かんながらの道中

よく人生とは登山のようなものだと喩えられます。

低い山を登るのなら、山頂はすぐに捉えられるものですぐに登れる達成感も得られるものです。しかしもしも誰も登ったこともないような山に登るのなら、山頂は雲の上にあり果たしていつ登頂できるかも分からないものです。

長い期間を懸けて準備をし、コツコツと足を前へと踏み出していくしかありません。飽きるような道を歩んでいると時折、あの近くに見える低い山の方が善いような気もすれば、周りの山々を登る人を観ては羨ましいなどと思えることもあります。

なぜなら、山登りにおいて森へ入れば周りは観えずいつ抜けるのかも分からないままにこの道で善いと強く信じて戸惑いながらも怖いながらもまだ見ぬ栄光の瞬間を目指して忍耐していくものだからです。そんな時は、松下幸之助さんの遺した「道をひらく」の言葉にいつも励まされるものです。素直に謙虚にと思っていても、なかなか自分も善いお手本にならず天を仰いで自分を遣り尽くしていくしかないと心を定めているものです。

人は、本物を追及するのにいつも一人自分と対話し真理と向き合っていく必要があります。それが魂を磨いて掛け替えのない自分を尽くしていくことになるからです。そして同時に一人では生きられないのだから周りの人たちへ心を開き助け合って生きていく必要があります。それが心を清らかにしていくからです。

その時の判断基準は、根本は何か、何のためにやるのかということと、もう一つは自分の判断が皆を幸せにするものかどうかを中心にしているかどうかというものです。

まず本質は何かと考え抜けば、根本のところが観えてくるものです。根本が観えなければ、それは単に目先の現状に流されて魂が望んでいることとは違うことに惑うからです。これでは、自分は何のために生きるのか、働くのか、そして死ぬのかが観えなくなり不安は増大する一方です。本来の挑戦とは、常に本質的であるかの方が人生の根本と向き合っていることになるからです。

また協働というものは、自律や自立との向き合いによるものです。一人ではないということは、自我を優先して自分のことばかりを貫けば次第に周りに迷惑をかけてしまいます。だからこそ、周りに迷惑をかけないように自律していく必要があります。それは自分と他人を主人公にしていくように、常に自分と周りの夢を実現するために自分を使っていくということに他なりません。他と共生していくことを自然から学び直すといつも同じことを諭されます。

つまり自然というものは、常に共生と貢献の中に存在していて共に自己実現を成し遂げています。お互いに一つの太陽の元に生きるものとして、互いを思いやり、労り、慈しみ、そして共に夢を実現していくために協働していくのです。

ここに自然か不自然かという最も大切な生命の道理が働くのです。そうして生きる時、人は穏やかになり心が洗われ澄んでいくように思います。

どんな日々があったにせよ、日々は魂を磨き心を清めるチャンスに満ちています。
文章にすることは道から外れていると思われるかもしれません。

しかし道を励ますことは、自分が励まされたようにそれ自体が尊いと感じるから已むに已まれず此処に、いのちの足跡に信じて書き記したいのです。

他人からどんなに思われようと、子どもたちとともに一心直向にかんながらの道を歩んでいきます。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。

性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。

自然治癒の本質

自然治癒について深めてみる機会がありました。

もともと自然治癒というものは、自分の中から治っていくという感覚で病気が平癒していくことを言います。これは、薬が身体を治すのではなく身体が自分を治すことを薬が支援するというようにもともとは自分の身体の方からの免疫によって自助し回復するということです。

一般的には、身体が苦しい時や辛い時は、頭で考えると治っているようには感じないものです。なので苦しい時や辛い時は、外発的に治療しようと薬や対処療法を試したくなるものです。

しかし本来の自然治癒が働くときは、実際は苦しい時や辛い時、痛い時、シンドイ時にこそ働いていると実感するのです。これは、内発的に自分の内部から外部へと排出しようとしたり自分の力を使って怪我や病に打ち克とうとしている証でもあるからです。

つまりは感情というものは起きている出来事に対して働くのに対し、心身は自然に合わせて働いているということです。これは、心臓や脈、呼吸、体温など自然に身体を順応していくのに対して、感情はその出来事からその身体を順応させているのです。

