本懐を遂げる勇気こそ精進

人は、それぞれに感情をコントロールするのが難しくなかなか自分の価値観を抜け出せないものです。いくら全体にとって何が善いかを理念を定めてみても、それよりも感情の方に流されてしまえば何が正しいのかを見失い苦しんでしまうものです。

特に人間関係というものは、苦しみの中では常に上位に存在していてそのことで悩んでいる人が多いのも事実です。

自分を変えるということは、自分自身が勇気を出して日々の中で省みて実践していかなければなりません。どうしても自分を変えようとする前に、相手を変えようとしたり、自分と向き合うよりも向き合わなくていい方をとってしまうものです。

それは日々の小さな向き合いができないときに起きるように思います。大きな出来事があったときに乗り越える力となるのは、日々の小さな向き合いという努力と精進があってこそのように思います。

ここまでやったのだから仕方がないと思う事であったり、自分はこれだと信じて遣り切ったのだからこれで善いとか、信念を持って理念を貫いたのだから後は天にお任せしようという境地に達するように思います。それもまた、自力を尽くしてその時の自分の最善であったかと今を真摯に遣り切るしかないように思います。

過ぎたことを悔やむよりも、当下一念、今を正しくしていくしかないのが自分に与えられた唯一の人生だとも思うからです。逆境や困難は必ず何かの意味があり、そのものが渾然一体になったときいのちが奮い立たされ、福に転じることができるまで遣り抜けば、「あれは天からの贈り物であった」とご縁あった全ての人がいつの日か気づくことができるように思います。

東井義雄さんに日々の実践の背中を押してもらえる言葉にとても勇気をいただける詩があります。

『「小さい勇気をこそ」

人生の大嵐がやってきたとき
それがへっちゃらで乗りこえられるような
大きい勇気もほしいにはほしいが
わたしは
小さい勇気こそほしい
わたしの大切な仕事をあとまわしにさせ
忘れさせようとする小さい悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画にばけて
わたしを誘惑するとき
すぐそれがやっつけられるくらいの
小さい勇気でいいから
わたしはそれがほしい
もう五分くらいねていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよと
あたたかい寝床の中にひそみこんで
わたしにささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか
今夜はもう寝ろよと
机の下からささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
紙くずがおちているのを見つけたときは
気がつかなかったというふりをして
さっさといっちまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそわたしはほしい
どんな苦難ものり切れる
大きい勇気もほしいにはほしいが
毎日小出しにして使える
小さい勇気でいいから
それがわたしは
たくさんほしい
それに
そういう小さい勇気を軽蔑していては
いざというときの
大きい勇気もつかめないのではないだろうか。」

この詩は、謙虚に実践を積んだ含蓄のある大変意義がある境地のように思います。

理念や大義を掲げて遣り切るならば、それぞれが自分の信じた道を貫くことこそが尊いと思います。そうして小さな勇気を奮い立たせていくのが自分の人生のようにも思います。

これしかないと思いを定めた以上、勇気を奮い立たせて遣り切っていくことで本懐を遂げたいと思います。

する人~主人公~

人は、何かを行おうとし真理や法則を学べばそれを活かしてみようとします。

しかしそれがいくらいいと分かっていても、それを使いこなそうとしてもなかなか簡単に分かるものではありません。例えば、見守ることが信じる事だと言ったとしてもそれを自分の生き方にまで昇華できるかどうかは大変な努力が必要だと私は思うのです。

人間はどうしても、無意識に自分のやりやすい方、自分ですぐにできる方に周りを合わせさせ自分の方を変えようとはしないものです。つまりは、大変だらしない存在であろうとも思うのです。

早起き一つ、整理整頓一つ、親切丁寧一つもなかなかできないもので、いくらそれが善いと分かっていても気が付くと自分の欲や感情に負けて流されてしまうものです。

これは人間は元来強くない存在だからこそ、自分で強くなるためにも、いくら最初に決めたことがあったにせよそれを忘れないために自分を知り、自分を正し、そのための実践を心を籠めて精進し、日々に内省を続けていかなければならないのではないかと思います。しかしそういうことを怠り、自分で自分の努力をしなくなり、「する人」から「させられる人」になってしまう時、人は流されるのです。

