縁愛7

ドイツ研修も6日目を迎え、今年も無事に学びが実る体験を新しい方々と一緒にできたことに幸せを感じています。

今まで見ず知らずの人達が、同じ目的のために一同に集まり共に学び共に遊ぶ、まさに保育というものは自分の使命を遣り切っているときにこそ最も身近に感じられるものなのかもしれません。

人間は動機がいつも誰かへ向けられた思いやりや優しさ、そして貢献によるものから発せられるものであるならば、その遣りたいと思ったことはきっと使命によるものです。自分が誰かのために生きていると実感することは、そこに愛があることを確信しているからかもしれません。愛は愛されるよりも愛することというように、自我に呑まれて愛される側を望むよりも、自我と調和し愛する側で愛を弛まず実践し尽くすとき、其処に必ず誰もが求めた愛の姿が顕現します。

いつも先人の道の足跡を辿ってみれば、そこには全てがなくなっているはずのその人が遺したものがいつまでも私たちの心の中に残っています。会ったこともない、話したこともないその人の存在がなぜか自分の中にあるというのは愛があることの証明なのです。

人は人のカタチがなくなるとき、愛が出てきます。つまり、生きている生身の人間の要素が消えたとき、自分のかけている色眼鏡が物体を捉えることができなくなり、なくなったはずのその人の残り香から真心や愛が永遠に香ってくるのを実感するのです。そしてその香りに引き寄せられ、その人の愛を確かめることでいつまでも人間の中に愛が存在していることを思い出すのです。

そういう愛の香りを持つ人々は、いのちを与えられた以上に尊くいのちを遣い切り、人間を誰よりも愛した実践を生き方で示した人たちばかりです。

今まで隠れたものが出てくるというのが出愛です。

それは私たちが表面の自我で接してその人たちのことを認識しているばかりを見るのではなく、本来のその人の中にある純粋な心に触れることで愛を観出すことができるからです。その純粋な心の中に、出会ったこともない人たちとの出愛があるのです。

この出愛とは、どこか愛を結ばれた感覚を持っているのです。生まれた瞬間から私たちは、偉大な愛に活かされているのを自分の心は知っています。その愛があるから、人は自分も他人をも愛することができるように思うのです。

つながりや絆、そういう結び目に出愛がありそのご縁で人はさらなる愛のカタチをこの世の中に顕していきたいのです。それが生きるということ、死ぬということであろうと思います。

私が子どもを愛しているのは、親心が好きなのかもしれません。その親心の傍にいる子どもたちを観ていたらいつも愛は私たちが生存する限り存在するのだと確信するからです。

また今日も子どもたちのように、今を生き切り、新たな人間に出会っていきたいと思います。

一期一会

縁愛6

ドイツ視察研修の5日目になりました。

これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。

不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。

この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。

一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。

さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。

人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。

信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。

例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。

つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。

まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。

お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。

縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。

出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。

縁愛5

ドイツに来て4日目になりますが、天候に恵まれ美しい景色の中で森の学童保育所を視察してきました。森の中に入ると、自然に子ども心が顕われてくるのはそこに自然を感知する感覚が生きているからかもしれません。

都市化されている社会の中で、大切な感覚を陶冶していくというのはそれまで私たちが自然に行っていた自然の中での営みを忘れないためにあるのかもしれません。脳が優先されているような都市社会では本来の当たり前にあるそれぞれの役割を忘れてしまうのかもしれません。

森の中の木々一つ、松ぼっくりの実の一つひとつに、その役割があることを学ぶのかもしれません。人間愛のテーマの中に、つながりを書きましたがここに役割というものがあることを書いてみます。

マザーテレサにこういう言葉があります。「世の中で誰かに必要とされているという意識です。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

愛というものの定義に、自分が必要とされているという実感というものがあります。何か大切な役割があるとその人が思えるならこの世に存在していいという偉大な自然の愛を実感できるように思います。つまりそれがつながりの中にいることを実感できるという意味です。

