ロードマップ

本来、物事というものは全ての事象と結びついています。

自分本位で物事を見れば、その事象は自分の中で分けて考えられたものになります。そこには自我や執着が入り込みますから、目も曇り本当のありのままの姿が分からなくなります。

しかし、その物事を点から線にし、面にして最後に丸ごと容れて観ればそれが全て緻密に正確に繋がって結びついていることを実感するのです。

例えば、かつて苦しんだ出来事もご縁あった方もその時、その瞬間、その場を共にしていなければ今は存在していません。全ての今はかつてのつながりと結びつきを通してそれぞれに存在しているのです。

自分の人生のことばかりで人は大変ですから、そういう見方がなかなかできず自分の方ばかりで物事を見て事象を捉えてしまうので今の尊さに実感できなかったりするものだと思います。

過去の道筋を通して今の有難さを実感し、未来の道筋を見通して予感し、さらに今の有難さに実感するのです。そうしてすべてを丸ごと見通して観るとそこにロードマップといった御仏の道が今に践み実っていることを知覚できるように思います。

自分が今、歩んでいる道を確かめつつ前に進むことは、繫がりや結びつきの中の慈愛に見守られている天地を実感することと同じことかもしれません。そうしていくことが自然であり、その中心に和して誠を尽くすのが私の志しているかんながらの道です。

ご縁は不思議そのものでいつも絶妙につながるのもまた自然の法則の掌の中に包まれているからでしょう。あらゆる出来事の意味を実感し信じることでまたその境地を持続し続け福にしていく日々で他に貢献していけると思います。

これから新しい仲間とロードマップがスタートします。

分かろうとしないということ

人にはみんな思考の癖というものがあります。人が困るのはその思考の癖から抜け出せないからとも言えるのです。困るという字にあるように、困るのは今までの経験や知識といった枠があり、その枠が外れずに煮詰まってしまっているとも言えるのです。

またそこに陥るのは、何処かバランスが悪くなってしまうからのようにも思います。

古語に「一理を学べば一理を行え」というものがあります。

それは日々に本質から考えて得た調和して気づいたことをすぐに実行に移し、それがどういうことなのだろうかと知識を使って掴み取っていくことに似ています。しかし実際は、学問が習慣になるまでは知識だけに偏って行動を伴わなかったり、行動しても意味づけや内省を怠ったりするとバランスが崩れてしまうように思います。

論語に「最も賢い者と最も愚かなものだけが、決して変わることがない。」があります。

偏ることで人は大切なことに気づけず、いつまでも偏った場所を中心にするから変わることができないとも言えるように思います。もともと融合してあったものを分けたのは人間で、それを分けたからこそ分かるようになり分からなくなったとも言えるのです。

分かるはずのないものを分かると思い込んでいることこそが愚かであろうと思います。

分からないままでいるというのは、考えないということですがこれは信じるということです。この信じるというのは、内面の自分から出てくるものを信じるということです。そういう自分の信じるものを信じて行じていく人は分からなくても大丈夫という境地があるのです。

先ほどの一理を学べば一理を行うということ、学問と実践をちょうど同質同量を正直に分度を定めて等身大で素直に行う人だけが真の賢者であろうと思います。

変化というものの本質は、その学問と実践の間にこそ存在するように思います。それはまるで自然に発達していくことと似ていて、私たちは頭で生きているのではなく、全体のつながりのなかで分かれずに存在しているということなのです。

真の生き方を取り組むとして、気づいたことを学び実践することをひとつひとつ丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。

遠い光~希望~

日々は色々なことが起きていく中で気づき学び発達していきます。

何もないように見えていても、実は日々は常に成長し続けているのですから自分も同時に育っています。そこには、紆余曲折と道はでこぼこしたところもあれば、ドロドロしたところもあれば、平らなところもあれば、滑らかなところもあり、坂道もあれば、道なき道を手探りで進んでいくところもまたあるように思います。

そういう時は、遠い光を見据えて歩めと尊敬する師に導かれたことがあります。

つい、人は目先に囚われがちです。身の上の不幸や、先々に起きるだろうと思える困難を予想してしまうと不安になりそれが光を見失っていく理由になっていくように思います。

一度、そうなってしまうとどんなに春の明かりの爽やかな光が差し込もうが光を感じることができなくもなるものです。そういう時は、自分が何を決めたから今があるのかを内省し、納得してもう一度初心や原点を確認していくことで希望を持てるように思います。