そして「する人」とは、自らが決めた結果に責任を持つ人であろうと私は思うのです。

遣り切るという言葉もそういうところから生まれてきているもので、何よりも大事なのは主人公は自分だということを常に自覚し、だらしない気持ちを律し、怠けている態度を制し、常に理想や理念、夢に自分を近づけるために努力精進を継続していくことが「する人」になることであろうとも思うのです。

東井義雄さんの詩に「自分は自分の主人公」があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

どんなにつらいことがあったにせよ、どんなに自分のだらしなさに嫌気がさして苦しかったにせよ、それが誰しもに共通する人間というものであろうと思います。だからこそ、生き方を決めて生き方に沿って生きようと挑戦していくことこそが尊い実践だとも思います。

最後に、その東井義雄先生がこう言います。

「道はたくさんあるようだけれど、一つしかない、自分がどう生きるかの道以外にはない、テクニックじゃない生き方の問題だ」(仏の声を聞くより)

常に自分がどう生きるのかを向き合い、どう生きたかを向き合い、どう生きようとしたかと向き合い、他人を合わせ鏡にして内省して生き切ること。人生を受け身にさせられないように、より一層自らのいのちを輝かせ続けることこそが自分を大切にするということかもしれません。

人生の真の尊さもまた、そういう境地にあるのかもしれません。

実践できることに感謝し、今日も大切に理念の実践に取り組んでいきたいと思います。

安信

自分の存在価値を認められるということほど、人が安心することはありません。

人は誰かから評価されて生きる事よりも、自分自身の価値を自分で認識できるかどうかの方が大切であるように思います。そういう私自身も、半生を振り返ってみれば比較競争の社会の中で自分が自分のままでいいとはいつまでも思えず、誰かのモノサシや、他人に分かってもらえない苦しみ、自分の価値が正しく理解できずに自分自身が無理をしてきたことを思い出します。

結果としては、それも無駄ではなくその御蔭で弱い立場の人たちのことを知ったり、子どもたちが置かれている状況に共感し、信念へのエネルギーへと転換することができました。だからこそ、どうしたら自信を持たせることができるのかと正対しているのです。

実際に人は自分というものが、自分で満足できるかどうかはその人次第であろうと思います。いくら他人が見て偉業だと褒め称えても、その人が自分でそう思えないのであれば自信は積み上がっていくことはないからです。

自信が積み上がっていくというのは、自分自身が自らの存在を認めることができるときにはじめてできるように思います。例えば、自分のままで居ていいと実感できること、そうやって自分自身を丸ごと認めるとき自信というものは持てるようになります。

もっとシンプルに言えば他の人ができることが自分にできなかったとしても、他の人ができないことが自分にできていると実感できることだと思います。それは決して能力のことをいうのではなく、その存在が光っていると自分自身が納得できるかどうかによるからです。

そしてそれは、つながりの中で生きている自他との関わりそのものを尊重し認めることだろうとも思うのです。分断して分裂させ、排除し、孤立させるような価値観が人々の心に穴をあけてしまっているように思うのです。

人は色々な人が居て善いのですから、色々なことをしても善い社会があったらと祈ります。

そうしてそれは子どもたちもきっとそう思うはずです。だからこそ、私の目指しているような変な大人たちが増えていかなければならないと私は思います。変というのは、他の人と比べたら変だけれどその人の本性がそのままに出してもいいと思えるような見守る社会を創造することです。

変であるというのは、自分を信じるということでそのままでいいと自分が思うことは周りの人たちに自信をつけさせていくことではないかと私は思います。そしてそれが先祖代々の自らの民族の魂を受け継いでいる世界の中の存在意義になるように思います。

かんながらの道は、常に私にいのちへの自信を省みるように歩みを進めます。自信については、さらに深めて今後の実践の指針を決めていこうと思います。

世界の一人

人は自分の何を信じて生きていくのかというのはとても大切なことです。その信じていることが何かというのは分けている自分との折り合い、つまりはバランスが必用のように思います。