人は誰かの御役に立てるということほど、自分が必要とされているという実感を得られることはありません。つい、今の社会では自分の都合ばかりで自分が必要とされている有難さに感謝する機会が少ないように思います。

物が溢れ、自分のものであることを当たり前だと勘違いすることから愛が不足していくように思います。愛の不足とは、この物との関係にとても深い因縁があり、自分の物とするところからそれまで私たちがお互いの関わりやつながり、役割を感じて愛し合っていたことを忘れさせていくものだからです。

人間というものは、分かち合い、助け合い、御互いを必要だと実感できることで愛がある中に生きていることを実感できるように思います。こんな自分でも生きていいのかという問いに対し、自分のままでいいから生きてほしいと願う思いやりの中に愛は活きています。

私たちがもともと使っている「有難う」という言葉も、本来はそういうひとつひとつのお役目を天からいただいていることに対して使っていた言霊のように思います。それが人間都合の物が溢れたことで大切に使い切ろうということではなく、その場その場でゴミを捨てるように使いだしたことからその役割がもともとなかったのように意識が変わっていったのかもしれません。

今の時代は何度も何度も有難うという言葉を使わないとお役目に気づく感性は伸びていかないのかもしれません。愛もまた不足するのは、本来、ないものねだりではなくあるものを探してあるものを大切にしていこうとする中に育つからかもしれません。

身近なところから愛の実践をしていくのは、御互いを必要とする関係に幸せを実感し、その役目があることに感謝していくことのように思います。

最後に今日もガンジーの言葉で締めくくります。

「この地上の理不尽に目をつぶることなく、愛ある行いを実践しようとする人がいる限り、わたしたちはそれに続かなくてはならない。」

愛ある実践は、子どもの中に備わっています。
子どもの自然な行い、その宝を見出す感性の中に愛の偉大な可能性が観えてきます。

保育を学んでいくことは、愛を育てていくことかもしれません。

縁愛4

ドイツに来て3日目が過ぎました。

昨日も、子どもたちの発達から活動を工夫する様々なアイデアを現場で確認することができました。子どもたちがやりたいことを邪魔しないというのは、子どもを信じ、子どもが育とうとすることを受容することにつながっています。

人は自分がやりたいと思うことを認めてくれることほど信じられているという実感を持てることはないようにも思います。私も今でも、誰が何と言おうとも自分の内面の直観の声に従い、それが後で意味があったと実感するとき偉大な見守りをいつも感じています。

信じるということは、その人の遣りたいこと、その使命を丸ごと認めることだと思います。世界を変える道もまた、子どもを信じるところにあるのです。

さて、サブテーマの人間愛もいよいよ深まってきました。

人間は愛を試されるとき、そこには自分がされたくないことを他人にしたときに実感したりするものです。もしくは自分がされたいことをされたいこと以上にしてくれる人と出会ったときにも感動し実感できるように思います。

そうして愛を確かめては、何を愛し、何を守るかということを学んでいくのです。人は自分の大切にしているものをそれぞれ持っています。特にそれは物だけではなく、その心にもこれだけは守りたいと思っているものがあるのです。

それが例えば、友の道であったり、親子の道、家族の道、つまりは連綿と受け継いできた美しい心の顕われの行為になるのかもしれません。子どもはそれを誰が教えなくても自然に身に着けていて、自分たちの大切にしたいことがあれば何よりもそれを優先し守ろうとします。

大人になって、それができなくなるのは社会や周辺の大人の影響を受けて守りたいことを諦めるからかもしれません。そういうものを諦めない大人たちが子どもたちを守ることができるとき、愛は受け継がれていくのかもしれません。

私の師も、平常は優しい懐の大きな存在ですが背中の後ろに守りたいものがあるとき不動明王のように烈火の如き炎で立ちはだかり子どもたちを守ります。私はそこも大変尊敬していて、憧れ、いつの日か自分も守りたいものを守れる真の強さを持ちたいと思ったのです。

