遊び心~童心に帰る~

遊び心というものがあります。英語ではユーモアやユニークという言い方をしていますが、この遊び心というのは物事の全てにおいて重要なことであろうと思います。遊んでいるのか学んでいるのか、遊んでいるのか真剣なのかというように、まるで事物一体になっている人の集中力の中には遊びが必ず入ってきます。

その遊び心は何かということを少し深めてみようと思います。

遊び心は辞書でひくと、「遊びたいと思う気持ち。また、遊び半分の気持ち。」「 ゆとりやしゃれけのある心。」「音楽をたしなむ心」などと書かれています。

ゆとりを持っている人というのは、どこか真剣な中にも遊び心がありそのものを心から面白がって取り組んでいます。子どもの頃は、何をやっていても面白く、どれをしていても愉しく、大人になってみると何が面白かったのだろうかと思いますが今でもその感覚は覚えています。

好奇心と呼んでもいいのかもしれませんが、何に対しても興味が湧き、どんなものでもやってみたいと思うのです。ワクワクドキドキのままに、集中して愉しみ時を忘れて気が付くと日々がいつも充実しているのです。

人はそのワクワクドキドキを真面目過ぎることで見失っていくものです。面白くもないことを真面目にやるより、真面目なことも面白くする方がなんでも楽しくなってきます。結局は、自分の中にあるワクワクドキドキの蝋燭の火を灯し続けているかどうかがその遊び心を満足させるコツのように思うのです。

遊び心がなくなれば仕事も人生もつまらないものになってしまいます。

畢竟、私にとっての遊び心とは子ども心、つまり童心です。

言い換えればこれは理想を求めて已まない心のことです。

人は理想を失うとき、子ども心を失います。

どれだけ真剣であるか本気であるか、覚悟が決まっているかは、その人の遊び心を観ればわかります。よくニコニコ顔で命懸けという言葉を使ったりもしますが、大変でも愉しい、苦しいけれど仕合せ、ピンチだけれどチャンス、禍転じて福になる、そういう心境というのはワクワクドキドキし続けている証拠なのです。

子ども心は、大人から押し付けられた刷り込みによって真面目であることを強要されて失っていくものです。優等生に仕立て上げられる中で、本来の遊びは次第に消失していきます。

人生は一度きり、どれだけ面白いことに出会うかが人生の豊かさであり仕合せのように思います。日々に出会う奇跡にどれだけ心がワクワクするか、そしてリスクを取りどれだけドキドキするか、まるでそれは遊びそのものです。

子ども心が亡くなった人に遊ぶことはできません。

私たちの会社の理念である子ども第一主義は、その理想を諦めさせないことで子ども心を見守りたいと祈る実践でもあります。子どもの周囲の大人が、童心をなくしてしまうことを私は一番危惧するからです。

童心というものは、純粋に素直に、謙虚に正直に、そして何よりも自然を愛し野生を尊ぶ心の中に棲んでいます。ワイルドに飛び跳ねるように世界を廻り、ナチュラルに仲良く元気に、ピュアに明るく健やかにセンスオブワンダーの原点、その童心に帰る日々にしていきたいと思います。

 

忘れないこと~実践の真価~

私たちはなんでも忘れていく生き物です。日々に情報量が多ければ多いほどに、かつての出来事は忘れてしまいます。これも一つの生存本能で、全部おぼえてしまえば膨大に混雑した情報を整理することができなくなります。言葉ができ本ができコンピューターができるように、今では脳の代わりを道具が担うようになりました。そこに情報を保存して溜め込み、それを取り出すことができるのです。

しかしそれも自分が在る程度は引き出すための情報を持っていなければ取り出すこともできません。つまりは、覚えている機能は自分自身なのだから主はあくまで自分であって道具ではないのは分かります。

そして何かの決断や判断をするときは、その膨大な情報量の中から自分の中で吟味し決心して物事を決定します。それは何のためにやるのかや、なぜこれをやるのかと、自分の心に尋ねてはそこからできる最善の決断を自分が下すのです。

それは初心とも言います。その初心は物事のはじまりであり、自分がそれを行うための動機の元です。原点といってもいいし、根本や本質、目的という言い方もします。その決断を下すにはシンプルな答えが出てくるものです。情報量がいくら膨大であっても、何のためにかと問うとき情報の束に隠れていた真実が出てくるように、かき分けてもっとも真底にあるものを探し出すのです。

