「日常茶飯」という言葉があります。これはもともと茶を飲み、飯を食べるという、毎日のごく当たり前の営みのことをいいます。調べてみると最近できた言葉のようですが、実際にこの言葉ができた背景には中国の禅で用いられた「尋常茶飯」や「家常茶飯」という言葉が由来だと言われます。むかしから禅では、悟りや修行を特別な場所や特別な行為の中だけに求めるのではなく日々の暮らし、つまり食事をする、掃除をする、水を汲む、人と語るといった実践こそが修行であると言われてきました。
日本でもハレとケといって特別な出来事(ハレ)に価値を求め、何気ない毎日(ケ)を「ただの日常」と区別したりします。しかしこの何でもない日常こそが、本来の生き方の中心でありお茶を飲むときには本気でお茶を飲み、ご飯を食べるときには真剣にご飯を食べる。その一つひとつに心を丸ごと尽くし、今ここにある暮らしの営みに全身全霊を傾ける。つまり暮らしが道そのものと、敢えて「区別しない」ということの境地であったように私は思います。
暮らしフルネスも同じで、日々に場を調える。自然(じねん)と循環(リズム)を大切にして内省しながら一期一会に来縁したものをすべて引き受ける。その中に真の喜びも道もあるという考え方です。
最近、親友のご縁から九州出身の大智禅師という方を知りました。
この方の詩には、深く共感して今の英彦山での暮らしの参考になります。
万象之中独露身
更於何処著根塵
回首独倚枯藤立
人見山兮山見人
すべての森羅万象のただ中にあって本来の身(自己)はありありと顕現している。ならば六根と六塵という主客の分別を、いったいどこに付け加える余地があるだろうか。ふと振り返り内省し、ひとり枯藤の杖に寄りかかって立ってみると、人は山を見、山もまた人を見ている。
終日搬柴運水中
分明顕露主人公
三千日月観成敗
坐断須弥第一峯
一日じゅう薪を運び水を汲む、その営みのただ中で渾然一体になるとき本来の自己は明々白々に現れている。三千世界の天地が成り、また滅びてゆくさまを観じ、須弥山の最高峰さえも坐り切る。
この日常茶飯の中にこそ、この暮らしの本質である主人公とじねんと徳循環の妙があるという真理。暮らしというものの根源や本質をここまでそぎ落として磨き上げた人がいるでしょうか。もしも今、生きておられたら一緒に参禅したいと願う理想の師です。
道は普遍、今もここに在ります。だからこそ今、与えられているご縁と場所こそ私の天命。それぞれに運命があり同じにはなりませんが、同じいのりと同じ道を歩んでいけることに無常無窮の仕合せを感じます。
引き続きお山から學び直し、かんながらの道を結んでいきます。