言い換えれば、身体をコントロールする機関に情と心がありそれが交互に交代しながらバランスを取り一つの生身の身体を操作しているともいうのです。不思議な事実ですが、この調和と不調和とはこの情と心との協働により左右されているのです。

そして自然治癒とは、本来、心身の大調和によって成り立っているものです。

この心身の大調和とは、情と心が互いに協力して自然の場所を観出しその場所に止まることで平癒安心の境地に辿りつくことのように思います。これは例えれば、身体が求める治癒に対して感情もそこに合わせてあげること。そして感情が求める治癒に対して身体もそこに合わせてあげることに似ています。

統合医療の本質とは、きっと以上のようなもので情と心の協働をどのように融和していくかにその技術の鍵があるように思います。

苦しいから楽を選ぶのではなく、苦しいからこそ楽しい方を選んでいく生き方。辛く悲しいからこそ無難を選ぶのではなく、辛く悲しいからこそ有難を選んで感謝すること。こういうひとつひとつの出来事に対して内外の学びがあり、その学びを自分の体験に昇華することで人は成長という掛け替えのないものを得ているのです。

転じるということは、この大調和に換えたということに他なりません。
そしてこれが自然治癒の本質です。

外側と内側のバランスを保つために、常に人間は大調和のために努力精進していかなければなりません。それが生きる死ぬを知る者、つまりは大往生する人間の業だからです。

出来事に感謝、病気に感謝、偏りに感謝できるよう、バランスが崩れているところの声を聴き、受け容れ治癒に換えて学問がある歓びに大感謝していきたいと思います。

優先内省

久しぶりに体調を崩しながら健康の有難さを実感しています。

色々なことが同時に重なると、一つ一つの判断基準が微妙にズレていくものです。具体的には同時に全部をやろうと欲張るとその分無理が生じてきます。身体の緊張もそうですが、無駄な力が入ってしまうとその分疲労も蓄積します。

力の抜き加減や緊張を融和するような自分の状況や状態をどれだけ冷静に観察するかは、自我との折り合いにもよるものだろうと思います。それだけバランスを保つというのは、自分の内面と外面の調和を意識している自分を持っていないと難しいと思うのです。

東洋医学に内因と外因というものがあります。

内因とはその人の持つ体質のことで東洋医学では主に精神面を重視しています。「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」これを七情と呼んで感情が体に影響を与えると考えています。七情はそれぞれ特定の臓器と関連しています。喜は心、怒は肝、憂は肺、思は脾、悲は肺、恐・驚は腎となります。

外因とは体の外から侵入してくるもののことです。主に気候の変化によるもので「風・寒・暑・湿・燥・火」に分類して、これを「六淫」、「六邪」、「外邪」と呼んでいます。その他には、不内外因といい暴飲暴食や疲労、外傷などによります。

これは全体を観察するときの原因を突き止めるために行う東洋の智慧ですが、確かに心身と感情、気候も出来事もすべては元々複合的に絡み合っているのが日常であるからです。何もない今などもなく、常に万物変化し已まないのだから体調もまた刻々と全体にあわせて管理しているともいえるのです。

このように今を観て全体の調和を考えず、一方だけの考え方に偏れば傲慢になり、その分の無理が生じれば、その歪としてその無理の原因としての結果が訪れます。

これは身体だけのことではありません。自分の考えだけに固執し、それぞれの人達が話すそれぞれの考えもまた同時に正しいと思う時、全体の調和がとれ、優先するものが確信してきます。しかし意固地になり、謙虚さを失い、自分だけが正しいと思い込めば周りの人たちの話を聴かなくなり優先順位も定めることができなくなるのです。

何を優先することがもっとも全体にとっていいかは、自我を優先しないことを考えているということにつながります。信じる力が弱ってくると自我が出てきて判断が歪んできます。信じる力とは健康な時に満ちるのは、健康とは全ての因を福や善として捉えることができる状態のことを言うからです。

病とは、判断基準にとても大きな影響力を与えています。

病を転じて福にしていくことこそが、心身ともに調和しているともいうのです。

優先していくことを考えることは、信じているかどうかを内省することに等しいように思います。この病からも学び、体験から悟り、それを同じ苦しみを持つ人たちへの御役に立てたいと思います。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

