循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

自信と勇気

人はみんな誰しも自信を持ちたいと思うものです。自信が出るとは何か、その自信について深めてみたいと思います。

そもそも「自信が出る」とは何が出ているかといえば「勇気を出している」ということです。具体的には、やったことがないことに挑戦したり、失敗するかもしれないという思いが横切ってもそれでもやってみようと取り組んでみることです。未知なるものへのチャレンジのことです。

やったことがないことをやるのだから当然想像ができませんから誰だって不安なものです。そこで自信がないと一歩を踏み出せず、結局は自信が着くことがありません。人は知識が増えれば増えるほどに知っていることに安心してしまうものです。知識は自分が安心したいから持つともいえます。昔なら台風も雷も日食もなぜ起きるのかわかりませんでしたから不安だったことでしょう、今では知識が増えてある程度のことが予測できるようになっています。しかしその分、知らないことへの怖さというのは増えているように思います。

またよく勘違いされるのに自信というのは人から与えられて身につくものだとか、成功によって得られるとか思われていますがそれは単なる副産物であろうと思います。本来の自信は、勇気そのもののことですから勇気がある人が自信があるのです。

みんな人は誰もが勇気を持っていますが、それがなかなか出せないことがほとんとです。その勇気を絞り出してでも行動に変えていけば、自ずからその小さな勇気が集積して確固とした勇気、つまりは自信につながってくるように思います。

前例がないこと、やったことがないこと、見たことがないことは、想定外ばかりです。その想定外を好奇心で愉しみたいと思ったり、人生を味わいたいと願っていたら自ずから勇気が湧いてきます。そして人に自信を与える存在になっていけば、勇気を与える存在になっていきます。つまり自分の生き方が勇気を与えているのならそれは多くの人たちの自信になるということです。

以前、カムイロケットの植松努さんとお話したときに「自信がない人が、他人の自信を奪う」ということをお聴きしました。つまりは、勇気がない人が他人の勇気を奪うということなのです。もしもみんなが勇気を奪い合っていたらどうなるか、それは大変不幸な社會になるのです。本来の正義や、思いやりは勇気によって広がるものですからその逆の社會というのは本当に貧しく情けないものになってしまうのです。

自信を持ちたいと願うのならば勇気を出して人に勇気を与える生き方を選んでいくと善いように思います。そして勇気を絞り出したのなら、必ず自信はあとから着いてくると信じることのように思います。

そしてそれはほんのちょっとの勇気、ないものを絞り出してでも出そうとする勇気、心の信じたままに行動する勇気です。変えていくのも変わっていくのも未知の世界ですから、自分が社會に活かせることに感謝しつつ新しいことができる仕合せを愉しみ毎回小さな勇気を絞り出し、前進していきたいと思います。

人間~素直と成長~

人間は誰でも自分のことを分かってほしいと思っているものです。人が一人以上で生活する場にいるのは、自分を確かめたいからかもしれません。自分というものを認識するには、他の誰かがいなければならないからです。

不思議なことですが自分のことばかり考える人が増えている中で、本来は社會や周囲の人たちに依存して存在しているのだからもっと他人とか自分とか分けずに周囲へ関心や思いやりを持たなければ本当の自分のことなどわかるはずはないのです。

自分を知りたいのならば、もっと自分の保身を思い悩むよりは周りの人たちのことをもっと思いやった方がその中で本当の自分に出会うように思います。

その自分と他人ですが、分かってほしいと思うばかり人は相手に多くを求めるようになります。求める人というのはいつもイライラしているからすぐにわかります。相手が自分の思った通りにならなかったり、自分はここまでしているのに相手はわかってくれないとか、求め過ぎることで人間関係は不仲になっていくのです。

不仲というのは、本来、与えてくださっていることに感謝しているのではなく不足や不満不平を並べてはなぜ求めているのに伝わらないのかと文句が出ているのです。素直になれば相手にも伝わりますが素直にならないで斜に構えているからその分が伝わらなくなりかえってまた求め過ぎるという悪循環になっていきます。

よく考えてみたら、十分過ぎるほどにいただいているものが多い世の中です。誰かと比較さえしなければ、自分はあらゆるものを与えられていると実感するものです。それは心の力であったり、愛であったり、目には見えないけれど本当に沢山のものを感じる力があります。

その感じる力でもっとご縁を味わい尽くしていけば自ずからいただいている自分とのめぐりあわせや機会、この今のご縁の本当の素晴らしさに深く感謝できるようになると私は思うのです。

