を如何にだまし続けるかは、自分が如何に信じ続けられるかです。本来の知識とは、自分を信じ騙すためにあるもののように私には思えます。そしてそれは信じる方も同じです、信じているかどうかが相手の信の礎になるのです。

どんな情報も知識も受け取る側の考え方次第ですから、それを善いものへと転じるのは具体的な実践による智慧に換えた時に変わるように思います。知識をどのように活かすかは、その人の生き方ですから長い目で観て世の中を仕合せにするために遣っていきたいと思います。

子どもたちのためにも、できるできない、分かる分からない、知識か智慧かではなく、信じるということ。何よりも主体的に心を育てて思いを揺るがないものに成長していきたいと思います。

師弟とは~一心同体~

よく師弟関係という言葉を用いることがあります。何の道でもそうですが、何かを習い始めては師がいますが師がいれば自分は弟子となります。しかし本来の師弟というのは一体だと私は信じているのでむやにやたらに誰かを師にすることはありません。

吉田松陰にこのような言葉があります。

「師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべきし。」

これはかなり厳しい言葉にして、師とするな、師となるなといいます。真にこれは教えなければならない学ばなければならないことの時にだけ師となれというのです。

吉田松陰や孟子の著書を沢山出版している川口雅昭氏がこれを解釈しています。「この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならないという引き合いにだされるが、実はそうではない。知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。死ねない人間は弟子になるな。これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。」

つまりは、お互いの「本気」「覚悟」があってのものということです。言い換えれば、師を弟子に置き換えた文章でも同じということです。「弟子道を興さんとならば、妄りに人の弟子となるべからず、又妄りに人を弟子とすべからず。」なのです。

思いを同じくするというのは、知識が多いから師匠と呼ぶのではなく、経験が豊富だから師匠というのではなく。師弟一体になりたいと願う、魂の求道なのです。それだけ一心同体になって物事に真剣になりたいということなのです。

私は孟子の私淑という言葉が大好きです。私淑とは「孟子巻第八離婁章句」に書かれている言葉です。

「予未だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私かに、諸を人に淑くするなり」

意訳ですが、私は時代が異なり孔子の弟子になれなかったけれど、孔子の遺した徳風から様々な薫陶をうけそれを学び周囲の人々に伝えていたのです。つまりは「ひそかにその人を師にして尊敬し模範として学びます」という言葉です。

孟子の姿勢は孔子にとって一心同体のように私には思うのです。それだけ本気だったということ、それだけ同じ夢を目指したという事、ここに真の師弟を観るのです。単に自分が学ぶために師とするのではなく、師と同じ夢を持つという事、同師というのかもしれません。

師道を興すというのは、後に続く者たちへの夢を遺すということです。

本気度で師に刺激をいただく日々に感謝しつつも自戒ばかりが頭をよぎります。子どもの前に立っているのだからこそ、子どもが背中を追いかけてくるからこそ、決して自分のために行うのではなく、やったりやらなかったりするのではなく、真摯に至誠の実践を積み重ねていきたいと思います。

探究心~真剣な実践~

人間は物事のことをどれだけ深く掘り下げていくかで本質に近づいていくように思います。世の中の話をいつも鵜呑みにばかりしていたら、本当のことは分かりません。物事の意味を実践により咀嚼してはじめて自分のものになるのが本質ですから本質が理解できるということはどれだけ探求しているということです。

探求というのは、字の如く「求めて深める」ということです。つまりはそのものの本質を見極めようとする力であり、真理を知りたいと思う好奇心のようなものです。

私もどうも好奇心旺盛で、本当のことが知りたいとばかり思うようです。いくら本に書いてあっても、いくらそれが科学で証明されていると言われても、自分自身が自分の感覚で「探していたのはこれか」と納得するまでは諦めきれない性分のようです。

先日も、保田與重郎の著書に飛鳥の神奈備のことが書かれていて本当にそうかと自分で現地にまで調べていきます。その過程で、様々なご縁に導かれ新たな発見をし、なぜそれを調べたかったのかを竟には自覚自明するのです。

