徳治の世

むかしの五穀田の実践を通して、安藤昌益先生を深めていますが同時に石田梅岩先生のことも学んでいます。どちらも江戸時代の人物ですが、それぞれに一理ある考え方があり両方から間を学んでいます。

そもそもこの世の中は変化しますし、状況やバランスもその時々で変化しますから変化しないものは存在していません。これといって固定した思想を持てば、そこで変化の摂理からは離れてしまいます。それは不自然なことです。

自然というものは、その時々で変化することが自然ですからその時々で出てくる真理もまた一つの真理ということです。それを私は「一理ががある」と認識するようにしています。

つまり、どの話を聴いても、どの本を聴いても、どれも一理あるとし學ぶのです。

例えば、安藤昌益先生の直耕というのは人類全員がみんな自分の食べるものは自分で耕すことこそ自然であるといいました。石田梅岩は人類がそれぞれに与えられている役割を果たしていくことが道徳倫理に適い自然であるともいいました。これらは、それぞれに一理あります。しかし、全部がその真理だけでは現実や事実とは乖離していきます。

例えば、現実や事実の世の中では人類は全員が農家ができるわけではありません。土地もなければ水もないところに住む人もいます。山を守るために働く人もいれば、小さな島に住む人もいます。それぞれの環境が異なりますから全員が同じようにはできません。しかし思想で観れば、自然の循環に入っていくということを前提にするということを言いたいのかもしれません。私も今度の田んぼでは、場をつくります。これはいつもの徳の場です。すべてのいのちが活き活きと互生で助け合えるような場です。これは自然の循環の力をいただくための一つにしたのではないかと私は思います。

また石田梅岩は人間社會そのものを自然にできないかと考えました。これは自然の中で自律して共生できるように、それぞれが道徳倫理や規範をもつべきだと。商人であれば、武士道のように商人も道を実践すること。正直に素直に、自己を律して自然界の生き物たちのように取りすぎず貪らず生き方そのものを心学といいそれを実践していくことで自然循環そのものと社会を和合していこうとしていたように私は思います。

大切なことは、それぞれの矛盾をよく観察しながらそれぞれの一理を素直に学び、その中の智慧を洞察していくことではないかと思います。

人間は、それぞれのいのちがあり役目もあり個性も徳も異なります。それを組み合わせて一つの偉大な社會を創造します。だからこそ、それぞれから学び、そのどれもを「聴ける」人を育てることが持続可能な世の中にしていくことではないかと私は思います。

私が「聴福人」という実践を広げているのもその理由です。

引き続き、それぞれの徳を活かして徳治の世に近づけていきたいと思います。