そういったものを如何にたくさん育てていくかが、素直になるということなのでしょう。素直になっていけば、自ずから感謝している自分でいたいと思うものです。自然体の思いやりある子どものようにいれるものです。自分の心を見つめていくというのは、素直になることであり成長するということです。

成長とは素直さです。

人生の中で如何に素直であり続けられるかが、成長し続けられるかということですから自然に学ぶ心をもって思いやりや真心を通じ合わせていけるように対話を大切にわかり合っていきたいと思います。

人間でいるということの仕合せを噛みしめつつ、歩んでいきたいと思います。

~新しい産業~心の原点回帰

経済活動の分類に、第一次産業、第二次産業、第三次産業というものがあります。

第一次産業とは、自然を用いてそれを産業にしたものです。たとえば、農業、林業、水産業などです。そして第二次産業とは人が加工したもの、機械でつくりあげた人工物を中心にした産業です。 これは鉱業、建設業、製造業などを言います。そして第三次産業とは第一次にも第二次でもない産業でサービス業などを指します。具体的には、商業、運輸通信業、サービス業などです。

これは今ある枠組みの中の産業の構図ですが実際はここに当てはまらない産業というものがあるはずです。将来的にその産業が盛んになるなら第4次産業や第5次産業など、発展してくるように思います。

産業の構図というものは、枠組みですからそこのどこにも当てはまらない産業をどのように理解していけばいいかということがあると思います。

例えば私たちの会社は何のジャンルになるのかとよく聴かれますがこのどこにも当てはまらないところでお仕事をさせていています。自然物に沿い、形になるものを用い、形のない意識を扱い、真理に従い人々を応援するという具合です。

こうなってくると、自分たちで新しい枠組みを用意しなければ外部へやっていることが伝わらないのです。

次代の変わり目や価値観が多様化した現代においては、枠組みというのが自由な生成発展の邪魔になるように思います。ありとあらゆることが、細分化されたものが一巡目を終了し、2巡目に入るということは、分かれていたものをもう一度ここで融合し直すことに似ています。

それは創造と破壊、秩序と混沌ではないですが、「原点回帰」するということです。

私の予測では、この先の産業とは原点回帰産業ではないかと思います。経済の立て直しといっても、心があっての経済ですからもう一度ここで心の原点回帰が必要ではないかと実感するのです。

企業が心の原点回帰をしていく中で、真理に目覚め真理を応援するならば必ず社會は経済は好循環をはじめます。その好循環を産み出す企業こそがこれからの新たな産業を切り開いていくと私は確信するのです。

私たちが目指す理想も、日々の実践も、それは世の中に好循環を産み出したいからです。本来の自分たちの生き方そのものが働き方になるのは、そこに確かな真理を応援して子どもたちの周りにいる人たちに勇気を与えるような存在になりたいからです。

子ども心にかっこいい生き方をしたいと念じていましたが、その舞台やステージが今、此処です。巡ってきた機会を有難く受け止めて、既存の枠組みにとらわれずに常に時代の本質を貫いていきたいと思います。

意識レベル~理想と現実~

人間には「意識」というものがあります。その人の意識のレベルが問題意識ということはかつてブログで書きましたがそれを改めて整理してみます。

そもそも世の中ではレベルというのは何を指しているかというのがあります。心のレベルとか魂のレベルとか、レベルというのは段階のことでどの辺のところまで自分がるかという物差しということです。

そしてこのレベルを上げるというのは、簡単にいえば自分の中にある最低の最高を目指すのか、それとも理想の中にある最高の最幸を目指すのかという大きく2つの次元にわかれるように私は思うのです。

よくレベルを上げなければと言っている人がいますが、実際は自分の方の中での都合のよいレベルを設定して、あれよりはマシといった比較を使って最低を高めていこうとする方ばかりが世の中では用いられているように思います。自分の癖を直すことや自己改革する際に取り組みやすい方から選ぶときほとんどが自分を中心に決定しています。

しかし本来、下から上げてくるのではなくとても高いところから降ろしてくるという発想が別にあるのです。それが私の思う問題意識を高めるという意味になります。問題意識が高いというのは、理想の高さから自分のところに降ろしてくるような感覚です。それを世間では夢を追うとか、夢を見るとかいった言い方をしますが高い理想に向かって取り組むときはじめてレベルが上がると言えるのです。

魂レベルや心のレベルなどもそうですが、同じ次元で取り組むのならばまず自分の中のちょっと高いところに照準を合わせるのではなく、理想そのものに自分を合わせるという理念と勇気と行動が必要になるのです。

