一人ではできない

人はなんでも自分ひとりの力でできると勘違いするものがある。特になんでも遣り切れず誰かのせいにして生きていると、これは自分ができたのに何かのせいでできなかったと言い訳をしていると自分ひとりではできないということに気づくこともない。

何でもそうだけれど、自分がその自分ひとりでできると勘違いし、自分ができないということを受け容れないと自分ひとりでやろうとしてしまい周囲に迷惑をかけてしまうものだと思う。

周囲に迷惑をかけないとは、自分一人ではできず周囲のお力をお借りしているから自分はできるのだと謙虚になることを言う。

周囲に迷惑をかけっぱなしになるのは、そういう謙虚さがないからであり自分が一人でやっているのだと勘違いしているからである。そういう人は自分ばかりで責任を負い、自分ひとりでやったのだと思いたいだけの自己満足の世界に浸ってしまうものもある。

若さというのは、自分はどこまで通用するのかを試したいし、自分の力をもっと伸ばしできることを増やしたいということもある。しかしある程度まで遣り切れば、どうもこの成果は自分が出したものではないのではないか、これはどうも何か周囲の不思議な力や人々の親切や協力の御蔭だったのではないかと気づくものである。

そうなれば、みなさんの御蔭なのだから自分がやったのではなく自分がやらせていただいたとなり役割というものを周囲と明確に持つことができる。その自覚をしたことを迷惑をかけないということであり、その先に自立と貢献というものがあるのだ。

よくなんでも自分が結果を負うばかりに、自分だけがそれを遣れば何とかなると視野狭窄になる人もいるけれどそれだって会社の経営資源を使われていただき、会社で留守を守る人がいて、会社を今まで助けてくださったお客様や先人たちまたはその周囲には銀行から顧問、国家に至るまで様々な方々のお力添えがあったから今自分がこういうことをさせていただくのだ。

それをまず自覚することがもっとも自然に理に適ってくるのだ。

自分の人生においてまで、自分がこれまで生きてこれたのはまず両親の御蔭、そして周囲の方々のご支援、学校、病院を含めた社会から国家、など当然そのお力をお借りして今は生きている。

そういうことを思わないというのは刷り込みであると私は思う。

まずは、心を周囲に開き周囲のお力添えにすべてを委ねていくことが協力を引き出すことであり自らも協力に参加していくことでそれが自然の共生である。

とにかく自分ひとりでできるという傲慢な考えをその間違いの刷り込みを捨て去らなければ、何をどう協力しようとしてもできはしない。どこかでそれを心で思っていたらやっぱり相手にやってあげたや自分はやっているなどとつまらない概念にさいなまれ人はそれを嫌悪するものである。

本当に偉大なことをしたいと思ったりすれば当然必要なことだし、人は自分だけの力では何もできないということを自覚すること。そしてどんな小さなこともすべては周囲の見守りの中でできているということを知り、自分の役割を果たすことに喜びを感じて繋がりを感じながら生きていくことが人生というもの。

一人でできるという刷り込みを捨て、最初からみんなの御蔭でできているとしそのお力をお借りするためにまずは自分からお手伝いをさせていただこうという謙虚な心でいることが自立したということだと気づくこと。

子ども達には、そういう自分勝手に生きることを大人が教えるのではなくみんなの御蔭で善かったねと声掛けをし一人ではないということ、いつも皆が見守っていることを伝えて安心できる社会を創造していきたい。

まだまだ刷り込みだらけのこの世界、自分のやるべきことは明確にある。

自然体

自然体で生きるという言葉がある、これは自分らしく生きていくということでもある。

では自分らしく生きていくとは何かというと、自然と寄り添い自然と自分を調和して生きるということを言うのだと私は思う。これは決して人間界の中で人間と調和していこうとすることは自分らしくということはない、それは自分をなくしているとも言っていい。

本来の自分らしくとは、全て世界総合体の中の一部として調和しているから自分らしいのであり、もしもそれが一部の切り取られた境界の中ではそうではない、それはそこで作られた誰かを対象とした自分というものがあっただけということになる。

自分を存在さしめているものを全体として観たときに、自分を存在させる何か不思議なものと調和してこそ自分らしくということになる。自分を存在させてくれているものを忘れそこを無視し自分らしくというのは自分らしくではなく自分勝手であるという。