愛とは、つまり守りたいもののことを言うのかもしれません。

ガンジーにこういう言葉が残っています。

「死と引き換えに、愛する誰かを守った人は、完全なる愛を成就した人だ」

自分よりも大切なものがあるという至上の役割がある幸せ、そこには決して揺るがない信念とつながりが自分を守る。そのために自分をこれ以上なく遣り切り実践し尽くした生涯を送れるならその人は愛に包まれた最上の人生を歩んだといっていいかもしれません。

人間の世に生まれ愛を知ることは、自分が大切にしてきた守るものを知る事なのでしょう。
日々は愛の中にあることを知り、より強く愛していきたいと思います。

縁愛3

ドイツに来て2日目になりますが、子どもの姿はどこでも普遍的で様々な運命に生まれてくる子どもがいますが自然の愛を一杯に感じて生きようとしているように思います。

今回はテーマを人間愛にしたので、なかなか現実の視察とは話をつなげていくことが難しいのですが新たな視点から東西の垣根を超えて物事の共通点を観察しています。

もともと人間というものは、生まれる前から自然の中にある愛のようなものを実感しているように思います。例えば、生まれてきたらすぐに親を頼るように、また自分は生きていいと信じているように、この世に出てくる瞬間から私たちは信じるという活力の中で生きています。

これは動植物でも同じですが、種から芽が出るのもそれは本来いのちというものはこの世の中で自分が助けてもらえるという存在、そして誰かを助ける存在であることを無意識に知覚しているように思うのです。

先日、子猫や雛が生まれましたがどのいのちの子どもたちも如何に世界を信じて安心し、その心姿の顕われとして「遊ぶ」その様子を観た時、活きるという信じる力、その行為は全て遊びの中に詰まっているのを実感したのです。

この遊びというものは、自然の愛を表現している人間愛の姿でもあり、遊びを通じて私たちは心の安らぎというものを実感し、生きている歓び、活きられる幸せを確かめていくように思います。

これは大人になろうがなるまえが、皆が楽しく一緒に遊ぶ姿の中にはどこか昔から信じていたはずだった愛を確認していることに似ていると私は思うのです。私がアクティビティを行う理由もまた、遊ぶ中に信を思い出し、その信の表明を全員で確認するために用いるのです。

人間というものは、何をもって遊びだと定義するかは安心した時に自然に湧き上がってくるいのちへの友愛の情、万物全てが一緒に遊んでいいとした存在の妙義に気づくときに愛を確かめるのかもしれません。

そういう遊びの中でつながっている自然の愛との邂逅が、私たちに人間愛とは何かを教えてくれるのかもしれません。子どもは、いつも心が遊んでいるのはいつも内なる自然の愛に応えていこうとした働きがあるからのように思います。

最後にガンジーの言葉です。

「人類が絶えず愛の法則と共にあったかなど、私は知らない。
だが、そんなものは私の障害とはならない。
愛の法則はまるで重力の法則のようなものである。
我々が認めるかどうかなどは関係ない。
愛の法則を真に知る者は、今日の如何なる科学者よりも偉大な学者である。
多くは十分なる探求がなされぬ故に、あらゆるものに愛の法則が働くことを理解できないだけなのだ。」

あって当たり前のものこそ、観えなくなっているように思います。ドイツにいても日本にいても、私たちはお互いの中にある尊敬を見出していく必要を感じます。自分の思い込みを超えて、子どもの姿からまた引き続き愛を学んでいこうと思います。

縁愛2

無事にドイツに到着し、安着祝いを行いました。

これで3年連続での参加になりますが、不思議ですが毎年来ているとなぜか故郷の一つのように感じてここでの空気や人々の雰囲気、食べ物や生活の様子に安心を憶えます。

新しく変わっていくこともありますが、離れていても戻ってきたら過去に触れた世界があるということが故郷へと回帰していくことかもしれません。ヨーロッパには縁がありますから、遠い昔に何か関わりがあったのかもしれません。