例えば、日ごろは表面上の自分が周りに合わせながら自動で環境に適応しようてしていくものです。その時の自動とは、脳が今までのパターンを分析して何をすればいいかというのを察知して対応することに似ています。それと同時に、今度は深層の自分というものがありそれもまた日常の中で自動で気づいて新たな環境に適応しようとします。それはまるで、心や魂が求めるものに従って突き動かされていくように求めていくものでもあります。

この両者の自分というものの折り合いをつけていくことが自分というものへの信頼になるように思うのです。自分への信頼というのは、表面上の人間臭い自分もそのままに表現することを信じつつ、同時に深層にある理想や理念を持っている自分のことも信じていくことのように思うのです。

人は自分というものをどれだけ信じることができるか、つまりはその両者渾然とした自分を如何に遣り切っていくかということが自分を生きたという満足感につながるように思います。世界でたった一人しかいない自分、天上天下唯我独尊であるというこの無二の自分というものを自らが信じたとき、はじめてそのいのちも輝きだすように思うからです。

生きているものすべてのいのちが輝いて観える境地というのは、まず自分自身のいのちが輝いているからであるように思います。自然には嘘がありませんから、そのままであることがそのままでいいのですから全てを用意してくださっているものに委ねながらもこれで善いと丸ごと信じて生きていくことが私たちが許された最幸の楽園、地球での過ごしたい理想郷なのかもしれません。

東井義雄先生に下記のような言葉があります。

『世界でただ一人の私を、どんな自分に仕上げていくか。その責任者が私であり、皆さん一人ひとりです』

どんな自分に仕上げていくか、その責任者が自分、そしてそれは一人です。

この言葉は大変な力があるように思います。

自分の生を自分で生き切り、その中で出逢う自分と対話していくということ。そこには、様々な自分勝手も、頑固さも、我執も我欲もあるでしょう。その上で、丸ごと自分が自分の真にやりたい心の声を聴き遣り切ってあげるために理念と実践で仕上げていくこと。

それが私たちの生きる醍醐味であろうと思います。

世界の一人である自分、その自分から日々を学び直して生きたいと思います。

個性を尊重するとは何か

日本の偉大な教育者の一人に東井義雄さんがいます。「いのちの教育」といって、子どもたちのいのちを輝かせようと生涯を取り組んだ方です。

その日記や詩には、自分の生死に向き合いながらいのちを輝かせようという生き方が観え、その真摯な姿には感動します。

私の知人にも、東井先生によく似た方が居て謙虚に遜り、いのちを大切に生きている方がいます。そう考えてみると、いのちを大切にしていくというのはそのものの有難さや勿体なさ、その尊さを常に実感している生き方であるように思います。

その東井義雄先生の教育方針として書かれたものに下記があります。

「どの子も子どもは星

どの子も子どもは星
みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう 」

これはまばたきというものが、まばゆいに変えるとより今の時代は理解しやすいと思います。そして光とはいのちそのものの存在の個性のことを言うのだと私は解釈しています。

子どもたちのまばゆいばかりの個性をいのちとし、それを見守ろう、正対していこうとするその真摯な教育の姿に感動します。先生の時代も、個性が埋没し、物質的な豊かさと裏腹に、本来の人間の持つ偉大なものは消失していった時代だったのだと思います。

その中でも、もっと子どもを引きだしていこう、大人が子どもの成長を邪魔をしないでいこうとして自らを常に戒めて優しく謙虚に生き切った姿に私たちが目指している教育者像がシンクロします。

子どものいのちを輝かせていくというのは、自らのいのちも輝かせていくことに他なりません。そしてそれが仏の教えそのものの意味と通じているからのように私には思うのです。

仏の教えの中には、そのものの中に仏がいると説きます。

その仏とは私たちの個性に他なりません。

それをどのように引き出すかは、自分の個性を引き出していけばいいのです。しかしそれには、周りに負けない信念の強さ、そして世界を自分の観ているような世界にするという絶対積極の主体性がいるように思うのです。

子どもたちが、今のようなものがあふれた時代であっても大切なものを出したままにしていくために、私も子ども第一主義にいのちを賭していきたいと思います。

他力と非力

先日から自力というものについて定義しています。

これはどこまでが自分の力でどこまでが他人の力かという見方がありますが、実際は自分の力も他人の力もそれは自他一体で働く力であるということに他なりません。

なので古語に、人事を尽くして天命を待つとか、自力を尽くせば他力が入るというものがあります。これもすべては、自分の力を出し切ることこそが他力を引き出し、他力が働くということは自力を出し切っているということです。