そういうのは謙虚ではなく傲慢であるという、なんでも自分ひとりの力でやったと思いたいのは自分がないからである。自分がひとりでできたのは、周囲のすべての力をお借りしたからだと気づくことが自然の一部であるということを知っているということであると私は思う。

自分が存在できるのは自然の御蔭なのだからこそ、私たちは一生の中でその自然から学び自然の中の一部の役割を果たすためにも自分の遣りたい事や自分にしかできないことを存分に発揮していくことで周囲の生命と活かし合い調和していくことができるのであろうと思う。

つまり自然体というのは、自然と一体になるということを言う。自然の心で生きていくことを言う。それは刷り込みのない当たり前のことを悟るということでもある。あの自然の中に生きている数々の生命と等しく自然のままに自然に委ねて生きていくとを感じつつ自分の命を自分らしく真摯に生き生かされているということだ。

「自分らしく生かされている実感に満ちている」こと、それが無理がないということだ。

そういう風に、自然の摂理の中で私たちも自然のあるがままに自分の命を体現していればあの自然界の生き物たちのように生き生かされているという風に周囲にも観えるし本人も深い幸福感を味わって納得した自分の道を自分らしく正しく歩んでいくことができるのだと思う。

無理をしないとは自然に反しないということが自然体ということだと私は確信している。つまりは繋がりを感受して受容し周囲のお力をお借りようとしていることを言う。そして謙虚にいただいたものをお返ししようとする心である。

だからこそ私は山に海に空にまたは星に宇宙に学び、その学びを科学してもっとも自分らしくいられることを探そうとするのだとも思う。

西洋世界から入ってきた対処思想に東洋世界が持つ根源思想とは人間界と自然界という隔たりが存在している。しかし、人間は必ず自然と共生し変えていいものと変えてはいけないものを長い時間をかけて学びそしてそこから本来の自然体を見出してきたのだと信じている。

自然科学の温故知新で時代のニーズにあわせつつも、その瞬間瞬間の今は受容し無理をせず、自然の中にある姿のままで今の時代や世の中で自分らしさを発揮して生きていきたい。子ども達にはそういう自分が自然から学び自然から得ているものをあるがままに伝えていきたい。

自然の中で磨く感受性がなぜ無理をしないことになるのかを、我が人生と実践を持って現場から変えていきたいと思う。これからも人間がよくやる余計なことに持って行かれないように戒め、自分らしく自然とともに生きていきたいと思う。

感謝。

同じなどはない

先日、自立支援をミッションにしていたカグヤクルーが産休に入ったので皆で安産を祈念しつつ七草粥やおしるこなどを振舞い無事を見送った。いつも励ます方のクルーだったけれど、励まされるのは苦手そうで照れていたのが印象的だった。

皆で色紙を書いて絵本をプレゼントし、来年入社の社員から「お待ちしています」とあり皆で声をあわせて待っていることを伝えてお別れをした。いつも感じるのだけれど、未来に希望があるから悲しくはないけれどさみしいと感じるのはそれだけ繋がりの中で絆を大事に仲間を思いやっているからそう思うのだと思う。

物理的な距離感とは別にいつも思いやったり心配したりしている関係の中には確かな愛の絆が存在している。子ども達でもそうだし家族でもそう、心配し祈っている糸を日々紡ぎ合わせることで繋がりが豊かに篤くなっていくのだろうとも思う。

そして子どもの誕生のことで考える機会があった。

よく仏陀の誕生の際の言葉で、天上天下唯我独尊ということを聞くけれど本当のことはよく知らないけれど意味はよくわかる。

これはどういう言葉かというと、そもそも同じではないという意味であるということだ。よく一人一人が同じではない、みんな違ってみんないいというような言葉はよく使われているけれどそれを本当の意味で理解するにはそもそも同じというものがこの世にあるという刷り込みを捨てなければいけない。

人は最初から同じということはありえない、どんな生命であれ一つとして同じものはない。たとえば、生命は繋がりの中にあるのもであるから生き方や経過などで形は常に変化している。

あの葉っぱ一枚一枚に同じものがないように、虫も鳥も魚も人間も同じ人は決して生まれない。いくら成分を同じにしたとしても同じということはない、似ているものがあったとしても同じものではないということだ。

その同じではないということが尊いということなのだ。言い換えれば同じというものがないことが何よりも尊いに気付き同じというものは決してあり得ないと自覚することが他をを尊重し自分というものを尊重することだということなのだろうと私は解釈する。