さて、今回は人間愛というサブテーマで進めているのですが子どもたちのことを思います。

子どもはとても純粋で、友達や家族を自分のこと以上に大切に思っているものです。昔は、自分の母親や友達の文句を言われたら本気で怒り喧嘩をしていたようにも思います。

自分のことを言われるよりも、大切な人のことたちのことを馬鹿にされることが嫌いで泣くほどの悔しい思いをした記憶もあります。

今、思い返して深めてみるとそれは自分との「つながり」の愛の絆を否定されたりすることをとても重要に感じていたからかもしれません。自分というものの理解を、つながりの中の自分であるというように実感していたからのように思います。

自分という存在は、大切なつながりや絆が自分を自分として存在しあらしめているという感覚です。自分は誰とつながっているのか、自分が大切にしているつながりは何か、そこに愛情や友情といったつながりを求めているのが人間の愛のようにも思います。

自分が何とつながっているか、そのつながりを太く厚くしていくことが人間を愛するということかもしれません。子ども心に、あのつながりの尊さを思い出しました。さまざまつながりを結び、その中でもとても美しいつながりを築くことができるなら、その愛の縁はより不思議なつながりとなって世界を結ぶのかもしれません。

最後にガンジーにこうあります。

「一人の人間の愛が百万人の憎しみを打ち消す」

色々なご縁の中から、どのつながりが存在することを信じるか、そこに世界を変えるヒントがあるかもしれません。子どもたちの中から見出していきたいと思います。

縁愛1

本日からドイツへ移動し、保育の研修に参加してきます。毎年、ドイツ研修に行く際はテーマを決めて深めていくことをしています。今年はつながりや人間愛について考えてみたいと思っています。

そもそも愛とは何かというと、つながりのことのように思います。よく愛のことを色々なことで表現されることがあります。あのマザーテレサは愛の反対は無関心という言い方をして、その愛の理解の深さを表現されました。

これもつながりが薄れてしまうからそれが無関心という言葉に顕われてくるように思います

例えば、友人や家族、そして仲間や自分と関わる人たち、もしくはご縁いただいた人たちのことをどれだけ思いやり、大切にしようとするかというのはその人の自分に対する深い人間愛が根底にあってできるものです。言い換えれば、自分のつながりに感謝して自分が何か偉大なものとつながって生きている、つながりの中に活かされているという実感というもの中に役割でいられる自分の存在を実感するのです。

つながりの中にいるということは、共生していることへ感謝してそのつながりを強くしていくというのが愛なのです。つながりと太く強くするために、人はどんな時もそれを細く弱くさせようとするものと向き合っていかなければなりません。

特に貨幣経済が発達し、昔のようにみんなのものだと分かち合うことよりも自分のものだと独占したり一人じめしようとするからそのつながりがより薄れてしまう中に身をおいてしまうものです。

しかしだからこそ、より一層強い愛を学び直し私たちは次世代へ愛をつないでいかなければならないと実感するのです。

愛は、そのつながりを希薄かさせ弱体化させまさに切ろうとするときにこそ出していくもののように思います。どんなに社会がつながりが薄れ閉塞的で自分のことばかりを考えている人たちが多くてもそれに負けない強い新しいつながりをつくっていくのが生き方を見つめ、自分を強くしていくことなのかもしれません。もしくは、そういう社会そのものをもう一度見つめて本来の愛のある社会の価値を再認識して私たちが変わることかもしれません。

どれだけ人間のことを信じて助け合っていくか、そこに愛の尊さがあるように思います。

東洋や西洋の垣根を超えて、家族というものをどのように形成しているものか、子どもの姿から普遍的な愛を学び直していこうと思います。

 

やりたいことの発見~自分の道との邂逅~

人は遣りたいことがあるかどうかは、自分を持っているかどうかによるものです。そして本来は人間は生まれながらに自分を持っているのですから元々はやりたいことがあったとも言えるのです。

しかし世間や社会に育っていく中で、人は次第に自分のやりたいことを貫こうとすることに疲れてくるものです。例えば、自分がいくらやりたいと思っていても、それを押し通そうとすれば当然それが誰かの迷惑になったり、また出る杭は打つと好きなことをさせないというような機会に何度もぶち当たっていくものです。