理想と現実という言葉がありますが、理想に合わせながら現実を変えていく人と、現実にあわせながら理想を変えていく人がいますが、やはり問題意識というものは理想から変えていくことで現実が理想に高まるということになっていくように思います。

問題を自分の都合ですり替えないよう、常に「本質」に合わせて理想を捉えて現実を実践していきたいと思います。

清潔の定義

今の時代は人間の世界にいるのと、自然の世界にいるのとでは様々な常識が異なります。例えば、泥浴びというものがあります。これは動物たちが寄生虫や体についた汚れを取り除くために泥を浴びて洗います。ここでは泥を浴びるということそのものが人間で言うところのお風呂に入って洗っているということなるのです。砂浴びなども同じですが、かえって綺麗に洗うと体毛が油で固まったり色々な寄生虫が近寄ってきやすくなることもありそれを防ぐために泥や砂を浴びるのです。その方が清潔に保つことができるのです。

この清潔という考え方は、今の人間ではまったく違った意味で使われます。今ではなんでも除菌し殺菌し、完全に微生物を滅菌してしまおうとします。手洗い用の洗剤から服用する抗生物質などもそうですが菌をすべて取り除こうとします。

清潔にしすぎることで、他の病気が増えてもいます。皮膚などは常在菌といった本来の皮膚についている菌を取り除くことで肌荒れをおこし、そこに黄色ブドウ球菌という外部の菌が付着し炎症を起こしたりします。洗えば洗うほどに悪玉菌が増えるという現象が起きています。

無菌=清潔という考え方はとても危険で、本来体に付着している善玉菌まで丸ごと取り除いてしまってそれを清潔というのはちょっと感覚が狂ってしまっていると思うのです。動物であれば絶対にしないようなことを今の人間はしますが、ほとんどすべての体が微生物によって活かされているのにそれを排除しようとするのが清潔なわけないのです。

先ほどの泥が汚いというのも砂が汚れているというのも固定概念がそうさせるのです。本来の泥も砂も発酵しているものは清潔なのですから発酵しているものまで汚いというのはどういうことかと思います。

以前、入社したあるクルーが漬物やパンの酵母を汚いといって触ろうともしませんでした。それに野生に生えているものは気持ち悪いから食べないといい、スーパーで売っているものしか信じられないとも言っていました、また手作りのものはちょっと嫌だとも言いました。これなど完全に固定概念で何らからの知識を刷り込まれ思い込んでしまっているのです。

何が本来の自然であったのか、今の不自然な生活が当たり前になっているからもはや自然というのは菌がいない世界であるとさえ思い込んでいるのかもしれません。

そんなことを言うと、世界にはさまざまな病原菌がいます。それは体内にもいます、免疫とは体内で微生物のハタラキにより左右されていますから自分の中でいつも発酵をしては体調を維持しているのです。それを汚いといって薬などで殺菌したり洗剤で洗いすぎたりするのは本末転倒だと思います。

泥が本当に汚れているのか、砂が本当に汚いのか、そこから見直す必要があると思います。知識によって得た泥や砂の一部しか理解していないのに、悪い菌が住んでいるからと決めつけては自分にとって都合が悪いものを不潔とし、自分にとって都合が良いものを清潔というのはあまりにも視野狭窄だと思います。

人間の持っている知識しか信じないという発想が固定概念ですが、知識を超えた「ハタラキ」があることを理解せず、人間に都合が悪いものは全部を取り除こうとする発想が根本の問題にあるように私は思います。

清潔と不潔の定義も、自然に照らして観直していく必要があるのでしょう。自分の固定概念を壊すには、もっと自然に触れていくことだと思います。薬漬けされて化学肥料をたっぷりかけている土が果たして清浄なのか、薬品漬けされて栄養剤ばかりを摂取する身体が果たして清浄なのか、どんな環境が本当の清浄で、どんな食べ物を食べ生活することが清浄か、実践していきたいと思います。

 

 

 

好循環の生き方

農作物を育てていると循環している世界の中に身を置くことができます。木と土、光と水、風と生き物、それらが関わり合いとても密接につながっています。循環とはあまりにも当たり前すぎて観えなくなっていますが、万物のいのちはめぐっているからお互いが必要としあい存在しあうのです。