しかしそれをまた見つけても、日々の情報量の塵や埃が降り積もりまた気が付くと見失ってしまいます。これは忘れてしまいますと言った方がいいかもしれません。まるで神社の参道に積る落ち葉のように、日々に掃除をしていなければ参道がどこであったかもわからなくなるほどです。

だからこそ神社では参道の掃除を神職の方々は欠かしません。それは初心や原点を忘れないための実践だからです。なぜ日々に塵や埃を自ら掃き清め洗い流し澄ませる必要があるのかは初心を忘れるからです。

情報量が多ければ多いほどに、どんな時も初心を忘れていないか、道を見失ってはいないか、一人慎み内省し、また初心に出会うのです。

理念など誰でも分かるし知っているという人も沢山いますが、しかしそれを片時も忘れたことはないと言い切る人たちはどれだけいるのでしょうか。人間の修養というものは、己に克つことですがそれは初心を忘れない人になるということのように私には思えます。

常日頃忘れないための実践とは、塵や埃にかぶらないように大切に守ることです。常に心の原点に回帰し、心の原点を忘れないために掃除のような実践、つまりは初心の実践を実直に守り続けることで忘れないように工夫していくことが最善のように思います。

人生は一度きりですから、大事な役割や使命を忘れないように実践を何万回と積み重ねて修業していきたいとおもいます。

生活人の智慧~郷中教育~

鹿児島には風土の教育文化として「郷中教育」というものがありました。この郷中教育とは藩内に「郷中」と言う数十戸で構成された自治組織を設けこの組織内における異年齢の子ども同士の間で学び合う仕組みです。

具体的には、六歳か、十歳までを小稚児と呼び、十一歳から十五歳の長稚児が生活万般のモデルを示す。さらにこの長稚児を指導するのは、十五歳以上の二才(にせ)と呼ばれる青年が担います。二才のリーダー格を二才頭(にせがしら)と言い、西郷隆盛はこの二才頭を務めていました。

所謂、「子どもの自治」を行うことで子どもたちをたくましくさせる仕組みがあったのです。今では大人が教え込まなければ子どもは育たないなどと刷り込まれ、知識や規範を厳しく躾けるようなことがいいように思われますが、かつて歴史で立派な人たちを沢山輩出した郷中教育では子ども同士の学び合いを何よりも重視しました。

そこには規則はありましたが、基本的には先輩がモデルを示し後輩を思いやり、己に克つための生き方を導いたリーダーが存在しただけです。非常に理に叶った方法で、異年齢による養育を行っていました。

その仕組みは、私たちの行う一円対話とよく似ています。磯田道史さんのニュースの紹介記事から抜粋していますがここにはこう書かれています。

「薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。」

子ども同士で気づき合うのがもっとも偉大な先生という発想です。異年齢で教え合うことで仲間の発達や気づきから、自分自身を鏡のように内省し、自らの改善点を自らで発見しそれを克服していく。

人間が育つということは、己を修めるということです。その己の修め方は先生が机上で教えるのではなく、仲間の挑戦から学ぶという方法です。決まりは、負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめはするなと明瞭です。その他、自らに打ち克つためのことが書かれるくらいです。

教育といっても今のように知識偏重型だけのものではなく、人本育成について真剣に考えて編み出した仕組みがこの郷中教育であったということです。

西洋のメソッドばかりを見ては、学者が言う事をさもそれが最先端だと思い込みますが日本の風土に遺っている歴史の篩をかけられても真実の記録が残っているものこそ、最先端のような気がしてなりません。

温故知新とは、かつての本質を今の時代に甦生させるものです。

私が今、提案して実践をしている一円対話はその郷中教育の仕組みを随所に取り入れています。人は教えなくても育つ、できるようになるには異年齢による見守りが必要であるというのは古今東西の発達の真理なのでしょう。

さらに磯部さん郷中教育の仕組みをついてこう語っています。

「判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。」

生きる力とは何か、子どもたちが立派に自分の使命を果たし仕合せに役割を全うするための社會人、生活人にしていくための仕組みを考えた先人には頭が下がります。そしてこの郷中教育の基本は文字で教えず、全て実地実行、実践によってのみ行ったということです。