探求するというのは言い換えれば道を歩んでいくということです。自分の舌で咀嚼し、自分の胃で消化し、自分のモノにしていくということです。それには真理探究に対する強い熱意が必用のように思います。

偉い先生が言うのだからとか、誰もが知っている事実だからとか、未知なるものだからだと考えるのをやめてしまって無関心に流していたらいつまでも本質に近づくことができません。だからこそ、自分から分からないことをもっと本当のことが知りたいと知識欲を転じて智慧欲に換えていく必要があるように思います。

知識は簡単に便利にすぐに入ってきますが、智慧は入ってきません。智慧は具体的な行動と探求によって自分のものになっていくからです。以前、メンターに「距離に負けるな好奇心」という言葉をいただいたことがあります。

面倒だなや、大変そうだな、しんどそうだなと、いちいち何かをやる前にそんな気持ちに探究心が負けてしまっていたら何一つ自分のものにはならないということでしょう。

最後に論語にあります。

「子曰わく、憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり」と。

如何に真剣に物事に取り組むか、真剣であればあるほどに探究心は高まるのです。真面目そうになるのではなく、真面目であることは志事に如何に真剣に取り組むかということです。本当の真面目とは何か、本当の真剣とは何か、味わえる仕合せを周囲に自らの実践で伝えていきたいと思います。

 

 

自戒の意味~慎む~

人間はいつもの自分をどの高みで内省するかで気づきの度合いが異なるものです。気づいているようで気づいていないのも、気づきというものは素直さと比例するからのように思います。素直でないと反省もまた反省風になり、気づいても気づかず、直そうにも直せないということにもなるからです。

自分のことを正しく理解できるというのは、思い込みや刷り込みを取り払ってあるがままに物事が視えるということです。言い換えればそれが素直さなのですが、受け止めたくない事実がある場合や受け容れられない現実がある時はそれを湾曲してしまうものです。

気が付けば、やっているつもりになっている実践が多いのもまた事実です。如何に深く内省し、如何に深く気づき、如何に謙虚に行動するかはその人の人格の成熟や精神の研鑽によるもののように思います。

そしてそれを直すのに自戒があります。自戒とは、自らの癖を見抜き気を付けるための心掛けのようなものです。人間は欲や自我がありますから気が付けば怠惰に流されてしまう自分に対して主体的に自ら気づき自我欲よりも優先できるものを持とうとするものです。

しかし一人慎んでいないと気づかないうちに優先するものが入れ替わるのが人間ですから、その入れ替わった瞬間に気づけて改善できるかどうかが実力をつけるポイントのように思います。

先日、あるお寺を参拝しているときに慎むということの実践で興味深い文章に出会いました。この文章の作者は元善光寺の住職が作ったものと言われていますが自分が気が付けば慎んでいないときの事例が書かれているのではないかと実感したので紹介します。

「 高いつもりで低いのが教養  低いつもりで高いのが気位

  深いつもりで浅いのが知識  浅いつもりで深いのが欲望

 厚いつもりで薄いのが人情  薄いつもりで厚いのが面の皮

  強いつもりで弱いのが根性  弱いつもりで強いのが自我

 多いつもりで少ないのが分別  少ないつもりで多いのが無駄」

(元善光寺「つもり違い十ヶ条」より)

この十か条は人間として気を付けないといけない生き方を並べると、今の自分がどちらに傾いているかを内省するときの基準になります。これはこのまま並べてみればその意味が分かります、つまり「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面の皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、多い無駄」ということです。

高慢・傲慢・不遜になってはならぬ、自分のみの価値観の世界に浸って陥ってはならぬと言い聞かせるのです。人は他人の話が聴けなくなると以上のような状態に陥るものです。素直に他人の意見を聴けるというのはそこに謙虚な生き方があります。

上記のことを逆さに書いてみると、「高い教養、低い気位、深い知識、浅い欲望、厚い人情、薄い面の皮、強い根性、弱い自我、多い分別、少ない無駄」です。つまりは人間として慎む姿が観えてきます。

人間は知れば知るほどに、知識が多ければ多くなっていくほどに慎まなくなっていくものです。教える立場の人たちは何よりも自戒する必要がある智慧が「慎む」という実践なのでしょう。