今の現実が自分と思い通りではなかったとしても、実は自分の思っていた以上の善いことが起きているということもあるのです。自分本意で物事を見てしまうのではなく、理念本意で物事を観直して見透していたら実は「そうなるようになっている」と思えるようになるからだろうと思います。

天の計らいというものは、人の計らいとは異なり、自然の流れが存在するように思います。運もまたそういうもののように思います。どのような天運に導かれているのかは知りもできませんが、人として人事を尽くしていくことしかできないように思います。

いくら周囲が真っ暗に感じても、自分の心が定めた理念を遠い光の灯りに換えて歩んでいくことが希望というものだと思います。捨てない希望があるだけで、人はさらに力強く前進していく勇気を持つように思います。

子どもたちが希望を失わないよう、自らが強く前進していきたいと思います。

信念本能

人生は選択の連続でできています。

何かの目標や夢があるとしても、それを実現しようとすれば今までの生き方を変えないといけないようなことにも直視する必要がでてきます。

その時、人はどちらを選択するかでその先の人生が大きく変わっていくのです。

ほとんどの人は、そこまでしてでもやりたいかと聴いても今までの生活や自分を変えようとはしたくないのでそちらの方が苦しいと考えてしまいます。しかし、本来は習慣を変えていくことで生き方も変わっていくのだから挑戦し前進することの方が苦しくなかったりするものです。

最初は、自分を変えるのは今までを捨てるかのように思えたり、持っているものを手放したりしないといけないとか、もしくは自分の安定や存在までも投げ出すのではないかと不安になるものですが、実際は自分の中の常識を入れ替えていくまでの間に実践していくことで意識が変わるまでが辛いと感じるように思います。

人間は、どうしても防衛本能がありますから痛いことや辛いこと、苦しいことは本能的に避けようとしてしまうものです。そこから新しいことへ挑戦できなかったり、今までの常識を変えようとしたくなかったりするものだと思います。

しかし、痛い思いをした後などは痛い思いをしたのでどうせここまで来たのならと防衛本能よりもこの際全部直してしまおうという気持ちが出てくるように思います。

痛い思いや苦しい思いをするのは最初は大変ですが、そこまでしてでも変えたいと思うことは思い切って防衛本能よりも強い勇気を出して新しいことに挑むといいように思います。それはまるで本当に大切なもののために自分を変えていく信念ともいうように思います。

自分を守ろうとする防衛本能から、自分が一番大切にしているものを守ろうとする信念本能へと転換するようなものかもしれません。信念は新しいことに挑戦し実践していく中で次第に磨かれて陶冶されていくものです。

本当に大切なものを守れなかったときの後悔と苦痛を考えれば、目先の一時的な辛苦はそれほどシンドイことではないのかもしれません。

大切なもののために、大切なものを守れる強さと優しさを優先し実践していきたいと思います。
掲げた理念に恥じないように、 常に自らを変え自らが正していきたいと思います。

真の学力

学力というものは何かというものを定義してみます。

世間一般では学力というのは、知識を身に着ける力のように思われているところもあります。学力の差というのは知識や暗記の量で、賢いというのはそういうものが柔軟豊富にあることを意味しています。もしくは天才というように、突出した知識で智慧が働き質の高い創意工夫ができるものも学力が高いというような言い方もしているかもしれません。

しかし本来は、学のが先か生きるのが先かと言えば当然生きるのが先ですから、生きるために学んでいるということになります。言い換えればそれは発達していくことだと思います。

発達とは学び変化していくことで生きるとは学び変わり続けるということだと思います。そうして考えてみると、学力というものの本質は生きていく力であるということになります。

そしてこの生きていく力とは何かとシンプルに定義すれば、気づいたことをすぐに実行に移す力、つまりは学んだことを瞬時に生活に取りいれる力であろうとも思います。人は本気で学び続けていると、変化に気づく感性が磨かれ何が正しく素直であるかどうかを察知していけるように思います。本来の学ぶということは、常に変わるということであり、変わるということは学んだということに他なりません。

知識だけを増やしても変わっていく感性が鈍っていればそれは本来の学力ではないということです。知識でなく、気づき学びそして変える、それを一生涯絶えず行う、それが真の学力ではないかと私は思うのです。