八百万の神々ではないけれど、同じものがないから自然であることができる。

それをもし同じものがあると少しでも勘違いすると、粗末にしたり不必要だなどと思ったりするのだと思う。たとえば分類として似たものがあるけれど、似ているからと同じであるものではない。分類上は私たちは人間だけれど、同じ人は決していない。そういう意味になる。

新しい命が誕生するということは本当に嬉しいことであり、みんな同じではないからみんながそれぞれたった一人として何よりも貴重で価値がのだといつも証明してくれているようにも感じる。

今は自己肯定感が低い社会がこの国には蔓延しているけれどそれは同じであることを強要して間違った刷り込みにいて同じであることを求め同じでなければ不安になるというゆがんだ人間社会の権力構図が縛りを与えているけれど人は自然から学んでもっと自分自身に誇りを持てるようになる時代が必ず来る。

それまで子ども達には、同じというものがないということを当たり前に自然を通じて感じる力を育て、一人ひとりが自分らしく自然と調和して生きられるように見守っていきたいと思う。

同じという刷り込みを取り除き、それぞれが違うからこそ認め合い助け合い世界は全てが必要なのだと受容することができるように保育していきたい。まだまだ何のためにや本質に触れる機会が少ない人たちに大きな愛で自分らしく道を歩むことで波紋を拡げ伝道していきたいと思う。

時点と時空

時というものを考えてみると、今という感覚をどう受け容れるかということにすべては繋がっている。

今の積み上げたものが未来となっているのだから今というものに真摯に生きていかなければ、過去や未来のために生きることはできない。

そう考えると、時と物語とはその時点を示すものでありすべては途切れず繋がっている道程なのだからその時々で過去の物語も塗り替えられると同時に、未来の物語も新しく塗り替えられていくということになる。

人間はつい、この今の時点や短期間だけを切り取って物語を作ってしまい、その時点時点でそれが最高だと勘違いしてしまうものだけれど、実際は幸不幸、最高最悪もすべてひっくるめた今こそが全体の一部だという感覚を忘れてしまうものだと思う。

そうしてしまうと、過去のある時点に戻ろうとしたり、未来のある時点に設定しそればかりに執着してしまうと今を感じるという感性や総合的に丸ごとあるがままにあるということが観えなくなるのだとも思う。

よく人はいつまでも昔のことを覚えていけないという、早く忘れるということは謙虚なことだということもある。また逆に、いつまでも未来のことばかりに囚われて執着してはいけない、足るを知り感謝をしていくことが大事なことだという言葉もある。

これはすべて今というものを受容して、今が調和していることを感じなさいという智恵のことをいうのだと思う。過去や未来は時点で区切ることはできても、今というものは区切れない。それは時が流れていて変化が已まないものであるからだ。

無為自然の境地とは、時点というものと時空というものを超えた空間の中にある感受性や神秘性の瞬間と永遠の狭間に存在しているものではないかとも思ってしまう。

植物でもそうだし、動物でも昆虫でもそう、生命が無限に循環する瞬間を感じているとそこに永遠性が見えてくるように自分の人生というものを時点で区切らずあるがままの今を受け入れれば自然であることがもっても価値のあるものではないかとも感じるものではないか。

いつまでも過去や未来にばかりとらわれず、本当の今をあるがままに受け容れて時を超越した今というものを味わいきっていきたい。

過去の亡霊や未来への妄想に苦しむことなく、今がもっともよいものとし関わった人たちやこれからの出来事を素直な心で受け容れていきたいと思う。

子ども達には、自らの体験を通して学んだすべてを受け容れるという本当の強さと優しさを示していきたい。

目的と手段

目的と手段というものがる、その目的を達成するためには様々な手段を使ってそれを実現していくのが人生なのだと思う。

そうしていく中で時として手段が目的とはき違えてしまうこともある。例えば、何のためにそれをやるのかという問いをする場合、それをすぐに目的が言える人と手段しか言えない人とがいる。文字通り、目的が言えるのはそれが何のためで何処に向かっているのかを理解している人であり、手段しかいえないのは何のために何処に向かうのかを知らない人であるといっていい。