また浄土真宗の宗祖、親鸞は、「他力本願」という言い方をし『教行信証』で「他力というは如来の本願力なり」と述べています。これはさらに深い境地で他力を語るものであって、もともと流れている大道の中に入るという意味に私は解釈しています。

以前、私は不思議な体験をしたことがあります。

燕というのは、渡り鳥で大変な長い距離を経て私たちの国に春先には訪れ、秋口になるとまた南へと戻っていきます。これは、空のある場所に気流の風があり、その風に乗って往来するのです。

それはとても高いところにあり、旋回しながら高く舞い上がっていきます。そしてその気流の風に乗ればそのまま南の国まで燕を運ぶのですが当然、羽を広げ続けて全力で浮遊していないといけません。そうやって燕が自然の偉大な風の御力を借りて自らの生活を伸ばすのです。

私は他力というのはこの体験に似ていて、もともと自然の中に流れているものの力を如何にお借りしていくか。そのために、自らの刷り込みや偏見、邪念を取り払っていくために今に専念し尽力を果たすかということだと定義するのです。そうでなければ、「力」というものの本質が理解できないからです。

つまりは他力を活かすには、自らの内面にある囚われている小さな自分を取り払うことによるのだと思うのです。そういう時は、考えない境地であり今に専念し、自他が一体になるほどにそのものが分かれないところの佳境にいるように思うからです。尽力することではじめて無我夢中になり、その境地になると力の働きと一体になったといえるからです。

また、そうはいえども一般的に私たちがその刷り込みに囚われる理由には何かを当てにするからのように思います。何かを当てにしだすと、人間本来が持つ動物的な直観を含め本能が働かなくなっていきます。色々と恵まれすぎていると、すぐに依存してしまいますから自然の営みの偉大さ、その隠れた力が観えなくなってしまうということです。

なので本来の生きる力というものは、自然に在る力、もともと自らに備わっている偉大な力を信頼して自分を出し切るときにこそ働くものだと言えます。

それを最初から自分の力を信じずにその他の力でなんとかしようとするのは、決して他力とは呼ばず、それは力とは到底呼べるものではなく単に「非力」としたという意味なのです。自分を出し切らない人はよく自分の非力をすぐに嘆き相手に矢印を向けますがそれは他力を知らないからかもしれません。

本来の力とは、もともと備わっているものをどう自然に活かすかのように思います。それには天と同じく嘘がないものですから正直に自分を尽くしていくことが最善であるように思います。それは子どもたちの中にある心のように純粋で素直で無垢なものから学べるように思います。

せっかく生まれてきたのですが、楽していくのではなく、楽しくなるように全部丸ごと力を遣い切って同時に自分の力を信じ切って取り組んでいくことが幸せだと日々を新たに実践していこうと思います。

変化は自信

先日、長いお付き合いのある園にお伺いして私たちとご縁があってから今までの変化の経過を改めてヒアリングし再確認することがありました。

当初はなかなか新しいことを行うことに億劫で変化できずに試行錯誤し、大変苦労していらっしゃったのを思い出します。それがこの4,5年で劇的に変化し、今では外見も中身も別のようになっています。もう以前がどうだったのかも思い出せない程になっていることに、感動と尊敬、歓びを感じることができました。

そのお話の中で、一番印象に残ったのは「自信がついた」ということでした。

以前は、自信がなかったけれど私の一言や関わり、具体的に実践してみせることやアドバイス、周りの方々の見守りの御蔭でそれを素直に聴いてやったら自分も同じように実践しているうちに次第に自信がついたと仰っていました。

そして周りの職員の方々にも変化の経過を確認したら、同様に園長が変化し自信を持ち変わっていく姿を観て自分も同じように実践していたら自信がついて楽しくなったと仰っていました。