「素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 」

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

先入観の知識

人間の脳は、すぐに目に映るものを仕分けていくものです。

例えば、携帯でもパソコンでも、食べ物や洋服でも、目に入ったものを自分の中で認識したものに仕分けていくものです。もっと簡単に言えば、こういうものだろうという自分の中の知識を加工し自らの世界にしているともいえます。

もしも加工をするのをやめてみれば、どんなことにも好奇な関心を持ってそのものの本質を知りたいとドキドキワクワクしながら学んでいる人には世界は不思議で満ちたものになるはずです。

あの朝の太陽の眩しさ、夜の月の霊妙さ、地球の活動の尊大さなども日々の中で観過ごすことなく味わい尽くしていくようにも思うのです。

確かに私達の知識の加工はパターン化するのに便利ですぐに役立つとも思いますがその反面、知識があるからそのままを丸ごと受け取る感性が鈍り、最大から最小までの全てを丸ごと味わうことが難しくなってくるように思うのです。知識一辺倒で体験をあまり重視されない優等生がうける教育ばかりを受けてくると、元来生まれる前から備わっている感受性というものやそこからの冒険心などが育ちにくくなるのです。

本来は、まずやりたいことから取り組んでいる時や、もしくはその後に味わっていると余計な知識がそぎ落とされていくのです。私たちの今は、体験しなくても知識で先に体験したかのような錯覚を持ってしまうものです。

それが不安や恐怖になったりして、先に結果を知るからこそ動けなくなるものです。

本来は、結果など分からないのだから思い切って飛び込んでみてそのあとにあれは一体何だったのかと深めながら得ていくものが知識です。それは、その意味をより深く感じ、そこから何につながっているのか、この体験はどれだけ貴重なものだったかと奥から引き出してくるときに必要なのが知識であったのです。

知識を優先して無二の体験をしないとなると、せっかく生まれてきたのに大変勿体ないことだろうと思います。無難を選ぶのではなく、有難の中に本物の自分の人生があると信じることが日々を楽しみ味わい尽くして自分のいのちを遣い切っていくようにも思います。

体験したものは、全て血となり肉となり、いつまでも自分の中に生き続けます。
先入観の知識にとらわれず、新しい境地へと挑戦していきたいと思います。

縁愛8

ドイツ研修も最終日を迎え、日本へと帰国しています。

世界に視察に行けばいくほどに、自分は日本人として今を生きているかを向き合う機会に恵まれます。かんながらの道を歩もうと決めていますが、日本人としての奥深さはまだまだ計り知れないものがあります。

勿体ないも有難いも、結びも御蔭様も、またまたお天道様の見守りも、先祖代々から脈々と流れて受け継いできた日本人としての心がいつも自分の中に連綿と生きています。それをどう今の時代に置き換えて日本人の自分らしくを貫いて子どもたちに継承するかは私の生きざまによるもののように思います。

日本人らしく生きることは、自分らしく歩んだ先人たちと道を共にすることかもしれません。自分らしさというのは、自分の中に連綿と存在しているものを引き出していくことだと思います。

有難いことに世界に出ればでるほどに、私の日本人としての自分に襟を正し内省します。先人たちに恥ずかしくないよう、これからも精進していきたいという決意を新たにした旅になりました。

今回は人間愛をテーマに様々に深めてきましたが、今回のもので一区切りとします。

シンプルに言えば、これは一期一会を生きるということです。またそれを言い換えればそれは縁を愛するということに他なりません。一つひとつ、出愛の全てを大切にしていくことが人間愛を顕現させることだからです。

私は今のような時代だからこそ、人との縁を愛することを選んでいきたいと思うのです。それは誰に対しても、どのような境遇の人にとっても、人種が異なっても、価値観が偏っていても、それでもそういうものを乗り越えて「ご縁」であると信念を持って生き切ること。

こういうご縁という思想が、私には人間愛に思えてならないのです。

そして平和を愛する心とは、ご縁を大切にする心です。

「世界の輪 結ぶご縁は 愛の糸 光り輝く 星々となる」 藍杜静海

一期一会に生きる中に愛は永遠にひかり続けています。