今年はこの郷中教育も少しずつ深めていきたいと思います。

 

人生の情

鹿児島に来ると、いつも西郷隆盛を深めています。他にも鹿児島には郷中教育をはじめ、数々の智慧が風土に遺っています。厳しく雄大な大自然の中で育まれたその思想がかつて日本全体を動かす維新回天の原動力になったことも頷けます。

その風土の模範のような人物の一人が西郷隆盛です。

「不怨天、不尤人、下学して上達す。」があります。天命を知る者は天を恨みず、己を知る者は人を恨まず自らの修養に徹せよというように、自らの不遇を全て受け容れて天命に生きた実践、まさに「敬天愛人」を座右とした西郷隆盛の人格的魅力に強く惹かれます。

何より正義感が強く正直であったからこそ数々の誤解を受けては酷い境遇に晒されていきます。しかしその中で仲間を大切にし、自らの信念を貫き、多くの人たちから必要とされその都度自分を天に委ねては人情に真心を盡していきます。

勝海舟からも、西郷は人に好かれ過ぎた、早死にするのは分かっていたというように評されていたり、英国の外交官だったアーネスト・サトウも西郷がほほ笑むとなんともいえぬ魅力的な表情になったと言われます。

もう時代が過ぎて残り香もわずかですが、その書物や周囲の人たちの発言からも人徳の薫風が伝わってくるものです。人から愛され、天からも尊敬される生き方というのは、無我無私であり思いやりに生きたということなのかもしれません。

西郷隆盛の人柄を思うとき、もっとも好きなものに西南戦争の終焉に際したときの中津藩の隊長、増田宋太郎の手記の話があります。

この増田宋太郎は、敗走する薩摩軍が最後の場所と決めていた鹿児島の城山に向かうに際し、中津隊員の皆に君らは中津へ帰れと指示して自分自身は一緒に城山で西郷に殉じると言いました。なぜひとりだけ残り西郷に殉ずるのか不審がる隊員たちに増田宋太郎は涙しながら話したといいます。

「われ、ここに来たり、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」

意訳ですが、「私はここにきて西郷隆盛先生に接する機会を得ることができた。一日、西郷先生に接すると一日の真心をが生じた。そして三日間、西郷先生に接すると三日間の真心が生じた。もはや西郷さんと一緒にいる真心が一体になり、別れることもできなくなった。今はもう善も悪もなく、その死生を共にしようと思っている」と。この増田宋太郎の享年は28歳です。

西郷隆盛の南洲墓地が、鹿児島市上竜尾町にあります。

情を愛した仲間たちと一緒にその真ん中に坐する西郷隆盛に触れていると、「仲間を大切にする」ことの本質を改めて学んだ気がしました。私は鹿児島に御縁をいただいてから、人生の情について考え直すようになってきました。

偉大なひとさまにいただているご縁に感謝しつつ、御蔭様の日々を精進していきたいと思います。

 

鏡の法則~心の鏡~

人間の心は鏡のようなものではないかと思うことがあります。その人のものの観方や考え方が相手の心に投影するからです。

例えば、なんでも人の善いところを発見しようとしている人が相手を自分の心に鏡に映すならその相手の善いところを映し出します。相手はその人の心の鏡を眺めることで映し出された新たな善い自分に出会うことができるのです。

このように人は人に出会うことでお互いを鏡のように映し出しますから、自分の心を澄ませて美しくしておくことは、相手の心の穢れや曇りを洗い清めることにもなるように思います。

自分はどのような鏡になるのか、そういうことを考えないかもしれませんが鏡の法則の本質とは自分の心を在り方をどうあるべきかということを伝えているように私には思います。

自分の心や自分の思いをどのようにメンテナンスしておくか、それは自分の考え方の基本姿勢をどこに置くかということでもあるのです。自分が毎日出会う人たち全てに自分が影響を与えているわけですから自分自身の心に責任を持たなければならないように思います。

どんな出来事も善いことに思い信じることや、どんな相手に出会っても相手を認め、相手の善いところを伸ばそう、持ち味を活かしてあげたいと思うことは、より善い豊かな人間社會を担う一員として大切なことのように思います。