万物が存在する理由も循環があるからです。地球が丸いのも、宇宙の銀河が渦巻なのもすべてはめぐるからです。めぐるために私たちも必要ということです。だから循環というのは邪魔をすることはあっても無駄というものは一切ありません。循環を邪魔する人間があるだけで、循環が無駄というものはないという意味です。

これはたとえば森で観ればすぐにわかるでしょうが、森は木が光と風と水を使って成長し、その成長した木から根が広がり葉が落ちることで足元の微生物たちを育て、その微生物たちの働きによって善い土が醸成され、その土によってまた木が育つというように、一切の無駄がないところにあるのが循環の定義です。

その循環を極力邪魔しないように手助けをして、その分だけいただくのが本来の自然の農の姿です。しかしそれを邪魔するというのは、人間が作物をすべて取り尽くしその循環を邪魔するからその分、肥料をたくさんやらなければならないし、それに虫の食べ食べられる関係が崩れるからその分農薬をたくさん使わなければらないとなるのです。結局、周りの生き物たちと生きようという思いやりのある心ではなく、自分さえよければいいという考え方が悪循環を引き起こすのです。

そうやって如何に循環を邪魔することが、結局は費用と労力をたくさん使っているのかを考えないといけません。長い目でみればとても大損をしているのに、目先(自分のこと)だけを皆が意識するから誰もそれを間違っているとは言わなくなりました。

昔の人たちは自然を観る力、自然に活かされる謙虚な心をもっていたから循環が素直に観えていたのでしょう。だからこそ祖神たちの智慧が自然の技術に裏付けされているのです。彼らが使う技術とはすべて循環技術(自然の智慧)だからです。

そして野菜づくりに限らず、余計な仕事を増やして費用と労力ばかりをかける人は自分が循環を邪魔しているのに文句ばかり言う人になっていきます。矢印を他人にばかり向けては不平不満を並べます。本来の自然な流れを自分から壊しておいて大変になっているくせに、それを誰かや何かのせいにします。

人間の育成も本来は循環があったのですがその循環を邪魔することで無駄という考え方を人間の中にも入ってきました。それは人間でいえば教育なども余計なことを教えれば教えるほどに都合よく育てられますがそれが後で大変な費用と労力をうんでしまうことに似ています。

如何にその人らしく社會の中で循環するのを邪魔しないか、そういう生き方をするのも本来の人間の循環の役割を果たすことです。その人がその人らしくあるがままでいられるようにするには、ちゃんとその人が循環するように信じて見守る社會があるということです。誰かの仕合せを奪ってまで幸せになろうという考え方がそのものが悪循環の社會を創造してしまうのでしょう。

長くなってしまいましたが、本来の循環は私たちが人為的に行うのではなく自然のいのちのめぐりの姿です。その自然のいのちのめぐりを邪魔しないように人間の知恵を使い手伝うことで好循環が生まれます。好循環が生まれればそこに発展と繁栄があり、万物のいのちを活かす偉大な力を享受することができます。

人間がいくら頑張っても、太陽をつくれませんし、空気も水もつくれません。なんとなく科学で作ったとか言っていても、それは少しそれっぽくしたものを自然の力を借りて道具にしただけです。そのものの本体など大きな循環が生み出したものですから人間がどうにもすることはできません。原子力などもそうですが太陽に敵わないものを似せてつくったって結局はその人為こそが無駄の証明になるのです。

如何に循環を邪魔しないか、そこに自然の叡智をお借りする人間の謙虚な生き方があります。大いなるお互い様の世界に生きることこそ好循環の生き方です。まだまだこの世界を自然から学び直していきたいと思います。

福祉企業~論語と算盤~

渋沢栄一(1840~1931)は、日本近代経済の父とも呼ばれ、社会福祉事業にとても熱心に取り組んだ方です。今では企業や福祉は別物とさえ思われている節がありますが、本来、これらの価値観が西洋から入ってきたときどのようなものだったのかを観直してみます。

その渋沢栄一の有名な言葉に「論語と算盤」というのがあります。道徳と経済という言い方をしてもいいのかもしれません。西洋から入ってきた福祉や企業という考え方をどのように解釈すればいいかを分かりやすくしたのがこの一文でもあります。

本来、今の時代は分かれてしまっているものをどのようにその人の腹で一つにするかがこの言うところを為すことであろうと思います。

本来、渋沢栄一は富を為す根源は仁義道徳のためであると言います。これは道徳上必要な経済を起こすのが実業道であると定義しています。その実業道とは「士魂商才」といい、その実践があってはじめて為ると言い切っています。

この士魂商才の意味はまず考え方として「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである」と、その上で具体的にはこう言います。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である」ということです。