ここで両者から変わるということの本質が拝聴できたような気がします。

昔、映画の「プリティーウーマン」を観た時、変わるということの本質を深く考えたことがありました。自分が信じたその人が変わることで自分が変わっていくということ。変わるということは、互いの最良のところ、本質のところを信じて、それに向かって互いに精進していくことのように思ったのです。

あの映画では、貧乏で不遇から娼婦だった女性と、裕福でしたがビジネスライクで冷酷だった男性がもともと持っていた自分の本質の姿を互いに取り戻していくというものでした。本来のその人が、環境によって流されてしまっていたものが互いの努力と精進によって今までの環境に負けない本来の姿を取り戻していくことでした。

つまり、本来のその人が発揮されるには本来のその人が発揮できるような周りの信頼とその当人の信頼があって成り立つのです。互いに信頼し合う中で、自分を信頼できるようになっていくというのは、それは互いに本質を信頼し合うことができたということなのです。

自分が信じた人が、自分を信じれるようになり、自分で自分を信じることができるようになる。それを変化したということかもしれません。そう考えてみると変化というものは、そのものがより素晴らしく輝きだすことでそれを自信というのでしょう。

自信とは、本来のその人のありのままの姿を信じること。そしてそれが出てくるように何度も御互いに信じて挑戦して自分を変えていくことのように思うのです。

私が信じた人が、私が信じたように素晴らしい人たち、凄い人たちになっていくのに得難い幸せを感じます。感謝と有難さから、心も震えましたし何よりも互いに信じ合って頑張ってきた道のりに改めて自分の生き甲斐も存在価値も実感しました。

人が自立し、本来の姿のままでいられることは自分もそのままでいいと感じることにつながります。変化を楽しみ、本質を貫き、互いを信じてかんながらの道を切り開いていこうと思います。

自分の全部で

物事はその人の捉え方次第でどうにでも解釈できるものです。

例えば今の時代は、比較競争の中でのモノサシで判断することが多いですから誰かと比べてどうだとか、何かよりはどうだとか、常にそのモノサシは世間で評価される刷り込みの中で認識するものです。

自分というものがどうしたいのか、自分がどうありたいのかということを考えていても自分を誰かに必死に説明するために生きている人の方が多いようにも思います。

自分のことを分かってもらいたいと思うのが人間ですから、自分のことを伝えたいという思いは強いのでしょうが本来、その人が何かということについてはあまり語られることはありません。

その人そのものの価値を正しく自己認識している人は少なく、自分の価値がどうであるのかは誰かの価値基準にあわせて納得し理解していたりするものです。

本来の存在は全てにかけがえのないものだといくら頭で認識していても、それは何かを遣ったらとか、何か特別な能力があったらとか、結果を出したらとか、そのような大前提がまず存在しているように思います。

私はそういうときはよく花を思います。それはどんな花があったにせよその花は丸ごとでその花だからいいということ。

存在を丸ごと認めることができるというのは、自分を遣り切るからだと思います。遣り切る生き方というのは、自分の存在を丸ごとでいのちを遣い切っているほどに自分の全部で生きてみようと決めた時からスタートするようにも思います。

自分の全部でという思想。

ここに、智・仁・勇を兼ね備えた一己の人格があるように思います。

そうやって全部を出し切って生きることができ、死ぬことができればこれ幸いだと思います。
そうしていくことが自然の貢献であろうとも思います。

日々を楽みきっていこうと思います。

反骨精神

植村直己を調べていくことで、新たな一面を知っていくことができます。自然へ安らぎを求める人は、どこか人間社会では理解されにくい一面を持っているように思います。

周りから見れば、当たり前のことであっても自然美が分かる感性があるということはそれだけ繊細で神妙な心を持っているということです。それにそれだけ独自性がある人は、そのもので価値が光っているものです。

そういう人たちが、今の社会で生きていくのは本当に難儀なことではないかとも思います。それは軽度発達障がいの子どもたちや、特殊な個性を持つ子どもたちの扱いがあまり平等ではない現場をみると実感します。

自分が何をもって貢献するのかというのは、人々の人生のテーマです。

ひょっとしたらその人の本当の仕事は、今の社会にはまだ存在しないのかもしれません。
しかし昔は、そういう個々の使命を温かく見守り大切に緩やかに育ててきたようにも思います。