人生も仕事も同じく、何のために生きるのか、何のために働くのか、何のためにこの人たちと人生を共にするのかなどを考えず、闇雲に受け身に流されていては近視眼的なところの出来事にばかり目を奪われ本質的であることを忘れてしまう。

そういうことになるのは自分が全てをすることになっていないから甘えられるのであり、全ての責任を誰かのせいにしてしまえる土俵にいつまでも自らを置いているからでもある。

目的を持って取り組むということは、誰かにしてもらうややってもらうことではなくすべては自分が何のためにかということを常に問い続け役割を果たすことをやっているからできるのである。

しかし忙しくなったり余裕がなくなれば近視眼的になってしまうことということは時折あるもの。これは師からの教えにもあったのだけれど、車酔いで例えれば近くばかりみているから酔っているわけであり遠くを見ていればあまり酔いはしない。しかしだからといってあまりにも遠大なところを観ても効果がない。少し遠くを見ながら近くのことも見えている状態というのがもっとも自分を目的にあわせていけるのではないかと思う。

そうやって目的を見定めて遠くを計れば何をすればいいのかという積み上げていくべき手段というものは必要なことは徐々に善く分かる。

そしてそれを兼ね備えた一流と言われるビジネスマンは、なぜ一流なのかというと何のためにや本質であることを重視するためにそれに必要なビジネス上のスキルやマナーなどを体得していくからである。

それは目的に到達するための単なる手段として粛々と研鑽を積むのだ。

ここでビジネスマンにある大切なビジネスマナーというものもある。

細部を言えば、あいさつ、服装、話し方、書き方、などからさら大きくすれば、責任、約束、時間管理、思いやりや部下指導などビジネスマンとして持っていなければ信用されなくなるからマナーというものがある。

これもあくまで手段であり、当然目的として何のためにがあってのものであるから目的次第では習得すべきものも変わってくる。

もしもコンサルタントであれば、相手に一目もに二目も置かれるのだから当たり前のことを遣っていてもだめでそれが本質的に目的に沿ったものでなければ効果もない。常に当たり前以上に価値を維持するために緊張感を持って日々にチャレンジしていなければ価値を維持できない。

私たちで言えば子ども第一主義を行うために必要な手段として、様々なビジネスマンとしてのマナーと教養、そしてその社会の中での自覚を身に着けることがまず肝心であるのだと思う。

よく保育者や教育者も最近はそういう自覚を身に着けなくてもいいやと何でも「まあいいか」でいい加減にしている人がいるけれどそれでは相手は話も何も聴いてもくれなくなる。

子どものことなど大切なことを扱うのならば当然、必要なマナーは習得しなければ人間関係を正しく維持するための土俵にも乗りはしない。働き甲斐や遣り甲斐、生き甲斐をもって楽しく豊かに人生を充実したものにして人々と共生し貢献するなら、当然その手段としての相手を心地よくしない行為はすぐにやめるようにしないといけない。

本質であるとは、当然知行合一の実践ができているということが前提であるからだ。

ピーター・F・ドラッガーのこういう言葉がある。

「組織にも個人にも価値観がある。組織で成果を上げるには、個人の価値観と組織の価値観が共存しえなければならない。そうでなければ、心楽しまず、成果も上がらない。」

どんなに自分の価値観に執着しても、組織にも価値観があることを知り、それを自分の価値観と共存するための努力、つまりは心配りや配慮、心地よくしていこうということがなければみんなが楽しくならずそうなれば組織や会社全体としては成果が一向にあがらないということだ。

皆を楽しくするのは、自分だけが楽しければいいのではないし一部の特定の人に自分だけを売り込めばいいということではない。自分の価値観ばかりを通そうと躍起になれば人はみんな心苦しくなってくる。

自分が組織の一員を自覚するとき、その組織が一体何のために存在しているのか何処に向かおうとするのかを何よりも協力して優先していくことで自分の価値観を共生させていくということを自覚することが第一であると思う。

今は、自分本位に自分の価値観ばかりを優先して周囲のことをあまり気にしないという自分勝手にいることが自由だとはき違えている人が増えてきている。

ピーター・F・ドラッガーにさらにこうある言葉で締めくくりたい。

「果たすべき役割を問い直すとき、責任が生まれる。責任を持つとき、はじめて自由となる。」

ビジネスマンとしての本質とはそれのことである。

カグヤクルーは世界での役割がはっきりしている以上、まずは自立した一流の人材として自分を育て成長させていくことで、目的を達成するために必要なすべての手段を習得していくことを子どものためにも実践していってほしいと思う。