真の実力とは、精進により磨かれた人格の上に慎み抜かれて錬成された実践です。他人のことをとやかく言う前に知識ばかりを詰め込む前に、自分の生き方をよくよく見つめて内省していきたいと思います。

 

 

間~意思の力(パワーストーン)~

生きていれば死があります、出会いがあれば別れがあります、生き死にの間に魂があるように、出会い別れの間には縁があります。

人間はどちらか片方だけで物事を理解するのではなく、「間」の中で真実を捉えることができます。しかしこの間とは、思いの世界でありその思いの世界をどれだけ味わい尽くしているかで物事の深みというのが変わってくるように思うのです。

「意思」というものがあります。

意思はそのもののいのちの目的でもあり、そのいのちが何を託されているかということでもあります。子どもたちが日々に産まれ、無限の種子が宇宙全体にばら蒔かれる様にいのちは発展と発達を已みません。その中には魂があり縁があり、それを味わい盡している心があります。

目には視えないからと分かるところだけを判断していたら、自分の存在が分からなくなってしまうものです。目に見えないものを静かに省みる時間、明けや宵のような沈んだ謐かで清らかな中でそのものの心に触れることが自分の存在を確かめる妙味を慈覚することかもしれません。

まわりと共にあるいのちを忘れずに、日々にいのりたいと思います。

十全円満~光と闇~

世の中には光と闇があります、もしくは陰と陽という言葉を使います。光には光の特性(動)、闇には闇の特性(静)があります。これは表裏という関係ではなく、表裏のない同質のものです。

例えば、光があれば陰が発生します。光と陰があることでそのものは顕現します。宇宙に星がなければ宇宙を感じることはありませんし、宇宙がなければ星も見えません。お互いが存在し合うことではじめてそのものの存在が確認できるのです。つまりは光と闇や陰と陽ではなく光も闇も陰も陽も同質であるということです。

全てを十全に捉えるという観点があります。

それは光も水も空も風も土も同じものであるという考え方で全ては欠けているものは一つもないということです。私たちは物事を観察するときに、あるやないという見方をします。しかしあるとかないとか言っていると、十全であることがわからなくなってきます。

自分というものを中心にばかり物事を考えて観てはあるとかないとかを見分けていても、本来すべてを存在している宇宙自然の廻りのことなどは実感できなくなってしまうものです。欠けていないのであれば失っていないわけですから、なくなることがないという世界。

そういうやったことがゴミで消えるのではなく、それが巡っているだけであるという意識。あるかないかではなく、巡りゆくのだということを自覚するとき、人は初めて循環の理に触れ、自分がどう生きるべきかについて自問自答するように私には思えるのです。

自分が生きているうちのことだけを考えては欲を貪り、自分が死んでしまえば後は知らないというように無責任になってしまえば、巡っているいのちのことなどは考えなくなるのかもしれません。

人間はいのちある存在ですから、そのいのちは形を換えては様々なところを廻り巡ってまた戻ってきます。仏教の輪廻転生のように、いのちを殺しては食べてそれを排泄していく私たちのいのちもまた他の生きものを通じて地球の中を廻りつづけていきます。

いのちを粗末にするというのは、巡りを大切に考えないということです。そしてそれは分けて考えるからです。分けない実践というものは、自分を中心にばかり物事を考えずそもそも一つの存在なのだから自分の影響を自覚して生きるということです。

他人事にしない人生と言ってもいいし、自他一体にする人生と言ってもいいかもしれません。明日は我が身、あの人は未来の私であり過去の私だと思えるか、全てを自分事とできる思いやりの実践です。

光と闇があるように、人間もまた光と闇でできています。

十全円満そのものを分けさえしなければ人間ははじめて本物の人間となりうるということです。人間の持つ業の深さを沈み内省しつつ、いのちを輝かせて魂を磨いていきたいと思います。

 

毀す~シンプルにするということ~

日本には老舗と呼ばれる企業がまだたくさん残っています。それは理念を持ち、その理念を初心の高みで温故知新できる本質的な経営を実践する方々が沢山いるということでもあります。