それが自分が機嫌悪くし、嫉妬や妬みを持ち、人を信じず、不安をまき散らし、相手の欠点ばかりをつき、人と比較しては、損か得かとばかりを考え、物事を悲観的にし、どうせ無理だとあきらめているような心の鏡では、周りの自信も奪ってしまうことになり貧しい人間社會に傾かせてしまいます。

そういう心の穢れを祓い清めて、自分の心の鏡を如何に善心へと転じるかが自分自身で取り組む実践のように思います。日々に内省するのも、自分の心を正し修めるためです。そしてひとたび、多くの人に影響を与えている自分を自覚するならば自分自身の心の鏡を相手の心の鏡に映して相手を善い方へと導くことがその役割と使命だと思うのです。

コーチングであろうがコンサルティングであろうが、カウンセリングであろうが、その人の心が曇っていては相手の心を見守っていくことはできません。相手を見守るということは、相手から見られる自分ばかりを心配するのではなく相手を見守る自分の心こそ心配することです。

自然を観る心、思いやりを感じる心、仕合せを願う美しい心、利他に生きる優しい心、大義に生きる強い心、私はそれを「真心」と呼びますが、日々に真心のままに生き方を一に帰し、内省を鑑に実践を続けていきたいと思います。

父祖の徳

今の時代を生きる私たちは、今の自分の世代の事しか見えなくなるものです。子どもの仕事をしていると、今の子どもがあるというのはその前の姿があるということを実感します。

私たちは当たり前のことに気づかなくなるのは、今の目に見える世界が当たり前だと勘違いするからです。しかし実際は当たり前のことなど存在せず、私たちは様々な徳恵によって今の自分が存在していることに気づきます。

例えば、仕事であっても今の仕事があるのはその前の人たちが努力精進の上に徳を積み重ねてその仕合せによってご縁をいただき、その一部分のお役目をいただくことができるのです。

家が代々継承されていくというのは、その徳が継承されていくことであろうと私は思います。先祖代々、自分の代を一生懸命に全身全霊に尽力していくことで子子孫孫へ徳が受け継がれていきます。

先日、ある言葉に出会いました。

「父祖の徳、汝に及びて今日の幸」

あなたの今日のしあわせは、父祖の徳が今の自分に及んでいますよという意味です。私たちの祖神は日本開闢の時から存在します。その祖神の後に代々続いたその姿が私たちです。

私たちが先祖を思い偲ぶとき、同じ長さで子どもたちのことを思います。譲っていただいた徳を大切に守りまた譲っていく生き方か、その徳を全部自分の代で使いきってしまう生き方か、そこには父祖の徳を感じる力があるかどうかにあるような気がします。

どんな時も、御蔭様であることを忘れていないからこそ感謝でき、「当たり前ではないもの=徳」が観えているからこそその徳を守り伸ばそうとするのでしょう。目には見えないものを可視化する意味とは、その徳を明らかにすることです。そんなことは誰でも知っていると当たり前に思っている人がもっとも本来の当たり前から遠くなっているのです。

何を受け継ぐのか、何を継承するのかを今の代の役割を担うものたちがその父祖の徳を自覚することで責任感は育っていきます。私はそれを「初心」ともいい、「夢」とも呼びます。

目先の損得ばかりが騒がれる昨今、真心を盡し徳の実践につとめていきたいと思います。

いのちの基本

自然の中にある生き物たちを観察していると、そこにいのちの基本があることを実感します。今は基本が崩れている時代に入り、精神を病んだり心が閉じたり、様々な現代病ともいう病が蔓延しています。

自然界に生きる動植物から昆虫、微生物にいたるまで野生のものは全て活き活きしています。厳しくも慈しみがある自然界の中で、精一杯自分の生を生き切る姿に私たちは感動するものです。

いのちは輝くものですが、その輝くいのちとは精一杯の状態の時です。私の言葉では「生き切る」時です。いのちの基本は「生き切る」ことです。

刷り込みからあれこれと思い悩み憂いては、ありもしないことに煩悶し苦悩します。頭ばかりを使って感覚を使わなくなると、もともと備わっているいのちの力を発揮することができなくなってくるものです。結局、どこかでいつかは諦めないといけないことなのですが頭だけでいくら考えても無理なものは土台無理なのです。根本や基本は教材やテクニックでは乗り越えることはできないのです。