大事なものを守れる本当の強さを手に入れていこう。

公私の別

自分には、主観的なものと客観的なものがあるように私的なものと公的なものというものがある。自分が全てであるのか自分が全体の一部であるのかを思うとき、自分という存在の認識は自分がするものだけれどしかし総合的に観ればそれはあくまで自分は他の存在の中で自分というものを認識できているものだ。

つまりは、人はエゴで突き進めば不調和を生み、エコで循環させていけば調和を生むという風に私と公というのは大事なことだ。コツがあるとするならば、普段は利他の心で人々のために自分を役立たせていけることに喜びを感じていればその中に自然に自分という私の感情を満たすことができるというものであろう。

まず公が優先で私は後というのが楽な生き方であり、私を優先すれば公が立たなくなり住み難い社会が生まれ今の世の中のように自分勝手ににする人たちが増え周囲を心地悪くし、仕返しなどとしているからそのうちに倫理道徳が立ちにくくなってくるものだ。

あくまで全ての仕事は公として人々のためにあるものだと大前提にし、まずは自分の私腹を肥やす方を優先するのは大人として恥ずかしいと思うことが大事なのだろうとも思う。それは、今の時代はよほど強くそれを思っていなければ維持することも難しいから気を付けることだ。

今は原理原則や倫理道徳は、当たり前ではなく日々の実践で習慣にし決して刷り込みに流されないように何よりも主体的に強い信念で維持する時代だということだ。

例えば幼稚園や保育園でも園児募集などに力を入れるけれどそうではなく保護者や子ども達など地域コミュニティを優先しそのために尽力していけば自然発生的に園児は増えてくるしそうしていれば、地域から子どもたちがいなくなったりはしない。

無理な園児募集で競争するから地域が喪失し、そしてまずは園児がいなければと私的な方を優先するからいちいち宣伝しないと園児が集まらないと錯覚する。企業も儲かるからとより競争を促していくけれど、福祉や教育の会社としての役割は本当は何なのか考えるべきである。

本来地域のためにどれだけコミュニティの場や環境を用意しているかでその園の地域での存在価値が生まれるものであり、もっとも効果を出したいのなら本質的であればいいだけで本質にこだわることで効果を発揮する、それは本質的だからこそ時間がかかっても無駄のない合理的で間違いないものが出来上がるというものだ。

何かがあるとすぐに焦り、公の立場を忘れ私的に走るのは強い思いでの実践の習慣が身についていないことであり信念を育む志がまだ根ざしていないからでもある。子ども達がいる地域コミュニティをどうやって構築していくかは幼稚園の使命でもある。保育園は家庭で失ってはいけないものを大事にしつつ援助し、どれだけともに子育てしていくものにするのかが重要なことだ。

常に本質的であることを忘れては変化に置いていかれるのだからよく遠くを見て感性を磨きいつも全体を捉えて自分を変えていく努力を忘れてはいけないのだ。それが子ども達を真ん中に置いていることであり、それが我々大人の仕事であることだと私は信じている。

子どもを真ん中に置いて競争しているのでは、呆れてしまう。もっと、自分を変える努力をし時間がある限り、使命がまだ残っている限り、その命を地域や子どもを見守るために遣っていくべきであると私は思う。

常に、公私の別は誤解してはいけない。もともと私腹を肥やすために仕事は生まれたのではなく、多くの人たちと協力して大事なものを守る強さと優しさをみんなで育むために仕事はある。

もっと大事なものがなんなのか、自分自身の在り方により示していこうと思う。見守るということの本質を訴えかけていきたい。

2011年のテーマ

昨年も本当に色々なことに気づきまた新たな出会いと発見と感動があった一年になった。年々有難いのは、常に周囲に素晴らしい人たちや子どもを愛する人たちに溢れ本気で人生に向き合うことから逃げず道を楽しもうとする人に恵まれていることであると思う。

一期一会を座右にし、出会いというものが自分を導いてくださるのを実感するとこの時代にめぐり逢い幸福を分かち合いながら共に歩めることに何より感謝しています。

昨年も師の背中や現場の実践から王道というものを学ぶことができた。常に成長を已まず刷新していくその姿に人としてどうあるべきかという生き方のモデルを見せていただけるのは我が童心の鏡であるようにも思う。