伝統が残っているというのは、時代が変わっても大切にしているものがあるということでありそれはその時代に生きた人々が初心を忘れなかったという証明でもあります。世間では理念理念と言いながらも、実際は経営か理念かとそれを分けて語られていたり、もしくは理念理念と言いながらも経営に後付するような人たちが増えています。一気に拡大するか緩やかに長くやるかはその人の決断次第ですからそれは本人の選ぶところです。

しかし理念経営を思う時、本来は理念を優先し経営をするはずが、単に経営をするために理念を使おうでは本末転倒してしまう気がします。初心はあくまでも初心であり、初心を片時も忘れないでいてはじめて経営は正しいものになっていくように思うからです。

何百年も時代の篩にかけられて残るのは、いつも本物であり自然です。

それは自然界というものは、人工的に造ったものは脆く、自然に応じてできたものは永続しているからです。その永続の歴史の篩のことを伝統というのかもしれませんが、その伝統という言葉で私が好きな言霊があります。

「伝統が創造されるというのは、それが形を変化するということである。伝統を創り得るものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。」(三木清)

この方は昭和の哲学者で思想家ですが、伝統の創造とは伝統を毀すことであるという言い方をしました。この毀すというのは、単なる破壊のことではないことはすぐに分かります。壊すは物理的に破壊することを言い、そのものだった物を失うことを言います。しかしもう一つの毀すは、削ぎ落とす、削り落とす、私の言い方ではシンプルにするという言い方をします。

つまりは、伝統とは、時代の篩にかけてシンプルにする実践、つまりは磨き抜いていくということではないかと思うのです。

磨くというのは、そのものの徳を引き出していくことです。磨くことができることではじめてそのものの本質がより光りはじめます。より光るということは、時代の中でも光るということです。一体、何のためにやるのかを実行する人は夢を持つ人です。

夢に生きる人は初心を忘れることはなく、夢を持ち続けられる人は毀し続ける人だからです。

試練や苦労によって人生はそぎ落とされていき人格が高まっていきます。

毀すということは、自ら進んで苦労をするということかもしれません。
新たなメッセージを感じつつ、伝承が云わんとすることを真摯に学び直したいと思います。

信念会~ふり返り~

昨日、社内で新しい年を迎えて昨年の御蔭様に感謝とともに熊野神社に参拝し昼からは七草粥、また夕方からは一年のふり返りを兼ねて新年会(信念会)を行いました。

今年は書初めではなく、磨き初めという初実践もはじまり皆で貝に字を彫り込みその貝をピカピカに磨くという実践を行いました。磨ける仕合せ、磨いたら光という有難さ、何より磨いている自分自身が感謝に包まれるという体験をできたように思います。皆で磨き合えるというご縁もまた、天の絶妙な計らいかと思うと勇気づけられ励まされるのは同じように志した仲間がいるという安心感かもしれません。

また信念会では、一年間で約1万枚にも及ぶ写真の中から厳選されてムービー化されたものを観ながらふり返りを味わいました。毎日は、怒涛の如く過ぎていきます。充実していることも忘れるほどに様々な課題や出来事に遭遇します。

しかしふり返りを大切にしていないのならばどうしても目先の問題に囚われ、物事のマイナスな面ばかりに感情が揺さぶられたり、事物の不安な側面ばかりが視えてしまったりするものです。ふり返りをしていくと、実はとても有難いご縁であったとか、本当は見守ってくださった多くの方々の御蔭様であったとか、善い方、素敵な方、仕合せな方を観ては今の自分に対して天が与えてくださっているすべてに感謝することができるように思うのです。

人生とは旅のようなものです。

目的地に行けないことばかりを悩んでは不平不満を並べるよりも、旅をしている最中を楽しんだ方が旅をふり返ったときにまた行きたいねと感じるものです。旅はふり返りながら歩むことにこそ真価真楽があるということです。

奇跡に出会った喜び、仲間に回り逢う仕合せ、そういうものを分かち合うご縁がある。

ご縁を大切に素直に学べることに感謝して、精進を味わっていきたいと思います。

時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。