私なりに言い換えればこれらの学力とは発達のことを言い、善く発達するものは善く学ぶということになろうと思います。そしてそれをより善く楽しむために師友が居て、仲間が居て、そして同志が居るように思います。

発達していけるということが無二の幸せで、学びあえることが福でもあります。発達していくには、つながりの中で色々な体験を意味づけしたり、互いに学び合ったりと、常に気づき実践しまた改善するという連続の日々の人生を歩んでいるということだろうと思います。

子どもたちに学力を身に着けさせたいのならば、当然自らが学力を磨かなければなりません。気づき学び変化するという姿で発達をし続けることだと私は思います。我々大人や先人である先生のお役目はこの実践を呼吸のように生死の間、常に止まらないことだと思います。学力が下がるというのは、変化する力が下がったということです。これはその時代の責任を果たすものとして大変怠惰なことだと思います。

最後に、易経の言葉で締めくくります。

「天行健 君子以自彊不息」

子どものお手本になるように、真の学力を磨いていこうと思います。

 

朝夕生死一に帰す

一日を一生に喩えて言えば、朝に生まれ夕べに死ぬともいうように思います。

毎日が不止不転に変化していく中で、天与の出来事に遭遇しその中で人事を尽くしていく中で沢山の生き方を体験して学んでいきます。それは呼吸のように阿吽の中に私たちの生死が存在しているように思います。

この身体も、そして身のまわりの全ても天のものでそれをお借りして生きているのが私たちで死んだらそれをお返しするというのが生死の間にあるということだと思います。

どうしても私利私欲ばかりを追ってしまうと、こういう当たり前であることを忘れ時間も感覚も金銭も全部自分のものだと勘違いしてしまうことがあります。そういう時には、生の中にある煩雑なことばかりを憂うのではなく、死を想えばいいようにも思います。

しかしそういってもまた毎日は自分の方へと流されてしまうものです。そういう時こそ、道心が必用のように思います。自らが定めた道を往くという覚悟、この世に来た以上は何か恩返しをしようと行動に移せば次第に意識や考え方が定まってくるように思うからです。

この道心というものは、道を歩む人の背中から学ぶようにも思います。本来の生き方、この世に生まれてきて何を為すか、そしてどう死ぬかということを真摯に取り組んでいる人にご縁をいただき感動し、その時に感化されるように思うからです。

その道はそれぞれに異なりますが、然し本来は生死の中にあるものとして同じです。

二宮尊徳にこのような話があります。

「たとへばロウソクに大中小あるに同じ、大ロウといへども、火の付きたる以上は、4時間か5時間なるべし。されば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益なり。故に本来我が身もなき物、我が家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲けなり。予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」それこの世は、われ人ともにわづかの間の仮の世なれば、この身は、かりの身なる事明らかなり、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整ひ安穏に渡世のできるやうにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざるわがこの身である、といふ心にてよめるなり。これわれ畢生の覚悟なり。わが道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。」

意訳ですが、自分の主は、天である。そして我身はそれをお借りしているだけである。だからこそ少しでも人々の平和や安心を願い祈りて行じていくために朝夕怠らずに勤めていくのが我が身の使い方である。それが私の道を行おうとする人の覚悟であると読めると思います。

自他を大切にするというのは、死を想うからこそかもしれません。生死は常に一にして御目出度いことなのでしょう。今日もお返しできるものを求めて、実践を積んでいきたいと思います。

真心と実践を尊ぶ

今の時代は知識や技術ばかりが優先されますが、本来は実地実行こそが正直、誠実というものであろうと思います。

二宮尊徳にこのような逸話が残っています。

富田高慶という江戸の聖堂で10年間儒教を学び、尊徳に面会を求めて桜町へやってきました。会ってくれないのでとそこで青年夜学校を開いて面会の機会を求めていました。約半年後に面会を許されると、尊徳がいきなり「お前は豆という字を知っているか?」と問いかけます。それに高慶が、「勿論、知っています」と紙に書きました。すると尊徳は、「お前の書いた豆はたぶん馬は食べない」と言って門弟に蔵から豆を持たせました。そして「俺のつくった豆は馬が喰う」と言いました。これで高慶は理屈の勉強では他人は救えないと知り、尊徳の弟子になり誠心誠意実践に生きるようになりました。