今はその憧れとともに、同じくたくさんの人々へその真心が受け継がれていけることを祈るような気持ちのまま社業を邁進しています。

そして有難いことに今年もまた新たにテーマをいただくことができた。

それは「あるがままに今を生きる」ということ。

どの時点を最高とするのかはその人の考えによるもの、たとえ過去の最高時に戻ろうとしてもそれはできず未来の結果を最高としても今の積み上げたその結果が未来なのだからそれもまた同じく往こうとしてもできることではない。

この今こそが一番最高だという「今」というものを如何に楽しめるかということが、何よりも素晴らしい未来と過去を築き上げていくことだということなのだろう。

しかし頭でいくら分かっていたとしても、実践現場では頭でわかったものは通じないからこそ心の感応力で今を見つめるために日々のテーマというものがある。

私は、どうしても何でも無理にでも押し通し何とかしようと力みすぎることがある。それをすることでその時は全て何とかはなっているもののその無理をした自分の分をあとで修正するということを繰り返すことがある。

何でも遣り切るということは大切なことだけれど、今の自分を全面的に受け入れることもとても大切なことなのだと思う。

この今の自分は過去と未来のつなぎ目の自分であり、そこが澄んで清らかで明るく素直かというのが私のかんながらの道の実践道義でもある。

だからこそ、今というものを全面的に肯定し受容しその今の状態をより楽しむために日々の発見や発掘、感動や青春を一生涯続けていくことがより我が道を究めるということになると信じることだ。

それを改めて感じていると、師の愛の深さを感じて改めて感激に満ちる。
この恩寵を多くの世の人々へ還元してくことで示していこうと思います。

いよいよ今年も一年はじまった、社会はより切迫さを増してきている、だからこそ遠くを観て鑑照しつつ春に種を蒔き、秋に実ることを心に定め、今の社業をリ・ブランディングしていく最高の今を楽しみながら刷新していきたいと思う。

子どもたちの心に平和の灯を広げつつ、明るい人格を豊かに味わい尽くして楽しんでいきたい。

感謝

豊かな社会

今のこの国の社会は、競争原理に根ざして人を無理に自立させようとする風潮に塗れている。

一見、平和という形はあるように見えてもその陰ではいつも競争を迫られそのままであることを否定され優しい人たちはみんな疲れ果ててきている。そして一つの価値観で社会を治めようとする画一された上下社会の息苦しい中で誰かと比べられることを恐れて生活しているようにも思う。

平均で収まることを良しとし、平均以内でいることで束の間の安心と安定というものを味わっている節すらもある。

それは本当の意味で安心しているとはいわない。

自分らしく生きていくことを自分で決められ、その自分らしく生きていることを周囲に認められることが社会を安心できるものにしていくのだ。

多様性を認めない社会というのは、常にある一つのかたちを強要しそのかたちにあわせて環境を用意していくことを言う。それぞれの個性を活かすなら、自由というものをもっと考えないといけないと思う。

自由というのは、誰にも決められず自分で心を決められるということだ。

そしてそれを決めた人たちをそれぞれが認め合うようにすることで自分が決めたことをみんなに手伝ってもらえるようになるということだ。

それを一つの価値観を最上のものとし、それ以外はオルタナティブだと蔑み、その物差しを一部の少数意見だからと認めない。

それで果たして本当に善い社会が築けると思えるのだろうか。

人がなぜそうならないかというとこれだけ周りの環境が個々の利益を優先され、便利に早く拡大させようとしたツケが対処療法を生み出し、根源治癒を怠っているうちによりゆがみや歪が広がってきたのだ。

何もしないでおくこととは、やり方の方向を転換することでできるのにいつまでも対処療法ばかりをしているから顚倒することになるのだろう。

根源治癒とは、もともとの自然のようにそのものの価値を認める事、神道にあるような八百万の神々としてそのものの価値をそのままにしていく社会を私たちが取り戻すことでもある。

その中で競争は他とするものではなく、自己を磨き合うという切磋琢磨、つまりは質を高められるようにと学問をしていくことが素晴らしい社会を築き上げていくということになるのだろう。自分自身と競っていくから人は成長と発達することの真理を遂には悟り自己を丸ごと肯定することができ、そして世界に一人の自分に誇りと自信を持てるようになるのだ。