「いのち」はとても心と密接で、心の応じるままに初心を忘れなければいつまでも活き活きと光り輝きます。頭でああだろうとかこうだろうとかを思っているのは心を盡し遣っているわけではありません。「心が疼く」という言い方をした方もいましたが、心は行動や実践することによって「からだ」の感覚で一心に気づいていくものです。

「こころ」か「からだ」ではなく、「こころとからだ」ということです。心体技も同一のものです。私たちは分かれていないものを無理に分けて考えはじめたところに病の元があるようにも思います。そうやって分けて考えたことで、真実から遠ざかったのかもしれません。

いのちの基本は生き切ることです。

それは自分を全力で出し切ることでもあります。日々に出し惜しみせずに自分の中の最大限の真心を、そして誰の見返りを求めずに全身全霊に精一杯遣りきる日々こそ、万物のいのちの基本になるのでしょう。

基本があっての応用ですから、自然界の野生の生き物たちは基本に忠実ゆえに自然にお互いを思いやり活かしあうことができるように思います。

自然をお手本に自然の中での生き方を学び直していきたいと思います。

天命に慣れ親しむ~愉しい実践~

「習慣は第二の天性なり」という諺があります。習慣の力は大きなもので、生まれつきの性質と変わらないほど日常の行動に影響を及ぼす、また広辞苑では「習慣は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる。習慣が人の性行に影響することの大きいことをいう」という意味で使われます。人間は「慣れ」によってできあがっていきます。言い換えればその人の一瞬一瞬の生き方や生き様によって出来上がっているということです。

これを少し深めてみようと思います。

人格形成という言葉があります。人格が出来上がってくるというのは、どのような習慣をその人が持っているかということです。例えば、自分が得をすることばかりを考えて生きている人と、周りのしあわせのことばかりを考えて生きている人ではその持っている習慣が異なってくるものです。

前者は、自分の身のことばかりを憂いてはもっと自分に都合が良いことばかりに腐心していきます。しかし後者は、周りのことを思いやりどうやったらお役に立てるだろうかと利他をします。その生き方一つとっても異なってくるのは、前者はいつも機嫌悪く自分のことばかりを気にして暗いですが後者は周りを喜ばせようと機嫌よく笑顔を絶やしません。結局は、その人の考えたが習慣に顕れるのです。

そうやって慣れてしまうと、自然に習慣が考えを形成し、また考えが習慣を形成するのです。よく潜在意識と顕在意識という言い方をしますが、顕在意識の奥に潜在意識があり、その潜在意識がどうなっているかで顕在化してくるのです。

どのような習慣を持つかはその人の今までの生き方にも由ります。今まで持っている「慣れ」を別の「慣れ」に変換するというのが生き方を変えることがですが、これができないのはその本になっている習慣を上書きすることができないからです。言い換えれば初心を忘れてしまうからです。

日々生きていれば情報を取り影響を受けるのが私たち人間です。その情報を毎回取捨選択していくのですが、その本になっているものもまた「慣れ」に由ります。だからこそ、初心を持ち忘れない工夫、いわば実践により己の今までに打ち克つことで刷り込まれた習慣もまた変えていけるように思うのです。

新しい習慣を身に着けるには、常に忘れないための実践が必要です。習慣の上書きともいいます。どのように生きたいか、どのような生き方をしたいか、それは向き合えば自ずから明らかになります。如何に自分の本心に正直であるかが試されるのが習慣ともいい、それが天から与えられた個性を活かすということになるのでしょう。

日々は自然体に近づくための人生道場、人生修養です。

自分の決めた生き方に対して正直に自らの性質を知り、本来のその天性を研ぎ澄ませ素直に練磨の実践を愉しく天命に慣れ親しんでいきたいと思います。

試行錯誤~学問の答え~

人は物事を体得するのに現場実践というものがあります。これは頭で考えるのではなく、からだで気づくというような学び方です。

例えば、保育者であれば子どもから学び、農業者であれば田畑自然から学び、仕事であればお客様から学ぶという具合です。座学と違うのは、教室で何かを机に座って教えてもらうのを待つのではなく自分から動いてコツを掴みにいき、自らのからだそのものに染み込ませていくような学び方ができるということです。しかしここで座学か現場かという意味ではなく学問の本質は何かということです。