同じような話に、京都から来た書なども修めた学者で会ってくれるまではと7日間断食をし尊徳に会ってほしいとお願いしたところ面会を許され、その時も「お前は学者だそうだが茄子という字を知っているか?」と尋ねてその学者が茄子を書いたあと、「茄子が先にできたか、それとも字が先か」と話されたようです。

これはいくら才知弁舌で技術や説明することができたとしても、真心を籠めた実践がなければそれでは誰も救えないと言っているのだと思います。いくら勉強して沢山のことを知ったとしても、テクニックで方法論を学んだにせよ、実践をしないのならば誰一人感化し生き方や人生を易えることはできないのだという真理を話しています。

今の時代は、すぐに便利な方法で解決しようと選択がどうしても実践とは結びつかないところで議論されることが多いように思います。知っていても救えないのは、そのために何を実践し、何を遣り切るか、何を行うかということを決めるということが先であるのです。

先に実践を決めないで人が救えるほど、世の中は甘くはありません。

誰かや何かの御役に立とうとするならば、当然、自らが実践しようと決めたことを行うのが先であるということなのです。豆や茄子のことを知っているだけでは、豆も茄子もできず、それを育てることができているからこそまた豆も茄子からも互いに与えることができるのです。

最後に尊徳はこのことをこう諭します。

「我が道は至誠と実行のみ。故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし。況んや人に於いてをや。故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は人には説くべしといへども、鳥獣草木を説く可からず。鳥獣は心あり、或は欺くべしといへども、草木をば欺くべからず。それ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜茄子にても、蘭菊にても、皆これを繁栄せしむるなり。仮令、知謀孔明を欺き、弁舌蘇帳を欺くといへども、弁舌を振つて草木を栄えしむることは出来ざるべし。故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶなり。古語に至誠神の如しといふといへども、至誠は則ち神と云ふも不可なかるべきなり。凡そ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬものと知るべし。」

つまりは意訳ですが(私の道は、真心と実践のみです。だからこそすべての命に影響を与えることができる。常に真心かどうか、実践したかどうかを尊ぶのです。今の世の中でいくら智慧があっても学問ができても、真心と実践がなければ事を為すことはありません)となっています。

どんなに悩んでも、相手の立場に深く共感し、やはり気づいたことを実践に移して後は天に任せて全身全霊人事を尽くすことほど他力が働くことはないように思います。常に尊徳の言う、至誠と実行を尊び、自らが天に御祐助の依り代になれるように精進していこうと思います。

天真学問

個性というものを考えていくのに、その人の天性や天真というものがあります。

一人一人の顔が違うように、それぞれに与えられた個性や能力は別個のものです。それをどう活かすのかはそれぞれの人生の課題ではありますが、それがどのような時に発揮できないかということを考えてみます。

人は自分の持っている徳性というものを自らで否定することが多いように思います。これは今の社会が、競争社会であり画一的であるからその刷り込みが大きいように思うのです。

自分は自分のままでいいと思えないのは、人格や徳性のことを認めてもらい難い評価といった価値観が存在しているからかもしれません。物のように人を評価するのではなく、本来の人間の絶対的な評価が根底にあっての表面の違いということを知れば、異なるということの本質が理解できるからのように思います。

自分は変えなくてもいいけれど、考え方は変えないといけないという言い方があります。

これは自分の持って生まれた天真や天性はそのままに、生き方や在り方の方は正しくしていく必要があるという意味です。しかし蓋をあけてみると、実際には誰かと比べることで天真や天性を否定されていると実感してしまい、自分が善くないのだとすぐに自己否定をしてしまうことがあります。

元々の価値観に、誰かだけが正しいとか、世間の価値観に従うことが正しいなど何かと比べてしか自分というものを見ないという考え方があるから余計に修養による自己批判ではなく単なる比較の自己否定に入ってしまうのかもしれません。

本来、人間は自分を変えることができる部分とは考え方のところや生き方のところだけです。持って生まれた天真や天性はどうにも変えようがありません。それが個性であり、それが本性、ありのままの自然の姿そのものであるからです。

それを活かすためには、自分の持って生まれた天分を信じる必要があるように思います。そしてそれは自分はそのままでいいけれど、正しいことに気づき、直し、丹誠を籠めて実践を積み上げていく中で生き方を修めることのように思います。

そして同時に、自らの天分を社会に役立てるために長所を伸ばしていくことのように思います。自分がどんなものを天から与えられているのか、それは自分が大好きなことをやるときに観えてくるように思います。好きを遣り切ったならば、その体験を通じて誰かの御役に立てるからです。