今の時代はそういうことに気づいている人たちも増えてきている。

そういう人たちが自分の持ち場で志を遣り続け持ち草莽崛起してリードしていくことで、世の中をより安心した社会へと導けるのだと思う。一つの価値観の中で染まっていることに騙されてはいけない、もっと自由に自分らしく生きていくことを恐れてはいけない。

人はあるがままの時が一番光のだからこそ、あるがままを認められるように自分が勇気を出して自分の価値観を発信し世の中のために堂々と使っていくことである。

そういう人たちを支えてくれる人たちは世界にはたくさんいることを忘れてはいけない。子どもたちのより良い夢や理想、現実を正しく伝え自分らしい人生を歩めることを見守るためにもまずは自分自身が率先垂範していきたい。

全部できることではなく、自分はこれができるといえる心優しい人たちが守られ尊重される豊かな社会を築き上げるために尽力していきたいと思う。

慈愛

昨年は、一年を通して機会のたびに鞍馬寺にて学ぶことができた。生活の中でいくら気を付けていても無意識に他人への思いやりに欠けることがあり、自ら誠を尽くしていくことが難しくなる時もある。

そういう時は、なぜ人との関係でこんなに悩むのかを考えてしまうことがある。そういう時、多くの人を受容している方々の実践を観て深く反省することが多い。

私はまだまだ誠意が足らず、どうしても自分本位に考えてしまうことが多い。自分が苦手な人を避け、自分が嫌だと思う人がいれば優しさに欠けてしまうことがある。また逆に、自分都合で解釈してしまうと相手を得意な人とし近づけ、自分が好きだと思う人ばかりに優しくしてしまうことがある。

どちらにしても自分本位であり、相手を慮り思いやる心がまだまだ鍛錬されていない証拠であると思うと本当に申し訳ないと思うことがある。相手によらず自分が誠を尽くしていけば自然にどんな人たちとも自分の誠実さで接することができるのではないかと思うとまだまだ泰然自若には程遠いし課題が沢山ある。

人を愛して天を敬うに西郷隆盛の実践がある。

「己を尽くして人を咎めず。我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。我を愛する心を以って人を愛せ。自己を許すが如く人を許せ。人を責めるが如く自己を責めよ。」

意訳すれば「自分自身を尽くすことをし他人を咎めない。そして自分の誠意と真心が足りないことを常に自問自答すべきである。自分を愛するような心をもって相手を愛すること。自分を許すように相手を許してあげること。他人を責めるように自分を責めなさい。」ということ。

つい人は自分のことは棚に上げて他人のことを断罪したり叱責したりすることがある。しかし本来、それは自分にも同じものがあるものであり相手ができないならばそれを教えてあげたりそうならないようにと諭してあげればいい。

それなのにできないからと相手を責めるのはやはり自分自身に相手を思いやる心に欠けているからそういうことが起きるのだとも思う。

別に聖人君子になろうとして周りから良い人に思われたいわけではなく、天の心に通じて天と一体になることで自然に溶け込みたいと思うが所以なのであると私は思う。

天という偉大なものに生かされていることを知った時、人はその恩恵に感謝しお返しするために自立しようとするもの。その自立をするためには、やはり人を愛さなければかなわないということだと私は思う。

天の慈愛を自分の中に見出し、自分の慈愛がそもそも天から授かったのものであると気づくことこそ誠を尽くすということであるのだと私は思う。

私の美点に、相手を選ばず常に最大級の愛で接し用とすることだと周囲の方々から教わったことがある。それはきっと、それが自分が愛と繋がっている絆の場所だからであるのだと思う。

同じ絆への強い執着を仲間との愛につなげていけるよう、より慈愛の心で苦手なことやできないことを諦めて豊かに接していきたいと思う。ただ己の誠を省み、人を大切にして生きていくことが子どもたちの見守るにつながると信じて実践を深めていこうと思う。

三日坊主

脚下照顧し、立志を透徹するために学問をし日々を大事に過ごしていき道を安じていく中で今はコンサルタントという仕事を正しく行うことが本業をするということになる。

自分自身ではないけれど、それを人に及ぼしていくというのは本当に難しいことでありどんなに才能豊かな人でも弛みない継続と努力なしには花も実もつけることもない。

ただ安楽を貪り先祖の遺徳を使い切っているのでは、子々孫々へもそういう怠慢怠惰な人格を引き継いでしまうことになる。強い意志を持ち、士魂の精神で人々の苦しみを救済していくこと、人々に貢献することを決意するなら俗物的な人生に流され歩むわけにはいかない。

