ご縁を活かす力

ここ数日、郷里の先祖の足跡を辿っていますが不思議な由縁に驚くばかりです。今までなぜここにこの神社があったのか、なぜこの地名だったのか、そしてこの遺跡があったのか、それが一つずつがつながって全容が顕れてきます。

バラバラだった情報が一つにまとまっていく面白さと感動は一入で、一つ辿れば一つのヒントが顕れそれを辿ればまた一つの出会いがある。こうやってご縁を辿っていくと、如何に今まで自分と関係が深かったものを知らなかったのかと自分の無知に驚くばかりです。

最近では、神様と同じようにご先祖様というものの存在も失われきつつあるように思います。祖父母の代までは常に家には仏壇があり、毎朝毎夕、事あるごとにお線香をあげては拝んでいた背中を見てきました。

今ではあまり大人たちがそのような姿をしなくなってきたからかご先祖様に疑問をもつ人たちも少なくなってきたように思います。ご先祖様がどのようなルーツを辿って今に至るのかを知ることは、これからの自分がこの先どのようなルーツを辿ればいいのかの大きなヒントになります。

そして自分の名乗っている姓には、どれだけの思いや願いや祈りが籠っているかを知れば自分の姓名に誇りと偉大な自信を持つこともできるように思います。何気なく書いていた苗字が、2000年以上前からのものであり、何気なく自分に備わっている能力が長い年月を経て磨かれて受け継がれてきたことを知ると、頭が下がります。

御先祖様が観える人は、御先祖様の存在を常に確認しながら生きている人たちです。毎朝毎夕拝んでいる人は、知ら知らずに見守ってくださっている御先祖様の徳恵を身近な暮らしのなかで常に感じています。

縁故の助けであったり、土地の助けであったりと、拝めば拝むほどにそのつながりが観えますからさらに拝みたい気持ちが湧いてくるのです。

拝みながら生きていく人たちはご縁を活かす人たちです。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」があります。

まさに報恩感謝の心をもって生きている素直で謙虚な人たちは、拝む実践によってご縁が観えているのでしょう。ご縁を活かす力は、目に観えないものを信じる力が必要です。同時に自分が見守られていることを信じる力も必要です。それはご縁を大切に一期一会に生きる実践によって支えられているのです。

引き続き、ご縁を大切にしながら子どもたちのためにも御先祖様に恥ずかしくない真心の生き方をしていきたいと思います。

  1. コメント

    見守ってくださっている神々やご先祖様への感謝と祈りも「ご縁」がなければ通じません。そのご縁も「たまに」や「時々」ではなく、「日々、日頃」という重縁が基本でしょう。それは、家族と同様であり、家族に先立つ存在です。毎日きちんと「ご挨拶」をし「謝意」を伝え、「感謝できる日々」を幸福に思って報恩に生きる。時代は進んでも、そんなことが暮らしの基本ではないかと思っています。

  2. コメント

    自分の苗字の由来を検索してみると、以前祖父が話してくれた内容と一致するものがあります。私自身子どもの頃、祖父母や両親が拝んでいる姿を見て育ったわけではありませんが、お墓参りで見るその姿は美しく映っていました。今住む私の自宅に仏壇はありませんが、ご先祖様に手を合わせ拝む気持ちは大切にしていきたいと思います。

  3. コメント

    神社には御神体として「鏡」がありますが、この語源は「輝く身」からきていると聴いたことがあります。自身の姿がそこにあるようで、本当はその背景にある受け継がれてきた大いなる何かが映し出されているのかもしれません。これまでとこれからを思いながら、自分自身の内にある澄んだものを大切にしていきたいと思います。

  4. コメント

    拝むということは有難いと思ったときや、有難いと認識しているものへばかりですが、日頃拝むからこそ繋がるものもあるのだと学びました。拝まれる人を目指すより、感謝を出来る人間でありたいと思います。

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