私も思い返せば、小さいころから色々な場面や色々な状況で制止され自分というものを持つことよりも我慢することばかりを優先させられることが多かったように思います。

特に学校などでは、私みたいな多動で落ち着きのないタイプは先生にだいぶ迷惑をかけましたし、クラスの人達にも変わった行動や言動で辟易させたことも多かったように思います。変だということを自分が維持していくのも一苦労で、如何に皆に合わせて迷惑をかけない人になるのかを求められてきたようにも思います。

しかし、大人になっていく過程でもそれでもどうしても夢や志が捨てられず、自分を生きることに諦められず、我慢しない方を選んでいたらそれを見守ってくださる有難い師や友、そして仲間たちと出会い、今の自分でいいと実感できるようになったとも思います。

そう考えてみると、もともと自分のやりたいことは何かということを実現し語れるということは、己の道を突き進みそれを貫き通してきて得た自分を持ったということに他なりません。

つまりは、人が自分のやりたいこととも言える信念を堂々と他人に語れるというのは自分の道を歩む決意や覚悟を通して自分を持ったということであり、自分を持っているからこそはじめて他人にその夢や志を語ることができるのだと思うのです。

自分のやりたいことを語るのは、何が何でも自分のやりたいことをやりたいかと誓う信念のようにも思います。何でもやらせてもらえる環境というのは、信念を貫いてやりたければそれをやってもいい環境ということであり、自由に好き勝手やれる環境ということではありません。

今の時代に、信念を貫いてもいいよ、自分を持っていてもいいよ、己の道に生きてもいいよといった環境を用意しているところは大変希少だと思います。しかしそういう環境とは、実は大変有難いのですが自分を自分で律してでも取り組んでいく主体性が必要になります。

そこには選択するという自由に伴う結果責任なども求められていくもので、楽しいだけではなく厳しく自己との闘いに打ち克っていくという強さも必要なのです。そしてそれを見守ることこそが、その人の経験を丸ごと信じるという自他の主体性を引き出すことになっていくのです。

今の時代は、させられていることに満足したり、やらされていることに不満を言っても実際はやらないことに落ち着いてきている人たちがたくさんいます。簡単に言えば、生き方までは貫けずこの辺でと先に自分で自分の限界を決めてそれで妥協してしまうのです。

本来の自分の本性や本能といった、あるがままのいのちを活性化し生き切るにはそういう環境の中でも常に自分を律して自立していくために「自分を持つ」ということ、己の道を切り開くという芯の強さを磨いていかなければなりません。

この芯の強さとは、どんな現状があったにせよこの運命を戴いた以上はすべて道に由るという覚悟を決める勇気を絞り出していくことかもしれません。

私も圧倒的に叶わないなと思えるような師や先人たちの背中に支えられ、怖いけれど楽しそうだと思う好奇な童心に日々を追い求める実践の中での経験を深く味わっています。

自分のやりたいことを持ち、自分の道をそれぞれに突き進み、自ら切り開いた大人たちのその軌跡がきっといつの日か子どもたちの憧れとになると信じています。自分だけではなく、それを多くの人達へと弘げていけることが恩返しであると誓い、実践と経験を尊び楽しんでいきたいと思います。

誕生

先日、卵を温めていた烏骨鶏に雛が誕生しました。

もともと人工飼育したものは温めないものが交配されているので、難しいと言われていましたがそんなことはなく雌鳥が協力して交代で皆で卵を守り温める姿には感動しました。

その協力の仕方も大変興味深く、卵の上に重なり合うように寄り添っては、位置を変えたり移動したりと定期的に卵を持ち合う関係が交互に入れ替わり、また上手に転がしながら日夜温める姿に本能が対話する様子を実感しました。

また、残念なことに一羽はイタチかテンのようなものに襲われいのちを失ってしまいました。卵の誕生に近づくにつれて、周囲の動物たちも集まってきましたからそれぞれ野生ではどのタイミングで襲ってくるのかも知っているかのように思います。