人はそれぞれに大切な唯一無二の役割がありますから、それを一部の大多数の社会の柵の中で歯車にして潰すということはあってはならないことのように思います。そういうゆとりと余裕こそが、新しい人たちへの夢と希望を譲る道になっていくからです。

天は二物を与えないといいますが、それぞれにその人の持つ個性はその人にしかなく、それを存分に発揮して世の中に貢献できる道もまた考えていきたいと思います。先般、オランダに訪問した際も日本の数倍の職種を国家が認めていて、大切な職種は守ろうとする思いやりがありました。これも個性を大切にしてきた教育の将来が社会に反映されているのです。

経済ばかり効率化ばかり、そして目先の損得ばかりを優先すれば本当の人財はこの国では活かせなくなるようにも思います。人権や民主主義とは言いますが、その実は数の論理で長いものや大きいものには巻かれろというように、要所要所に罠があるように思います。その古い慣習や人々の固定概念、新しいものへの嫉妬などが邪魔をしては子どもの心は動けなくなります。

私はこれからの世界にはより一層、多様な職業、色々な仕事があっていいと思います。そしてそれらが受容できるように、それをやってもいいという大人のモデルが子どもたちにはこれからはますます必用に思います。

自分の好きなことを仕事にしていく力が、まさに今の時代には求められているように思います。
その意義を伝えるためにも私はいのちを懸けています。

「ようやく此処まできたのだ、負けて堪るか」と真摯に弛まず諦めず、反骨精神を持って新しい世界へ挑戦していきたいと思います。

石橋は後で叩く

人は日々に様々なことを判断した集積で、その結果が出ているともいえます。変化していく日々の中で、常に決断をしていくのが人生であろうとも思います。

そして、新しいことをやるというのと、今までの古いことをやろうとするので未来は異なっていくものです。人が新しいことをやろうとするとき、今までの知識では補なえないことばかりが連続的に発生してきます。

あくまで予想はしますが、それはかつての自分の実力ややったことがあるかないかの経験から身に着けていくものです。そして恐る恐るできそうなところをやっていても、成功体験ができるわけではありません。

成功体験とは、勇気を出して遣り切ったとき、失敗よりも成功が勝っていると自分で実感できることのように思います。それは自分はやればできるんだという信頼感が芽生えるからのように思います。

何でもそうですが、やってみようと試みるのは思い切りが必用だと思います。分からないことばかりなのだから、きっと大丈夫、上手くいくというところまで自分が納得していればいいのです。そこには、見たくない現実もあるでしょうし、時には感情に流されてしまうこともあるでしょう。

そういうことに負けてしまえば、進むことよりも無難な事であるほうを無意識に選んでしまうものです。しかし、時というのは、自分が流されれば揺れ戻しがきますから努力精進しなかった分は、激しい変化として目の前に現れてくるものです。

植村直己の尊敬していた、日本の登山家で探検家、創造技術者の西堀栄三郎にこのような言葉が残っている。

「新しいことをやろうと決心する前に、こまごまと調査するほど、やめておいたほうがいいという結果が出る。石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、おそらく永久に石橋は渡れまい。やると決めて、どうしたらできるのかを調査せよ。」

新しいことは、まずは決心すること。そして決心したらやるかやらないかを悩むのではなく、どうしたらそれができるかを先に考えて詳しくは後からそれを調べればいいという具合でしょうか。これは大切なことで、先に決めてしまわなければいくら調べて調べて出てこないことは人生で何度も経験があります。

つい先に、理論や理屈、証拠からと思っていますが自分で先に決めたならそこから調べていくなかで観えてくるというのは、物事は決めたことが勝負だからかもしれません。どんなこともやってみたことなどはないことが理層に挑むのですから大切にしたいと思います。

さらに西堀さんは言います。

「チャンスを逃がすな。まず決断せよ。石橋を叩くのはそれからだ。」

勇気の出る一言であろうと思います、最初は誰でも失敗するものですが決めたということはとても尊いことのように思います。自信もそういうところから生まれてくるように思います。先に自信であとに結果ではなく、結果が出るから自信が持てるのは自明の理です。

決断を楽しんでいこうと思います。