実際に私たちが学びを深めるとき、そのもの本来の姿から学ぶという姿勢は教えてもらうのではなく自ら学ぶという精神です。誰も教えてくれなくても教科書がなくても、もしくは技術が足りなくても道具がなくてもそのものから掴み取ろうという自学自悟の精神です。

そもそも誰かに教えてもらった知識というのは、自分の中で本当に体得した真実ではありません。体得していない知識は智慧でもなくすぐにその他人の知識の範疇を超えた現実を見たら常識に縛られ自分にはできるできないという二者択一しかなくなってしまいます。本来は、できるからするでもなく、できないからしないではなく、何があっても必ずやり遂げるという覚悟の物差しを育てるのが学問の本義かもしれません。

本来、実践しているから本を読むのであって実践しないために本を読むのではありません。自分の中の気づいたことが何だったのか、それを確かめるために自分の中で言語化し体系化し知識化していくのです。

人生というものは、知識が先か体験が先かといえば、太古の昔から体験が先なのは誰でも知っています。赤ちゃんが知識がなくても生きていけるように、動植物や周りの微生物にいたるまで知識がなくても発達していくように、本来は体験を通して気づき学んでいくのです。

今の時代は、疑似体験やバーチャルリアリティで済まそうとしますがいくら結果は体験したつもりになっていてもそれは頭で思い込んだだけで全身全霊のからだの感覚すべてで気づき得たものではないのです。

私にとっての学問の本質は「試行錯誤」です。失敗からはじまるのが学問であり、色々と試して挑戦していく中で最期は完成するのが学問です。簡単に言えば、最後まで諦めずにやってみることです。

最初から答えがあるかのように思い込んで、答えを探すために知識を得るのではなく、誰も見つけたことのない答えを自分自身で出してみたいと取り組んでみることが大事なように思うのです。

もしも教科書のように答えがあるとするならば、学問の答えは試行錯誤です。間違わないように真摯に実践を深め、気づきを喚起し自学自習を続けていきたいと思います。

本物の継承~原点回帰~

人間はその人を判断するとき、その人の職業や性別、年齢、見た目、経歴など様々な情報をもとに分類していきます。例えば、医者、職人、芸人、営業マン、お坊さん、経営者など、その人の立場を見ては分類分けしていきます。分類分けしてわかるのは表面上のやっている業務全般を知ることはできますが、その理念は何かとまでは確認しているわけではありません。

言い換えれば、人間か猿かライオン、オスかメスかという分類はしていてもそのものが本当は何を目指しているのかや本当は何がしたいのかということまでは知らないままに役割を勝手に決めつけてしまうものです。

そもそも自分の役割というものは、理念があってはっきりしてきます。その集団が目指しているものは何か、その社會が目指すものは何か、全体の集団の中で自分の役割を知るのはその全体の集団が何を目指しているのかによるのです。

例えば、全体の集団が人類の幸せを目指し見守ることを優先しようと理念を持つなら、それは見守る社會を創造する社會ですから、そこでの人たちは見守る医者、見守るお坊さん、見守るコンサルタントのように、その人の肩書きの前に何をする人か、つまり理念がはっきりしているように思うのです。

その共通する理念の中で、自分の役割を考えることで役割を押し付けるのではなく自分の得意分野で役割を活かしあうことができるように思います。それはまるで森の中の木々たちのように、百花繚乱の花々のように、また発酵場にあるような土壌の中の菌類や生き物たちのように、皆で互いのいのちを見守り合います。

どんな社會にしていきたいか、どんな世界にしていきたいか、そういうものがまず先にあって職業はそのあとであるのが本質なのです。しかし今の時代は、原点には触れず職業だけで自分の立場や役割を決めつけてはその範囲を勤めることが仕事だと刷り込まれています。

自分が何のために産まれてきたのか、自分の本当の役割とは何かとは、使命感のようなものです。突き詰めて深めていけば、志や思いやりに人は生きるように思います。この時代の中での自分の役割は何か、この自分の人生での全体の役割は何か、いつも周りの世界に心や眼を開いて何のために在るのかを自覚することが役割に目覚めることかもしれません。

理念とは、本質そのものであり本来の原点です。

不易と流行、温故知新、刷り込まれず素直に正直に理念を観て、本物を継承していきたいと思います。