自然界というものは、御互いに生き生かされ、そして死に活かされというように無常に循環しているものです。人間中心の価値観で物事を見ていると残酷に観えますが、本来は自然界から観てみたらそれは残酷ではなく互いに生きるということに真摯であるだけなのです。

私たちは本来、どのような本能を持って生まれてきたのかといえば自然と同じように生きるために必死で自分の内なる力を光り輝かせて生き抜いてきたのです。一生懸命に生きているものは、そのどれもが野性味あふれ、自然美を放ち、そのものの個性も光り輝きます。

物が溢れ、便利になり、すべての安心に囲まれてしまうと、その最も大切な生きるという一生懸命から遠ざかってしまっているかもしれません。食べることも、育てることも、それはすべて命懸けであるはずだったのです。

最近、ゆとり教育がどうだとか、頑張るとか頑張らないとかよく議論されることがありますが本来はそうではなく真摯に生き切ること、日々に死に切ることこそがいのちを活かすことかもしれません。この場合の死に切るというは、今に全身全霊を傾けて遣り切るということです。

雛が孵って見ると、子どもはどの子も可愛いもので生きる姿そのものに感動します。

誕生するということは、本来は私たちがこれからはじまる生死の間で繰り広げられるいのちの輝きを戴いた瞬間ということかもしれません。あの星空の星たちのように、それぞれの光を真摯に放ちながらその一生そのものを尊重してあげたいと思います。

いのちには教えられてばかりです、有難うございます。

至誠こそ自然の在り処

自然を観察していくということは、同時に自然の心の在り処を知るということになります。自然の在り処がどこにあるかを知る人は、自然に自然のことを理解していきます。

二宮尊徳の夜話にこういうものがあります。

「山芋堀は、山芋の蔓(つる)を見て、芋の善悪を知り、鰻(うなぎ)つりは、泥土の様子を見て、鰻の居る居らざるを知り、良農は草の色を見て、土の肥痩(こえやせ)を知る。 みな同じ。所謂(いわいる)至誠神の如し、と云ふ物にして、永年刻苦経験して、発明するものなり。」

これは意訳ですが、山芋堀の名人は蔓を観ただけでその芋が良質であるかが分かり、鰻釣りの名人は、泥を観ただけで鰻があるかどうかわかり、農の達人も草の色を観れば土中の状態が分かる。全て共通するものは純粋に実践し続けることでまるで天に通じているかのようになる。これも長年の真摯な精進によって発明が可能になるのです。と。

つまりは、純粋な心で取り組んでその純粋さを忘れないように自然の心に精通していけば自ずからその真心が物事を察知できるように意味でしょう。

穢れを払うというものは、この純粋さに近づいていくということかもしれません。自分の中にある眼差しの穢れを濁った水が透き通っていくように澄ましていくことで次第に物事の道理や本質がそのままに観えるということでしょう。

生きていれば、自分の中の狭い価値観や先入観、また我執によって本来の自然、つまりはあるがままの世の中の姿を歪めてしまうものです。情報が新しく入れば、頭はそれをパターン化してそのうちにパターン化したものを真実だと勘違いしてしまいます。

まるで赤ちゃんの時のような心や眼差しがあれば、よく周りは見通せますがそれが濁っていく中で次第に物事を自分の方へと都合よく変更してしまうからです。

だからこそ至誠、真心、純粋な心を育てていくことで世の中の真理や真実に近づいていこうと刻苦勉励して精進していけば必ずその実践がいつの日か自然の理に叶うということなのでしょう。

私も自然から学び直し始めて2年になりますが、今まで気づかなかった根の真理や共生の真理、発達の真理など、数々のものを自然に見せていただきました。そこから得たものは大変計り知れないものがあります。

至誠神の如し、至誠天に通ずと念じ、純粋な心、澄んだ魂のままにかんながらの道を歩んでいきたいと思います。