これは子どもたちが私たちに生き方を教えてくれるように思います。子どもは天真爛漫で無邪気、無垢で、自然で素直な姿であろうと思います。

社会で自分の長所をどのように貢献に向けるのか、そして比較しないところで天真を活かすのか、それは天真学問のようにあるがままの自分を受け容れつつ同時に正しい生き方を学び続けることの集積のように思います。

日々に天から拝命した自分に感謝し、善転の学びを深めていきたいと思います。

信の扉

人間は様々な困難を経て自分を自分で信じることができるようになるように思います。

先日、入園式に参加する中で子どもたちの自立に出会う中でインスピレーションがありました。

子どもが親から離れるというのは、とても不安なことのように思います。いつも見守られている存在が傍にいるという実感をどのように持つかで人は自分は一人でも大丈夫と言った安心をするからです。

しかし実際は、何から何まで身近でやってもらえる存在が今まであってそれが急になくなるのだから当然不安もピークに達します。その時、甘えられないということを自覚して自分の中に自分を信じるということが心に実感をはじめるように思うのです。

甘えない、甘えられないの間には、確かな信があり、信じるからこそ互いに自律して互いを独立した人間として認め合い自分らしい生き方へと歩みを進めていくように思います。そう考える時、自分を信じる存在があることの素晴らしさを思うのです。同時に、自分の中にそれを感じられるものが生きているものを覚るのです。

自分を信じるのに、それぞれが皆確かなものを心に留めています。それは自分への声掛けでもあり、自分へのエールでもあり、自分への戒めでもあり、その全てが信じる心となって自分が自分で生きていくための勇気となっているのです。

人は勇気を出すというとき、常に自立への扉をひとつひとつ高めていくように思います。その時、いつも扉を開いた先に何が待っていたとしてもそれは必ず善いことなると信じ行じていく実践で自らの使命を歩み道を往くのだと思います。

それぞれに開かれている互いの信の扉があることを入園式で気づきました。
師の言葉で締めくくります。

「子どもを見守ることが出来たかどうか」

できることは少ないけれど、安心して扉をひとつひとつ開いていける背中を見守れるよう自分のできることを真心で遣り切って心の信を貫いていきたいと思います。

 

真楽調和

楽しいというのには色々な意味があるということは以前のブログでも書きました。
これをもう少し私なりに掘り下げてみます。

楽しいというのには、自分が楽しい、相手も楽しいというものがあります。

自分だけが楽しんでいるのと、相手も楽しんでいるというものがあり、本当に楽しいことは相手も自分も楽しんでいるときが楽しいと実感できるものです。これは互いのバランスで楽しさというものが存在して、本来の楽しいというのは相手があって実感できるものだからです。チームや集団でも、楽しいなぁと思えることは自分だけが歓んでいるのではなく同時に皆も歓んでいるからです。

しかしこれは自分だけが楽しもうとしていて楽しめるものではありません。だからこそ、相手を楽しませなければならないのです。相手に楽しんでもらおうとするためには、配慮がいりますし敬意がいります、そして自分がよく修まっていないとできません。

なぜなら人は相手が楽しそうに幸せそうにしている姿を観る事で自分にそれがはね返ってくるものです、そして皆が幸せにしている姿を感じて自分にも幸せが伝わってきて幸せになっていきます。これが豊かであるということです。

もしも自分だけが楽しもうと思えば思うほどに、人生はそれだけバランスから外れつまらなくなっていくものなのです。そうならないように周りの人達のために自分から親しみ尽くし切ることで周囲が楽しそうにしているのを実感することでバランスはより整いやすくなるように思います。

自他一体の境地で楽しむと、全てのことが「善かったね、なんて楽しいのだろう、有難うございます」ということばかりを実感できるものです。真楽というものは、真の豊かさであり、これは言い換えれば自分を無理せず他も無理させず、互いに自然体のままに人とのご縁の中で幸せに生活ができているということかもしれません。

そして楽しい場づくりとは、思いやりのある豊かな場づくりの実践ということなのでしょう。
自他一体で楽しむことがホスピタリティともいうのでしょう。

御役に立てる相手がいる、自分が楽しませることができる周囲がある、そこに自分を活かして生きていくことが真に楽しいことだと思えば、有難い日々に自分の誠を尽くしていきたいと思います。