自分の人生を志のために使い切ってこそはじめてそこでそこで立派なコンサルタントであることが示されそれを究め実践する姿勢、それがこの道を目指す処であり平常のあるべきようだと年々思う。

吉田松陰の弟子に品川弥二郎がいる、松下村塾に入塾していた時は15歳の少年だった。とても正直で素直な明るく無邪気な性格であり、学問の可能性が高いことを見抜いた松陰は他の塾生とともに真剣に接した一人であった。

その弟子が様々な俗事で塾に来れなくなたっとき、松陰は下記のような手紙を送った。

「弥二の才、得易からず、年らなりと雖も、学功なりと雖も、吾れの相待つこと、則ち長者に異らざるなり。如何ぞ契かつ乃ちしかるや。時勢は切迫せり、豈に内に自らおそるるものあるか。抑々すでに自ら立ち、吾れの論に於てくみせざるものあるか。逸遊傲戯して学業を荒廃するは、則ち弥二の才、決して然らざるなり。説あれば則ち已む。説なくんば即ち来れ。『三日を過ぎて吾が友に非ざるなり。去る者は追わず、吾が志決せり。』」

訳せば「弥二郎の才能は、なかなか得られるものではない。年が若いといえども、また、学問が未熟でも、私が弥二郎を待っているのは、私が教える他の塾生と同じように変わらず真剣な気持ちで教えようと思っているからだ。世の中の動きは、とても切迫している。何か自分の心の中に不安や恐れるものがあるのであるか。そもそももうすでに自立しているのだから、それは私と論ずることをすべきである。もしも安易な気持ちで遊び、学業を怠ると、弥二郎の才能は、本領を発揮することは二度とない。『三日過ぎて塾に来なければ、弥二郎は、私の友でも同志でもない。去る者は追わない、そう私は心に決めているぞ。』」

どんな人物も継続していることを怠っていて本物の人物になることはできない、学問の大成とは厳しい自然の中の生命のように日々月日を怠らず真摯に勤めるように常に動静行き来し相経ち途絶えることがないようなものなのだと思う。

どんな川の流れも永続への久しさがあり、どんな生命も片時も休むことはないように学問もそのようにしてこそ本物と一体になるものであると思う。ちょっと世間上の休日に入ったからとすぐに実践を怠り求道しないようならそれはまだ志が立っていないのであると私は思う。

そしてこれは松陰の次の言葉にもそのことを書いている。

「学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。」

これを訳せば、「学問で何よりも危険で絶対にやってはいけないことはやったりやらなかったりすることである。やったりやなかったりしては最後に成就することもない。」という意味である。松陰は死ぬまで実践を怠らなかったからこそあの死生観を持つに至り道を最期まで貫くことができた。

これは私も今の仕事をしている中でもっとも大事なこととし座右にしている。同じく師もこういうことを真摯にやることが俗人との差であると私はいつも感じている。凡人ではない部分とは、非凡になるまで継続しているからである。それが至誠である。

そして他にも現代の芸術や音楽の一流の世界でよく使われている言葉がある。

「練習を一日休むと自分にわかる。
 二日休むと批評家にわかる。
 三日休むと聴衆にわかる。」

何でも三日坊主では、どんなことを言ってもそれは形にはなりはしない。口先だけで実践を怠る人を人は信用しない、それは誠意がないからである。友人としてもそういう友人とは親しくなりはしない、当たり前のことができてはじめて同じ土俵なのである。

正しいこととは、誰が見ていなくても天が自分を見ているとし怠らず休まずに続けることである。

ブログでもそうだし、思想に栄養分を与えることもそう、大器晩成とあるように自然がそうやって生命を偉大に育むようにじっくりとそして長い時間かけてこそ今の私たちの進化成長があるのはこれが造化の理であるのだと思う。

今年は私は社業の同志とともに実践をするけれど、松陰と同じくし三日待ってもだめならば去る者は追わずと心に決めて歩んでいきたい。

何より、厳しさと優しさを併せ持つ信じる道、慈愛の心で見守るを学び実践する以上、この道を粛々を歩み真心の実践を積み上げていきたいと思う。