常に武士道精神があっての商才であること、言い換えれば正しい理念があっての技術ということであろうと思います。これは医は仁術に通じる話です。「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」ともいいます。実業道である以上、道を踏み外してはならぬと諭したのでしょう。

そしてこう戒めます。

「われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」、つまり「論語と算盤とは一致すべきものである」ということを言うのです。

そもそも分けて考えるのは、その間に自分を中心にした価値観のモノサシではかろうとするからそうなるのです。人間や自分という考え方を優先する個人主義の西洋の発想を、それまで全体の一部である自然を少しだけ優先する発想の日本に取り入れる際に人間の欲望が強まっていき次第に歪んでいったのだと思います。

分かれたもの、いわば矛盾したものを一つに調和するというものは本人の中で行うものですから、常に大切な優先しているものが何かを重んじて生きていくことが大切なことのように思います。私の言葉では論語が算盤よりも「少し優っている」くらいがちょうど善い(適善)ということでしょう。

経済が発展すればするほどに、如何に人格形成に力を入れていくか、教育の本義です。本来はこれは国家繁栄の仕組みなのだろうと思いますが、個人の慾が強すぎる昨今を眺めていると渋沢栄一が心配していた通りになってしまったと実感しています。

どのような生き方、どのような会社が本来の論語算盤、福祉企業なのか、適善社業をもってそれを今の時代に体現していこうと思います。

 

 

 

いのちのヒビキ~生態系の共振共鳴~

生態系を深めていると、確かにそこに自然の理を感じます。見えるものから見えないものまですべての生態系はある一定のリズムによって生き死にしますが、そこには自然の響き合い(共振共鳴)の音を感じ取っているように思うのです。

虫が鳴くのも鳥が鳴くのも、また木々や稲、野菜らが風に舞い揺れ動くのもそこには確かに「ヒビキ」があります。ヒビキとは共振共鳴であると定義していますが、それは自然の中にある音に合わせていのちや心を響かせています。そして万物は象容した音のつながりの中のご縁にゆられ響き合います。

自然に沿っていのちを育むということが音にゆられ愉しむということです、人生を謳歌するということです。どうしても抽象的な言葉になってしまいますが、理屈ではなく生態系というものがそのまま共生の響き合いだからです。

生き物たちはすべてそのいのちの音ともいうべきものを聴いています。私たちは耳を言葉を聞きわけるように発達させてきましたが、言葉がなく言霊であった原始の時代は私たちはいのちの音を聴き分けていたのです。

それは心の音色とも言います。

人が共感したり受容したりすれば認め合う世界が産まれます。その世界の音というのは心の通わせ合いにより産まれる仕合せの世界です。人は心が満たされることで平和になります。自然界というのはその平和の音を聴いているのです。お互いが認め合い育ちあう、それが共振共鳴共生ですがそれを私は「ヒビキ」であると確信します。

人は人工的に人間都合で塗り固められた世界に居すぎると心が疲れていくものです。それを癒し、本来の地球の一部、宇宙と一体になった人間であることを自覚することでバランスを取るように思うのです。

温故知新の比率は常に3対2、地球の海と陸の比率も3対2です。その3対2というのは、いのちや心の世界に生きながら、この時代の現実の中に生きるというバランス(調和)です。バランスこそが永続発展する自然の理であるのはいのちを深めれば必ず出会う智慧であり法理です。

バランスが崩れるとは何か、それをちゃんと自覚している人は少ないように思います。それは例えば、太陽が微妙なバランスで燃え続けるように、地球が微妙なバランスで呼吸するように、常に前向きに傾くのです。前向きとは先ほどの3対2なのです、七転び八起きがバランス感覚ということです。生生発展、永続繁栄、つまり七回転じれば八(無限)ということです。これは少し楽観的あることの方がいいということに似ています。楽観と悲観も3対2で少し楽観が優っている方が仕合せで愉しいのです。

豊かさもまた、心が3で物質が2の方が愉しくなるのです。私たちが如何に楽観的に生きていくのが仕合せかは、生態系そのもののいのちを眺めれば観えてきます。

子ども第一主義の学びは、突然にいつも自然に私の心にシンクロニシティを呼び覚まします。お仕事と使命とはいえ、有難いご縁に深く感謝します。

いのちの「ヒビキ」の中にある真理法理を一円観に照らして自然の摂理を現代の技術の最先端に温故知新し救命救済の道具を発掘して人々へ還元していきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。