老成という言葉があります、同時に老害という言葉もあります。どちらも老いについての言葉ですが、これは年齢に限らず本来は用いられている言葉です。どんなに高齢になっても老害にならない人もいれば、若いうちから老害となっている人もいます。この違いが何か、少し深めてみようと思います。
そもそも老いというは何か、この問いは色々な定義があります。漢字の「老」は長い髪と曲がった背中の老人を象形化した文字で「おいる」という動詞は肉体の機能が経年で不活性化する状態を表す語源に由来しているともいいます。
年齢的な老い、これはすべての生き物に共通するものです。人類は不老長寿に憧れました。これはいつまでも十代や二十代の年齢を保つことではなかったように思います。私の言葉では、いつまでも好奇心を忘れずに活き活きと学び続け変化を已まない仕合せな人とうことでしょう。
また老成円熟という言葉もあります。これは老成することは円熟することであるという意味です。円熟というのは、色々な経験や体験を通してすべてを丸ごと寛容して柔軟に変化を楽しむ心の境地に入っている状態ともいえます。
そして老害とは何か、この逆のことであるのは間違いありません。変化を拒み、権力や地位名誉といった自我欲に固定固着し、老いに抵抗し頑なになり子ども心や好奇心を失った不自然な状態のことです。
老いとはある意味では、受け容れて手放していくことの連続です。手に入れたものを手放していく、もっといえば円熟とは自然の循環の中にあり自然体で巡回していく様々な経験や体験を内省し、真我に目覚めて純粋性を保ち続ける精進をしている人ともいえます。
通常、様々な体験をすると穢れてきたり曇ってきたり、どこかで自己の探求や追及、修行を已めて安定した場所で安寧な生活に満たされていくものです。直観を信じ、自らの天命を生きていけば人生はいつどこでも何の体験やご縁でも変化していくことができます。そしてそのままあるがままの自己を育てていくと円熟が進み人間として成熟していくものです。以前、私は尊敬するメンターが老いて赤ちゃんのような瑞々しく清らかで謙虚に暮らす姿を拝見したことがあります。
人間は子どもで産まれ、子どものままに死んでいくというのが本来の人間らしさではないかと考えたものです。つまり、人間の本質は赤心であるということ。そして赤心とは遊び心のことです。
ニーチェに「成熟した人間とは、真剣な遊び心を取り戻した子どもである」という言葉があります。
真剣な遊び心を持っている人とは、子ども心のままに老いていく人です。むしろ老いていく中で子ども心が磨かれていく人といっていいかもしれません。
子どもが憧れる大人になるのは、大人が子ども心をいつまでも磨こうという実践のことです。
引き続き、子ども第一義の実践を通して場を磨いていきたいと思います。
